夏とはいえ、日暮れ間近の山は思っていたよりもずっと気温が低かった。
町から続く山道は、中腹にある小さな寺までは道幅もそこそこにある一本道でまず迷うことはない。寺を越えた先は山頂へ向かう道と、沢伝いに隣山の集落へと抜ける道に分かれていて、どちらも江戸以前から使われている古い山道だった。
分かれ道を前に先生は足を止めた。山頂へ向かう道は比較的明るく途中には見晴らし台のようなところもあるが、始めから急な上り坂であるため子どもが一人で登るのは躊躇うのではと思わせる。沢へ出る道はいかにも寂れた山道といった細さと暗さが不気味だが、緩やかな下り坂なので歩きやすそうだ。子ども一人ならばどちらに行くかとしばらく考えた末、先生は山頂へ向かう道を辿ることにした。
「一彦さん! いたら返事をしてください!」
鳥や小動物の気配はあれど、人がいる様子はない。木の葉のざわめきが響く山中に先生の声がこだまする。
少し歩を進める毎に名を呼びながら急な山道を登っていたが、数十分もすると息が切れてきた。一歩踏み出す度には、は、と肩で息をするようになり、発作を起こしかけているときのような、言い知れない胸の圧迫感を感じ始めていた。
体力を温存するために叫ぶのを止め、その場に佇みじっと周囲の気配に意識を傾ける。頭上の木々の葉擦れの音、小動物が高い草の中をかさりこそりと移動していく気配の中から、人の声を、足音を拾い取ろうと集中する。葉の緑と土の茶黒、岩肌の苔むした鈍色ばかりの視界の中に、一彦の着物の鮮やかな青い帯が見えやしないかと目を凝らす。
ふと、道から少し逸れたところに何かキラリと光る物が見えた。
「これは……」
膝より少し高いところに張り出している木の枝に、何か小さい物がぶら下がっている。近づいてよく眺めてみると、それは小さな鈴だった。使い古してくたびれた桜色の組紐に小ぶりな鈴が結わえられているそれを、先生は以前見たことがあった――紛れもなく一彦のものだ。
「間違いない……たしかにここを通ったんですね」
鈴のぶら下がっていた枝の近くをさらによく見てみると、軽く滑ったような草履の跡があった。さらに道から外れた奥には手折られた小さな花が一輪落ちている。きっと張り出した木の根に躓いて滑って、そのときに鈴をここへ引っ掛けてしまったのだろう。手に持っていた花もそうして落としたに違いない。
一彦が分け入ったと思われる道無き道の先を先生はじっと見つめた。もうすぐ宵闇に支配される山でたったひとり、道を外れることがどれだけ危険かは実際に経験がなくともわかっていた。本能的な恐怖に足が竦んで、踏み出すのを躊躇わせる。
ぱた、ぱたた、と雨粒が葉に弾かれる音に、はっとして空を見上げた。いつの間にやら真っ暗な影の中に呑まれたように一面灰黒に埋め尽くされた空から、大粒の雨が降り始める。
「迷っている暇はなさそう……ですね」
恐怖を殺して、先生は一歩踏み出した。濡れた草に足をとられないよう注意深く進んでいく。途中何度か名を呼んでみるも、声は雨音にかき消されて遠くまで響かなくなってきていた。
雨はいよいよ勢いを増してきている。風に踊らされた木の葉がごうごうと唸りをあげ、斜めに吹き付ける雨粒のせいで真っ直ぐに前を見られない。全身濡れたせいで急激に体温の下がった体はがくがくと震え出し、夏だというのに吐く息は白くなった。ぜほげほと胸に絡みつくような重い咳は次第に間隔を狭め、呼吸の度にぎちぎちと締め付けられるような苦しさが襲いくる。
「一彦、かず……ッぜほんぜほぜほッ、ぜォんゼっ………――ッキひゅ、げほっ、げほげほげほッ、ぅぐ、ッ、 ん」
噎せ込む咳に痰が絡んで息が詰まり、先生は近くの大きな木に半ば崩れるように凭れると激しく咳いた。
呼吸の度に吐く息が、胸が熱くてたまらない。思わずきつく握りしめた着物の胸元は絞れるほどに濡れていて、その下の色を失った肌は氷のように冷たい。
「かずひ……っゼぇいッゼほンぜほ、………かず、ひ、っぅ、」
雨音にかき消されそうな声音で、それでも先生は呼び続けた。
「――せんせい……っ!」
微かに、しかし確かに声が聞こえた。
「ど、こ……ッ゛、ぜほっ、げほッげほげほっ…」
「せんせぇ……っ」
突如轟音とともに稲光が炸裂して、辺りが一瞬昼間のように明るくなる。わあぁんと泣き叫ぶ声が聞こえて、鮮やかな青がちらりと動くのを視界の端で捉えた。
酸欠で朦朧とする体に鞭を入れ、よろよろと前に進み出る。白飛びした視界の代わりに精一杯手を伸ばす。ふいにどん、と腰に抱きついてきた一彦の体重を支えきれずに諸共崩れ落ち、ぬかるみの中に尻をついた。
「せんせ、せんせいっ……ごめなさ、ごめっ……っうう、ぅああああん…………っ」
「もう、大丈夫……。げほっごほ、っ怪我は、ない、ですか……?」
ごめんなさい、先生ごめんなさいと泣きじゃくる一彦の体をぐっと抱き寄せると、冷え切ってはいるもののしっかりとした鼓動の響きを感じた。
ほっと安堵した瞬間、目の前の景色がぐずりと溶ける。いけない、と思った途端湧き上がる胸の熱さに息が詰まって、抱き寄せる手に思わず力がこもった。
「せんせ……?」
大丈夫と答えてやりたいが声が出ない。代わりに口からはう、ぐ、と低い呻きが漏れた。はっとした一彦が蹲る背を小さな手のひらで必死に擦るも、胸の奥を幾千もの針で繰り返し突き刺されているかのような痛みは消えてくれない。それでも何度も何度も懸命に擦る熱に少しだけ緊張が解けたのか、しばらくじっとしていると痛みはじくじくと体の奥底で燻るまでに落ち着いた。
「いきま、しょう……歩けます、か」
一彦は手を差し出した。先生つかまって、と伸ばされた手の力を借りてふらふらと立ち上がるも、視界はいまだ白く揺れている。
「せんせいの手、熱いよ」
「あなたが、冷えきって、いるんですよ。っけほ…ッ、う゛……ッはぁ、は……大丈夫、もう怖いことは、ありませんから」
背負ってやりたかったが、そんな体力は残されてはいなかった。雨は激しく叩きつけるばかりで、町の灯りはおろか来た道さえ見えてこない。
「せんせ、どうやって帰るの……道がわからないよ……!」
「大丈夫……藤倉さんが、教えてくれましたから」
――暗くなってから慣れない道を、特に山道を歩くのは避けるべきなんだが、どうしてもというときは……まず迷ったと気づいてから先には進まないことだ。迷ったからと慌てて闇雲に、特に下ろうとするのは良くない。沢に迷い込むと危険な岩場や崖に阻まれて身動きがとれなくなったり、致命的な怪我をする危険があるからだ。迷ったときは落ち着いて、来た道がわからなくとも遠回りになろうともとりあえず登ることだ。運が良ければ道のわかるところまで戻れるだろうから、そこから来た道通りに山を下りればいい。……あとはそうだな、もしも助けが来る見込みがあるのなら、その場から動かずじっと体力を温存するべきだ。目立つ色のものや音が出るものを持っていればそれを目印にできる。
子ども達から旅の話を聞かせてほしいとせがまれた藤倉が語った中に、山で遭難しかけたときの話があった。具体的な知識については子ども達には理解し難かっただろうが、ハラハラする冒険譚にみな目を輝かせていたのを覚えている。まさかこんなところで実際に役に立つ日が来ようとは。
豪雨と暗さのせいで来た道はわからなかったが、よく見るとぬかるみに足を取られた跡や、滑って咄嗟に掴まったせいで折れた枝があるのがわかる。一彦の手を決して離さないようにしながら、それらを頼りに一歩一歩斜面を登っていく。
意識が朦朧としているのか、痛みは先程よりは強く感じない。熱に浮かされふわふわとした脳裏に浮かぶのは藤倉のことだった。
彼がしばらく前から旅支度を始めているのは知っていた。数日前には重そうなコートが埃を払って玄関にかけられていた。今朝子どもの引き取り手のことで隣町に行くと言った彼が、ふと窓から眩しげに空を見上げるのを見たとき、ああ、ついに心を決めたのだなと悟った。
なんとなく、彼は面と向かって別れを告げてこないだろうと思った。半年近く一緒に生活してきてひっそりと出ていくなんて随分と薄情だが、その方がいいと思う自分がいた。面と向かって別れを言われたら、思わず引き止めてしまいそうだった。だから藤倉のやり方に口を挟むつもりはなかった。旅立ちの気配に気がつかないふりを通すことにした。
近いうちに彼は旅空の下に戻っていくのだろう。ある日帰ったら、初めから誰も居なかったかのようにがらんどうの部屋がぽつんと残されている。そんな光景を目にする日はもうまもなく訪れるだろう。もしかしたら今この瞬間にだって、藤倉は何も知らないままに荷物をまとめて出ていこうとしているのかもしれない。
「それで、いい」
彼の自由を奪いたくなかった。彼の未来を奪うくらいなら、あの日出会わなければよかったとさえ思うかもしれない。
気がつけばそれほどまでに彼に惹かれていた。彼といれば、何をするにも不自由な身体をもって生まれた自分でも何か成し遂げられるかもしれないと思った。これが私の生き方だと心から言えるようになる日が来るかもしれない。教師という、強くあらねばならない鎧に隠した脆い心を、いつの日にかありのまま晒け出す勇気を、藤倉になら抱けそうな気がしていた。
全部全部胸の奥底に隠したまま、気づかないふりを貫いて生きていく。
「先生!」
一彦の声にはっと我に返ったときには、もう体が傾いでいた。がくりと膝が折れ、ずるずると近くの木に崩れ落ちる。
「先生、先生! 大丈夫、せんせい!」
「っ、ええ、すこし、ごほッ、滑った、だ」
すぼめた口からはヒュウヒュウと甲高い笛のような吐息が零れるばかりで、胸の奥につかえたものを吐き出せない。落ち着こうと深く息を吸った途端、肺の奥底の組織をズタズタに引き裂かれたような激痛が鎌首をもたげた。
「ッ゛あ……!」
思わず胸をぐっと押さえつけ蹲る。やはり何も吐き出せない。明らかに喘息の症状ではなかったがもうそんなことを考える余裕すらなく、せめてもと手持ちの粉薬をありったけ口に含んで飲み下したが、手が震えて半分以上は取りこぼし、溺れるような酸欠感は薄れることがなかった。
「せんせい、やだ、死んじゃやだよぅ!」
目の前で必死に呼びかける一彦の声が、かろうじて意識をこの場に繋ぎ止めていた。私は教師だ。私が守ってやらなければ。擦り切れた信念がボロボロの身体を支えていた。
もう声も出せない。それでも必死に立ち上がって一彦の手をとると一歩、一歩とひきずるように歩を進めた。
町の明かりはいまだ見えない。ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
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