合体

吉田佳昭

小説

2,853文字

確かむなしくも二十歳になって初めて書いた小説です。

首筋にうすらと浮かぶ静脈とそこのすぐ隣に汚隆した喉仏が手のひらに確かな感覚を齎している。静かに呻きつつも、抵抗しない彼は余りにも不自然で滑稽に思えた。血と生命が余りにもはっきりとして伝わり、それがより一層彼の終りを知覚させる。死にゆく人間はなるほど、最期になっても生を奮い立たせようとし、生命体の自身の生命が発露するのだろうか。帰納的に導き出された命題は非常に魅力的で、私は不可分的な性嗜好の逆転的示唆に——例えば虐待をする人間がその虐待の対象である少女の消え入りそうな手弱女な可憐さゆえに、彼女へ変身したいという逆説的な欲望の信号のようなものに——心を囚われ、気づけばペニスが勃起していた。そのような単純な自分の体も滑稽に思えた私は、つい一笑してしまって、ふと手元が緩む。あ、と私が素っ頓狂に声を漏らす。やってしまった、と言わんばかりに私がおろおろと慌てふためいていると、彼は瞬きをしながらゆっくりと、

「お前と私の世界がやっと同一になりかけていたのに」と言った。彼の声色は私への絶念を事細かに届けてくれたのだった。

ルクスの小さい間接照明が私と彼を照らしている。そしてその淡い光を浴びた彼の生きている姿が私を失望させる。私の中に翳りが表れ始めた。

彼と私は彼の死によって肉体を共有することを目指していた。もう少し正確に言えば、彼が肉体的な死によって精神を私の肉体に宿すことでそれを達成しようとしていたのだが、今回私の性的な由来によるミスで失敗してしまった。彼も私の顔を見ては眉を下げて悲しそうにしている。その穏やかな光に照らされた顔のわずかな凹凸は、暗黙的な寂寥感を帯びていた。それを見ると私も気まずさに胸がつぶれるようである。

二人に重苦しい鈍色の沈黙が漂う。部屋を満たす光が少しずつ闇を纏いつつあるかのように感じられる。そう思うとどこからか焦燥感が起こり始めた。それは自分の心が闇に包まれてしまうことへの本能的な危機感に由来していた。どんよりとした空気は腐った野菜の生臭さを醸し出しているようで、不快であった。

しばらくして彼が口を開いた。

「お前はもう少し欲を禁じたほうがいい」それは非常に淡々と、しかしその言葉の端々からは私への呵責が現出していた。

私は彼の言葉が頭の中で鳴り響く。箴言の恐ろしき香り。沈黙が続いたために、その言葉が渇いた空間にその波紋を闊歩させたかのようであった。そして私の心を酷く揺さぶるのである。それは一種の殺気を帯びていた。まるで首の据わっていない赤ん坊が強く揺さぶられて死んでしまうのを、それを主目的に実行するように。間違いない、彼は私に殺意を持っている。しかし私はそんな彼に抵抗しようなどとは露にも思わなかった。寧ろ彼から離れたくないという強い依存心に定立されたどうにかしないと、という周章さに心を奪われた。

すると私はぼんやりとするべきことが頭の中で湧き始めた。忽ち頭の中を埋め尽くしたのだが、それが何なのかは私には判然とつかなかったが、体は意思とは別に動き始めた。私は静かに立ちあがると、台所へ向かった。足取りはふらついておらずちゃんとしていた。

そして私は包丁と俎板を取り出して、自分の未だにいきり立っているペニスを俎板の上に置いた。私は自分の勃起したペニスを見る度にこんなに硬くなることに感心する。あの柔らかくしなびたペニスがここまでかちかちになるのを見ていると、一種の成長を纏めて短時間に編輯したホームビデオを視聴している感覚になる。だがこれも見納めだ。この時点で私はこれから何をするのか大方分かっていた。

私は俎上にあるペニスに目掛けて包丁を振る。刃先が食い込むと共に劇しい痛みが沸き起こり、血が吹き始める。この部屋が避けてしまうくらい大声で唸り叫びつつも、なお私は柄を握りしめた左手を下方向に動かし続ける。自分の声なのに耳が劈くほどうるさく聞こえる。でも耳を手でふさぐ余裕などない。最早後戻りはできなかった。そうして止むところを知らない激痛を堪えながら、私はそれを見つめ続ける。彼よりは自然と目を向け続けることが出来た。包丁の刃先が沈んでペニスと垂直な線が出来、そこから鮮血がとめどなく溢れてくる。それもそうだ、海綿体に血が集中しているし、今私は立ちながら切っているのだから、なおさら血はそこに集まる筈だ。また切ったところは平常浮かび上がっている太い静脈である。この名状しがたい痛みからか、ふとこの切断に途方もなく長い時間をかけるのかもしれないという疑念が浮かんだ。

しかしその作業は意外と簡単に了った。急に、手に力が入らなくなって、床に包丁が落ちる。そして気づけば、俎上に依然として切られたペニスが亀頭を奥にしたままその断面を見せてくれている。最初は魚肉ソーセージのような太さと少し明るみのあった黒であったのに、血が流れていくにつれて少しずつ萎み、色もくすんだ紫に変貌した。まるで黄昏が体に星々を映して夜に消えるようであった。

痛みは一向に消えなかった。それに血が体から抜けてきて眩暈もする。目の前は、そして包丁を握っていた左手は血にまみれていた。手は次第に渇いてきたのか、その色には酸化したと思わしき黒への変化が見られなかったものの、あの迸る熱い鼻血を拭った手をそのままにしたときの生乾きの血のように、手で擦ると引っ付くような少し湿った粘着性が現れ始めていた。

後ろで拍手が聞こえてくる。霞み始めた視界にもふらつく体にも耐えながら後ろを振り向くと、彼がいつの間にかこちらに近づいて満面の笑みを浮かべながら私を称賛していた。そして私に近づくと、俎板の方に手を素早く伸ばし、私のかつて一部であったものを手に取ると、そのまま口に入れ、頬張った。咀嚼するたびに口角から私の血が彼の唾液と混ざり合い、泡状になってあふれてくる。くちゃくちゃと音を鳴らして食べていたが、彼には微塵たりとも、いやらしさが感じられなかった。私は脂汗が流れる額を拭うことなく、彼に対して笑みを返した。その瞬間私は意識が遠のき、そのまま彼に凭れ掛かるようにして倒れた。視界もついに暗転した。だが、最期は痛みが薄らいで少し愉楽を得ることができたので、かすれ声で彼に「これでよい」と言った。まるでスープを飲んだ最期のカントのようだ。彼は何も言わなかった。若しくは言ったのに既に私がこと切れてしまったからだろう。

こうして私の体は消滅し、彼のガイストが私の肉体に入ることは最早不可能となったが、それでも私は満足している。あの時どうしてこうしなかったのだろうといった後悔など微塵たりともない。彼と思わぬ形で一つになれたからであった。あの時失敗したことが結果として成功した。ただ当初の目的とは正反対に、私が彼の中にいるという点は図らぬことであったが。私はこのことを奇蹟であると考究した。あれが正解であると認識していなかったからだ。

しかし私がこのことを口にするたび、彼はいつも私にこう言う。

「だけど、これは神の思し召しなのさ」

2021年7月17日公開

© 2021 吉田佳昭

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