夜明け前に医院に移動してから丸二日の間、先生は薬で昏々と眠り続けた。否、眠らされ続けた。
二日の間に打たれた注射の数は十を超え、両腕には赤黒い花弁の痕がいくつも刻まれた。惨いそれを隠すために巻かれた包帯は目に痛いほどに白く見えた。
朝からしとしとと降り続く雨音が病室に重い湿度をもたらしていた。寝台の横に据えられた簡素な椅子に深く沈み込んでいた直次がふと身じろいで、一面の白に埋もれて眠る先生に目を向ける。触れようと伸ばされた手はしかし届く前にびくり、と怯えるように震えて動きを止めた。しばらくふらふらと宙を彷徨った手はやがて力なく敷布に落とされる。
藤倉は細く開けた扉の合間からそれを見ていた。丸まった背中が二度、三度と嗚咽するように揺れるのを見て、音もなく扉を閉じる。手の中には渡しそびれた湯呑みが残された。
直次の元に二人が見つかったという報せが届いたのは、降り続く雨がようやく止み始めた頃だったらしい。直次は報せを受けて一瞬狼狽えはしたものの、兄のことは藤倉さんに任せましたから、と言ったきりそれ以上は詳しいことを何ひとつ聞こうとはせず、二人が見つかってよかったと泣きじゃくり始めたハツ子の背をいつまでも撫でていたという。
山向こうから燃えるような朝焼けが広がっていく中、ようやく町まで戻ってきた藤倉と池沢が見たのは、医院の玄関先の冷たい石畳の上に膝を抱えてひとり座り込んでいる直次の姿だった。
ハツ子の両親が彼女を引き取って帰った直後に医院へと向かった直次は、いつ戻るかもわからない二人をひたすらに待っていた。朝靄の向こうから歩いてくる池沢と藤倉と、その背に負われた最愛の兄の姿を見てようやくぼろぼろと涙を溢れさせた直次は、それからは片時も兄の傍を離れようとしなくなった。
直次は献身的に看病し続けていたが、先生の容体は一向に回復しなかった。一時は命さえ危ぶまれる低体温状態に陥ったせいもあり、肺の炎症がいくら薬を使おうと中々治まらない。鎮咳効果のある薬を使い続けていなければ自力での呼吸すらままならない状態であった。
しかしこれ以上薬に頼ると副作用に身体が耐えられなくなるという。やむなく薬を減らし始めた三日目の夕方から、先生は高熱に苦しめられるようになった。
「は、は……ッ、…ハ、ぁ 、 ッ――はっ、は……」
浅い呼吸を忙しなく繰り返す様は、まるで声を押し殺して泣いているかのようにも聞こえる。時折ひ、ッひ、とひきつけを起こしたように危うげに息を吸い込むと、病んだ胸はぎうぎうと不吉な軋音をたてた。
手に、首元に触れてみると火傷しそうなほど熱いのに、薄い唇を震わせて細い呼吸を紡ぐことしかできない様子は、苦しみを外へ逃がす術さえも病に奪われてしまったかのようだった。不気味なほどの静けさを孕んだ苦痛がそこにあった。
直次は一層寝台の傍から離れようとしなくなった。危うい呼吸が不意に止まりそうになると途端にがたん、と音を立てて椅子から立ち上がり、ぐったりと投げ出された手をきつく握りしめ、池沢を呼びにいくべきか視線を泳がせる。そうしている間に呼吸はまたゆっくりと落ち着いていく、そんなことを一日中繰り返していた。
あまりに痛々しいのを見かねて粥を持っていったが、無言でつっぱねられた。お前まで倒れちゃ元も子もないだろう、と強く諭したらようやく少し口にしたが、しばらくして急に肩を跳ねさせたかと思えば口元をおさえて厠に駆け込んでしまった。
ひどく吐き戻したのか、前髪をべったりと脂汗で張り付かせたままふらふらと戻ってきた直次の顔は紙のように白かったが、瞳だけはギラギラと剣呑に光っていた。ああ、あの日の自分もそんな目をしていたのだろうか、と他人事のように思った。
翌日、案の定直次は極度の心労から発熱し、池沢によって無理矢理寝台の傍から引き離されることとなった。
「なぁ、先生」
昨日よりは少し落ち着いたようだったが、いまだ目覚めない先生の呼吸は苦しげで頼りないものだった。少し目を離した間に永遠に止まってしまうかもしれないと思うと、湯呑みを手に取る一瞬や、厠に立つ数分さえも恐ろしくなってくる。昨日までの直次を笑えないなと思ったが、生憎か藤倉はそれに耐えうるだけの身体を持っていた。
目の前で眠り続ける先生にその一部だけでも分けてやれたなら、彼は目を覚ましてくれるだろうか。
暗闇と豪雨の中でようやく見つけた手に拍動を感じなかった瞬間の絶望が、藤倉の感覚を今も麻痺させているかのようだった。直次の代わりにこうして見守っていても、目の前の景色がどうにも現実のように思えなかった。
「お前さんが戻ってこないと、どうやら俺もあの雨の夜から抜け出せないらしくてな」
目の前の無機質な白よりも、目を閉じると広がる闇の方が余程現実的な気がした。ざあざあと降りしきる雨音まで聞こえてくるようで、藤倉は知らずのうちに両の手をきつく握りしめていた。
脳内で響く雨音に、ふいに現実の咳音が混ざる。
いつの間にか眠っていたらしい。目を開けると、苦しさに顔を歪めて先生が咳き込んでいた。けほ、けほと吐息のような咳は一向に治まらないどころか、次第にぜほぜほと痰が絡んだ音をたて始める。
「おい、しっかりしろ」
震える肩を引き寄せて体勢を横向きにし、高熱にじっとりと湿る背に手のひらをあてた瞬間、体重を支えるため敷布についたもう片方の手に熱いものが触れた。常より高い体温を宿す痩せた手が、力の入らない指先で必死に藤倉の手首を掴もうとしていた。
「っ、けほ………ッう、」
弱々しくも確かな意志の感じられる指先が二度、三度と手首の内側を撫でる。やっとのことで手首を捕まえると、先生はそのままそれを胸の中心に抱き込むように体をくの字に折った。
「けほッ、ケホケホげほっ…………ぅ、ゲホッ、ぜぅッ――」
背を下から上に擦りつつ軽く叩いてやると、先生は体をいっそう固く縮こまらせ鋭く咳いた。咳とともに吐き出される甲高い笛のような響きが、背にあてた手のひらを通じて伝わってくる。
「ぜほぜほぜゴぼッ………、っ、や……」
「どうした、今何か、何か言ったろう、」
咳の合間に譫言のように呟いた気がした。目を覚ますか、という一抹の期待に体がかっと熱を帯びる。
「どうしました、何事ですか」
声を聞きつけてやってきた池沢は、藤倉に縋って苦しげに咳き込む先生の様子を見るなり顔色を変えて歩み寄った。
「先生、聞こえますか、目を開けられますか」
藤倉の手をやんわりと退け、咳の衝動に跳ねる肩を押さえてやりながら、池沢は小さな子どもにするように何度も優しい声音で呼びかける。
「ッや、め……っけほ、っ……! ――たし、は………、ッあ、ゔ、っく、」
「落ち着いて、大丈夫です、怖いことは何もありませんから」
先生はひどく何かに怯えているようだった。言葉を口にしようとする度に咳に遮られ、ひゅうひゅうと胸を鳴らしながら嗚咽するように喘いでいた。
先生が泣く姿をこれまで見たことがない。悲しみが隠しきれないとわかると、先生は無理に笑おうとするのだ。それが余計に痛々しく見えることも知らずに。藤倉はその傷ついた下手な笑顔が嫌いだった。そんな顔をするくらいなら素直に泣けばいいだろうと思っていた。
あの夜壮絶に苦しみ、ぼろぼろと止めどない涙に頰を濡らした先生を見たとき、すとんと何かが腑に落ちた。先生は泣かないのではなく、きっと泣けないのだ、と。
噎ぶような咳は段々と落ち着いていった。再び力を失った体が寝台に沈み込むと、池沢は呼吸と脈を確かめた後にようやく少しほっとした顔を見せた。
「大丈夫、意識が戻りかけて混乱しただけです。もう落ち着きました。……しかし、」
意識が戻ってからの方が――言いかけて口ごもった池沢の言葉の先を、藤倉は聞かないでおくことにした。
遅かれ早かれ、どうせこの目で見ることになるのだ。最後の呼吸を見届ける瞬間を先に想像しておけば、いざそのときが訪れてもどうにかなるのではないか。そんなことをふと考えてやめた。
"五 空蝉・夏の果て"へのコメント 0件