死体の山の饐えた臭いが私の鼻孔を刺激し、私の涙腺は衝撃とともに涙を生んだ。そして同時に私はせぐくまり、呻くように噎び泣いた。鈍い声の色は黒く変色し始めた腐敗の予感に染まりつつある。
臭いの強烈さゆえに絶入しようとしているからか、視界が霞み溶暗しようとしている。しかしそれを堪えて歩を進ませようと私は潰れて赤く染まった左足を引き摺り、右手で今は亡き友人の手帖と両親が呉れたロケットを握りしめ、硝煙の立ち込め、灼けた平原の中を芋虫が這うようにしてにじり去ろうとしていた。空穹は「moive dane yuk[1]」のように晴れ晴れとしており、遠方の翠巒を超えた先には大きな入道雲が天上へと沖しようとしていた。私は死屍累々たるこの平原で叫んだ。
「どうして、どうして……貴達方は私達をこのような目に遭わせるのですか!?これが……貴方が私達に被き給いし試練なのですか!?だとしても、こんなの、余りにも、余りにも惨過ぎます……!同胞は全て死にました、敵軍も同様な状況でしょう……それでも貴方達は私達を不幸の淵に沈め続けるのですか……?もし可能ならば……私に、私に、どうかご教示を…………!」私の声は獣よろしく本能をむき出しにした悲痛たる、憎悪たる、憤慨たる騒きの集合体であった。最後は噎んで声にもならなかった。
その叫びは私の最後の生命であったのかもしれない、クレンス=メルトゥナ、シュリーエルモ、アグヌシウス[2]などこの世界をご創造しなさった神たちへの乞いを、声を張り詰めて言い終わるや否や、私は予てから感じていた左足の激痛が少し和らいだと思ったと同時に、全身の力が抜けてその場に仆れた。そして手の力も緩み、私は右手で持っていた手帖とロケットを落としてしまった。ロケットはふらついて落ち、その土に呑まれる音の隠滅さに、私は幾分かの終りを知った。
倒れた衝撃は燃えて煤けてしまった草とその下にある湿っぽい土に吸収された。もう体は動かない。私は死の直前なのか、単に涙ぐんでいるか判然と附かぬ、暈んだ視界、青と色褪せた翠の境界をただぼんやりと見て、
「済まない……」と口を動かすのもやっとなほど衰弱しきった体の活力を使って、私を頼みにする者への謝罪をすると、遂に私の視界は闇に堕ち、永遠の夢の中に入るような心地に陥った。その瞬間、私は死んだのだと悟った。
最初は後悔をしていたが、徐々にそれは和らいでいった。私は神に導かれるのだろうか、それならば彼らも最期は幸せになれるはずだ、という気持ちが大きくなってきたからだった。そしてその暗冥な空間の中で想像すれば、それが仮令仮想であっても、自分の思い描いた世界を造ることが出来た。そこで私は、自分の親と友人の顔を思い浮かべ、神がやって来るまで、彼らと共に暮らしていこうと思い立った。
彼らは夢のようにまるで自立的に行動してくれ、また世界も自分の想像というよりも何か他の力によって動かされているようで、私はその偽物の世界に身を委ねるようになり、気づけばこの世界が本来の世界であるということを忘れるようになっていった。
私は怖かった。私が真実を忘れ、この虚妄の世界を信仰してしまうことが。私の身体は既に大部分が嘘の生活に平穏を感じるようになっていて、私も心の底からそれを享受するようになっていた。しかし時に思い出し、私の変わりように恐怖を抱いた。そしてまたその恐怖を忘れ、いや忘れるためなのかもしれない、またその世界に心を任せるようになった。その繰り返しであった。
私は早く貴方達に救済されたい!貴方達が用意してくれた神の国に行ってしまいたい!さもなければ……私はこの世界の住人になり果ててしまうでしょう……
……それでも、私は未だに彼らの到来を待っているのである。
夢に溺れつつも進んでいけば、先には何があるのだろうか?
滲む手のひらに、静寂はあるのだろうか?
雑音に潜むのは、真の平和なのだろうか?
私には何も分からない、分からない……
見知らぬ社会の隅でうろたえる私の姿は、まるで路頭に迷う野良犬が、死に対する恐怖を感じているという滑稽さがあった。目先の欲に眩むのは愚か者の行為だ、と嘗て誰かが言っていたが、しかし今を生きずにその先のことだけを考えてしまうというのも、またどうかと思う。そしてそのように今の私は正しく、その「どうかと思う」という対象に内包されていた。
しかしそのように自省をしたところで、私はこの無数のかばねがうずまる泥沼に浸かったままである。私はこのかばねが、「私」の成れの果てと思わしき人々が遺したものであると思議していた。そして私は、この泥土に塗れ、呻き続けている限り、私はこの社会から無能扱いされたままであると結論付けた。彼らに認められぬ限り、私はこの膻い臭いを放つ、陰気な泥地から解放されることはない、と。
しかし自分が何故そこに居るのかは未だに納得できない。そもそもこの私は「この社会」の中で生きているらしいが、私は生きようと思ったことはない。自分自身このように私を歯牙にもかけないような集団が、私を所属させようとすること自体、考えるたびに苛々する。そんなこと端から願い下げである。それだのに、彼らは私を逃がそうとせず、私の周りは彼らの言いなりになれ、何故ならお前は彼らによって生かされているからだ、と口を揃えて言う。私はそういうことを聞くたびに、既にあいつらは死んだのだ、という事実を心の底から味わった。彼らの言葉には、生者が持つ希望の霑いが存在していなかったからである。彼らが私に言葉で伝えようとした諸々の感情は、色の落ち果てた土気の静けさだけで構成されていた。
しかしこれによって、私はこのままでいよう、と思いきれた。彼らの死の可能性を考えたとき、もしかしたら私の靴先にこつり、と当たるあの躯達こそ、彼らなのではないか、と考えた。つまり今まで「私」達の死体のための墓場は、実は忌まわしき社会で無機的に生活する彼らの死体だったのではないか。そう考えた私は、いつか「私」達の誰かが助けてくれるだろうという他力本願に身を委ね、この不快な冷たさを帯びたこの青褐の泥に身を沈め続けた。
私はもう何年も待った。身じろぎせずに、希望が勝手にこちらの方に来てくれることをただ待ち続けた。それなのに一向に来る気配がない……いや勿論そのような気はしていた。人間というものは自分で生きることを忘れたとき、既に人間ではないということを心の片隅で知っていた。当然は待つだけの人にとっては苦役な結果しか齎さない。私はそうして、野良犬的な滑稽さを持ち始めたのだ。
神は人間という土くれの人形を作り、そしてその存在が自由意志により滅びゆく存在にあることを憂え、二度と人間界に姿を現さなくなった。神もある種の恥を得ることをお前らは知らない。お前らは彼の全知全能性のみを崇拝し、その実、彼を裏切り殺そうとしているのである。予知しえない以上、彼が全知全能ではないことなど明白であるのに。
[1] 古代エミシュラル語で「青海の空」という意味。
[2] 北アフリカを起源としたエミシュラル神話では、シュリーエルモは創世に携わった女神、アグヌシウスは彼女の兄、クレンス=メルトゥナは彼らを総括する天上神とされている。
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