父と母が離婚してわたしは父へついていった。母は家事洗濯ができるが父はできない。わたしは父が心配でならなかった。父は「こちらには気を遣わないで母について行きなさい」といっていたが、わたしは父の方があんまり口うるさくないから、という理由をつくってついていった。
母がいなくなった日、父はわたしにオムレツをつくった。オムレツは家族みんなが好きな献立だった。父の手料理は初めてだった。過剰に醤油で味付けがしてあるが食べれない味ではなかった。溶き卵の色が変わらないと味が付いている気がしない気持ちはわからなくはなかった。でも母のオムレツのほうが断然おいしい。
それからわたしは一人暮らしのため実家を出た。結局両親のどちらか選ぶことは、必要でなかった気がする。父も母もわたしも別々になれば母を傷つけずにすんだのだ。わたしはたまらなく母に会いたくなった。父は母の居場所をしっているのだろうか、聞いていいのか、連絡をとっているのか不思議だった。「留置所にいる」と父がいって、わたしは反射的に笑った。母はあれから逮捕されていた。食い逃げをして逮捕されたのだ。
わたしは母に面会した。母は特に変わっていなかったがとても申し訳なさそうだった。「あなたに選ばれなかったことが悲しくて途方にくれてお腹が減って街を歩いたわ。その時ちょうどオムレツが名物の洋食屋さんがあって、それを食べたらいろいろな悩み事が消えていくのが分かったの。食べてからお金がないことに気づいたのだけど、なぜか私はお金を払わなくてもいいのだと思っちゃったの、払わなくていいわけないのにね。逮捕されたあと留置所の食事でオムレツが出てきたときは笑っちゃったわ。わたしは人生の意味や生きる目的、色々なことを考えた。でもオムレツを口にしたとたんたちまちすべてのことが消えていくの。だから私にとってはオムレツは哲学のようなものかな。」母はオムレツに関する思い出をエッセイのような語り口でわたしに話してくれた。わたしはなにより母が元気そうで安心した。
わたしは父の元へいき「今日はオムレツにしよう」とはりきった。わたしが母に会ったことに気づいた父は「悪い冗談はやめてくれ」と笑った。父も母もなぜ恥ずかしそうにするのだろう、母は間違いを犯してしまったが、生きている。もしあの時オムレツを食べなかったら、もっとひどい経験をしていたのかもしれない、母はおいしいオムレツを食い逃げして、自殺することをやめたのだ。小さいリスクで大きいリスクを回避したんだ、だからつらいことを乗り切った母は偉いと思う。
「オムレツって偉いと思う、母を大きな破滅から救ったんだから」
「わかった、もういいからオムレツのことは忘れよう」
「じゃあお父さんは焼きそばやラーメンののこと忘れることができるの?」
父は首を横に振った。わたしたち家族はオムレツが大好きだからだ。そしてその夜わたしたちはオムレツを食べた。オムレツを口にすると、たちまち些細な悩みや悲しみが消えていく。だからわたしは決してオムレツの上にケチャップでメッセージを書いたりしない。
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