虎狩

阿蘇武能

小説

3,516文字

虎は死して皮を留む

うだるような夏の、真夜中のことである。森の中ではときおり鳥のはばたく音がどこからともなく響き、空気は熱されてゆらめいている。昼間動いていた獣たちはその身を寝床に横たえ、明日の力をたくわえようとしていた。あたりの空気はじっとりとした水分を含んでおり、動かなくとも重苦しい熱帯の暑さを感じさせる。辺りは静かだったが、暑さ自身が熱を持って夜を振動させていた。

そんな森の中を一匹の獣が横切っていった。その獣が踏み、体を当てて通る草や木の音は一様にその獣の体躯の大きいこととしなやかなことを示していた。その眼は闇夜にらんらんと光っている。静かで、それでいながら燃えるような意思を感じさせる瞳である。獣は確かな足取りで一歩一歩と進んでいく。時おり、この獣の足どりを察した鳥があわてて飛び立つ音がした。獣はそんなことには一向かまわず進む。口から漏れる吐息は獣の野生を示していた。獣の通った道の草はなぎ倒され、その行程をはっきり示した。そして、あるところで獣は歩みを止めた。

そこは清冽な水がこんこんと湧き出る泉のようで、その獣はそこへ水を呑みに来たのであった。しばらく泉のほとりに佇んでくんくんと鼻面を水面に近付けたあと、最初は控えめに、やがて大胆に獣は水を呑みはじめた。ぴちゃぴちゃと水を舐める音と泉のさざなみの音があたりに響く。全く獣は無心になって水を味わっているようだった。

水呑みの後も、しばらくの間獣はそこに佇んでいた。喉の渇きを癒した充足を心ゆくまで感じるように、じっとして動かなかった。月光の青白い光は獣と泉を照らし、一種神秘的な様相がそこにはあらわれていた。

そんな獣を、遠くの茂みからじっと見つめているひとつの影があった。それはいつからそこにいたものだろうか。おそらく、獣が移動をしている最中からこっそり足跡をつけてきたものであろう。そして獣が水呑みをしている間じゅう、かなりの距離を取ったところから息を殺して一部始終を見ていたに違いなかった。

影は相手に自分の存在を悟られないように細心の注意を払いながらも、その獣の持つ美しさに心を奪われていた。そのしなやかな肢体!堂々とした偉容には孤独が鍛え上げた魂が透けて見えるようであった。そして影の心を何よりも引き付けたのは、獣の毛並みだった。黄と黒と白が混じったその美しい毛皮は野生の中にあっても埋もれることのない美をたたえていた。月光の下ではそれがよく見えた。同時に喉を潤して満足そうに座る獣の端正な顔も見えた。

しばらくの時が経った。獣はようやくその泉を離れる気になったらしく、そろそろとその巨体を動かして、どこかの茂みの中へと姿を隠していった。別の茂みから獣を見ていた影は、いましがた目撃した月光に照らされる獣の荘厳さに打たれたかのように、また不用意に音を立てて獣の木を惹かないようにするためか、石のように動かなかった。

 

ナン・ダヤンが昨夜の出来事を誰にも言わず胸の内で味わい続けたのは、いつも無口な彼の性質から言ってもさほど不思議な事ではなかった。彼はここのところ、夜になったら人知れず家を抜け出して森を散策する癖があった。祖母のクド・ダヤンはその時間にはすっかり眠っている。彼は祖母を起こさないようにひっそりと家を抜け出すのだった。

夜の森は彼にとって心落ち着く場所だった。湿った土や草のにおいは心地のよいものだったし、夜空を見上げると気持ちが解放されるようだった。彼は夜の空気そのものが大好きだった。

ナン・ダヤンが件の虎に遭遇したのはそんないつもの散策の途中である。彼はその日、いつもとは違う区域に足を伸ばして見慣れぬ地形を把握しようとしていた。

その時だ。遠くの方から大きな獣がこちらに近づいてくる音がした。はじめは聞き違いかとも思ったが、よくよく耳を澄ましてみると確実にこちらの方へその音は近付いてくる。本能的に危険を感知したナン・ダヤンはすぐそばの茂みに避難して、自分のいたところに何が出てくるかを見守った。

それは一匹の巨大な虎だった。ナン・ダヤンは自分の住んでいる近隣の地域で虎を見たことはなかったが、虎という、黄色の毛皮に黒の縞が入っている猛獣の存在を伝え聞いたことはあった。そして今実物に遭遇してみると、噂に違うことのない虎の姿がそこにはあった。

その美しい毛皮、研ぎ澄まされた瞳、そしてしなやかで、気品と荒々しさを感じさせる体躯を見たとき、ナン・ダヤンは自分の内側から興奮が湧き上がってくるのを覚えた。彼はその獣から目が離せなくなった。

気付かず彼は虎の後を追っていた。気付かれないように一定の距離をあけて、この獣がどこへ行くのか知りたかった。いや、単純にこの美しい獣をもっとよく見ていたいという願望に突き動かされて追っていただけかもしれない。虎はやがて足を止め、ある泉のほとりへたどり着いた。

 

そこで見た光景は、ナン・ダヤンの心をうちひしぐには充分過ぎるものだった。彼は月光の下ではっきりと自分が心奪われたものを目撃した。森の支配者たる風格を備えたこの虎は、真夜中の、宇宙の底に触れるような時間の孤独を一人楽しんでいる。王者の余裕がそこには現れていた。

ナン・ダヤンはそんな虎の姿に自分が心の奥底で無意識に求めていたあるものの具体的な像を見る思いがした。それは崇高で、気高く、厳しい試練に絶えまなくさらされ鍛え上げられてきたひとつの魂の顕現でなければならなかった。そして、それは月光の下の虎だったのである。

 

「ああ!」

ナン・ダヤンはその日何回繰り返したとも知れぬ嘆息を心の内で呟いた。

「俺の人生とは一体、何だったのだろうか?」

彼は虎を目撃した翌日、何もする気が起きなかった。昨日どうやって泉のそばから帰ってきたのかさえ、はっきりと思い出せない。ただただ、虎に遭ったというその一時だけが彼の頭を占めて離れなかった。

何がナン・ダヤンをそうまでさせたのだろう。虎はただ泉の水を飲んだだけである。何も考えず、のどの渇きを潤しただけにすぎない。しかしそれでも、そのことだけでナン・ダヤンには充分だったのである。虎の無心の気高さは、彼に自己の狭小さと卑しさ、そして虎に象徴される一切の美徳に対する激しい渇望を感じさせた。彼は虎になりたかった。

そんなことを、彼は歩きながら考えた。虎のことを、彼は眉間のあたりに想念が集中するのを感じた。そうだ、自分はあのようにならねばならぬ。一度この世に生まれたからには、ああならなければ甲斐がない。そのように思い詰めた考えさえ彼の脳裏には浮かんだ。

だが彼はいつまでも外を歩き回っているわけにもいかない。しばらく外にいたあと、祖母のクト・ダヤンがいる自分の家へ帰らねばならなかった。

 

昨日は感じなかった嫌な感触を彼は家の敷居をまたいだ瞬間から意識しないではいられなかった。彼は先頃まで眉間に感じていた悩ましい想念が急速に薄れていくのを覚えた。代わりに生温い空気で嫌でも自身の顔が緩んでいくのを彼はまざまざと実感した。

いまや住居の様相は彼の心の内で様変わりした。そこには彼が虎を見た時に自分の中に感じた唾棄すべき悪徳が存在した。即ち、安逸、怠惰、安定からくる卑しさなどである。そんなことを前は考えたこともなかったが、虎を夢想した直後の彼にはこのまとわりつく空気が耐え難かった。

ナン・ダヤンは家を出て、離れにある小屋へと向かった。資材や道具が乱雑に積まれている小屋の中の一画に、ひとつの細長い箱がある。彼はそれを開けた。そこに入っていたのは一本の槍だった。長らく手入れがされていなかったのか柄の部分は年月を感じさせる。しかし穂先は鈍く光っていて、充分に使えそうだった。彼はこの槍をじっと眺めた。

ナン・ダヤンは小さい頃からこの雑多な小屋を探索するのが好きだった。そして当然槍の存在も知っていて、たびたび取り出しては握って構えを取ったものだった。しかし、それを実際に使ってみようという考えはこれまで起こらなかった。そうするにしてはこの槍はあまりに古めかしく、何か汚してはいけないと思わせるような威厳を備えていた。

彼はこの槍を見るにつけ感じるある感情があったが、それは虎を見たことで自分の中にはっきりと形作られてきた。

ナン・ダヤンはかなりの長い時間をこの槍と共にした。そうするうちに日が暮れてきた。彼は槍を携えて小屋を出て、再び虎と出会ったあの森へと出向いていった。

 

そうして彼は、それぎり二度と家へは戻って来なかった。風の噂では、槍をもった青年が森の深奥で孤独に暮らしているのを、森の近くの住人が見かけたそうだ。

2022年1月14日公開

© 2022 阿蘇武能

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