「そもそも僕は去年の水質汚染の影響で山羊になってしまったんだ」
歩道の角に置かれたの自動販売機の前でへこたれる山羊。彼は去年の工場での出来事を再生する……。
薄い緑色の作業服の全身に、泥を含んだ水飛沫を浴びる。肌色の瞼をゆっくりと開くと、同時に誰かに首根っこを掴まれているような感覚になる。分厚い皮膚のぬるい素手が自分のうなじを圧縮し、そのまま強制的にコンクリート地面に四つん這いにさせられる。毛穴の全てから白い剛毛が噴き出し、二本の角が頭蓋骨を貫く。頭の中では、人間らしい生活が奇妙に思えてくる代わりに、草や紙をむさぼる人生に憧れを抱いてゆく……。
『山羊という一点を除けば、彼はしっかりとした山羊だ。』
彼を診察した精神科医どもは、彼専用の診断書をその一行で締めくくる。受付で診断書を見下ろした彼は、そのまま慣れない四足歩行で五分の時間を掛けて病院から出ていく。
車道を挟んだ反対側の歩道の位置から見ると、白い毛布が雑に落とされているように見えてしまう今の彼は、自分の舌の上に吐瀉物の味を忍ばせている。粘土状の鼠色の吐瀉物を舌に練り込んだので、バーで良い雰囲気になった山羊と接吻をしても、一秒以下の時間で終了させられてしまう。
「もう酒は呑まない。女を抱く夢も諦めよう……」
山羊はすでに立ち上がる気力を吸われてしまっている。
「我々は山羊について知らな過ぎた。そうは思わんかね?」
「最近はホームレス同然の生活をしている山羊も多いんでしょう? 嫌ね、ホント」
自動販売機の横で転がる空き缶に老人ホームを見出す山羊。彼は自分の顔面の右半分が瘡蓋で埋め尽くされていることに気づいていない。彼は、五時間前に腰を下ろしていたバーで、店主に豪快な一撃をもらったことをすっかり忘れている。伝統的なヤジロベエのように左右に揺れながら街の中を歩いて、結果この自動販売機の前にたどり着いたことを覚えていない。
山羊は孤児の時代を想いながら、右手でスイッチを入力するふりをする。最大限の体力で動かした左手でワイシャツのポケットをまさぐる。そして自分の所持金が全て五十円玉に変換されていることに気が付く。耳にレジの引き出しが飛び出てくる音と、目尻も口角も吊り上がっている店主の顔が蘇る……。
「あいつが山羊以外の生き物になってくれればいいのに!」
山羊山羊と鳴く余裕すらも無い。自動販売機と地面との少しの隙間に視線を流し、産業廃棄物に婚姻届けが押し付けられればいいのに、と幻想を描く。少ない脳みそは海水のようになる。彼は青年時代に使っていた薬物を摂取するための注射針を思い出し、懐かしみながら奥歯の周りの歯茎を舐める。
「やはり……あの頃の傷だ」
薬物常用者だった山羊は、注射針で歯茎に穴を開けて、そこに液状の薬物を流し込む摂取方法を学生時代に採用していた。この方法は一秒にも満たない時間の中で薬物が体に染み込む。たとえ授業中であろうと気づかれずにやることができるので、学生どもは全員この方法で脳を拡張する。
気づかれないうちにすっかり回った生徒が数学の時間に教師に指名されて黒板の前にでる……。蛸のような足使いの生徒は、デタラメな数式と回答を黄色のチョークで刻む。
「おい! これはどういうことだ?」
「ええ? だってこれが答えでしょう……?」
生徒はチョークを投げ出して、辺りに顔を回す。視線を教壇や生徒の机の上に移動させながら、自分の指がチョークの粉で溢れていることに気が付く。
「すー、すー、すー」
生徒は指先に鼻を擦り付けながら深呼吸をする。眼球の白色に赤い管が走る。すると別の生徒が立ち上がり、ワイシャツの胸ポケットから注射器を取り出して歯茎に刺す。心臓が急速に激しくなったことにたじろぐも、両肩を揺らして整わない呼吸を無理やり静めようと試みる。それを見ていた他の全生徒が一気に立ち上がる。手には硝子の注射器……。
「こいつっ! 授業を壊しやがった!」
教師はスーツの内ポケットから粉の入ったパケを取り出す……。
山羊はあの頃の売人との上下関係に懐かしさを感じながら、ついに新品雑巾山羊へと変わってゆく……。
「あの山羊はもうだめだ」大衆が群れを成す。そしてへこたれ雑巾山羊の黒い瞳をじっと見ている。「あまりにも!」
「うん。やはりあの山羊はだめだ」
老人の声が皮切りになって、数人の野次馬たちは去ってゆく。それでも雑巾山羊を中心にできている人だかりドーナツは消滅しなかった。残っている物好きたちは、酔いのまわった道化師のような顔で雑巾山羊に近づいて、そこら辺の棒で突いてみたり、靴底の隠しポケットから取り出した自慢の薬物が入った小さいパケを見せつける。
「ほら! 天然モノのコカインだ! コカイン星人からの贈り物だ!」
雑巾山羊の黒い眼球に黄色い瞳が宿る。山羊はパケの中のコカインを品定めしている。
「へへへ! これは俺のモンだ」パケをプルプルとしている指でこじ開けた少年は、そのまま蛸の足のようなゴツゴツとした舌をパケの中に突っ込む。唾液を駆使してコカインを舌に張り付けると、パケを捨てて舌を山羊に突き出す。
「ほはへには、やんはいよ!」
少年はコカインが付いた白い舌を口に収納しようとする。しかし雑巾山羊は、その一瞬を見逃さなかった。カメレオンよりも早い山羊の舌捌きが少年の舌に迫り、張り付いているコカインだけを舐め取った。少年は舌山羊の舌の動きによる衝撃で大衆の居る位置にまで飛ばされ、腰を下ろして絵の具セットをいじっていたはげの画家と衝突してしまう。
「めえ……」
少年の頭が黒色から青色になってゆく様を観察している雑巾山羊は、やがて自分が青色の馬のメリーゴーランドに乗っていると思い込む……。
山羊は、その四肢をくたくたに折り曲げて地面に腹をつき、味が出てこなくなったガムのような舌をだらしなく口から出している。まるで薬物を決め込んでいる常用者だ。
「めえええ……ええ」左手から空き缶が転がる。すぐ横の斜面に音を立てて、たのしそうに転がっていく。
「めえ……」
大衆から黒服男が抜けて出てくる。ズボンにジャケット、ハットまでもが黒色の彼は、だらしない山羊に早足で向かう。
「おい、起きろ! 常識的な山羊は『めえ』なんて言わないんだよ!」黒い鞭で山羊のケツをたたく。スパンキングらしい音にドーナツ型にばらけている大衆は頷いて納得を示す。
「ああこれは確かにスパンキングだな!」
「そうだそうだ!」
「あまりにも!」
男の鞭が空を切断していくたびに、山羊の灰色の体毛が細かく抜けて、埃のように舞って消える。大衆の中の画家は、その体毛たちの儚さに心臓を貫かれた。分厚い皮膚の素手で白いキャンバスと筆を取り出す。
はげの画家は筆先に白く濁った液体を落とす。
「へへっ! こりゃ傑作だ!」
「ん? なあオッサン、それはどんな絵の具なんだ?」
「おお! これは実はコカインでな。塩水にコカインを溶かしたんだ」あんたもやるかい? としぼんでいる肌色の唇で笑みを作る。
「へえ、コカインね」
この街に生きる画家たちは、自分の極彩色的な才覚を無理やり引き延ばした薬物を絶対に忘れないために、小さい売人を始めることがまれにある。絵画で稼いだ資金を薬物調達に回し、何も知らない若者をターゲットに、まるで薬物上級者かのような振る舞いで粉を渡す。そんな彼らの眼球には光など当然あるわけもなく、ついには家族の名前すらも忘れてしまう。
「もしも家族の名前を忘れているにも関わらず、自分が最初に使った薬と常に売っている薬の名称を簡単に唱えれる売人が居たら、それはほぼ確実に画家をやっている」ベテランの黒人取締官はインタビューで常にそう答える。
「なるほど……」
長方形のカメラを持った記者が盆踊りのような喜び方をして、灰色のロビーを一周する……。
「ええ、続いての質問は?」取締官がようやく戻ってきた記者に促す。
「ああ、もしも画家が薬物上級者のフリをした売人ではなく、本当の薬物上級者だった場合は?」
「それは描いている作品にでてくるでしょう。そういう画家の作品は、そうではない画家のとは大きく異なるから」
「わかるものなんですか?」記者はようやく長方形のカメラをロビーの床に下ろした。金属同士が絡み合う音に飽きていた取締官はホッとする。
「わかりますよ。ただし、こういう仕事を何年もしていないとわからない」
「じゃあ、おれが描いた作品は? ここにあるんですけどね」
記者は黒いズボンに張り付けている小さなポーチから折りたたんだ紙を取り出す。取締官の前で広げると、すぐに手渡した。「どうです? 山羊を描いたんですけど」
「この山羊は……くしゃっとなっているんですね?」
「そうです。おれが見た山羊は、そんなふうにだらっとしていましたから」
「なるほど……」
トレンチコートを着ている取締官は呼吸を整えることができた。
「へへっ! そりゃ傑作だ!」トレンチコートに気を付けながらしゃがんで、画家の頭部を掴む。眼球の底を覗く。数秒して、自分の鼻をつまんで距離を取る。「ああ、コイツは駄目だ……」
「なにか、不手際でも?」
「ちょっと署まで来てもらおうか」
画家は輪郭の安定しない笑顔のまま、ペットのように取締官に連れられてゆく。
「こりゃまいったね! まさかアンタが麻薬取締官だったなんて!」
四つの足取りが一心不乱になっていく。タロットはそんな後ろ姿を棒立ちで見ている。彼はいつでも山羊の後ろ姿を見てきた。そして二人のその後を、瞼の裏の血管を見ながら静かに妄想する……。ピンク色の血管が線を作って景色になってゆく、灰色の取調室だけが見える……。
「これが山羊だって言うの?」パンの路上販売娘の叫び。タロットはすぐに瞼を上げる。
路上販売娘は、黒服男に代わってへこたれる雑巾山羊の尻に鞭を打つ。タロットは彼女の頭上を滑る飛行機が、尾ひれとしてつけている花火に素早く目を向ける。桃色の閃光が気になってしょうがない。タロットはそれに手を伸ばす。すぐに熱が皮膚を焼き、汽車よりも素早く脳に到着した。
黒服男の目は緑色の光を放った。「やつの眼球にはライトが内蔵されている!」
路上販売娘は自分の皮膚をひっかきながら、くたびれた雑巾山羊の横で直立している黒服男を指さす。男は豪速球を顔面で受け止めた時のような顔を続ける。
「いいや……僕はそんなことはしないよ……」両手を前に出し、関わりたくないことだけを主張する。
タロットはその様子を横目に、さっさと事務局に急ぐ。後方ではあの雑巾山羊の最期の悲鳴だけが聞こえてくる。
ちょっとした郵便受けに置いてある、空き缶ココアのような色をした山羊のスタイル。彼は近所の山羊たちに、「これは新聞紙といって、通気性に長けたチョーク」とタッパー詰めされたアルビノの秋刀魚を渡す。タロットはこのスタイルでションベンを垂らしている少年の頭を撫でつける。そして花の髪飾りを持ちだすと、「これの方が似合う」と郵便係の真似をしだす。
「だって、なりきり赤ポストが人間のように稼働して、あろうことか女装を進めてくるなんて、そりゃびっくりするだろう?」
そりゃそうだ。タロットはすぐに頷いてみせた。
"ゴート的路上販売の、灰色を含んだ構造。"へのコメント 0件