夜霧

澁澤青蓮

小説

1,068文字

深い霧の夜。誰かが私の後をつけて来る――。

瓦斯燈ガスとうが白く煙って光が滲んでいた。弱々しい光を放つ瓦斯燈は益々頼りなく、侘しげに深夜に佇立していた。視野をとざす深い霧は冷たく頬を撫で、外套を濡らす。野良猫一匹見かけない夜も珍しい。猫達もこの霧を厭うて何処で蹲って眠っているのだろう。霧の夜は酷く静かだった。私は夜霧の静寂の中を独り歩んだ。土瀝青アスファルトに硬質な足音が響く。と、規則的な音に別の足音が混じって聞こえた。歩を止めて辺りに視線を配る。漂う乳白色を掻き分けるようにして注意深く気配を窺うが、人影はなかった。空耳であったのだろうかと歩き出すとまた自分以外の足音がする。立ち止まって背後を振り返る。誰もいない。今来た道を戻って曲がり角の奥を覗き込む。立ち込める霧に遮られて見通しが利かない。何だか妙な気分になりながら再び道を引き返した。暫く歩いているとまた誰かの足音がする。足を止めると正体不明の足音も止む。歩き出すと足音が重なる。誰かに後をつけられている――気味が悪い。私は走り出したい気持ちを抑え、足音に用心深く耳を欹てながら振り返る機会を計った。二メートル、三米、四米、五米。勢い良く振り返った。すると霧の中で何か黒いものがひらりと翻った。待て――私は後を追った。黒いものは直ぐに白濁の奥に紛れて見えなくなってしまう。だけれども土瀝青を蹴る足音は耳に届いていた。音を辿って歩く。途中で歩き疲れて少し歩調を緩めて立ち止まると、足音がふっつり途切れた。相手の足音も聞こえない。遠くに去って行ったのだろうか。周囲を見渡す。相変わらず霧が濃い。溜め息を吐いて、これ以上は詮ないことだと踵を返して歩き出す。深い霧は火照った頬を撫でて熱を冷ましてゆく。瓦斯燈が白く煙って光が滲むその下を通り過ぎる。土瀝青に硬質な足音が響く。と、規則的な音に別の足音が混じって聞こえた。またか――歩を止めて辺りに視線を配る。漂う乳白色を掻き分けるようにして注意深く気配を窺うが、人影はなかった。私はぞっとした。足音から逃れるように私は歩調を早め、段々と小走りになる。終いには殆ど走っていた。すると乳白色の中で何か黒いものがひらりと翻った。待て――私は夜霧の中を全速力で駆けた。霧の中へと手を伸ばすと、指先に触れるものがある。奴だ。奴の服だ。私は思い切り滑らかなそれをぐっと掴んだ。その途端に、私の外套の裾が強く引っ張られるのを感じた。
嗚呼、これは。
これは。
――私じゃないか。
愕然と握った拳を離して、私はその場に立ち尽くした。
夜霧の奥を見詰める。
ちらりと誘惑するように黒い影が動いた。
足音を高くして、私が逃げてゆく。
(了)

2022年5月30日公開

© 2022 澁澤青蓮

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