主演女優賞

眞木綻

小説

10,045文字

自分が世界の中心!みたいに思っている人って学生なら少なからずいるよね。大人でもいるのかな。でも、そうやって胸を張って生きたいという人の背中を押す作品になっているといいな。
ちなみに、まだ続きがあります。好評であれば投稿するので、コメント等々よろしくお願いします。

 都内のとあるマンションの一室、酷く片付いた空間の中、目にしたのは二人の男女の死体だった。それも、私のクラスメートである二人だった。確か、この二人は付き合っているとかいないとか。詳細は定かではないが、私は羨ましく思う。授業中ペンを握っていた二人は、お互いの手を強く握ったまま硬直していた。言ってしまえば、死後硬直なのかもしれない。だけれど、死ぬ直前まで指先が白くなるほど強く繋いでいたのだと推測できる。この事件を見た第三者が何と呼ぶかは分からないが、私は生きていた頃の彼らの姿と重ね合わせて、こんな風に呼ぼうと思う。「二人だけの集団自殺」だと。
 兎に角その死体は美しく、まるで生きているようだった。そもそも、あの二人は死んでいるように生きていたようなものだった。だから、死んだ後に生を手にしたようなものなのかもしれない。だから、これはもはや、生きるための死であったのかもしれない。
 少し本題からずれたが、私が「二人だけの集団自殺」と呼ぶ理由は彼らが思い描いたシナリオと、この事件に至った動機になるべく寄り添った結果だ。自殺をする人は、生きたいから死ぬという。生まれ変わりを信じて、今よりずっと美しい世界がその先に待つと信じて、淡い期待を抱きながら命を絶つ。もっといい生き方がしたいから、もっと違う環境で生まれていたら、やり過ごすことができたなら、今に満足できていないから死ぬ。彼ら二人の関係性よりも、それぞれが抱えていた問題や思いを、丁寧に紡いで繋いであげることが大切なのではないだろうか。たまたま付き合っていて、近しい間柄だったから、たまたま今に満足できなかった二人が出会ったから、今回のことが起きたのではないか。そう考えるのが、自然である。
 一クラスメートとして言えること——この事件が「心中」だと言われる理由として考えられること——は彼ら二人の間に決定的な障害があったということだ。その障害に阻まれながらも恋に落ち、その障害により一緒に生きていくことを諦め、それで一緒に生きられないならば死ぬことにした。そういう物語を、世間は勝手にでっち上げてしまう。しかし、実際はどうだったのだろうか。ただのクラスメート、強いて言えば彼らのクラス委員だったというだけの私には推測しかできない。第一発見者であり、うちの一人である女子生徒の友人として言えるのは、彼女はとてもこの世界を窮屈に感じていた。

 1章

 私は千文字ほどの文章をネット上に上げることになった。どうしても誤解して欲しくなかったから。心中だと世間で騒がれている、高校生二人の密室殺人(他殺の可能性はほとんどない)は、決して「イタイ」とか「狂っている」男女の物語ではない。むしろ、懸命な判断だったと思う。世間は騒ぎ立て、勝手に物語をつくりだし、本質を忘れてしまう。どうせ、彼らを救うことができなかったこの世界も、私もただの偽善に過ぎない。
 私の友人、美(み)純(すみ)は高校一年生まではごく普通の生徒、そればかりか私と肩を並べる優等生だった。派手で可憐で、輝いていた。私は地味で勉強ができることだけが取り柄で、クラス委員をやるくらいしないと教師の目にも入ることができない。美純と比べるのも恐れ多い。その彼女が堕落していく姿は、儚いというよりも無様そのものだった。
 艶のあった綺麗な黒髪は美しさを失い、髪を解かしたり結ったりする余裕もないように見えた。密かに憧れていた私の美純は、一目瞭然というようにオーラが擦り減っていた。
 彼の方はあまりどういう人なのか分からなかった。美純と付き合っているという噂は聞いていたし、目立つ存在だったから意識して見ていたものの、特徴の掴めないような人だった。美純とは反対に大人しく、顔立ちが整っているとは思わなかったが人気者ではあった。確か、父親が政治家だったような気がする。ニュースを見ていないせいか、全く知らなかったがかなり有名で国会議員だとかそうでないとか。美純はシングルマザーの家庭で育って、余裕のない生活をしていると聞いたことがある。だから、二人の間にある障害というのはそのことだ。経済的に格差がある。その差は侮れない。
 私が書いたネット記事紛いのものの反響は、少しずつ私のもとへ届いてきている。二人を悼む人、別れを惜しむ人、世間の言う通りに信じて私の記事に驚きを隠せない人。四十者四十様の反応がある。これまで私を意識的に視界に入れなかった人たちも、共感の声を聞かせてくる。
押し付けられてやっているようなものであるクラス委員の権限も、結局何の役にも立たなかった。大事なのは、波に乗ること。話題がまだ熱いうちに、冷めないように叩いて延ばすこと。美純の友達だったということは、クラスメートたちには新鮮に思えるそう。中学時代に仲が良かっただけで、高校に入ってからはあまり関わりを持たなかった。別の世界にいる美純と同じ歩幅で廊下を歩いていくのが想像できなくて、恐ろしかった。誰かに睨まれるか、何かを囁かれると思った。
失くしてから大切さに気付けないということがある、ということを大人から聞いても分からなかった私はまた大切なものを一つ失くした気がした。もう少し、気付いてあげればよかった。手を差し伸べて、大丈夫? と声を掛ければよかった。
美純と彼の間に障害があったのなら、私と美純の間にも障害があった。高校に入ってから分厚い壁ができてしまった。それを乗り越えて、声を張り上げて、寄り添えばよかった。亡くなってしまったという実感が湧かない以上、事実を並べて現実が心と頭に侵入していくのを待つしかない。悲しみに暮れ二人のために泣くことができる人たちを羨ましく思う。私はたった一人の友達の死に、涙一滴も流さずに文章をつらつらと書き連ねているだけ。
教科担任も、私たちのクラスに来る度に気まずい空気を流して去って行く。担任も特に何も生徒のケアをせずに、なるべく教室にいないようにしているのが手に取るようにわかる。かといって、教室に長く居座り、共感でもないアドバイスを浴びせられるよりもよっぽどいいのかもしれない。誰も何も触れられない、彼ら二人の世界には近づくことができないのだ。

 事件は一カ月前に遡る。特に寒い、一月三十日だった。凍てつく手をコートのポケットに入れて、目的地に向かった。美純に指定されたのは、彼氏である相良(さがら)のアトリエのマンション。相良の趣味は絵を描くことで、賞を獲って小さな美術館に飾られるほどの腕前だった。人気者だった理由に、絵の才能もあるのだろうか。
 閑静な住宅街の中にある、ごく普通のマンションで二人は倒れていた。血を一滴も垂らさずに、閉じた目と口にはささやかな笑みを浮かべていた。恐らく状況からみて、薬物で死んだに違いない。部屋に入っても息ができているため、有毒ガスや一酸化炭素中毒というのは考えにくい。遺体の損傷は少なく、死後それほど経っていないような気がした。焦りも悲しみもなく、混沌としているとも静寂だとも言える中、目に見えたものだけをなるべく正確に覚えていたいと願った。
 今までに見たことがないほど、美しい景色を目にした。死んでいることを忘れさせる、二人の笑顔と堅く結ばれた絆が結晶となって空間に放たれているようだった。四方が白い壁に覆われ、北側の窓は冬の冷気を取り入れている、アトリエと呼ばれる相良の第三の居場所は二人の雰囲気にぴったりと合っていた。
 付き合っているのに、学校では一緒に居る姿を一度も見なかった。堕落していく美純と逆に相良は人気になっていった。だけれど、相良本人は嬉しそうな顔を一つもせずに素っ気ない様子でクラスメートを撒いていた。繋がりがあるのかどうか不明だった二人も、やはりどこかで結ばれていたのだと安心した節もあった。二人の死体を見た時に、これが恋なのかもしれないと確信は持てないが思ってしまった。でも、それでは結局は世間と同じで心中事件に結び付けようとしている。
 美純が息苦しそうだったのは、相良が笑顔を見せなかったのは、一体なぜなのだろうか。美純が亡くなる前に、一通だけLINEがきた。それはただ目的地を示すだけのもので、本当の目的は分からなかったが行ってみることにした。しかし、足取りが重かった。ろくなことが起きている気がしなかったから。そうしたら、案の定死んでいたというのが私の感想。美純は向こうみずの行動をすることが多く、歯止めがかからないことがしばしばあった。それだから、誰かが傍に居てあげればよかったのかもしれない。生前の美純、特にここ一年の美純は孤独だった。遅刻が増え、成績も右肩下がりで、教師に怒られてばかりだった。それでも以前のように反抗せず、ただ大人が言うことを聞き入れるだけの調子だった。あんなに聞き分けのいい美純は初めて見た。
 相良は賞を獲ってからクラスの注目の的となり、常に沢山のクラスメートに囲まれていた。そんな二人が、白い片付いた部屋で眠っているように死んでいる。何もないことがコンセプトで、そこから新たなものを生み出すのが楽しいと相良が言っていた。話している内容とは裏腹に全く笑っていない目元が、まだ鮮明に思い出せる。
 事件の翌日、教室の中は一変した。まず、まことしやかに囁かれていた噂が事実であったことの衝撃と、ただ単に二人が死んだことに悲嘆にくれる人たち。そして、その後に「色狂い」だとか「はしたない」と言って心中だと決めつけ馬鹿にする人たち。それに同調して、ひそひそと話す女子。
「信じられないよねー」
と言いながらどこか他人事な人たちもいた。様々な反応がある中、学校にいる大人たちはマスコミの対応に追われていた。何社か分からない数の新聞社やテレビ局が来て、帰宅する生徒に寄っていたかっていた。

 *

 美純と私の出会いは、中学生の頃に生徒会で一緒になったことだった。右も左も分からず藻掻いていた私に、声を掛けてくれたのは学年一の美少女と言われていた美純だった。長い黒髪から仄かに甘い匂いがして、細く白い指先は赤く染まっていた。その日も確か寒い日だった。美純は、よく鼻の頭と指先と膝が赤くなる。彼女自体が色白だからだと思うが、彼女からは桜色のようなオーラが滲み出ていた。
 十月に季節外れの雪が降っていた。幻かと思われたが、その時期では稀な零度を下回る気温の日だった。ポケットに手を突っ込み、鼻をすすって凍えていた。その時、美純のほうから声をかけてきたのだ。
「寒いね。風邪引いてない? 大丈夫?」
ポキっと折れそうなくらいに細く、病人くらい色が白い彼女に言われるほど、やわではない。軽く、大丈夫、と流しておいた。でも後から考えると、私も不健康そうだったかもしれない。彼女は不健康そうだったけれど、清潔感と透明感があった。私には生活感があった。まとまらない髪を何とかしてきっちり結んだ感、それほど外に出るわけでもないのに日焼けしてしまった感、運動不足が引き起こした幼児体型。美純とは正反対の見た目だった。性格も恐らくそうだ。彼女は頭がいいくせに、考える前に動いてしまうことが多々ある。そういう危なっかしいところが、人の目を奪うのだろうけれど。
 美純は誰にでも優しく、いつも笑っていた。面倒見もよく教師に好かれて、いろいろな仕事を任された先が生徒会だったのだろう。私と美純が通っていた学校は、良くも悪くも大人しい生徒が多く、生徒会やクラス委員を募るのに一苦労していたという。その点、アイドル的存在だった美純は志望校である公立高校に推薦で行けるかもしれないという期待を持って生徒会に入ってきた。
 前からいた私からすると、生徒会室にはやや眩しかった。私と同じような地味なメンバーがそろっていたし、二年の後期だったから既に生徒会長をしていたけれど、かえって美純のようなカリスマを抱えて活動していくのは難しい気がしていた。カスミソウだらけの花束に赤い薔薇が入ってきたような、メダカの水槽に金魚が入ってきたような、住宅街の中に場違いなほどお洒落なカフェが急にできたような感じがした。同時に、自分のテリトリーが侵されているという感覚もあった。何より、生徒会が全く注目されない学校で、生徒会長をやる必要性は微塵もない。私も少なからず、志望校への推薦を狙っていたのかもしれない。邪な気持ちがあったのかもしれない。だけれど、美純が入ってきたことで状況はがらりと変わった。生徒会の活動は日に日に注目を浴び、イベントをやれば人が集まるようになった。崩壊寸前の組織だった生徒会に、灯りが差した瞬間だった。そうなれば他でもない、使えるものは使ってやろう。私は、美純を頼るようになった。
 彼女の人気は凄まじく、挨拶をすれば返されるし、彼女が注意すれば誰でも聞いた。「廊下を走らないでください」、「挨拶はきちんとしましょう」、「肩につく髪の毛は結いましょう」。あまり優等生というイメージがなかった美純も、徐々に生徒会副会長という役割が板についてきた。奔放で、大人の言うことは半分聞いて半分無視するような子ではあったが、あっという間に学校一の美少女になった。
 要領がよく、結局私が狙っていた推薦の枠は美純に取られてしまった。けれど、それでも許せた。既に友達と呼べる関係だったし、気さくに話しかけてくれる彼女に好奇心が湧いていた。だから、すごすごと推薦が駄目だったからといって諦めずに、何とか入試で同じ高校に入った。
 何度か私の家に来て勉強をしたときは、家の広さに驚いていた。それほど広い家でもないけれど、二階建てが珍しかったのだと思う。美純の家は古めのアパートだったから。出すお茶やお菓子にいつも感動して、ありがとう、ありがとう、と嬉しそうに食べるのが可愛くて仕方なかった。完全に虜になってしまったのだ。妹のように世話を焼いてきたつもりだ。
 美純の頭のよさは要領のよさからきているもので、単純に覚えが早かった。けれど、応用力が極端に欠けていたため、勉強は教えてあげたかった。テンプレ通りの問題でないと、解けなかった。生活でも同じで、予想していないことが起こると半分怒ったように焦って、パニックになっていた。だから、守ってあげればよかった。ちゃんと気を配っておけばよかった。

 高校に入ってからの一年はとにかく楽しかった。美純は空気清浄機のような子で、見ているこちらも綺麗になっていくようだった。おかげで、私も少しずつ垢抜けて見た目の地味さは軽減された。相良と付き合ったと聞いたときは、嬉しかったとともに驚きはさほどなかった。逆に、高校生になるまでの今までに彼氏がいなかったことに衝撃を受けたぐらいだ。でも、ちょうど釣り合っていたのかもしれない。美純は美しくて、明るくて派手で、近づきがたいところがどこかあった。皆は話しかけるけれど、どこかでその綺麗さに引いているような感じで。だけど、元々世界の中心で生きているような裕福な相良はそれを気にしなかったのだろう。掴みようのない人だとは思ったけれど、悪い人だとは感じなかったし安心できた。
「学校の人には秘密にしておいてね」
と言われ、私にだけ伝えられていることの嬉しさに涙が出そうだった。美純に出会うまでは、ずっと本が友達のようなもので孤独だったから。
本当に秘密にしているようで、学校では一度も一緒にいるところを見なかった。隠す必要などないように思えたが、約束を守るため誰にも言わなかった(そもそも言う相手がいなかった)。
そこから少しずつ、美純が壊れていくのを見た。髪の毛はボサボサ、肌はボロボロで、彼女の最大の清潔感と透明感は損なわれ、十歳ほど老けたような気がした。その頃から、クラスメートは彼女に目もくれなくなり、汚いものを見るような目で一瞥するくらいだった。
性格も変わり、明るさも笑顔も消え、全くの別人のようになってしまった。
遅刻が多くなり、授業中に寝るようになり、教師にも呆れられ、怒られることが多くなり、もうクラスメートは一瞥もしない。私以下の彼女が怖かった。元々光っていなかったものよりも、輝きを失うことが一番人に見えやすい落ち目だと感じるようになった。
話しかけにくく、何も言えなかった。美純の堕落の裏に何があっても受け入れる心がなかった。
ただただ、憧れであり好きだった美純が薄れていくのが恐ろしかった。もしかしたら、相良と付き合ったことで悪いことが起きたのではないかと考えたが、相良は全く変わらない様子だった。けれど、問題はもっと深いところにあった。三カ月ほど前、美純が根本的な問題から解放された。美純は、家の全てのことを任されっぱなしだった。
相良に暴力を振るわれたり、美純の時間を奪われたりしているというのも考えにくかった。けれど、実際は、もっと陰湿なことが行われていたのかもしれないと私は思う。もっと早く、行動すればよかった。美純のために、動くことができなかった。
ごめんね。

 2章

 僕は何も気づけなかった。彼女がこれを書く前に。

 アトリエに帰れば、彼女が居る。そういう穏やかな生活がようやく訪れた。ほんの一カ月前には、彼女は忙しすぎて会う余裕もなかった。全てが終わったのは二カ月前のごく普通の日、彼女の祖母が死んだ日だった。そこから全てのしがらみから解放され、彼女も僕も自由になった。
 家事のほとんどを担っていた彼女は、勉強する暇もなく成績は下がっていった。周りからは、
「あいつと別れた方がいい」
と言われるようになったが、そうする気は端からなかった。見た目も変わり果てて、付き合った頃とは別人のようになっても関係なかった。僕は人を見た目で好きになったり、体を重ねるために付き合ったりすることはない。体の繋がりではなく、心の繋がりで支え合うのが最も理想的な関係だと思える。だから、彼女の苦しみは一番に分かってあげたかった。家の事が手に負えなくなり、僕に電話をかけてくることがよくあった。だから、その時は無言で聞いてあげるようにした。彼女の支えとなれるように。
 芸術について本格的に考えるようになったのは他でもない、父が国会議員になった頃だ。当時はまだ中学生だったが、衝撃が大きかった。世間から一気に注目されるようになり、学校では父のおかげで人気者になった。
「昨日、信(しん)太郎(たろう)の父さんがこう言っていたよな」
「また選挙だけど、当選するといいな」
覚えたての政治の知識を自慢するように、家族である僕に報告しに来た。親の力で人から注目を浴びるのは不本意だ。僕は注目されるほどの人間ではないから。だけれど、父のことは尊敬しているし、政治家という仕事も向いていると思う。だから、仕方がないことのように思えた。僕のことを友達と呼ぶ人が増える度、孤独になっていくような気がした。その時から、芸術について考えるようになった。
 幸い、父は必要な感性や教養を身に付けることにお金と労力を割いてくれた。だから、良くも悪くも父の所為で孤独になっていくほど音楽や絵や小説にのめり込んでいった。
 例えば、音楽一つをとっても、その表現の幅は計り知れない。音楽に関してはピアノを触る程度に習っていただけで、ほぼ聴く専門なのだが、それでもいい音楽と雑多な音楽の聴き分けはできるようになりたいと思っている。音楽は主に聴覚に作用して人を感動させることができる。最近ではダンスが音楽の第六要素に加わり、音を可視化して表現することができるようになっているが、基本的には聴覚のみにアプローチしている。絵も同じように、視覚のみにアプローチしている。小説は文章だけで、想像力にアプローチしているとしか言えない。だけれど、良い作品、良い芸術品とは、本来アプローチしていない感覚に作用してくるものだ。良い曲は聴くだけで、主人公含め登場人物の表情や背丈などのビジュアル的な特徴が想像できるし、その場の匂いがしてくる気がしたり、生活感のある音が聞こえてくる気がしたりする。
 絵画も同じで、見えているもの以外のものが見えてきたり、音が聞こえたり、匂いがしたりする。だから、一人ではない気がして時に安心する。僕の友達は、画材とアトリエだけ。芸術そのものが、話し相手だった。

 *

 私立に進む予定ではあったものの、美術部がなかったからこの学校に通うことにした。
一年生の五月、まだクラスに馴染めていなかった頃だ。
その頃、ちょうど被写体を探していた。何の絵を描こうか。林檎やワイングラスは描き尽くされて飽きたし、山脈や都会の殺伐とした風景はありきたり過ぎる。誰かを被写体にした、人物画を描くのがちょうどいい。でも、失礼だとは思うが、なかなか僕の描きたい人が見つからなかった。
はらりと長い髪が妖しげに揺れる。少し吊った目はこちらを睨むようで、口の横にある黒子が艶っぽい。小さな鼻の先は赤く、眉をひそめて笑っていた。
「これだ!」
思わず声を出して歓喜した。僕が思い描く、芸術品の具現化のようなものだった。身体中の色素が青みかかっていて、弱そうで脆そうで、でもその中にはっきりとした芯があって美しい。人目見ただけで、声色も話の抑揚の付け方も、口癖も、匂いも分かりそうな気がした。隣のクラスの酒(さか)井(い)美純は、完璧な芸術品のような人だった。
 来る日も来る日も、彼女のことばかり考え続けた。いかに、彼女を上手く表現するか、上手くその魅力を色に落とし込むか。筆に伝染させて、カンヴァスに垂らすのか。彼女の声を、匂いを、仕草の美しさをどう伝えればいいのか、分からなかった。ちゃんと向き合ってみるものだ。人を魅了するものには、必ず理由があるはずだ。心を動かす何かが、あるはずだ。学校に行き、彼女のことを見ながら帰っていった。

 今でも、彼女は僕の中での大切な人で、被写体で、誰よりも美しいと思っている。だけれど、その瞳に何が映っているのか分かろうともしなかった。今、彼女に何が起こっているのか想像しようとも思わなかった。
 
 *

 行き詰ったときは、いつもアトリエに駆け込むようにする。塞ぎ込みがちなときはあえて、塞ぎ込む。何も目に入らない、体力は絵を描くだけに消耗できる場所がアトリエだった。一カ月前から彼女も来るようになり、より本格的に被写体として絵に描くようになった。
 だけれど、今日はアトリエの中の空気が違った。息が詰まるような、物々しい酸素が体に取り込まれた。
「私は死ぬことにしました。誰に止められようと、決行は一月二十三日。この日に全てを終わらせます。愛子(あいこ)ちゃん、信太郎くん、本当にごめんね。決めてしまったことは仕方がないの。私は、一人の命を奪った。それ以上に私は沢山の人を苦しめていた。だからもう、生きていく勇気がない。どれだけ大好きな人と過ごそうと、取り返せない。さようなら」
と、書かれた手紙が床に張ってあった。ここに張ったということは、たぶん、このアトリエで自殺するつもりなのだ。
 はあ、はあ、はあ。息が荒い。普段は運動をしないし、走らないから体力が落ちているせいかもしれない。都会のど真ん中で、制服のまま疾走した。彼女が居そうなところ——¬¬家、学校、意外とショッピングモールとか——全て捜した。
 案の定、学校の屋上にいた。
「え、なんで居るの」
彼女がいつもの通り、眉をひそめながら言った。
「美純さんこそ、なんでこんなところに居るの。しかも、アトリエに置手紙して」
彼女は顔を曇らせた。
「このまま飛び降りて、死んじゃったほうが楽になることも沢山あるのかな」
「どうして?」
彼女は暫く黙り込んだ。そして、
「やっぱり、やめるわ」
すっきりしたように帰っていった。彼女はいつも、こういう風に隠す。自分の思っていることとか、自分に起こっていることを。
 でも、とても手紙の内容が嘘だとは思えなかった。今日は十二月二十四日だが、止められてあっさり止めるのはおかしい。本当に、誰にも言えないようなことをしたのかもしれない。一人の命を奪ったというのは、事実なのだろうか。
 弾んだ足取りで、アトリエに戻っていく彼女に何と声を掛ければいいのか分からない。
「心配してくれる人がいてくれてよかった」
と不謹慎なことをいいながら、鼻歌交じりにスキップしているだけだ。
「心配するに決まっているでしょう。美純さんは抱えている問題が大きいから、心配で仕方がない」
すると、また彼女が安心したように笑った。だけれど、眉はひそめていなかった。きっと、心から笑っていないのだ。初めて見た彼女の笑顔も、たまに見せる本当に面白かったときの笑いも、全部眉をひそめて顔を赤くして笑っていた。それなのに、作り笑いは見抜けてしまうほど「できすぎた笑顔」なのだ。アイドルスマイルと言うのか、完璧にサービスなのだと悟らせる。
 二人でアトリエに戻ると、置手紙を回収した。

 僕は何も気づけなかった。彼女がこれを書く前に。

2022年10月3日公開

© 2022 眞木綻

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

著者

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

"主演女優賞"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る