(壱)
ルリルリ、ルリルリ。
不意に鼓膜を揺らした音につられて広げていた本から眸を上げる。窓の外に視軸を転じると、バルコニーの手摺に青い小鳥がちょこんととまっていた。小鳥は目の醒めるような瑠璃色の翼を幾度か羽搏かせて再度、囀る。
ルリルリ、ルリルリ。
初めて耳にする啼き聲に彼は瞠目して窓硝子に額を寄せた。ルリルリ、ルリルリ。凝視する視線の先で青い鳥は澄んだ聲で唄う。時折、小さな頭を可憐に傾けて。
人に慣れているのか、或いはその気配に気が付いていないのか、小鳥は彼の好奇の眼差しに一向に無頓着なふうで手摺の上に留まって頻りに啼いた。まるで唄聲を聴いてくれと云わんばかりだ。彼は少しの間、眸を閉じて玲瓏な響きに聞き入った。
ルリルリ、ルリルリ、ルリルリ、ルリルリ。
ふと、囀りが途絶えた。
飛び去ったのだろうか――彼は眸を開けた。が、予想に反して小鳥はまだ其処にいた。青い羽根を小さな嘴で繕っている。と、瑠璃色の中に赫色が滲んでいるのが見えた。
「お前、怪我をしているのか」
思わず話しかけると、応えるように小鳥は短く啼いて青の中に紛れた赫色を見せるように左の翼を広げた。眸を凝らして見ると、何かが引っ掛かっている。陽光にきらりと光るものがあった。釣糸だ。
彼は静かに硝子戸を開けて、小鳥へ恐る恐る手を伸ばした。驚かせないように、そっと小さな躰に触れる。逃げられるかと半ば覚悟していたが、小鳥は大人しく彼の掌の中へと収まった。きっと怪我をして飛べないのだろう。何処から来たのか知れないが、傷を抱えて此処まで飛んで来るのにかなりの体力を消耗したに違いない。
小鳥は手の中で円らな黒い瞳を彼に向けて一聲啼くと、ぐったりした様子で目を閉じた。生命尽きて死んでしまったのかと思われたが、小鳥の小さな心臓はトクトクと規則正しく脈打っていた。彼はほっと安堵の息を吐いて傷の具合を確かめた。
左の翼膜に釣針が食い込み、血が滲んでいた。どうにかして自分で取り除こうしたのか、或いは痛みにのたうち回ったせいなのか、釣糸が翼に複雑に絡み合っていた。彼はソファの上に小鳥を横たえると慎重な手付きで絡んだ釣糸を鋏で切り、針を取り外しにかかる。すると傷が痛むのか突如、翼をばたつかせて彼の手を拒んだ。先程は美しい聲で啼いていたのに、小さな躰から発せられるのは今や悲痛な叫びである。彼は眉根を寄せて「痛くしてごめん。少し我慢してくれ」再び釣針を取り除きにかかった。ゆっくり、そっと、なるべく痛みを与えないように。十分後には無事に処置は終えることができた。が、小鳥は目に見えて元気がなかった。どうしたものかと思案して、水や食べ物――丁度、冷蔵庫にあった果物を切って与えてみた。最初は警戒しているふうであったが、暫くすると小鳥は水に嘴を入れ、果物を啄んだ。それから嬉しそうに啼いた。ルリルリ、ルリルリ。良かった――彼はひとり微笑んだ。
青い鳥は日ごとに回復していった。傷も順調に治癒して、半月もすると買い揃えた籠の中をちょこちょこと動き回り、ルリルリと美しい聲で囀っては瑠璃色の翼を羽搏かせた。
この青い鳥がどんな種類の鳥なのか、図鑑を繰って調べてみたが、それらしい鳥は見当たらなかった。何か突然変異で生まれた鳥なのだろうか。気にかかることはもう一つあって、初めにも感じたことであるが、やたらと人に慣れている点である。彼の元に来るまで誰かに飼われていたのではないか。飼い主がうっかり小鳥を逃がしてしまい、飼い主の元へ戻れなくなった小鳥は腹を空かせて、餌を求めて慣れない狩りをした末に、これまたうっかり釣針に引っかかってしまい、助けを求めて此処へ来たのではないか――そんな空想が浮かんだ。
飼い主がいるのなら、小鳥を返さなければならない。きっと飼い主も小鳥が帰ってくるのを今か今かと待っているだろう。小鳥ももしかしたら元の住処に戻りたいと思っているかもしれない。貼り紙でも作って飼い主を探すか――迷い鳥、保護しています。飼い主が名乗り出てくるまでは手元に置いておく。だがしかし――白い鳥籠の中でルリルリと長閑に囀っている青い鳥を彼は見遣る。
――手放すのは、惜しい。
彼は鳥籠の小さな戸を開ける。すると小鳥は差し伸べた彼の白い手にぴょんと雪のように軽い躰を乗せる。指先で頭を撫でてやると気持ち良さそうに漆黒の眼を細め、愛撫をねだるように身を擦り寄せて来る。その仕草の、何と愛らしいことか。人懐っこい様を見ていると、ずっとこのまま手元に置いておきたいと思ってしまう。珍しくも綺麗な羽色や美しい唄聲も彼の気に入るところだ。
彼は掌に載せた小鳥と目線を合わせて問う。
「お前は何処から来たんだ?」
ルリルリ、ルリルリ。
「誰かに飼われていたのか?」
ルリルリと囀って小首を傾げ、円らな瞳を瞬かせて羽を広げる。
「ずっと此処にいるか?」
ルリルリ、ルリルリ。
一頻り啼くと彼の右肩へ飛び乗って耳を嘴で突いた。どうやら羽繕いをしているつもりらしい。彼は微細な痛みに苦笑をしながら愛しげに青い鳥の背を指先で優しく撫でるのであった。
(弐)
掌に包むように瑠璃色の小鳥を抱く。トクトクと一定の速さで心臓が鳴っていた。温かい。生きている。手の中で息づくそれは頼りないまでに軽く、少しでも力加減を間違えてしまえば、ぐしゃりと握り潰してしまいそうな程。絞め殺してしまうのではないかと唐突に不安が胸奥に轟いた。
彼は恐怖の爆弾にも似た儚い生命を抱えてそろそろと忍び足で歩く。
湿った空気に漂う靄。
立ち込める深い緑の匂い。
足の裏に濡れた土の感触。
辺りは暗い――黒い森の中。
何処に向かって歩いているのか全く解らなかった。只、気ばかりが焦っていた。青い鳥を連れて行かなければ。早く、早く。そうしなければ――。
不意に僅かに視界が明るくなった。立ち止まって天を仰ぐ。闇に溶け込む濃い葉群れを透かして十六夜月が白い貌を覗かせていた。差し込む蒼い月光がゆるゆると流れる白い靄を照らし、黒い森は俄かに深海の如く蒼褪めた。空気が重く淀む。息が苦しい。手中で慄える瑠璃色が色濃く鮮やかに輝き出す。彼は胸を衝かれて眸を見開いた。と、両翼を大きく広げたかと思うと彼の「あ」と開かれた口を目掛けて飛び立った。その刹那、月が雲に翳った。
(参)
「今、妙な音がしなかったか?」
「え?」
「ルリルリって……鳥の啼き聲のような」
そう云って私は部屋の中を見回す。何度なく訪れた友人の自宅は取り立てて変わった様子はないと思われたが、部屋の隅に白い鳥籠があるのを認めた。中は空である。
「鳥を飼っていたのかい?」
「飼っていたというか、少し前に怪我をした小鳥を保護したんだ。綺麗な青い鳥でね」
「へえ、珍しいこともあるもんだ。それで、その鳥は?」
すると彼は困惑したように眉根を寄せる。何か拙いことを訊いてしまったのかと内心慌てていると、卓を挟んで目の前に座る友人は眉間の皺をほどいて少しの間、沈黙した後、とても妙なことが起こったと静かな口調で告げた。やや憂いを含んだ声音に私はどきりとして、身構える。
「本当に奇妙なことが起こったんだ。何を見ても、驚かないでくれ」
はっきりとした、有無を云わせない言葉に勿論だ――私は強く頷いて、固唾を呑んだ。
友人は酷く緩慢な動作で着ている白い襯衣の釦に手をかけた。ひとつひとつ、見せつけるように外していく。私は膝の上で堅く拳を握った。握り込んだ掌に冷や汗をかいていた。
最後の一つの釦が外され、彼が襯衣の前を大きく開いたその瞬間、私と彼の間に鋭い緊張が走った。そして私はあっと大きく眸を見開いた。
彼の左の肋骨が剥き出しなっていた。骨を覆っていた皮膚や筋肉や膜が一切取り払われ、あるべき筈の肺もなかった。驚くべきことはもう一つ、あった。規則的に並んだ白い肋骨の奥に瑠璃色の小鳥がちょこんと収まっていたのである。目が醒めるような真青な小鳥は肋骨の籠の中で羽を慄わせてルリルリと美しい聲で啼いた。私が先程、聴いた音は果たして、この囀りであったのだ。
愕然としていると彼は白い片頬に苦笑を浮べて云った。
「一体何がどうなって、こうなってしまったのか、自分でも解らない。只、青い鳥が胸の中に収まる前に、夢を見たんだ。黒い森の中を歩いている夢だ。掌にこの青い鳥を抱えて――不意に月が晴れた。そうしたら突然、口の中に小鳥が飛び込んできて、そのまま躰の中へ入ってしまった。其処で目が醒めた。奇妙な夢だと思った。朝、起きてみると鳥籠の中は空になっていた。一体、何処へ行ってしまったのか不思議に思っていると、不意に自分の躰から――胸の辺りから、ルリルリという囀りが聞こえたのだ。それで思った、あれは夢ではなかったのだと」
「だがしかし――」
俄かには信じられない。小鳥を呑み込んで胸の中で飼っているなんて! こうして目の当たりにしても、尚。
私は彼の傍に近寄って、まじまじと見た。瑠璃色の小鳥は彼の胸の中で確かに生きていた。円らな瞳が私を捉える。そっと人差し指で触れようとして、いけない――咄嗟に手を引いた。小鳥は訝しげに小首を傾げてルリルリと啼いた。己が其処にいることについて、何の疑問も不安もない様子で。
「痛くはないのか?」
云ってしまってから随分と間抜けな質問をしてしまったと苦く思ったが、彼は特に気に留めたふうでもなく、今は大丈夫だと答えた。
「此奴のお蔭で胸の辺りがほんのり温かいのだ。中で動き回るものだから、擽ったい時もある。不思議な感じだよ」
彼は自分の左胸を見ながら、はだけた襯衣の釦を留めていく。
「それで、どうするんだ? このままでは――」
命にかかわるのではないか――最後まで云えずに口を噤む。そのうち心臓も、残っている右の肺も、小鳥に食い荒らされて死んでしまうのではないか。想像をして怖気が立った。あり得ない話ではないだろう。こうして彼が何でもないふうに呼吸をして生きていることが、奇跡のように思われるのだ。彼は自分の死をちらとでも想わないのだろうか?
「どうもこうもないよ。とてもじゃないが、医者には見せられない。好奇の目に晒されてモルモットにされるのがオチだ。このまま放っておくしか仕様がないだろう」
「でも――」
食い下がる私に友人は薄く笑う。これはきっと罰だ、と。
「罰?」
「そうだ。幸福の青い鳥を盗んだ罰さ。この鳥が何処から来たか知れないが、僕は怪我をしている此奴を手当てして保護した。本来なら、傷が癒えた時点で外に放つべきだったんだ。だが僕はそうしなかった。あまりにも美しい羽色と囀りに手放すのが惜しくなってしまったのだ。それ故の罰だ。天上の火を盗んで罰せられたプロメテウスと同じさ」
友人は何処か疲れたように細く溜息を吐いた。
彼の左胸から、麗しい囀りが響く。
ルリルリ、ルリルリ。
壮絶に美しく、世にも残酷な青い鳥の囀りが。
ルリルリと何時までも。
(了)
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