粉末と通常。

巣居けけ

小説

6,131文字

おれは出入り口から歩き、カウンターの開いている席に尻を付けてから張り紙に目をやる……。なるほど、『ショットの大量注文はいけませんよ』か……。

そしておれはようやくこの街にたどり着いた。そう、山羊と人間が入り乱れる街。乗用車専用の橋を歩きで越したおれはくたびれたジーンズの両足をパシンとやった後に、さもこの街の住民かのような顔つきを演出しながら街中を行った。まだ朝日が昇ってすぐの街には人も山羊も少なく、そのおかげでおれは道の端で濡れた雑巾のようにだらんと四肢を投げ出している山羊に躓くこともなく進むことができた。
「ちょっと、良いかな」

おれの後ろ姿が真っ当な麻薬常用者だとでも思ったのか? おれは自分の背に掛けられた男の声だけで、その男が麻薬取締官の人間であることを見抜いた。まったく、連中ときたら自分の一般市民への変装が完璧だと思っていやがる。そんなことは一切無い。連中から漂うシンプルで代わり映えしない番犬のような香りは意識しなくとも鼻孔を貫き、脳を圧してくるんだ……。
「なんですか。おれは注射器もパケも持っていませんよ」おれは、少なくとも連中よりは上質な、一般市民への変装の声を振り返りながら、麻薬取締官の顔に放った。ほら見ろ! おれに話しかけてきた奴は、やっぱり四角くて濃い色合いの良い男だったじゃないか!
「いいえね。最近ここらへんで、通り魔の犯行がありましてね」
「通り魔? あんたがそれを調べてるのか?」
「ええ。わたくしはこれでも警察官なので」

単純な愛想笑いで奴は警察手帳を提示してきた。おれは突き出された内容を素早く、麻薬常用者には絶対に出来ないほどの素早さで視た。そこには確かに刑事としての身分が書かれていたし、同時に麻薬取締官としての身分も証明していた。
「ほほう。アンタは殺人も捜査対象なのかい? でもここには、一端の麻薬取締官だとも書いてあるぞ?」
「ええ。同時に調べているんです」
「なるほどな。それで、おれに訊ねたいことってのは?」
「ええ。先ほども話しましたが、ここら辺での通り魔についてです。奇跡的に生きていた一人の被害者から聞き出したヤツの手口や、その他の目撃情報によると、どうもヤツは麻薬を使っている可能性があるんです。何か、ここ数日で変わったことなどはありませんでしたか?」

なるほどそういうことか……。おれは口には出さずに納得していた。捜査一課と麻薬取締の畑を同時に持つ刑事が増えているという情報を耳にしたことはあるが、こういう事件に対応するためだったのか。

それからおれは愛想笑いを、あえて目の前の刑事がしている真水のような愛想笑いを真似たものを顔面に張り付けた。
「いいえ。おれはこれでも記者の類なんですがね、特に変化はありませんよ。普段から日常と非日常を行ったり来たりしているおれがいうんだから、間違いないですね」
「わかりました。捜査はまだまだ長引くことになるかもしれないので、何か思い出したり、異変があったらここにご連絡おねがいします」

刑事は黒背広のポケットから名刺ボックスを取り出し、一番上ではなく上から二枚目の物を取り出しておれに突きつけた。刑事らしい大らかで実にゆったりとした動きだったが、その腕の動作には受け取らないという選択肢を相手に与えない圧力があった。おれは無視する理由も思いつかなかったので片手で受け取った。乾燥している指とは相性が悪い材質で、つまんでからすぐに捨てたくなったが、腹に力を入れてこらえながらズボンのポケットに押し込んだ。

それから刑事は一度軽い会釈をして振り返り、いくらか歩んでから振り返って別れの会釈をし、去って行った。おれはその二度の会釈の心理を考えながら彼とは間反対の道を歩み始めた。

おそらく、彼は剛力のゲイだ。だからこそ男であるおれに二度の会釈をしたんだ。彼にとっておれとの会話は職務のうちの形式的な会話だったが、確実に彼は別の所で盛り上がっていたに違いない。おれはにやけ笑いを右手のひらで隠しながら先を急いだ。

大きな通りから垂直に外れている、長い路地裏。その入り口には大柄で黄色いシャツを着た男が通せんぼをしていた。おれは彼の身体と壁の間にあるごくわずかな隙間に視線を集中させた。路地裏の様子は暗黒に染まっていたが、よく目を凝らすと壁際にいくつもの仮設トイレが設置されているのがわかった。

おれにはその仮設トイレと、さらにおれがいま対峙しているこの男の役割が完璧に理解できていた。男は、いわゆる番犬の役割をしている。彼には今日の朝方に、酒関係の首領と呼べる人間からいくらかのカネが渡っているはずだ。彼にとってはそれこそが生命線であり、そして別の角度から観ると強力な首輪であり、リードだ。ではそのリードとやらはどこへつながれているのか。それはおれが暗闇の中に見出した仮設トイレの中に広がる酒場だろう。いいや、別に一畳にすら満たない狭すぎるスペースで酒の商売をやっているわけじゃない。あれらはただの見せかけで、扉を開いた先には酒場が設置できるほどの広さがあるはずだ。そしてその店主はかなりの合理主義で、用心深く、とりわけ綺麗好きだ。
「きみは、ドライヤーが内部でどのような挙動を起こしているのかを知っているのかい?」おれは番犬のでぶに向かって口を震わせた。これは厳密には喋っているうちに入らない。唇をぶるぶると振動させ、その震えを操作して声のような波動を発しているにすぎない。
「おれに薬を飲めと? そして、精神病棟に一生閉じ籠っていろ、って?」でぶは胡乱な声、震える素手、カタカタと揺れる表情筋でリードの先の御主人様への忠誠を表した。
「通してくれるだけでいいんだ……」おれはポケットから取り出したあの刑事の名刺を、さも高額な札のように扱い、でぶとの短い距離をさらに詰める。そしてでぶの胸ポケットに名刺をねじ込む。「これじゃダメか?」
「いいや……」
「感謝するよ……。ビチー・ドルフィン」

おれはでぶの横をすり抜けて路地裏の暗闇に溶けていく。後方では自分の本名をすっぱり言い当てられて驚いているでぶの震えがある。……まったく、おれが街の情報を事前に調査していないと思っていたのか? おれは街の誰よりも用心深いと自負しているよ、ビチー……。

二番目の黄色い仮設トイレの扉を開く。重く、しかし材質不明な扉は簡単に引き、中の様相がおれの耳にようやく届く。やはり内部に便器なんてものはなく、下へと続く階段に闇があるだけだった。おれは階段に足を付け、簡単に下っていった。

二十ほどの段を駆けた先に、白い扉があった。おれは躊躇無くノブを掴み、引いていく。すると最初に襲ったのは鼻孔に輝く酒の香り。階段を下る時から届いていた客どもの叫び声や笑い声がより一層強くなり、おれを上機嫌にさせた。

内装は普通の酒場だった。長方形の部屋。席はカウンターだけ。客の入りはまあまあといったところ。右端の席の男は酒のボトルから直接焼酎を呑んでいる……。その隣の奴はどうしてか居心地が悪そうな顔色で小魚の硬いヤツを噛んでいる。おっと、そんな彼に近づく金髪頭の性別不詳マニア……。なるほど、彼らは立派な呉越同舟だ……。

奥の白シャツに黒のベストのマスターは、いかにも臆病者で、そのサガを上手く経営人生に役立てられているような顔をしていた。ひょろりと長く、髭は硬そうだ。さらに眼孔が深いらしく、眼球の周りを影が一周していた。

おれは出入り口から歩き、カウンターの開いている席に尻を付けてから張り紙に目をやる……。なるほど、『ショットの大量注文はいけませんよ』か……。
「ご注文は」
「ウイスキー……」それからおれは心の内でロックを注文する。ここのマスターは必ずその空気感を読み、やがて自分の意識とは関係の無いところで氷をグラスに落とす。
「読心術を手に入れた河童は三日後に確実に死ぬ」
差し出されたウイスキーを一口で飲み下す。アルコールが喉を焼き、脳を沸騰させる感触……。舌の上で広がる後味から、これが純正のウイスキーではないことを理解する……。

ダン、とグラスをカウンターに置く。木目調の濃いカウンターは驚いたような木材らしい声を出す。
「君は工場の屋上で橙の空を見上げてしまったんだね?」

おれの隣の男がそんな調子で問いかけてきた。おれは自分には何もかもが無関係だと言わんばかりの顔で二杯目のウイスキーを注文する。もちろんロックで。そして隣の男が握っているグラスをちらりと視る。テキーラの色に赤い粒が浮いている酒を、彼は三口で飲み下した。
「どうする? ミーヤキャットでも構わないが?」
「ミーヤだと……? ミーアでは無いのか?」
「おれの商売は動物園飼育係じゃないからな」
「なら……」そこでおれは初めて隣の男の顔を視た。彼はどこにでも居る蛙のような顔つきで、たらこのような太さのある唇をせわしなく蠢かしていた。「山羊の唾液は無いのか?」

彼は何もしゃべらずに頷いた。

そして二杯目のウイスキーが出される……。一杯目同様にロック。おれはグラスまでもが新品になっている自分だけの孤独で火炎な酒を握り、舌先で突くようにして飲み干す。そこで空になったグラスに赤い粒が浮いていることに気が付く。さらに視界の隅で黒色の何かが蠢いたのを確認する。おれは隣の男の肩を握り、三度目の注文にチョコレート・パフアダーを入れる……。
「一時間だけ歩いてきな……」横からの発生不明な声に操られて直立する……。そこで何気なく自分が座っていたスツールを視る……。赤色の中心に白い粉が浮いている……。おれはよたよた歩きで酒場を出る……。

外気がおれの両頬を連続で優しくビンタする……。すっかり憔悴したおれは、あのでぶの背中を目指してよたよた歩きをする……。いわゆる、這う這うの体というやつだ……。すると物音に気が付いたでぶが寂しそな目でおれのことを観てくる……。おれは知らん顔に努めながら街の道に出る……。

三十分ほど歩いた後、よく見た背中を街の中で視る……。おれは回復しきっていない足でなんとかその背中に近づき、声を発する。
「あっ、あんた……」もつれる足で近づき、まだおれの存在に気づいていない背中と肩に両手をそれぞれ乗せる。男は飛び上がる勢いで振り返る。
「ああ! あんたか!」

刑事の男は楽しそうな、ハムスターの顔面のような笑みでおれを認識し、おれの過去を吟味する。彼には刑事らしいそういう類の能力があった。
「やあ! 話をしないか?」
「話? あんたに語ることがあるとは思えないな。あんたは路地裏側の人間だろ?」
「ああ……」おれは落下していく自分の身体に耐えられなかった。四つん這いのままで道の隅に転がった。「あんたは刑事畑だもんな……」

しかし、奇跡というやつなのか、それとも刑事が本物のゲイなのか、彼は道端でしゃがみ込んだおれの隣に同様の体勢で落下してきた。そしておれのくたびれた顔は視ずに、夕暮れの色が溶け始めている空を眺めながら語り出した。「新人としての気概が抜けていないある日、私は刑事としての宿命のような種を飲み込んだんだ」
「それは被害者気取りの男?」
「……いいや。私が担当したのは真っ当な殺人だ」
「この世に真っ当な殺人なんてあるものか!」おれは空に向けて右手を伸ばしながら、酔っ払いのように叫んだ。
「あるんだよ、それが。私が担当した事件は女子高生同士の殺し合いだった。片方は未成年飲酒をした茶髪の子で、もう片方は黒髪を長くしたおとなしい子だった。二人は放課後にカッターナイフとハサミを振り回して遊んでいたところ、どうしてか本気になって殺し合いを始めたんだ。なあ、あんたならこの二人がどうして本気になったのか、わかるんじゃないか?」
「……二人は生粋のレズで、片方が片方の恋人を奪った」
「はは、あんたはその口かい?」
「おれは創作においてレズの寝取りが一番抜けると思ってる」
「気が合うな。まあ、話を戻すとして、二人の間には金銭のやり取りがあったんだ。いわゆる友達料というやつで、一か月千円らしい」
「千円! 最近の友情はサブスクリプションなのか?」
「どうだろうな」
「それで、片方は片方に払うべき金額を払い忘れたってことか」
「ああ、六か月ほどな」
「六か月!」おれはその勢いのまま立ち上がることができた。ぐわんと揺れる視界の中で夕焼けが近づいたような感覚があった。「半年も、よく許せたモンだな」
「大らかだったんだろう」
「でも堪忍袋の緒は切れた。だからカッターナイフで殺してしまったんだ」
「そうだ。……不幸な事件だよ。それから事件解決の私は仮眠室にたどり着くまでに、トラックに二回轢かれ、サンタクロースに四回麻薬パーティに誘われ、山羊に六回舐められた」
「あんたも苦労人だな。おれは山羊に舐められた経験がないけど、どんな感覚なんだ?」
「自分で演じてみるといいさ……」

それから刑事の奴は立ち上がり、おれの両肩を少しだけ睨んでから春の風のように消えていった。本来の暴風のような見えない足取りでおれの前から溶けるように消え、数秒後には数メートル先の交差点を渡っていた。

おれは彼の気配や空気感が完全に消えるのを待ってから時計を視た。腕に貼り付けておいた新作の頑丈なやつの針を視ると、店から出てすでに一時間が経過していた。

しかし驚いたのは自分が知らないうちに一時間を過ごしていたという事実ではなく、時計の透明な板に映っている自分の顔だった。

真っ当な山羊が、そこには居た……。

 

一時間経ったとしても、店の内部の雰囲気は大して変わっていなかった。マスターは無感情でグラス捌きを客に見せていた。彼は巷ではグラス・マスターと呼ばれているが、おれたちの界隈ではコカイン・ウーマンと呼ばれている。どっちが本名かなんてわからないが、知らなくていい。

右端の男は二本目のボトルを開けている最中だったし、その隣の男と金髪は仲良く一つのグラスを乳繰り合っていた。片方がちびりと飲んだグラスをダンと置きするとそれを合図にもう片方がグラスを持ち上げてちびりとやる。これの繰り返しの遊びのような呑み方は、この街の同性愛者の間で流行していることをおれは知っていた。

おれは入店早々にさっきの席に、一時間前と同様に赤い斑点が浮いている席に座り、ウイスキーと内心でロックを注文した。マスターはグラスの芸を中断して酒を作り始めた。そのせいでグラス捌きを観ていた客どもからブーイングがあった。しかしおれは隣の男が何食わぬ顔でテキーラを呑んでいるのを観察しながら無言で待った。

三杯目のウイスキーはやはりロックだった。おれは一、二杯目と同様に一気に火炎を飲み下すと、男がよれよれの札束のような声で話しかけてくるのを待った。
「しっかり一時間、運動してきたらしいね。良い子だ」

そしておれが置いたグラスのすぐ横に白い包みのようなものが置かれる。それは一件すると本当に包みのように見えるが、実際の所は手のひらサイズの透明なポリ袋に粉を充満させたブツだった。おれはこんもりとしたそれを素手で掴み、中の粉どもの調子を確かめてからポケットにそっとしまった。右目だけでマスターをちらりとすると、彼は新技を金髪どもに見せつけていて、こちらのことなど気にしていなかった。
「今日は素早い夜になるな……」

おれは誰に注文するわけでもなく、ただ説いた。

2022年10月3日公開

© 2022 巣居けけ

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