「先生、また明日!」
「また明日。もうすぐ日が沈みますから、寄り道せずに帰るのですよ」
幼い兄妹が小さな手と手をつないで、雪道にざくざくと足跡をつけながら歩いていく。戯れ合い鈴を転がすような声をたてて笑う二人の背中がぼんやりと雪煙の向こうへ見えなくなるまで、先生は戸口に立って見送っていた。朔風が胸に溶け入る夕暮れのことだった。
咳き込む頻度が増したせいで本を読み聞かせるのが難しくなっても、机の間を回って勉強をみてやる体力がなくなり子ども達の方から自分のところへと集まってもらうようになっても、この見送りだけは決してやめようとはしなかった。始終つきまとう微熱に体力を奪われながら、先生は柔らかな笑みで子ども達を見送った。
白い頬に灯る肺病めいた薄紅も、いよいよ危ういほどに骨ばった胸元の微かな喘鳴も隠して、彼はただ教師であろうとし続けた。それが痛いほどに伝われば伝わるほど、藤倉は彼を止める言葉を失っていくのだった。
「ほら。……また風邪をひいたらどうする」
止められない代わりに、ささやかな気遣いだけが手慣れてくる。華奢な肩に羽織を掛けてやると、先生はありがとうございます、と柔らかく目を伏せた。
凪いだ瞳に憂いた影が落ちる。痩せて持て余すようになった袖を重たげに、着物の襟元をかき合わせて――長い袖に隠した白磁の手指が一瞬ぐっと胸を押さえたのを、藤倉は見て見ぬふりをした。
ふと見上げた山向こうは重い鈍色をしていた。雪の果てはまだ遠い。
冷たい空気にあてられて噎せ込んだ先生を早々に部屋に戻らせてから、最近は風雪強まる夜も多いことだし念のためにと、藤倉は立て付けの悪い雨戸と格闘を始めた。
年季の入った雨戸は丈夫だが、いかんせん古い造りのために重い。その上あちらこちらに細かいささくれが立っていたり虫に食われて穴が空いていたりするものだから、出し入れの度にどこかしら指先に引っ掻き傷をつくる始末だ。
毎度苦労させられる代物と息を切らして悪戦苦闘していると、ふとどこからか視線を感じた。ちらりと目を上げると何度か教室で見かけたことのある少女が、通りの斜め向こうの角から半分身を隠すようにしてじっとこちらを見ていた。
手を止め名を呼ぶと、少女はぱっと笑顔を見せてこちらに来ようとした。駆け出そうと一歩踏み出し――しかしその足ははたと何かを思い出したようにつんのめって止まる。少女は恐々と、同意を求める目をして後ろを見た。少女の後ろに立つ母親らしき人影に藤倉はようやく気がついた。
母親は何も言わず首を横に振った。少女はもう一度藤倉を見たが、その目に喜びはもうなかった。やがて悲しげに視線を逸らし、差し出された母親の手をとった。
母親もちらりと一瞬こちらを見る。宵が迫る中、表情はよくわからなかったが、そこには同情と後ろめたさの綯い交ぜになった気配があった。藤倉に向かって一礼すると親子は角を曲がって足早に姿を消した。
先生はただ虚弱なだけではない、ついにうつり病に胸をやられたらしい――小さな町に噂が広がるのは早かった。ここ数ヶ月で先生は知らぬ人が見てもはっとするほどに痩せて肺病めいて見えた上、池沢が頻繁に往診するようになったのも噂の裏付けになったようだった。
ひとり、またひとりと教室を訪れる子どもの数が減っていった。子ども達が先生を避けるようになったのではなく、彼等の親が行くなと言い聞かせるようになったのだ。とはいえ誰にでも優しく、身体を壊して帰郷したとはいえ一時は東京で教師をしていた先生を町の人は基本的に信頼していたから、肺病患者を激しく忌避するというよりは、憐憫や哀れみの情が幾分か勝っているようだった。
先生はその態度に怒ることも、悲しむこともなかった――少なくとも表には出さなかった。しかし同情の裏にある保身の気配に先生が気がつかないはずがない。先生は自らに向けられた態度を当たり前のこととして受け入れ、静かに身を引いた。日に日に温もりを失う教室の索漠たる気配に、彼の遣り場のない心が滲むようであった。
こんな幕引きになるくらいなら、俺が終わらせてやればよかったのかもしれない。『肺をやっているのはわかってるんだ、もう潮時だろう』そう言ってやれたなら、先生はここまで傷つかずに済んだのかもしれない。
教室に戻ると先生は座椅子に背を預け、何をするでもなくぼんやりとしていた。薄い肩が小さく上下しているのを見て、座っているだけで息が苦しいのだと気がつく。
ぜぅ、ゲほと胸に絡む咳を零しながら、先生は火鉢をそっと引き寄せた。燃え尽きて白くなった炭がぐずりと崩れて、僅かに赤い側面を覗かせた。
「ッゼほ、ゼぅ……ゼォッゼぉ゛ん、ゼゴほッ……っは、ふ、ぅ…ゲホッゼぉンゼぉンゼェえ゛――ッは、は、せォ…ゼぅ、っハぁ、は……」
少しの挙動でぜろぜろと咳が引き摺り出されて止まらなくなる。見かねて背を擦ろうと近づくと、先生は涙の滲んだ目元を見せまいとするように咄嗟に顔を伏せた。
「う、つります、から……」
「今更何を」
薄っすらと隈の浮いた目元に悲痛な気配がよぎって、藤倉はしまったと思った。
「すまない、言葉が悪かった。俺にまで気兼ねする必要はないと言いたかったんだ」
「わかって、います。……だめですね、ッぜ、ひゅ…ッは、は……最近すこし、弱気になって、ッ、いる、ようで……」
もう何度取り繕うような笑い方を、気丈にあらねばと虚勢を張った声を聞いてきただろう。そうでしかあれないのだととっくにわかってはいるのだが、ふとした瞬間に自分も彼に無理をさせているうちの一人なのだと思い知らされる。心に翳りが生じたときに、自分はここにいても何の役にも立たないのではないかと思ってしまう。
「冷えただろ、茶でもいれてくるよ。何か食べるか?」
「いいえ、結構です……お茶だけ、頂きます」
苦しげな咳と喘鳴から逃げるように廊下に出て、そんな自分にふと嫌気がさしてしばらく閉めた襖の前に立っていた。教室からは相変わらずくぐもった咳が断続的に聞こえていた。
先生が大量喀血して倒れたのは、それから数日後のことだった。
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