老木が静かに僕に話しかけた。
「なあ」その声はしわがれていたが、不思議と聞きやすかった。
「儂は老いた。昔のように枝を伸ばし、陽の光を気持ちよく浴びられなくなったし、若いときの仲間は子供を残して皆朽ちていった」彼は淡々と喋った。どこか寂しげな声色だった。
「しかし死ぬのはまだ早い。儂はとりわけ長生きした。そろそろ死期がずかずかと高踏してやって来てもおかしくない頃だ。だが恐らくお前さんの一生分の時間が経っても儂はまだ生きているだろう。少しずつ体を弱らせ、心が乾いていっても、振り子が完全に静止するのにじれったく思える時間を要するように、死に果てるまではじっと待たなければならない。老いたからといって完全に朽ち果て、土にかえるのは気が遠くなるほど向うの話なのだ……」
「そしたら貴方はどうするつもりです?この永い時をどのように過ごすつもりなんです?」僕は気になって彼に尋ねた。
彼は少しためらいの間を置いたあと、
「難しい話だ。何もせずに死んでいくのも良かろう。それも一つの案だ。しかし考え続けて死ぬのは良くない。生命は必ず答えを見出し、幸せに消えなければならない。若いうちは苦悩が高尚なものに見え、つい無駄な哲学をしてしまう」
「どうして哲学を否定するのですか?」
「お前さんは誤解しておる。何も哲学という行為を無下に考えているわけではない。ただ哲学によって抱えていた難題を消化しなければ、それは立派な行為とはいえないだけだ。悩みは死の門出に際して無用となり、後悔という名の荷物となるのだ」老木の少ない枝葉に風が吹いた。緑葉が僅かばかり落ち、地面に横たわった。
「あの葉を見よ。彼はひっそりと地面に落ちていった。そして急速に死んでいくだろう。だが彼はそれでよいのだ。朽ちた葉はすぐに土に溶け、誰かの命を支える。心が純粋であれば次に生きるものの魂はまた美しいだろう。しかし悩みはそれを妨げうる。悩みは嫉妬、憎悪、強欲といった負の感情を生じさせ、そのものの心を縛り付ける」
「それならば、貴方は、私たちは死を、それが単なる現象として捉え、それに関する懊悩を退ければよいと言いたいのですか?」
「そういうことだな」
「でも……やはり死は怖いです。怖くて、怖くてたまらない。僕は確かに貴方より若いでしょう。だから死ぬ寸前の年老いた僕はとても想像できない。そんなこと経験したことがないからだ。でもやはり死は恐ろしい。僕の本能がそう言っているんです。だからそんなふうに考えるなんて、絵空事のようにしか思えないんです」
「ふむ……」老木は少し逡巡したが、やがて言葉を続けた。
「正直若い頃はお前さんのようなことをよく想像したよ。儂を殺そうとする目の見えない概念がどんな形をしているか、考える度に怯えていた。だが生きていく内にある考えが浮かんだ。死自体は単純なものだ。死なんて、突然来るのだったら全く怖くなかろう。死は長い空想によって恐怖を帯びるのだ。考えてみれば大したことでない。よく儂らはある対象に対して、それが本来有する性質とは別に、抱いた印象を情報として記憶する。印象は生きる上で重要だろう。だが一方で印象は無駄な感情を起因させる。それが例えば、死に対する恐怖であったりする」
「……」
「その恐怖はしかるに、意味を有するものであるかね?……勿論そこから派生した文化的価値はあるだろう。シュヴァーベの絵は人々がイメージする死の純粋にして冷徹な性質を見事に表現している。だが本質としての死はどうか?結論を申すと、死は一つの現象に過ぎないのだよ。未だに知らないが、依然として身の回りに起き続けている凡庸な現象。それに対して厳かな印象を持っても意味がない。実際に起きなければ知る由もない」
「……やけに達観していますね……到底できないことです。やはり死は最後にして最大の恐怖を帯びている。それがたとえ僕の妄想であったとしても、決して拒むことなぞ出来ないでしょう」
「ふふふ……」彼は僕の考えを見透かしたように笑った。「今からそう考えを改める必要はない。少しずつ、少しずつ変えていけばいいのだよ」
「……どうすれば?」
「そうだな……例えばお前さんが厭な事に直面した、としよう。その時お前さんはこう思うはずだ。『ああ厭だ、こんなことは早く終わってほしい』などと。それはまるでぬかるんだ道を進むような心持なのかもしれない。馬車で通れば、馬の蹄は泥で躓き、後輪を持っていかれるかもしれないからだ。そのような状況で乗り手はその泥濘と格闘しながらも、少しずつ進んでいき、長い時間が経ってやっとその険しい道程を克服する。汗は流れ、拍動が速くなったまま、その終着点にて胸を撫でおろす。しかしふと後ろを振り返ると、その轍が意外と浅いものであることに気付くだろう。更に時間が過ぎれば、その凹みに土が被さっていき、遂には目に見えなくなる。自身が成したことなど、所詮泥についた浅い轍に過ぎない。生涯とはそのようなものの繰り返しに過ぎず、自分にとって大事件だと思えることでも、それは些細なこととして収まるのだ」
彼が風で揺らめくと、葉が日光に触り、燦爛と輝いた。その青白い色の輝きが褪せていく感覚を彷彿とさせた。僕は青春の動揺を思い出した。胸が圧えつけられ、俄かに目元が熱くなった。
僕は俯いた。郷愁に染まった重たい空気が僕の背中にのしかかり、とても辛くなったからだ。彼の枝の黝い影が草花に寝そべっていた。その後ろに僕の影が見え、僅かに黒くなっていくのを感じ取った。
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