おれはそうして木製の冷たい椅子を蹴とばした。まるでカクテルを脳みそに注射した時のような不幸の予兆と、錠剤が苦手だった幼少期の温かさが右ひじから上がって来る。まるで遊び場に来た時のような大らかな言動が口から飛び出てくる。それはおれの言葉ではないが、おれの根底の言葉ではある。おれはそれが、ムカデか何かが皮膚と肉の間に入り込んで、そのまま這いずり回っていると考えた。だから机の上の友人の注射器をとって、針が装填されていることを確認した後に腕に突き刺した。
「針を確認していた時は、まだ冷静だったんだ。だってその時のおれは、自分が氷や冷蔵庫そのものだと思っていたから。おれの思い込みが強烈なのは、アンタの方が知っているだろう?」
ホッチキスを押し込んだ時のような音が鳴ったと思ったら、おれは螺旋階段を上がり切った時と同等の息切れを起こしていた。肋骨が下から順に破裂して、その粉がコカインに成り代わってゆくのを感じた。そうしてベッドの上に居た。傍らにたたずむ看護師の顔面を殴りつけると、すぐに上から警報の高い音が鳴って来る……。おれは毛布を蹴り上げてから驚愕をする……。まるで枯れ木のように萎れている両足を見て涙を落とす。雫に触れた白い毛布が紺色に変化していくのを見て、雫がコカインであることに気が付く。おれの肋骨はコカイン……。
どちらが本当なのか、あるいはどちらが郵便受けなのか。それがわからなくなっていく。舌の裏側からコカインの味が上がってきた。おれはどこにでも立っていると思っていた。
「まるでアンタは成長していない」
牧師からのアドバイスを反響させる。牧場の木製柵の、どちらが外に居るのかがわからない。おれは街の隅にあるベンチに尻を擦り付ける運動を繰り返す。近くのホームレスがこちらを見ている。眼球の中に同情の色があったので、運動を注視してホームレスに近づく。
「おうアンタ、どうしてこっちを見てるんだ?」
「ああかわいそうに。おそらくリストラに遭ったんだろう。だから気が狂ってしまったんだろう」
そこで自分の衣服が黒いスーツになってることに気が付く。
おれはすぐにホームレスのしわくちゃな顎にアッパー・カットを繰り出す。ゴングの音が三回だけ鳴って、おれは車道に吹っ飛んでいったホームレスを見下ろす。すぐに巨大トラックがその顔面を鮮血に変換する。おれは鉄の臭いに鼻を閉じてから立ち去る……。
「どうして柵を飛び越えてしまうの?」それはアンタが養子だからじゃないのか。
おれは近くのローファー売り場に潜入している。右耳に装着したインカムから女指揮官の声と、高速タイピングの音が聞こえてくる。
「おい。例のロクデナシ捜査官はどこだ?」インカムに唾を飛ばす勢いだった。
「何? それはお前のことではないのか?」女指揮官の声が反響する。まるで露天風呂に居るような声だった。よく耳を凝らすとタイピングの音があったので、おれはほっとしながら店の中に進む。
「やあ、ローファーをお探しで?」
「ああ……まあね。娘が、今度……」
「わかった。何も言わなくていい。きっと美しい女子高生になるんだろう。ちょうどアンタのとこの指揮官みたいにね」店主はへっへっへっへ、と凄んでくる。
「誰なんだ、あんた」
中腰になったおれに店主はそそくさと近づいてくる。ゴキブリのような素早さが小さい店内で発揮された。店主はおれの耳に分厚い唇、よくみると注射痕のある唇を近づけて、「ここはハズレだ。他を当たったほうがいい」とだけ囁く。
それからはすぐに普通の店主になった。ありきたりな文言で作られた商売語りに乗せられて、おれは結局、二足のローファーを買わされた。
靴底の臭いを嗅ぎながら外に出ると、すでに太陽が彩られていた。おれは宇宙船になったつもりで道を走り出す。すれ違いざまにローファーを一つずつ手渡していくと街がにぎわっているような気分になれた。
「ところでおれのご主人様ってやつは、おれの右の頬を舐めとってから、それの柔らかさの比喩を考え始めたんだ」全くの他人というわけでもないんだけどな、と笑いながら、おれは相席の女性ジャーナリストを名乗っているベリンに語り掛ける。黄色い幾何学模様が浮かんでいる丸テーブルに乗った、最新作の赤い炭酸水から泡が噴き出ている。彼女はそれを長い舌で舐めとってから、再度手帳に突き立てていたペンを動かす。おれへの合図。さっさと喋りを続けろ、というおれへの合図。
「まあ、つまり結論がどうなったかって言うとだな。あのご主人は駄目だった。おれが休憩室の隅でコカインをやっているところを見ちまったんだ。どうしようもないよな。ご主人様はインドに住んでいる麻雀戦士なんだから」
女性ジャーナリストは、『中』を引いた時のような顔をする。おれはすぐに頭の中で三つ目の箱を開ける。中から出てくるのは石焼き芋を売っている小さな屋台から出ていた煙で、耳にまで到達するころには、おれは自分が足を付けている地面が天井に溶け込んでいることに気が付いた。
「だからこのカップケーキを踏みつけたのね! このロクデナシ!」
「違うって! どうしてそうやって結論をいそぐんだ!」
すぐに会計を済ませて、例のラフバエスター・カフェーへとスニーカーを進める。コツコツという音がオーケストラに聴こえなくもない……。
「ラフバエスター・カフェーだって? そこは違うよ。まるでカフェだもの」
「でもカフェだろう? カフェーなのかい?」
「いいや……でも印刷室には黄色のトカゲは居なかったよ。だってあそこは便所のようなのものだろう? 言い訳を考える前に、さっさと深夜の徐行運転をやめるべきだな」
おれの中に粉末の音が入り込んでくる……。
神官に属している人間は、全員が保身という行為を嫌う。このラッドマンもその一人であり、彼はどうしても飴細工を口に咥えたまま、印刷業務を続けることに反対していた。「どうして決闘のような体勢を続けなくてはいけないか。それは会社自体がそういう仕組みになっているからだとぼくは思うね。タクシードライバーだろうとタクシー運転だろうと、最後は客の足を担う者が勝つんだ」彼はいつでも理牌をしている。手に馴染む白色の味を中華の鍋に吐き出すと、それだけで彼の神官としての衣服が洗濯機の中でワルツを踊る……。
彼の神官としての仕事はいつでも効率的だった。故に彼は、神官以外にも警察官、心療内科の医院長、市町村を眺めている庭師、裏路地を支配している売人、順風満帆なパイロット、ドラゴンフルーツだけを切っている料理人を兼業していて、その根底には、いつでも動かすことができる自動販売機が備わっていた。「彼の懐とは、母性だ。いつでも雀荘のニオイがするから」
インタビューに対応している女性ジャーナリストが正座をさせられる。カメラマンの男たちがズボンと褌を下ろす……。室内がイカによく似た臭いで満たされる……。
そういえば、カフェってのはカフェインから来ているものだと思っていたよ。おれはその旨を目の前のタクシードライバーに伝えると、彼は自慢の白眉毛を回転させながら今後のカツラについて熟考を開始する。ちょうどその横を議員の一人が通ったところで、おれもさっさとこの黄色い鉄のドアを降りる。喉の下の辺りから、硬貨の形をした臓物が上って来るのがわかる。すぐに後ろのタクシードライバーに礼を告げて、虹色の広場に導かれるのを待つ……。
「今日は晴天だったから」
きっと大丈夫だ……。だって歯茎には枝が刺さっているから。おれは血で満たされた口内を舌で撫でる。
心臓の中に貴金属があるつもりで生きていく。信号機が昼食にのメニューに出てくる。おれはそれを素手でいく……。
"粉に満たされた脳の中。"へのコメント 0件