それからというものたびたび彼は私のもとを訪れた。
私は一人暮らしで、安いワンルームのアパートに住み、アルバイトをし、なんとか糊口を凌いでいると云う状態だった。
彼と出会ったのは、私が落ち込んでいた時だった。私は極度の鬱の状態になって、ベッドから起き上がれなくなっていた。バイトも2週間の間、休んでいた。私は自分がこのままだと死んでしまうことを理解していた。仕事も無くなるかもしれなかった。何らかの理由(餓死など)の理由で死んでも誰も気づかなそうだった。私の周りにはそうしたことを心配してくれる知人も親戚も親もいなかった。
私はベッドに横たわったままスマートフォンを取り出し、最寄りの心療内科を調べた。夜も眠れていなかった。不眠症の患者特有のギョロっとした目付きに自分かなっていることがわかった。
私は調べた心療内科まで歩いて30分であることを確かめ、スマートフォンの地図を頼りに病院へ向かうことにした。起き上がるのは至難の業だったが、このままでは死んでしまうと云う危機感で、なんとかベッドから這い出た。
私は洗面所へ行って顔を洗った。鏡にはボサボサ頭の24とは思えないほど窶れた女の顔が写っていた。髪だけでも真っ直ぐにしていこうと、櫛でとかし、ヘアーアイロンをかけた。もう冬だから大丈夫だろうと高を括っていた体臭は、自分とは思えないほど酷いものになっていた。シャワーを浴びるのが何よりも苦痛だったからだ。
私はパーカーとキャミソールにウォームタイツとショートパンツと云う全身灰色の格好で外に出た。外に出たその瞬間に自分を呪った。暖房がかかってる部屋とは全く違い、外はもう冬の寒さになっていた。パーカーはともかくとして、タイツを履いてるにしてもショートパンツで外に出るのは、完全に間違いだったと言わざるを得なかった。私は30分かかる道のりを呪わしく思った。私には自転車を買うお金すらなかったから、バスのない田舎道では、歩いていくしかなかった。
寒かったが、それでも久々に外の空気を吸うと2週間横たわっていた身体が解れるような心地がした。私は歩きながら、深呼吸を何度もした。私は私の中のものを入れ替えなければならないと云う危機感を抱いていたから、念入りに深呼吸をした。しかしそれても私の頭の奥にあるしこりは残り続けた。
私はスマートフォンを見ながら歩いていたから、ほぼ下を見て歩いているに等しかった。前から歩いてくる人物に20mほど先に来るまで気づかなかった。気づくとすぐ先に男はいた。田園風景の真っ直ぐな道を歩いてきたから、スマートフォンを見る必要も無かったのだが、外の世界を見るのが怖かった。だから、スマートフォンを見て歩いていた。男は黒のスーツを着て、濃紺のネクタイをつけていた。髪は整髪料で綺麗に撫でつけられオールバックになっていた。歳は私と同じくらいで、なんの仕事をしているのかはその風貌からは検討もつかなかった。
男のスーツ姿は周りの田園風景と調和していなかった。だから20mも近くになるとその異物感を私の視界の上部が捉えた。
それに男は私の正面にいて、私をジロジロと眺めまわしていた。私はそれに気づくと身を硬くした。そして、スマートフォンから目を上げ、立ち止まった。男は切れ長の目をしていた。私と目が合うと、ニヤリと唇を捲らせた。私はますます身を硬くしたが、罠にかけられた小鹿のように、ただ真っ直ぐの田園のなかの道では逃げ場はなく、私はその場に立ちすくんだ。男はスラリと蛇のように私の正面にきた。私は暗鬱な気持ちになった。平日の真昼間に、こんな所を歩いている男にまともなものなどあるまいし、そもそも人と会うのが嫌だった。そんな硬く閉じていた私の心に男はするりと──蛇のように──滑り込んだ。
「これ。」
男は透明な袋に入った、白い粉を差し出した。
私は何も反応のしようがなかった。ただ差し出されたその袋を受け取るしかなかった。
「もったいないけど」男は言った、
「炙ればいいから。」
私に選択肢はなかった。どんな精神薬よりもその白い粉が天使の羽から零れる鱗粉と思えた。
私は来た道を引き返し、男は後ろに着いてきた。男は蛇のように静かに、しかし確かに私の後ろをつけてきた。私は自分の部屋──アパートの2階の奥の部屋──につくと、スプーンでその白い粉を掬い、下からライターで火で炙り、出てきた白い煙を肺いっぱいに吸い込んだ。
──その瞬間私は快楽の臨界点を突破した。
「いい?」男が私に尋ねた。
「……いい。」私は久々に声を出した気がした。
「これは、なに?」久々に出した私の声はかすれていた。
「名前なんつーの?」男が私に聞いた。
「ユキ。」
「ユキちゃん、もっと吸い込んで」
私は大きく吸い込んだ。目の奥がチカチカするほどの快楽か私を襲った。
「あぁ気持ちいい……あなたの……なまえは……?」
「圭だよ、土二つ書くやつ。で圭。」
圭の手は蛇のようにするりと伸びてきて私の耳を触った。私の神経は過敏になっていた。
「きゃっ」
「ユキちゃん」
男の手が私の胸にふれた。私は深く煙を吸い込むとスプーンを地面に起き、なだれ込むように、吸い寄せられるように男の胸にもたれかかった。そして見上げると男の切れ長の目が私を見下していた。
「それはタダじゃないよ」
「……わかってる、けど金はない」
男は目を逸らさず「知ってる」とだけ答えた。
私は──自分の手がまるで操作されてるかのように──服を脱いだ。
「ユキちゃん、それでいい」
……
男は帰った。私は快楽の中に打ち震えていた。四度もオーガズムに達したのは初めてだった。男は二回中で射精した。
それからというものたびたび彼は私のもとを訪れた。私はそれがないと生きて行けなくなっていた。バイトにも復帰した。休憩時間にトイレでたびたび炙って吸った。私は元気だった。「最近ヤケに笑顔が増えたね」と同僚に言われた。私もそんな気がしていた。
男はクスリを渡すと私が炙って吸い込むのを見ると、すぐに服を脱がした。私はシラフのときのセックスなど考えられなくなっていた。
「キメセク」男が耳元で囁いた
「女の子はいいんだってね、俺は売るだけで自分でやらないから知らないけど」
「うん、とっても、いい」
男は無尽蔵の体力を持っているようで、行為が三時間に及ぶこともしばしばだった。私は合間合間にクスリを吸った。男は煙草を吸った。銘柄はラッキーストライクだった。手は指先まで神経が行き届いているかのように、しなやかに煙草を操った。男は遊んでいるようだった。
その様子を見て、なぜか私は煙草に自分を重ねた。そう、私は男の指先で弄ばれているに過ぎなかったのだ。それに気づいたのは、男が来る足が疎らになってきてからのことだった。男には幾人もの女がいるのは分かりきっていた。自分がそのうちの一人に過ぎないことも。それでもいい、とか、わるい、とかそんな価値判断は成立し得なかった。ただ、クスリをやりながら、男と身を重ねたい、それだけの想いだった。
仕事中も、キメながらだったから、その快楽を想像して、ぼんやりしていた。
バイト仲間に「サキちゃん」と云う娘がいた。サキちゃんが、私に言った。
「最近、ユキちゃんがぼんやりしているって噂になってるよ、大丈夫?」
私は虚ろな目で「大丈夫よ」と答えた。
「大丈夫じゃないでしょ、何か悩みごと?」
サキちゃんは真摯に聞いてくれているようだった。一瞬サキちゃんもクスリに誘おうか迷ったが、パクられることやクスリの残量などを計りにかけて、言うのをやめた。
男が家に来るのが前ほど頻繁でなくなってきた。
「なんで最近来てくれないの?」
「忙しくてな」
圭は無口なタイプだった。捕まえようとしても、蛇のようにするりと手を抜け出してしまう。
私はクスリをキメると自動的にセックスのことを考えるようになった。そして対応するように下半身は濡れた。
食べ物はほとんどいらなかったから、どんどん痩せていった。もとから痩せ方だったから、ガリガリになった。
サキちゃんはますます心配した。
「ホントにどうしたの?いつもぼんやりしてるし、何か食べ物食べてないみたいだし。」
「大丈夫よ」
「ほんと?家にいっていい?」
クスリの袋の転がっている家の中を思い浮かべて「ダメダメ」と激しく首を振った。
サキちゃんは「なおさら心配だよ、断られてもいくからね。」
「……」
私は家に帰ると、すぐに男との痕跡を消した。袋や精液や、炙ったスプーン……
サキちゃんは早速家へ来た。私はシラフで──即ち相当陰鬱な顔で──彼女を出迎えた。サキちゃんはびっくりした様子で、「えっ、どうしたの?」と言った。私は「なんでもない」と答えた。
「入ってもいい?」とサキちゃんが言った、私は虚ろな目で何にも答えなかった。
「入るよ?」
サキちゃんは半開きのドアを引っ張った。ドアが開いて私は前のめりに倒れそうになった。
サキちゃんは入るなり、「ウッ、何この匂い!」と言った。
片付けはできたが、匂いを消すことはできなかったのだ。
サキちゃんは「なんなのこれ、まさか、」表情を険しくした、
「クスリ?」
私は慌てて「違うわよ」と否定した。
「でもこの匂いは異臭騒ぎになるレベルよ、大麻とかやってるんじゃないの?わたしは心配で言ってるのよ」
大麻よりたぶんもっと酷いものだった。大麻ならまだ良かった、と後で思った、
「これは通報させてもらうわよ」
サキちゃんがスマートフォンに伸ばした手を、必死で掴んだ、
「やめて!やめて!」
「警察に知られたらマズイものでもあるの?なおさら通報させてもらうわ。ここから追い出しても無駄だからね。私は友情から言ってるのよ。兎に角一度ユキちゃん、からだを調べて。」
警察が私の家にきて、私は連行された。そして、拘留所に投げこまれた。
次の日から取り調べが始まった。
「誰からこれを得た?」
「……圭。」
「どんなやつだ?」
「おとこ」
「何回使った?」
「かぞえきれない」
その後も質問は長々と続いたが、次第に禁断症状が出てきた、私は金切り声をあげた、からだの内側に虫か這っているような痒さがあった。
「かゆいかゆいかゆい!」
私は失神した。
気づくと私は病院にいた。手足は拘束されていた。痒さはまだ残っていたが、和らいだ。私の腕には点滴がされていた。
私は天井を見つめた。天井は白かった。眩い太陽のように白く、眩しかった。
私は目を閉じて暗闇のなかへと戻っていった。
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