こぼした涙は

才場正人

小説

3,869文字

つとむは日記にでたらめを書いている。この文章もそのでたらめの一部である。

その夜、つとむは人生で一番幸せだった。なにか特別なことがあったわけではなかった。ただちょっとした気まぐれで、普段は酒など飲まないつとむが飲みやすそうな白ワインを買って帰っただけのことで、それをみちこと飲み交わしているうちに、愛が溢れてきて止まらなくなってしまったのだ。つとむはとめどなく泣いた。

つとむは近頃やけに涙もろくなっていて、小説を読んでは涙し、ドラマを見ては涙し、飼っている猫を撫でては涙した。日記を書けば自分で自分の文章に感情移入して泣いた。つとむは日記を毎日書いていたが、そこに書かれているのはでたらめばかりだった。即興で作り上げた架空の人物になりきって日記を書くのだ。だからつとむの日記は毎日別の人間が書いているかのような感じがした。

その夜、つとむは泣きながらみちこに何度もキスをした。きっとこの夜が人生で一番幸せな夜だ、とつとむは思った。こういう夜が一度でもあれば、俺はきっとこの先も生きていけるに違いない。そのときつとむは愛の国にいた。愛の国に入ったつとむは気づいた。愛の国は死の国と隣合わせなんだな。愛の国では時間はリニアに進むのではない。五次元空間に配置された現在・過去・未来のあらゆる出来事は動的な地形を形成していて、各地点の標高は観測する側の地点に応じて相対的に変動する。不確定性原理によって、各地点の標高の絶対値を同時に求めることはできないが、ひとつの地点の標高をその周囲の地点からの相対的評価の束として近似値を求めて積分することで、大まかに地図の全体像を割り出すこともできる。その中で、より愛の多かった出来事ほど丘のように高く膨れ上がった地点に位置し、より愛の少なかった出来事は谷底に位置している。愛の国における時間とは、この五次元的な空間の中で、どの地点から全体を眺めているか、という指標でしかないのだ。

このことが意味しているのは、愛の多い地点にいるときほど遠くまで、つまり遠い未来や過去まで見えるが、愛の不足した地点にいる時は視界を地形によって阻まれ、ほんの少し先も見渡すことができないということだ。愛が不足しているとき、つとむは現在しか見えなくなっているのだ。未来や過去というものがあるという実感がわかず、しかし現在しか感じられないから、未来や過去から区別することでそれが現在だと強く意識することもできない。

いま、つとむは彼の人生の時間の中で一番高い丘から自分の時間を見渡している。今が人生で一番幸福な夜だからだ。彼はほとんど全ての未来を見ることができる。年老いた猫が糖尿病になり、毎日インシュリンの注射を打ってやる未来の自分が見える。猫が死んで悲しみに暮れる日も、喪失感に耐えきれず、新しく猫を飼うかどうかをみちこと言い争う日も、やがてつとむとみちこが老いて、病を患い、死んでいく最後の日も。

一番高い丘から時間を見渡したとき、嫌でもつとむの目に入ってくるのはその果て、つまり死だった。愛の国はどこまでも無限に続いているわけではなかった。時間の地平線があり、そこから先は死の国なのだ。だからつとむは、愛の国は死の国と隣合わせなんだと気づいて涙を流した。そしてつとむは、ここに立ったこの瞬間を決して忘れないようにしようと誓った。

 

つとむは大粒の涙を流しながらみちこを見つめる。

涙が出ちゃうよ、とつとむはこのあと言うのだ。

つとむには、次にみちこが言う言葉もすでにわかっている。その言葉を生涯大切に抱えて生きていくことをつとむは既に決めていたし、そうなることも既に未来を見渡して知っているのだ。

「こぼした涙は、拾って保管しておきましょうね」とみちこは言うだろう。優しい微笑みを浮かべて、つとむの頬から落ちた涙を拾い上げるような素振りを見せて。

つとむは笑う。みちこがそう言うことは知っているのにも関わらず、思わず吹き出してしまう。それはみちこの言葉の感じがすごくよかったからであり、意味はよくわからなかったが、純粋に面白いと思ったから笑うのだ。みちこがそういうことを言ってくれる女性だということがつとむにとって心底嬉しかった。

しかしみちこは、つとむが笑うのを見てちょっと怒る。馬鹿にしないでよ、と言う。馬鹿にしてないよ。面白いと思ったから笑うんだよ。そう言うとみちこが少しへそを曲げることも知っている。それでもつとむはそのように言うだろう。それからまた少しおしゃべりをして、猫を撫でたりしてから、布団に入ったつとむはこっそり呟くのだ。「こぼした涙は、拾って保管しておきましょうね」

 

翌朝起きると、原因不明の腹痛に襲われる。普段酒を飲まないつとむはこれが二日酔いだということに気づかず、下痢でもしたかと思ってトイレでしばらく踏ん張ってみるが何も出ない。仕方がないので諦めて、まだ眠っているみちこを起こさないようにそっと家を出る。

会社では退屈な時間が延々と続く。七年後に転職するまでつとむは今の小さな会社で自社広告のデザイナーとして働き続けるのだが、自社広告の仕事なんてそうそうあるわけでもないので、デザインの仕事がない時は事務所の配線工事をしたりサーバーのメンテナンスをGoogleで検索しながらやったりとなんでも屋のように使われている。職場の人間はみんなWindowsをインターネットの一種だと思っているような人たちばかりなので、Wi-Fiの調子が悪くなったときにルーターの電源を引っこ抜いて再起動するだけで救世主になれるのだ。

それでも暇な時間が膨大にあるので、つとむは日記を書くことにしている。この日記もそうした時間に書かれたものだ。つとむは急に、そういうことにしようと思った。つとむはこの文章を三人称で書き始めてしまったので、この文章が自分によって書かれているものであることをはっきりさせるべきかどうか悩んでいたのだが、日記を書く場面が登場してしまったので、正直に書いてしまおうと思ったのだ。しかしそうすると、さっきつとむは日記にでたらめばかり書いていることを明かしてしまったので、この文章もでたらめだということがばれてしまうのではないか、と思って彼は一瞬焦った。だとすると、つとむが日記にでたらめばかり書いている、という文章もでたらめだということになり、頭がこんがらがってきたのだが、これは嘘つきのパラドックスというやつか、と気づいたところでつとむは考えるのをやめた。つとむは頭がそんなに良くはないのだ。

そんなふうにしてでたらめな文章を書き続けること七年間、転職を決めて、今の会社に出勤するのも最後という日になっても、相変わらずつとむは日記を書いている。かつて愛の小高い丘の上から見たとおりの未来が現在になったことに奇妙な感慨を覚えたということを日記に書くだろう。それはまだ書かれていないものの、つとむはそのとき書かれることになる内容を既に知っているので、ここで先にばらしてしまうことも可能なのだが、野暮なのでそんなことはしない。ひとつだけ明かすとするならば、つとむは日記を書きながら涙をこぼし、

「こぼした涙は、拾って保管しておきましょうね」

という言葉を引用するのだ。

つとむは人生のいろいろなタイミングで涙を流すことになる。そのたびにこの言葉を反芻するだろう。転職した仕事が辛く、鬱になって満員電車の中で涙を流しながら、「この涙は拾って保管しておこう」と心のなかで思う。猫が死んだときには、動かなくなったその体を抱えて涙を流すみちこに、そっと「こぼした涙は、拾って保管しておこうね」と囁きかける。みちこが病気になって入院してからは、日に日にやせ細っていく彼女のからだに腕を回して、その軽さに驚いて涙が溢れるだろう。その涙も保管するのだ。みちこが死んだ日の涙も。次の日の涙も。何日経っても思い出す。ずっと一緒にいたみちこも猫ももういないという現実に耐えられなくなって涙を流すたびに、この涙も保管しておこう、と心に誓う。

やがて体の痛みが耐え難くなってくる。体を起こすだけで涙が出てくる。保管しておかなければ、と思う。なんで保管するんだったっけ。ああ、そうか。彼女がそう言ったからだ。懐かしい彼女。それからあの頃一緒に暮らしていた小さな猫。思い出してまた涙が出てくる。保管しよう。全部大事に保管して。

保管して、どうするんだったっけ。腰が痛い。肩も痛い。全身の関節が痛い。寒い日は痛みが酷くてどこへも出かけられない。内臓も悪いと医者には言われている。みちこにもう一度会いたいなあ。チャイムが鳴る。誰かが来る。誰だっけ。誰ですか。みちこ? そうか、介護士の人だ。どうして泣いてるんですか? ええ、泣いてましたか? 保管しなくちゃ。保管ってなにを? 保管するんですよ。だから、ええっと、あれ、あれです。ほら。なんだっけ。とにかく、保管しなくちゃ。

そうしてつとむは愛の国の果て、死の国との境目にたどり着いたことに気づくだろう。振り返ってみると、遠くの方にひときわ高く明るい丘があるのが見える。懐かしいなあ。あっちに立って、こっちを眺めたこともあったっけ。

鼻に酸素吸入のチューブをつけたつとむが涙を流す。つとむはなにか大事な言葉を忘れているような気がする。なんだっけ。なにかあったはずなんだけど。

看護師がそばに来て言う。あら、つとむさん、どうかされましたか。

我に返ったつとむは、自分の頬を伝う涙に気がついて言った。

「涙が出ちゃうよ」

「こぼした涙は、拾って保管しておきましょうね」

みちこが優しく微笑んで言った。

2021年6月1日公開 (初出 note『日記 こぼれた涙は』2021/06/01

© 2021 才場正人

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