駆けつけた池沢の処置は早かった。ひとつ覚えのようにただ背を擦り続けていた藤倉の血濡れて強張った手をそっと引きはがし、毛布を積んで作った背もたれに先生を横たえた。見惚れるほどの手さばきで急凌ぎの止血剤と鎮痛剤を投与すると、必要な薬を持ってもう一度来るとだけ告げて、雪の降り始めた夕闇の中に急ぎ足で消えた。
「ふじくら、さ……」
熱と胸痛に魘されながらも、存在を確かめるように先生は藤倉を呼んだ――何度も、何度も。
「大丈夫だ、ここにいる……だから喋るな、また発作が起こる」
ひゅうひゅうと掠れた呼吸が痛々しかった。毛布に凭れているのも辛いといった様子で肩で息をし、緩く胸をおさえては力ない湿った咳を零していた。
「すぐ池沢先生も戻ってくる。薬を増やせば眠れるから、それまで辛抱してくれ」
先生はこくりと頷いた。咳き疲れた顔は老成して見えたが、所作に潜む気配はまるで幼い子どものようだった。
静かな部屋には病んだ呼吸音だけがあった。背筋を撫ぜる空虚感にぞっとする。それが死のにおいであると、初めて明確に意識した。
「もう少し背を起こすか」
少し体勢を変えただけで、先生は火のついたように咳き込んだ。
「ッゼぅッ、ゼフッゴホッ――み、水、を…ひゅ、ひィう、きヒュ……っ」
「悪い、動かさない方がよかったな。水か、今持ってくるから、」
痩せた背を毛布に下ろすと、そのままぐったりと沈み込む。はぁはぁと喘ぎつつ呼吸を整えるのを待って、水を取りにいこうと廊下へ出た。白く霞んだ窓ガラスの向こうの雪は本降りになりつつある。この天気の中相当に急いでいるであろう池沢への心配がちらりと胸をよぎった。
「――ッゼほっ…! ゼォォ゛ッ゛ゼぉッ、ゲホ、かハ……ッ! ――っゔ、あ」
どさりと崩れ、畳を引っ掻く音。振り返ると先生は重ねた毛布から転げ落ち、布団から半分ほど身を投げ出して、胸をおさえて身を折っていた。
「ぅ、っぅ゛……! っあ、カは、…――っ、……ッは、 ぁ゛、…ッぁ、」
唇を朱が伝う――また喀血だ。
先程よりも量はずっと少ないが、様子がおかしい。ゼィゼィと苦しげな呼吸音がぱたりと聞こえなくなったのだ。畳を引っ掻いていた手がそのままの勢いで首に食い込んだ――呼吸ができていない。
酸欠と恐怖に見開かれた目から涙がぼろぼろと零れ落ちた。たすけて、と目が訴える。背を強く叩くも呼吸が通る気配はない。力なくもがいていた体が見る間にぐったりとしていく。手のひらから命が零れ落ちていくかのようだった。痛みさえも何処か遠くへと過ぎ去り、永遠の微睡みに絡め取られて目を閉じる。
「おい! だめだ寝るな、目を開けろ、」
傾ぐ体を必死で支えながら、藤倉は咄嗟に先生の口内に指を突っ込んだ。眠りを妨げる不快感に先生は抵抗する。ゴリッと音がして、鋭い痛みが一息に脳天まで突き抜けた。反射的に引き抜きかけたが、ここで止めるわけにはいかなかった。悪いものを無理矢理に吐かせるときのように、口蓋の奥を深く突く。
「――ッ、っ゛え゛ぉ……ッぐ、エぉ゛…――ッガ、は……ッ!」
嘔吐するように背をしならせ、しかし喀き出されたのは胃の内容物ではなかった。咳き込む間もなく喀き出された血は首を、首元を締め付ける手を、支える藤倉の腕や着物の袖までを一瞬で真っ赤に染めた。至近距離での噎せ込むほどの鉄の臭いにくらりときて、背を支える力が抜けそうになる。
先生は今度こそ意識を手放した。瞼が透けるように白く、頬に生気がない。明らかに血が足りていなかった。
止血剤を打たなければ。動転する頭にそれだけが浮かんだ。部屋の隅に退かした机の上には念のためにと池沢が置いていった注射器がある。
池沢にはこれまで暇を見つけてはこっそりと簡単な応急手当や医療行為を教えてもらっていた。初めは断っていた池沢だったが、しつこく請い願ううちに本当に、本当に急場を凌ぐときだけにしてください、と念を押されて許された。
震える手で注射器を取る。手のひらに収まるちっぽけな注射器がひどく大きく、恐ろしいもののように感じられた。手順を理解している自信はあったが、心構えが追いつかない。池沢にビタミン注射の実験台になってもらったことはあったが、発作を起こした先生に打つのは初めてだった。しかも止血剤である――上手くいかなければ喀血を繰り返し死んでしまうかもしれない、という恐怖がよぎった瞬間、目の前が真っ暗になるような思いがした。
冷たい針が柔い肌にひたりと触れる。それだけで限界だった。狙いを定められないままに震える手がぽたりと注射器を取り落とす。
「……だい、じょ、……」
拾おうと伸ばした手を、先生の血の気のない腕が押し留めた。いつの間に意識を取り戻していたのか、苦しい喘鳴の合間に紡がれる声は存外にしっかりとしていた。
「わた…しは、だい、じょう、ぶ」
凪いだ瞳にふと恐ろしいものを感じた。狂気と紙一重の何かを瞳の奥に見た。
その晩はずっと先生の側にいた。池沢が無事に戻り、薬を追加してからしばらくの間はぐったりと深く眠っていたが、やがて胸苦しいのか何度も身をよじり、弱い咳を零すようになった。布団を掛け直してやると僅かに目を上げる。尋ねてもいないのに大丈夫、だいじょうぶと繰り返し呟いていた。
先生はいつも自分より少しだけ深いところまで世界を見ている、と思う。限りなく薄い紗が幾重にもなっている世界で、先生にはその一枚一枚が透明に見えていてどこまでも見通すことができる、そういう深さだ。
普段は近くに焦点を合わせているが、時折遥か遠くに視線を投げてしまう。その頻度が上がるにつれ、彼の身体もまた紗の向こうへ行ってしまいそうになるのだ。
「きかせて、ください……貴方の、話を」
一晩中、先生は夢と現実を行ったりきたりしていた。ほとんど声にならない声はか細い吐息となり、言葉の間には絶えずガラスを擦り合せたような呼吸音が聞こえていた。薄く開かれた目は夜明けの気配に白む障子の向こうを捉えたまま、それでも声は藤倉の方を向いていた。
「今は体を休めることが先決だ。そんなものはいつでも話してやるから」
布団を掛け直そうと身を乗り出すと、あてもなく遠くを彷徨っていた視線がすうとこちらに戻ってきて交わった。表面ではなく内側に入り込んだすぐのところを見られているような、そんな錯覚を覚える。
「今、ききたいんです……いま、じゃない、と、」
呼吸の擦れ合う音がひどくなって噎せ込んだ。それでもつっかえつっかえ話そうとするものだから、わかった、話してやるからもう喋るなと言うしかなかった。
「どんな話をご所望かな」
「貴方が、今まで見てきた中で……ッけほ、こほ……一番、美しかったものの話を、聞きたいです」
一番美しかったもの。そう言う先生はどこか楽しげではあったが、哀しんでいるようにも見えた。
「一番美しかったもの……そうだな、数年前の秋頃に北方の山間地帯にしばらく滞在していたんだが、そこで見た花畑が美しかったのはよく覚えているよ。松虫草という小さな淡い紫色の花でね……通り雨が上がって、細やかな水の気配に四方満たされる中、雨の匂いと花の仄かな甘い香りがいつまでも漂っていて……雫の重さに少ししなだれた花弁がやけに神秘的に見えた」
藤倉の答えに、先生は少し驚いた顔をした。意外だったかいと訊くと、くすりと笑って小さく頷いた。
「数々の秘境を巡ってきた貴方なら、そのうちのひとつを挙げるとばかり、思っていました」
「たしかに今まで沢山のものを見てきたが、実は何気ない景色が一番心に訴えかけてくるものでね。きっと、偶然の中に美は潜んでいるものなんだろう」
「わかる気が、します……例えるならばそう、たまたま見上げた夜空に、流れ星が見えたときの気持ち、でしょう……?」
先生は微笑んで、やがて疲れたのかそっと目を閉じた。
「いつか、子ども達にも、話してやってください……さぞかし、喜ぶことでしょう」
「残念だが、俺はそういうのは苦手でね。お前が見てきて話せばいい、いくらでも連れていってやるさ」
返事はなかった。ただ、震える瞼からひとつふたつ、透明な涙が流れて頬を伝い髪の間に消えていった。それが先生の答えなのだとわかった。
「私には……」
弱い咳を零し続ける細い喉が嗚咽を漏らすことはなかった。ぐっと飲み込んで押し殺し、しかし隠した痛みで震えていた。
「私の役目は、もう……いいえ、本当はもっとずっと前に、終わっていた……。だからこれは、わたしの、我が、儘……」
ゼぅゼぅと咳き込みながら先生は乾いた笑い声をあげた。余計に咳が出ようが御構いなしに、さざめくような笑いに溺れていた。誰の前でも見せたことのない、窶れきった、何もかもを諦めた色をしていた。
藤倉は痩せた背をきつく抱きしめた。どうしてそんな行動に出たのか自分でもわからなかった。筋の浮いたうなじの病んだにおいに、胸が引き絞られるように痛んだ。
腕の中で先生は身を固くしていた。抱きしめられることに、手放しの愛情を向けられることに慣れていない固さだった。
「藤倉さん。私が死んだら、どうか……どうか、私のことは、忘れてください」
喘鳴混じりの吐息が囁いた。切実で儚く、孤独な嘘が耳朶に触れた。
「言うな。それだけは聞き入れられない」
「私は、貴方に何もできない……っ、ゼぅッ……誰にも何も、遺せない」
「構わない。何もいらない。ただ、ここに居てくれればいい」
誰かの役に立ちたい、自らの存在の理由を残したいと生きてきた先生に、ただそこに居てくれさえすればいいと願うのは残酷だろうか。それ以外には何もできないのだと言われているようで、その度に人知れず傷つけられてきたのだろうか。
「貴方の慕った教師は、もうどこにも、いないんですよ」
「俺が大切に思うのは、平野啓司という一人の人間そのものだ。教師だから、子ども達に慕われているからじゃない。弱いところを見せられないのも、愛されることに慣れていない不器用さも、全て――全て大切なんだ」
言葉は残酷だ。願いも思いも苦しみも、実際に感じている重みの半分も持たないままに勝手に零れ落ちたり、ひとつ間違えただけで致命傷になり得るほどに深く突き刺さったりする。
それでも言葉の向こうにある本当に手を伸ばしたくて、殻を溶かすときが来ると信じて拙い言葉を紡ぐ。言葉だけじゃない、手も足も感情も音も何もかも、使えるもの全てを使って手を伸ばす。虚しく空を切るばかりの指先にいつか灯る熱を信じている。
「まだ……生きていたい。生きたい」
「ああ」
「いつか、遠い世界の景色を見たい。海を越えて、遥かな水平線の先を知りたい」
「そのときは、俺も一緒だ」
「直次が、子ども達が大人になった姿を、見たい」
先生の手が背に回されることはついぞなかった。誰かの心に、希望に手を伸ばすだけの力を、先生はもう残してはいなかった。
「貴方と共に、未来が見たかった」
翌日、雪風に濡れた戸口に一枚の紙が貼り出された。
小さな町の片隅の、陽だまりのような教室がひっそりと終わりを告げた。昨夜の雪が嘘のように晴れ渡った、銀色の朝のことだった。
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