教室の方からがたんと戸板を外したような音がして、火にかけていた鍋から意識が離れた。
大方、昼過ぎから書斎で何やら熱心に書き物をしていた先生が喉でも渇いてひょっこり出てきたのだろう。藤倉もちょうど少し腹が減って、何か手軽に作れそうなものを求めて台所に立っていたところだった。
台所から廊下を覗くと、教室へ続く襖がほんの少し開いているのが見えた。
「おおい、先生」
物音がしたのだから彼はそこにいるのだろうが、それにしては妙な静けさが場を支配している。
しばらくして、返事の代わりに聞こえてきたのは掠れた咳音だった。もう一度がたんとさっきよりも大きな音がして、藤倉は迷わず台所を出た。
「先生?」
教室に入ってすぐ、廊下に一番近い机に縋りつくように手をつき喘ぐ痩身が目に飛び込んできた。部屋に入った途端にくらりときて倒れ込んだのか、机の足元には持って入ったらしい十枚ほどの紙束が散らばっている。
「大丈夫か」
「……ッえほ、ゼぇっ…ッぐ、う……げほっ、ゲホッゲホゲホ……ゼぉ、ぜェぉ……」
ザラついた呼吸音が耳に痛い。余程痛むのか、きつく胸元をおさえる手はがくがくと震えていた。言葉を紡ぐことも、顔を上げることさえ儘ならない。
いくら酸素を取り込めども、そのほとんどは肺に届く前に咳へと変わる。僅かに行き着いたものさえも肺に触れた瞬間鋭利な刃物へと姿を変え、胸の奥深くから身を切り裂いていく。倒れ込んだままの姿勢をせめてもう少し楽にしてやろうと後ろから手を差し入れたが、身を起こそうとした途端にゼぉんゼぉンと肺腑を裏返すかのように咳くので、結局背を擦り続けることしかできなかった。
「ゼ…っハ、は――ッ、ハ、はぁッ…セほ、ケほ……ッはーっ、は――ッ…も、平気、です……ゼォ…っふ…大丈夫……」
辛抱強く背を擦っていると息も継げぬほどの咳が段々と落ち着いてきて、手のひら越しに伝わる呼吸の縺れも幾分か安定してくる。それでもよくなったとはまだとても言えない様子で、ようやく上げられるようになった顔はひどく青褪め、乱れた横髪の合間から頬へと冷たい汗が伝っていた。
肩で息をしながらも先生はふらりと立ち上がった。支えようと伸ばした手はやんわりと首を振って躱された。
「おい、待て、もう少し安静にしていろ」
先生は何も言わず廊下へと出ていった。隙間風が入って寒いから、と普段子ども達にぴたりと閉めさせる襖が少し開いたままになっている。几帳面な先生にしては随分と粗忽な所作だった。
「先生、」
仕草と気配に妙な焦りを覚えて藤倉は後を追った。その予感は正しいものだった。襖に手をかけるかかけないかのうちに再びひどく咳き込み、どたりと倒れる音がして、微かな振動が床を伝わった。
「ぐ、ッゼぉ゛、ォ……ッ゛」
――ぱた、ぱたたっ、
「ゼぉンゼッゼゴぉッッ……が、ッぐブ、ごボぉッ…」
――ぱタタタ、たっ――
ばっと散った赤が視界を捉えて離さない。廊下の鈍い光に照らされて、てらてらと気味悪く濡れ光る色彩に思考が止まる。部屋と廊下の境界で世界が切り替わってしまったかのような、見えている景色と立っている場所がちぐはぐになっているような――目に映るものを理解できないまま、先生の手と床を染めた赤だけがやけにはっきりと鮮明に見えた。
「――ッが、ゴほッ…ごぅ、ぐ、ふ…ッ…、ヒっ、ヒュう、ヒュうぅっ、」
紅花の濃染が色素の薄い唇に色を挿し、溢れて白い頸を伝い、胸元で固く握り締めた手まで濡らしている。ぜひぃ、ゼギぃと破れたふいごのような荒い呼吸に震える唇の端から薄紅に染まった唾液が糸を引いた。
「いしゃ、を、」
駆け寄って背を擦るよりも何よりも、そんな言葉が呆然と口をついて出た。あまりに凄惨で生々しい赤を前に、足が竦んで動かなかった。
――ゼホ、ゲホッ! …ゼぅッ、ゼぅゥ……ぐッゔェ゛ぇ…ッゼホンぜ…っあ゛、ひぅ、ひぅぅっ…! っは、ッハ、ふ……ぅ゛、ッぐ、ゼ、ぉ……ッ…
咳の激しさは然程でもなかった。発作が治まらず肩を跳ね上げて一晩中酸欠に喘いでいたときの方が余程ひどかった。しかし切迫具合が比べ物にならない。掠れた弱い咳きひとつで胸の奥からぼたぼたと赤が溢れて止まなかった。血の海で溺れたかのように喀き続け、息を吸おうとするとガラガラと胸の中で何かが絡まって転がるような音がした。
「しっかりしろ! 大丈夫だ、咳ききればすぐ楽になる、しっかり――」
金縛りの解けきらぬ足を叱咤し転びかけながら隣に膝をつき、獣のようにしなる背に手を置く――届いたかどうかのうちに先生はゼぉんゼォんと再び激しく咳いて、びしゃりと溢れた赤が床を染めた。軽く湯呑み茶碗の二杯はあろうかといった量だった。
「ッあ、ぅあ゛…ッ、ぅグ…ッゼぇ、ゼ――ッぅ、…――ッ゛」
関節が白く浮くほど胸元を握り締めても、咳と喀血が止まない。先生はそのままぐらりと藤倉の胸の中に倒れこみ、血濡れた唇をはくはくと喘がせた。
「アあ゛…ッ、かハッけふ、ぐぅ…ッア、が、ゼホッッがフッ、ひ……ッぁあ゛……!」
華奢な身体は次の瞬間ばらばらに砕けてしまってもおかしくなかった。肺の奥底から涌き上がる苦しさに声を上げる間もなく鮮血が零れ落ちる。取り込んだ酸素は気管の途中で血と混ざり、ぜろぜろと濁った音を立てて肺に流れ落ちては病んだ組織を痛めつけるようだった。
「先生、先生! おい、どうしたらいい?! 聞こえているなら手を握ってくれ」
「…ヒ、ひキッ……ッた……っ、すけ、……こ、わ、ゴぼ、」
胸をおさえる力さえ失い、ずるりと落ちた手が僅かに震える。先生はべったりと両の手を血に濡らしたまま、藤倉に凭れてしゃくりあげるような呼吸を繰り返すばかりだった。
「池沢先生を呼んでくる。すぐ戻るから、待ってろ」
藤倉は立ち上がった。この状態の先生を一人で待たせることに迷いはあったが、下手に動かして取り返しがつかなくなる方がもっと恐ろしかった。壁に寄りかからせると先生はがくりと項垂れた。まるでそこで人知れず力尽きてしまったかのようで、それだけで心臓の縮む思いがした。
慣れた玄関がひどく遠く感じる。碌に見ないままつっかけた下駄は先生のものだったが、履き替えている心の余裕はなかった。がん、と乱暴に開けた戸は存外大きな音を立てて、ちょうど軒先の雪かきをしているところだった隣家の男が驚いてこちらを見た。
「驚いた、何かと思っ……」
戸にかけられた藤倉の血塗れの手を一目見て、男はヒッと声を上げて後ずさる。
「頼む、医者を、池沢先生を呼んできてくれ! 先生が大量に喀血した」
男は突然の事態を飲み込みきれていないようだった。ぽとりと取り落としたシャベルをぎくしゃくと拾い上げる間にも視線は藤倉の血濡れた手元から離れることはなく、そんなにひどいのか、といったようなことをもごもごと呟いた。
そうこうしている間にもまたひどく咳き込む音が聞こえて、藤倉が振り返ったときにはもうずるりと崩れ落ち、ぜぅぜぅと戦慄く背中が見えた。
「誰か見ていないと血で喉を詰まらせるかもしれない、頼む――」
男が大慌てで駆けていく。行く先を確かめる余裕もなく、藤倉は崩れ落ちた背に再び駆け寄った。
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