翌日の早朝に先生は意識を取り戻した。相変わらず肺は炎症を起こしたままのようで、毛布を積み重ねて作った背もたれに身を預けていても、ヒウヒウと空気の抜けるような呼吸音は苦しげなままだった。
「飲めるか」
白湯を入れた吸い飲みを寄せると、こくりと一口、唇を湿らせる程度飲み込んだ。
「あまい……」
「飲みやすくなるかと思って蜂蜜を少し入れてみたんだが、わかるか」
先生はひとつ頷いた。普段よりも黒目がちな瞳がふわりと焦点をぼやけさせるのを見て、藤倉は席を立った。
「後でまた来る」
扉を開けてもう一度振り返ったときにはもう、先生は喘鳴混じりの寝息を立てていた。火照った頬に落ちる苦痛の色が薄いのを確認して、その場をそっと後にする。
廊下に満ちた、秋の初めの翳った暑さを胸の奥深くまで吸い込んだ。ふと通りに面した窓の外に目をやると、筋状の雲がいくつも空を走っていた。入道雲のいなくなった空は夏の盛りの頃よりも幾分高くなったように思えた。
通りの片隅に転がっているのは、短い生を終えた蝉の亡骸だろうか。眺めているうちに荷物を満載した大八車が通りを横切って、蝉はどこかに消えてしまった。
もう聞き慣れてしまった暗い雨音がまたも耳鳴りのように響き始めるのを、窓枠に肘をついたままぼんやりと受け止める。
昼頃医院に戻ると、診察室には駆け込みと思われる患者が一人いた。池沢は不在なのか、直次が患者の腕に包帯を巻いている。
「直次、体調はもういいのか」
「平気です。……それより、」
直次は黙々と包帯を巻きながら、病室の方を目で指し示した。
「あまり状態が良くない。僕は池沢先生の代わりにこっちの処置をしていますから、早く行ってください」
「また発作か」
直次は答えない。傷口にあてたガーゼをずらさないよう片手で押さえながら、もう一方の手でくるくると器用に包帯を巻いていく。その手さばきには一抹の迷いも見られなかった。
「俺が代わろう」
「いいです、藤倉さん包帯巻くの下手でしょう。いいから、行ってください」
彼にしては随分と棘のある物言いだった。滑らかに動いていた手先が不意に狂って包帯を取り落とすのを見て、彼は精一杯の虚勢を張っているのだと気がついた。
病室に入ると、身を起こし前屈みになって呻く先生の背を池沢が擦っているところだった。
「ああ藤倉さん、ちょっとそこの手拭いを取ってくれませんか」
何があった、と問う己の声は図らずも上擦っていた。
「吐き気がひどくて。食べるどころか水も受け付けなくて」
ぜえ、ぜえと荒い息を吐く先生の背がびくりと強張り、ひときわ大きく揺れた。
――ッ! ……っゔ、う、ぇ……ゲホッゴホっ…ゴぼッ、っ…! ぅ゛、ぐぶッ…ッは、は……は………ッ゛ええ゛っ、ゴぶェッ……
咳を引き金に嘔気の波が襲うのか、咳き込む度に背を弓なりに強張らせて嘔吐く。しかしここ数日水の他に何も口にしていない体に吐き出すものなど存在せず、溢れるのは生理的な涙と唾液ばかりだった。
え゛おォ……ッ! …っは、はぁ、は……――ッ゛、うぇ…、 っ
関節が白く浮き出た手にばたばたと涙が落ちる。息も継げぬほどげえげえと嘔吐き続け、ついにはぐらりと体勢を崩し池沢の肩口に倒れこむと、暴力的なまでの苦痛に全身をがくがくと痙攣させた。
「っ……!」
藤倉は反射的に一歩後ずさった。先生に取り憑いた何か得体の知れないモノが今まさに内側から彼を喰い殺そうとしているかのように思えて、目の前の光景にどうしようもない恐怖を覚えた。
ガン、と引いた足が戸枠に当たって、そのまま縺れて転んで廊下に尻をついた。池沢が一瞬驚いて顔を上げるのを見た。
足を引きずって立ち上がると、わけもわからずそこから逃げ出した。自分が何に怯えているのかもわからなかったが、ただひたすらに怖いという感情が全身を支配していた。
あれは、あんなのは、俺の知ってる先生じゃない――
「藤倉、さん」
小さな呼び声が藤倉の足を引き止めた。診察室の隅にある粗末な椅子に浅く腰掛けて、直次が泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「すみません、僕……どうしても見ていられなくて逃げたんです。藤倉さんなら大丈夫だろうって勝手に思って、いいえ、そう思いたかっただけだ。あんな言い方して、押し付けようとした」
迷いながら感情を殺しながら、必死に言葉を選ぶその姿は先生によく似ていた。しかし先生はそういうとき決まって目を伏せたが、直次は射るようにこちらを真っ直ぐに見つめるのだった。
「藤倉さんがいつも兄さんの傍にいてくれるようになって、正直僕は随分楽になりました。僕以上に兄さんのことを想ってくれる人にいつか兄さんを失う日が来る恐怖を押し付けて、自分は一歩そこから離れようとしたんだ」
「そんなことは、」
「藤倉さんはどんなときも冷静で、決して臆することはなくて、だから任せて大丈夫なんだと思い込もうとして――そんなはずないのに、あんなに兄さんのことを想ってくれている藤倉さんが平気でいられるはずなんかないのに、そうと気づいてもまだ僕は僕自身を守るために、貴方を盾にしようとしている」
目の前まで歩み寄ると、直次はぐっと下唇を噛んで俯いた。震える肩にそっと手をやると、彼は素直に藤倉の胸に顔を埋めた。
「兄さんがもう二度と戻ってこないんじゃないかって思うと、たまらなく怖い」
「……ああ。俺も、怖いよ」
くしゃりと撫でた直次の髪は先生のものとよく似て柔らかかった。声を押し殺して泣き始めた直次の背を黙って擦りながら、ああ、彼は泣けるのだな、とふと思った。
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