ペンウィー医師とペンウィーじゃない医師。

巣居けけ

小説

6,410文字

ペンウィー医師はそのまま数秒間静止した後に口を開いた。出てきた声色は学会などで耳にすることができる、堂々とした風格と上品な気質を同時に孕んだ低めの声だった。

ロボトミー手術の手順を女児にわかりやすく説明する……。おれは男児が憧れる白衣をバサリと翻しながら手前の女児の顔面にメスの大群を突きつける。切っ先が肌を貫き、中の肉を裂いて進む……。血が飛び散り、おれの綺麗な顔面に振りかかる。生ぬるい感触に勃起する。おれは舌なめずりをして女児の機嫌を持ち上げようとする。女児が痰を吐き散らかしながらおれの部屋から出ていく。男児が後に続いてこの研究室がおれだけになる……。

独りきりになったおれはさっそくズボンを下ろし、勃起した陰茎を掴んでしごきを始める。痺れる快感が身体の芯を貫き、腰が震えて小さく喘ぐ。おれはすぐに射精し、そのまま書き途中の論文の原稿に精液をぶちまける。

そのタイミングでペンウィー医師がおれの研究室の扉を開いてドタドタと入ってくる。微風が彼女の身体を駆け抜け、短いウルフカットの髪をさらりとなびかせる。
「ラストリス君! 昨日の研究についてだが――」
「ああ……。おれの大事な陰茎がっ!」

おれは急いでズボンを持ち上げ、引っ掛ける陰茎を無視して引き上げる。すると勃起したままの陰茎がズボンに貫かれ、そのまま分離して吹き飛んでしまう。

飛び上がった陰茎は宙を舞い、そのまま出入り口の前に立っていたペンウィー医師の顔面にびちゃりと貼り付いた。
「おおう……」おれはそんなふうに吐息を漏らすことしかできなかった。ちなみに、直属の上司(すくなくともこの施設の中ではれっきとした上司)の女の顔面に、自分に切り離れた陰茎が触れていても、ちっとも興奮できなかった。

ペンウィー医師はそのまま数秒間静止した後に口を開いた。出てきた声色は学会などで耳にすることができる、堂々とした風格と上品な気質を同時に孕んだ低めの声だった。「なるほど、人間の射精したばかりの陰茎というものは、案外温かいものだな。私は両生類であると同時に両生類ではないから、陰茎の温かみというものがわからなかったんだ。もう、新しいIMSに行くべきかと考えていたところなんだ」
「IMS? なんです、それ」
「……この国には存在しない医療機関とでも言っておこうかな」
「それよりもペンウィー医師! どうしておれが射精したばかりだとわかったのですか?」
「それは良い質問だな、ラストリス君」彼女は頬に貼り付いたおれの陰茎をつまみながら口を進める。「しかし答えは実に簡単なものだよ。この室内に漂う精液の香りだ。どうやら君はちり紙などに吐き出すのではなく、その場にぶちまけるタイプらしいな」
「さすがはペンウィー!」という常套句(すくなくともこの施設の中ではれっきとした常套句)の文言を口から吐き出し、さらに続けて、「それでペンウィー医師。どうかされましたか?」と彼女に質問を投げた。
「質問ばかりというのは生命として活性化している証拠だ。ラストリス君。私はこのイカ臭い部屋に入った時から入室のワケを話しているよ。実に簡単なことだ。昨日の研究についてだ」
「ああっ!」とおれは飛び上がって室内西に置かれている書類棚に駆け寄る。引き戸を開け、ファイリングされている資料の中から昨日の研究についての情報が書かれた資料を器用に探し当てる。
「これですね……。へ、へへっ。おれはこうしてファイリングするのが趣味でしてね……」
「難儀なものだな……」とおれの陰茎を咀嚼して飲み込み終えた彼女は、そこで正式におれの研究室に入室し、おれが立っている書類棚に駆け寄り、おれが開いているファイルを横から覗き込んだ。
「ええと……。確か二つ目の手順だったはずだ……。そう。これだ」「これはただの執刀ですが」
「それが問題なんだ。あの患者は山羊人間だっただろう? 彼には正当な人間の血は使えない。しかし昨日の仮想執刀では、ただの人間の血が使われていた。それが問題なんだ」
「たしかにまずいですね……」

すると駆け足の音が響き、おれの研究室にさらなる客人がやってくる。
「失礼! うわイカ臭いっ!」
「どうしたっ!」おれとペンウィー医師は声を揃えて走ってきた彼女のことを見る。肩を揺らしてぜーはーぜーはーと荒い呼吸を続ける看護婦の彼女はポケットから取り出したハンカチを鼻に当てた。
「ああっ……。き、昨日の患者さんがっ……。急用で……」
「昨日の患者は仮想執刀だったはずだが?」とペンウィー医師が無いはずの眼鏡を指で押し上げながらゆったりと話しかける。
「それが違ったんです。昨日の当番の、全員が勘違いを起こしていて……」
「ヤギ・パンデミックかっ!」

おれたちは一斉に駆け抜けた。まだ息を整え終えていない看護婦の両脇をそれぞれ潜り抜け、長い廊下を、本当に無駄に長いかっこいいだけの白く冷たい廊下を走り抜け、第三執刀室の両開きの扉を開いた。
「どうだっ!」

中央に設置されている手術台の上に、山羊の頭を持った人間が横たわっていた。腹は切り裂かれ、中の赤くぬめめった腸が天井の蛍光灯の光を受けて輝いていた。室内には血の鉄臭い香りが漂い、おれとペンウィー医師は慌てて深呼吸をし、香ばしい香りを脳の中で享受した。
「まさか本当に勘違いが起こったとはな……」
「ヤギ・パンデミックですよ、ペンウィー医師」
「ああ。とにかくさっさとこの腹を閉じなくてはな。……いや、それよりまずはここを封鎖するか。血の香りで何人の医者が興奮状態になるかわからんぞ」

ペンウィー医師とおれはそれから協力して執刀室の扉を閉じ、一時的に鍵を閉めた。すると室内は密閉状態になり、立ち込める鉄の香りがより強く鼻孔をくすぐった。
「さて、ラストリス君。このどうしようもない山羊頭患者を、君ならどうするかね?」
「ええと……」と呟きながら、おれは手術台の上の患者に歩み寄る。ぱっくりと開いている腹の中を注意深く覗くと、中の腸がわずかに蠢いているのを発見する。
「これはまだ生命活動が停止していない……。ならとりあえず、レント・ゲンを撮影するべきです!」
「私もそう思っていたところだ!」

そしておれたちは執刀室の西に置かれているレント・ゲン撮影装置を取り出した。二人がかりでようやく水平に動く装置を患者の腹の上に持っていくと、おれはその瞬間に浮かんだ疑問を無意識のレベルの中で口にした。「しかしペンウィー医師。この部屋にレント・ゲン・コントロール室なんてありましたっけ?」
「当然だ。優れた執刀室の設備の中には、レント・ゲン・コントロール室が必ず備えられているものだよ……」

おれたちはすぐに奥のコントロール室に入り、撮影ボタンを押した。ういぃぃぃぃんという音が鳴り、撮影は二秒で終了した。

出力されたレント・ゲン写真を覗く。するとペンウィー医師がすぐに口を開く。「山羊の骨格が正確に表れているな……」
「はい。最新のレント・ゲン撮影装置ですから。それでペンウィー医師、おれにはここからどうするべきなのかがわからないのですが……」
「まったく。君はやはり、まだまだだな」するとペンウィー医師はレント・ゲン写真をくしゃくしゃに丸め、すっかり小さくなった塊を口に頬りこむ。しかしそれでもペンウィー医師は器用に正確で聞き取りやすいしっとりとした低い声で続ける。「レント・ゲンを終えたなら、全てがわかるはずなんだ。この患者にはいますぐ追加の切開が必要だ」

ペンウィー医師は執刀室の東の棚に手をかけ、中のメスを二本取り出した。一本は自分の右手の指先に絡め、もう一本はおれの方に投げた。おれは彼からの手厚いメスを受け取り、すぐに患者の腹に向かった。
「それでは切開を開始する。メス」
「もう持ってます。ペンウィー医師」
「おっと。ついクセで……」とペンウィー医師は呟きながら、右手のメスを患者の露出している腸に突き刺した。鋭く優秀なメスの切っ先は腸の肉を貫き、そのまますーっと縦に動かすと切り裂かれ、腸の中に線が出来上がった。
「ほら、君もやりたまえ」

おれはペンウィー医師の温かい声に導かれるように、あるいはその声に操られるように無心で腕を動かし、メスを患者の腸に刺した。医療メスは簡単に腸に突き刺さり、その先っちょが入り込んだ。プツン、という感触が素手から伝わり、おれは心が躍るのを感じた。そのままメスを大胆に動かすと、その動きに合わせた線が腸の中に出来あがった。

すぐ横を見るとペンウィー医師がメスで腸に穴を作っていた。おれも同様にメスを動かして小さな穴を作った。するとその時、腸の全体が蠢いた。
「おや……。どうやら中で蠢きがあるようだ……」

ペンウィー医師が呟きながら腸を左の拳で叩いた。すると腸はそれに反応するようにさらに蠢いた。おれはそんな彼女を真似て拳で腸を叩いた。腸はプルンと揺れ、その後に微細にプルプルと震えた。おれは楽しくなって腸をさらに叩いた。腸はおれの殴打に答えてくれた。何度も何度も叩くと腸はしっかりと答えてくれた。
「おい、少し遊びすぎじゃないか?」

ペンウィー医師の静止を振り切っておれは腸に最後の一撃を与えた。それまでの中で一番強烈な一撃だった。腸は今までの中で一番の蠢きをおれに見せてくれた。

しかしそこからが今までと違った。腸は蠢き続けた。プルプルプルプルとずっと蠢いた。そして一部が盛り上がった。それまでほぼ平面だった腸が唐突に突き出し、山のようにこんもりとした。
「なんだこれ?」
「刺してみよう」

おれはほぼ衝動的にメスの先で一番盛り上がっている位置、山でいうところの山頂を刺した。すると盛り上がりが一気に破裂した。風船が割れるようなパンッという音が鳴り、腸の頂点が吹き飛んで大きな、拳ほどの穴が開いた。

その穴の中から出てきたのはゴキブリだった。

それは人間の親指ほどの大きさのゴキブリだった。しかもゴキブリは一匹だけではなかった。最初のゴキブリが出てくると、すぐに二匹目のゴキブリが現れた。二匹目のゴキブリの次は三匹目のゴキブリだった。三匹目のゴキブリの次は四匹目のゴキブリ、その次は五匹目、六匹目、七匹目、八、九。十……。
「ゴキブリというのは普通、集団で過ごすものだからな……」と、横で眺めていたペンウィー医師は呟いた。合計で十五匹になったゴキブリたちは腸の上でざわざわと動き回っていた。おれはそのうちの一匹にメスを刺してみた。黒光りしている頭の位置にメスの切っ先を突き刺した。すると頭はぱっくりと二つに割れ、中から黄色い液体が溢れ出てきた。液体は腸に落ち、触れた箇所をじゅわじゅわと音を立てながら溶かしていった。
「これは……」
「ふむ……、チョウナイゴキブリ、だな……。おそらくこの患者はゴキブリを食す文化の中に居たんだろう……」といつの間にかゴキブリ図鑑(この図鑑の正確なタイトルは『世界のゴキブリ図鑑』で、ペンウィー医師が五歳の時、誕生日プレゼントとして受け取った)を取り出しているペンウィー医師が呟いた。「おそらく昨日の大規模な勘違いもこれのせいだろう。中には人間の脳に電波を送り、作用する個体も居るらしい」
「どうします?」おれはこの時ばかりは目の前の女上司に従順に従う部下のふりをして指示を仰いだ。

するとペンウィー医師はゴキブリ図鑑を拡張してある尻の穴にしまい込みながら手放していたメスを握った。「殺すしかないんじゃないか? 私は生物学者ではないが、ゴキブリが人体に有用だとは思えない……」
「なるほど」と呟きながらおれはメスを動かし、ゴキブリの頭を刺した。やはりゴキブリの頭は簡単に割れ、中からは黄色い液体が流れた。その液体は腸をどろどろに溶かした。
「この液体はなんなんでしょうね」
「脳なんじゃないか? 私は生物学者ではないが、頭からにじみ出ているということは、そういうことなんだろう……」

おれは三匹目のゴキブリにメスを刺した。やはり中からは黄色い液体が滲み出し、それは腸の肉を溶かした。おれはすぐに四匹目に狙いを定めた。素早くメスを押し込むと、なんと四匹目は切っ先をするりと回避した。おれが動揺していると四匹目はその鋭い牙でメスに噛みつき、簡単に砕いてしまった。「なんということだ!」横からペンウィー医師の興奮した声が聞こえる中で、四匹目が砕けたメスを伝って自分の腕に到達したのをおれは目撃した。おれは冷静に腕を取り上げ、激しく振るってみせた。しかしゴキブリは離れなかった。それどころかずんずんとおれの腕を登り、ついにゴキブリはおれの首元まで達した。
「待て! いま殺すっ!」それはペンウィー医師の声だった。彼女は叫ぶとメスをおれの首元のゴキブリに向かって投げた。素早く飛ぶ切っ先は見事ゴキブリの頭に命中し、貫いた。

二つに割れたゴキブリの頭から黄色い液体が当然のように出てきた。それは死骸となったゴキブリを潤し、そのままおれの首に付着した。

途端、痺れる激痛が襲った。それは首から全身に駆け巡る痛みだった。おれは悲鳴を上げながら首を左右の指で掻きむしった。すると今度は首に触れた指たちに強烈な痺れが現れた。見ると指の皮膚とその下の肉がどろどろに溶けていた。まるで下手くそな粘土細工のようだった。溶解していく肌色のどろどろは床に落ち、人差し指、中指、薬指は指はすっかり骨だけになり、溶解は手のひらにまで行きわたり、すぐに腕に到達し、そのまま進んで胴を溶かした。そこでおれは自分の顎が急速に熱くなっていくのを感じた。次の瞬間カランと音がして足元に白いものが落ちた。それは自分の顎の骨と下段の歯たちだった。深緑色の床に散乱している白い骨を眺めているとその中に追加で歯が落ちた。それはおれの上段の歯たちだった。
「なるほど。チョウナイアリの脳は人間の肉をこんなにも急速に溶かすものなのか……」
「た、たすけ……」

おれは目の前のペンウィー医師に歩み寄った。すると彼女は汚物でも視るような顔をしながら後ずさった。
「君はもう無理だろう。そのまま溶けてしまえ」
「そんな……」

おれは自分の身体が溶けていく感触に最期まで触れ合いながら、直辱の女上司の愛らしいいたずら小僧のような笑みを見つめながら、どろどろにまみれた意識を喪失した。

 

「まったく。とんだ役立たずだったよ、彼は。どうして私の下に来る人間はどいつもこいつも、最後には勝手に死んでいくんだろうね……」

ラストリスの骨を片付け終えたペンウィーはさっさと執刀室から出ると、長いだけで意味の無い廊下を渡り、「ラストリスノシー」という謎の呪文(この謎はとても柔軟。さらにそれでいてとても先進的な感じの暗い謎)を叫びながら走り回っている何人かの女児や男児たちの合間を抜け、自分の研究室の前で止まった。
「私に何か用かね?」

出入り口の前で直立していたのは主任研究員の男だった。身分的にはペンウィーと同格だったが、ペンウィーは彼の粘着質な論文が嫌いだった。そのため自分の陣地である研究室の前で彼が止まっている事実が腹立たしくてしょうがなかった。
「ああ……」彼はかけている黒の丸眼鏡を人差し指で押し上げ、ペンウィーのウルフカットの毛先に視線を合わせて話し出した。
「ラストリスの論文がね。まだ未提出なんだよ。明日の学会で発表予定だろう? まずいんだよ。おれが怒られる……」
「なら私が取ってこよう」
「それこそ問題にならないか?」
「問題ない。彼はいま私の下についている。そうだろう?」
「ああ……」彼は再び(大して下がっていないにもかかわらず)黒の丸眼鏡を人差し指で押し上げながらため息を吐いた。「なら、お願いしようかな。ペンウィー殿」
「そこで待っていたまえ」

ペンウィーは踵を返し、通り過ぎたラストリスの研究室に入った。中にはムッとするイカの香りが漂っていた。ペンウィーは早足でラストリスの愛用机に向かい、上に置かれている論文の原稿を手に取った。
「なんだこれ……。カピカピじゃないか……」

白濁に滲んで読めたもんじゃない原稿を二つ折りにし、ペンウィーは研究室を後にした。

2023年1月16日公開

© 2023 巣居けけ

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