いいかげん帰りの遅い直次を探しに教室を出た。
探すまでもなく、直次は玄関を出たところで座り込んでいた。
「風邪をひくぞ」
「そうですね……兄さんにうつしたら大変だ」
羽織を脱いで肩にかけてやると、直次は俯いた顔を上げた。随分と泣いたのだろう赤い目元を照れ隠しにぐいと乱暴に拭い、弱った視線を向ける。
「昔も、こんな風に喧嘩をしたことがあって……僕がまだ十の歳を数える前のことでした。些細なことから言い争いになって、売り言葉に買い言葉で僕は家を飛び出して。泣きながら友人の家に走っていって、日暮れまで遊んでいるうちにすっかり機嫌を直してしまったんですけれどね。でもその間ずっと、兄さんは言い過ぎてしまったことを悔やんで町中僕のことを探し回っていて……『お前の両親が血相変えてお前のこと探してる、なんでもお兄さんが無理をした挙句倒れたらしい』そんな知らせを受けたのは、ちょうど一番星が輝き始めた頃でした」
なるほど、目に浮かぶようだと藤倉は思った。あの夏嵐の一件で直次があんなにも取り乱した理由もそこにあったのだろうなと、今更ながらに知った思いだった。
「慌てて帰った玄関先で、ちょうど処置を終えて帰ろうとしていた池沢先生に会いました。『君のお兄さんはとても身体が弱いんだ、もう決して今回のような無理をさせてはいけないよ』――決して叱る口調ではなく、でも真正面からはっきりとそう言った池沢先生の目がとても怖かったことを、今でも忘れられないでいる」
緩く組んだ指先に視線を落としながら直次はぽつりぽつりと思いを吐き出していった。それはたしかに先程の激情の延長上にあったが、苛立ちと悲しみと愛情を綯い交ぜにして火をつけるのではなく、ひとつひとつ形と色を確かめてはふさわしい名前と置き場所を決めていくようであった。
「元々身体が弱いせいか、することなすこと全てがまるで命を燃やすようで……僕はそれを見ていることしかできない。誰よりも兄さんの近くにいながら、何もすることを許されない。兄さんは許してくれない。僕は時々、そういう兄さんが嫌いになる。同時に、兄さんを嫌う自分のことを、最低な奴だと心底嫌悪する」
自分の兄が途方もなく優しい人であること、自分もその愛にたしかに包まれていると感じること、同時にその愛や優しさは彼の弱い身を壊しかねないこと――自分には兄を止められないこと、止めるべきではないということ。直次はもうとっくに自身の中で結論を出しているのだ。しかしそれを認められずに彷徨っている。
「なあ。先生は強い人だから俺達の存在なんて必要ないんじゃないか、って思ってしまうこと、ないか?」
藤倉の中にも朧げな結論が構築されつつあった。夏の終わり、薬の匂いの染み込んだ華奢な背を抱きしめて居場所を見つけたあの日から、少しずつ何かがわかり始めた気がしていた。
「俺には時々そういう瞬間があって、ふと虚しくなったりする。でもな、あいつはただ不器用なだけなんだと思うね。不器用すぎて、何が本当の気持ちだったかさえわからなくなっているだけなんだ」
秋が去って雪が降り、変わらないようで確実に変わりゆく日々を過ごしながら見えてきたひとつの答えがある。自分は今、ある田舎町の教師が教師として生きる様を、また同時に教師ではない平野啓司という一人の青年が生き、やがて死にゆくのを見届けるためにここにいる。寄り添い、しかし引き止めることはせず、彼のいなくなった後に彼のことを記憶しておくためにここにいる。それが自分に課せられた定めであり願いでもあるのだ。
身を削るような咳、日に日に痩せていく背中、一層透き通るようになった濡羽色の瞳と、薄く紅を引いたような頬。懐紙に繰り返し喀かれる血痰――どれだけ鈍かろうとさすがにわかる。先生の身体は、肺に巣食った死病に蝕まれつつある。直次もきっと、とっくに気がついている。
「最近、兄さんが死ぬ夢ばかり見るんです。夢の中で兄さんは血を喀いて倒れて、もうぴくりとも動かない。必死で抱き起こした体に温もりはなくて、ああ二度と目を覚ますことはないんだと一瞬で理解してしまう。……やがてひどい悪夢を見たと汗びっしょりで跳ね起きて頬を涙が伝っていって、落ち着いてきた頃にようやく、離れた部屋から咳の音が聞こえてくるのを意識するんです。ああ夢だった夢でよかった、兄さんは生きてる、って安心するんです。聞こえてくる咳は大抵ひどく苦しげなのに、僕はそれを聞いて安心してしまう」
怖い、と直次は掠れた声で呟いた。羽織をかき寄せて、もはや白くもならない凍った息を吐いた。
怖いよなあ、と呑気に答える。呑気に聞こえればいいと思った。そろそろかじかんだ感覚さえも消えそうな指先を擦り合わせて、鈍色の空めがけて大きくのびをした。
「藤倉さんがいてくれて、よかったです」
赤くなった目尻を下げて笑う彼に、先生の面影を見た。
「俺も、直次がいてくれてよかったよ」
縮こまった背中に藤倉は黙って手を置いた。ぽろりとまたひとつ涙を零した直次は恥ずかしそうに目を伏せた。
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