「カフェイン過剰摂取大会だぞう」という残飯の母の死人の声によって、第三十五回山羊走行大会は開始した。五つのコースに配属された山羊たちが怒声と共に一斉に走り出し、観客のでぶどもの罵声と共にゴールをした。着順は一位がゴールデン・ゴルゴルで、二位がカマキリ、三位にチョクチョウ、四位にオウトブツ、そして五位にスイケケが入り、全ての儀式は滞りなく終了した。
「スイケケのクソ山羊! どうしてアンタはいっつもいっつもそうなんだ!」
「遭難だー! ハゲちまえー!」
観客たちは五位の山羊に罵声を浴びせる。それが彼らにとっての生きがいだった。
そんなレースの帰り道、夕暮れが差し込む道を歩いていた田中は、黄色い声に呼び止められて後ろを振り向いた。
「なんですか?」
「ですから、今日、お部屋にお邪魔してもいいですか?」
「はい?」
田中に話しかけてきた男は黒いコートを着、頭には灰色のパナマ帽を被っていた。橙色に変色したニンニクのような形の鼻が特徴的で、まん丸い双眼には商人のような砂漠でも地下監獄でもどこででも生き抜けるであろう力があった。
「どうして私が貴方を招かなくてはいけないんですか?」
「それは私利私欲になりえますね。例えば、神妙な心持ちの男が居たとします。そして私と私のようなたわしが彼に話しかけます。トイレのような香りを漂わせている電信柱の成り損ないの真珠色の彼に、私が壺壺による打撃のような音と電波と百足の死骸を渡し、その後に将来的な設計図を話すことで、どうしようもない衝動を母性に昇華させることができるんですよ。ええ、めえ。わかりますか? 数式では導き出せない音があるんです。でも、私のような背の高い男たちによるラクダの惨殺で、血飛沫の運動エネルギーが発生して、棺桶や楽園の増設が進むんです。我々のような団体は珍しいですよ。とても利己的ですよ。なぜなら人類は百足を食べませんからね。
すると我々の母親が声をそろえてこう話すんです!
『ヒロシ! そろそ起きなさい!』
そして我々は声をそろえてこう返すんです!
『はぁいっ!』でもすぐに声質を低くしてこう続けるんです。『全く、あのババアはどうしようもなく幼稚だな。ついでに野菜好きで、洞窟探検家だ。そのせいで土産話が薄っぺらくてしょうがない……』
なるほど。彼はその年齢通りの反抗期なんですね。幼年期にブラジャーが必要無いように、彼にもお灸が必要無いんです。上の階から人を殴る音が聞こえても気にしない胆力が、この年の少年には必要なんですね……」
なるほどっ! つまり……、東京という巨大な電波の巣窟に、おれのような小心者を投げて遊ぼうということなのか……。だからこそ田中は正真正銘の力士のような声を出して彼を追っ払い、その背中にドロップ・キックをお見舞いしたのだった……。
「いてぇ! どうして君はいつもそんなふうに乱暴なんだ! どうして君の母親は洞窟で競馬の練習をしているんだ?」
「私のしゃもじの村の義理で貴族で水牛的な母親は崇高な使命のために山羊の現金化を検討しているんです。そして私もその知力を継承したいと思っていますぅ……」
田中と呼ばれる不思議な粘度のような生命体は口を動かし、舌を這わせて声のような不確かでどこまでも実験的な電波の群れを演出し、眼前から遠ざかって行く男に吹き掛けた。彼は送信した電波の記録を頭の中で何度も反芻することで、カフェテリアのような自由で未練の無い学級閉鎖を呼び起こすことに成功した。
「では自宅に向かいましょうか。これは命令ですよ」
男はコートを翻しながら田中に命じた……。おれはそれを後ろ三十度の角度で観ていた……。
「はい」
田中は新しいジャンプ方法を試しながら山羊らしく唱えてみせた。
鉄専用の食卓場に田中の街が建っていた。彼のような可憐で火炎のような人生を歩んでいる男には過ぎた建物で、建ち並ぶビルの中ではこの街そのものを解体しようという議論が毎秒行われているようだった。「そこでおれは自分の頭をガリガリを掻きむしった。そして皮脂でぬめめった指を鼻先に持っていき、その香りを吸引したっ」
「どうぞ」と女中らしい声色の田中は後ろに続いている男を自室に招き入れた。男は田中の部屋をぐるりと一周見まわしてから呼吸を再開し、逆立ちをしているような雰囲気で、「種の香りがするな」とだけ呟いた……。
「それは私の皮脂の香りですね。向日葵なので」
「ああ……。そう」
男は例え自分の意識が山羊と変換しても変わらない固執的なアイデンティティをプラ・カードで示しながら、街の幹部どもに唾の塊を吐いた。「痰ではないっ」
そして敬礼の男は室内の右端に佇む一人のこけしの媒体に目を向けた。「あれは?」
「ああ、姉です」
「どうも……」
「そうか。姉は少し声が低いんだな」
「どの基準でそれを言ってるんですか?」
男は着ていたコートを脱ぎ捨てた。それは湯舟から脱出した女中のような有様で、ブランド品のコートを田中に渡し、「いつでもこれで唾液を拭えばいいさ」と言い捨てて姉とキッスをした。
舌と舌とが絡み合い、互いの唾液が混ざり合う。ぬめりが全てを包み、湿った熱が互いの興奮を高めた。「情熱的……」
「栗ちゃん! どうして姉とキッスをしてるの?」
「これはね……」男は姉から口を離した。互いの口と口の間を、唾液の糸が何本も引いていた。「世界征服なんだ」
「接吻が経済を回すの?」
「もちろんさ」
すると街の細い車道をサイレンを鳴らした黄色くてだらしない体たらくのパトカーが通り、田中の室内のドアの前で止まった。パトカーからは独りの婦警が出、田中の出入り口を軽々と飛び超えて入室した。
「君! 身勝手な接吻は犯罪ですよ! 署まで来てもらおうか?」
婦警は右手に手錠を持ち、左手には警棒が装備されていた。
「まずいサツだっ! おいロクデナシ田中! 過去に逃げるぞ!」
「はい?」風船から飛び出る空気のような声。
男はコートを咥えている田中の腕を取り、室内左端にある炊飯器の蓋開閉スイッチを押し込んだ。パカッという音と共に蓋が開き、中のタイム・ワープ・ホールがグワングワンと回転しながら黄、紫、青を繰り返し表示していた。
「さあ飛び込め! 田中! 田中!」
男は田中の腕を引っ張りながら炊飯器の中に飛び込んだ。炊飯器は男と田中の身体を掃除機のような音を立てながら吸い込み、あっという間に全てを飲み込んだ。
「チッ、逃がしたか……」
婦警は自動的に蓋が閉じられた炊飯器を蹴り、姉に投げキッスをしてから部屋から出ていった。
「ここは……?」
「君の生まれた日だよ」
「そうか……。ならさっさと赤子の私を殺しにいこう」それは、『新感覚』と銘打ったものの、登場してすぐに同種の商品が台頭してきてあっという間に『新感覚』の感がなくなってしまったせんべいのような声だった。「どんな声だよ……。全く、おれはこの世界が本当にどこかに存在している事実に震えているよ……」スライムのように震えてから眠った男が沈み、最後には溶けてしまう……。「ぷるぷるぷる!」
十八年前の田中の自室は簡素だった。それは刑務所の個室と差支え無く、何も無い室内には生温かい風が流れていた。
「それで? おれたちが過去に来た理由は?」
「過去の自分と決別するためさ……」
男は栗色の頭髪をパサッと撫で上げながら室内の出入り口に向かった。白色の扉はまだ黄ばんでおらず、男はドアノブに手をかけてひねろうとした。
しかし男は静止した。ドアノブをひねることなく止まった。
「おい。どうした?」
「う、うごかねぇ……」
男は静止したまま呻くように呟いた。
すると扉が裂けていった。中央からスーッと綺麗な縦の亀裂が入ってき、向こう側が見えた。そして向こう側には田中とそっくりの男が立っていた。
「よお、そろそろ来る頃だと思ってたぜ」
「過去のおれか!」田中が目を見開いて叫んだ。唾の玉が無数に飛び、男の肩に触れて溶けていった。
過去の田中は裂けていく扉を跨いで入室した。そして静止したままの男を通り抜け、田中に近づいた。二人の距離は一メートルもなかった。過去の田中が口を開いた。
「制裁をしに来たんだろ? 良いぜ。いつでも受けて立つ」
「おれは武力を知らない」
「ならおれから行くぜ? 良いのか?」
未来の田中は優等生の数学者のような顔色で頷いた。
「そうかい。アンタは意外と聡明なんだな……。おれは昔黄金色の畑で作業をしていて、その月の給料でアルコール度数の強い酒を買ったんだ。すると従妹の一人がこう言った。『あんた! どうすることもできない栗頭のくせして、どうしてそんなにコンビニを好くんだい?』
おれはすかさず答えた。
『哺乳瓶さ。そしておれはコンビニには行かない』
『それじゃあ裏側の惑星には唾を垂らさないってことなのかい?』
『ちゃんと線路の上を走れよ』おれは僧侶のような顔で妻の顔を連想してから、親の形の生命体をブロックに送還して動物を蹴った……。『山羊だね、あんたも』」
月だった……。そしておれもコートを翻し、明かりの灯った駅を連想してから街を破壊する判子を押した。自分の行動を制限している海がどれだけ邪魔なのかをプレゼンしてから会議室を退室し、自分の腕の中に住まう鳥たちを迎えに行った。
すると田中は過去の自分の両肩に左右の手を置いた。そしてそのまま肩をぎゅっと握り、左右に引っ張った。過去田中の皮膚は剥がれていき、中の肉や臓器までもが裂かれていった。やがて過去田中の身体は真っ二つに裂けた。出血が室内に迸り、白色だった壁や床を赤色に染めた。
「終わったか?」男がようやく動き出し、昆虫のような音の声で田中に訊ねた。
田中は頷くだけで何も喋らなかった。それは自分が崇高な数学者であることを示していた。
おれは二人の新たな関係性に疑問と祝福を投げた。そうすることで変わらない思い出に終止符を打ち、同時にカスタネットのような教師に成り代わる機会を見出した。おれは蟲たちのざわめきによって空中に到達し、上から彼らの蠢きを眺めることができていた。おれは次々と迫る妄想の波を駆け抜け、環境問題のように尖った熱量を維持する必要があった。どうしても手足を出すことが必要で、階段を下るような連想力を数式に当てはめてから外出し、女性の裸体に眼球を腐らせる。さらにおれはランチ・タイムによる影響を考えてから白い服を着て、時計を嵌めた右手を切断する。そうすることで試験管の中身を当てるクイズに参加することができ、十二月からの出費を最低限で済ませることができる。おれは海水をガソリンだと言って売る商売を始める。
「これあげますよ」とすすめながらおれは海水が入った瓶を田中に渡す。
「どうも……。ってこれしょっぱい!」
「そりゃ海水ですからね」
そしてコートに人肉を貼り付けてからポスターを咀嚼し、女児のような甲高い音を出す。
「おれのくせになんか弱くね?」
田中は真っ二つに割れた過去の自分を視て最初にそう呟く。そして床にバチャッと落ちた過去田中の死骸を蹴り付け、さっさと帰りたいことを男に伝える。
「そうだな。さっさと帰るか」と男はコートを翻しながら宣言する。「ゴー!」
「ん? まて……」と男は動き出した手足を止め、苦い液体を飲み込んだ時のような顔をした。
「どうした?」
「んんんんんんんんっ!」
男の脚が透明になっていく。その波のような電波は上がっていき、すぐに頭の天辺まで到達した。男は流れ去る砂のようにいくつもの粒になっていき、そのまま分裂して消えていった。
「おい! どうしたんだよっ!」田中は消えてしまった男が居た位置に走って向かい、すでに跡形もなく消えた男に叫んだ。しかしその問いかけに答える声はなかった。
「チクショウ……。救えなかった……」
部屋の右端には炊飯器が置かれていた。田中は、自分の性欲が原動力になっている念力で蓋開閉スイッチを押した。中には黄、紫、青の色を高速で繰り返している液体が入っており、田中はそれに飛び込んだ。
液体身体を吸い込み、すぐに完全に飲み込んだ。
「おい! この船沈むぞっ!」
田中の声だけが過去に残され、やがてその体は現代へと帰還した。
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