「先生っ、一彦がここに来てはいませんかっ」
掃除のために開け放っていた玄関に、息せき切ったハツ子が転がるように飛び込んできたのは、山すそにあかあかと燃える夕日が差している頃だった。
「一彦さんならお昼過ぎにここに来ましたけれど……まだ帰っていないのですか」
上がった息もそのままに、ハツ子はすっかり取り乱した様子で、
「私がッ、私が言い過ぎてしまったのがいけなかったんです。かっとなってつい、怒鳴ってしまって……二度と顔も見たくないなんて、ひどいことを言ったから……どうしよう私のせいだ、もしも本当に人さらいにあったなんてことになったら、私、私ッ」
ハツ子の話はさっぱり要領を得ない。それでも何か悪いことが起こったのだということだけはわかった。
「ハツ子さん、落ち着いてください……人さらい? どういうことです?」
「私が怒鳴ったから、一彦は泣いて家を飛び出してしまったんです。いつもはもっと早く帰ってくるのに、今日は全然帰ってこなくて。もしかしたら遠くまで行って、運悪く人さらいにでも遭ったんじゃないかって、父と母と近所のみんなで、今総出で探していて……私は家にいなさいって、でもいてもたってもいられなくって……!」
一彦は私と喧嘩したときはいつも先生のところに行くから、もしかしたら先生なら何か知ってるんじゃないかと思って。ハツ子は涙交じりに訴えると、ぐっと下唇を噛んで俯いた。
ハツ子の両親は今頃はまだ家の近所を探しているのだろう。小さな町とはいえここから少し遠いところにある姉弟の家周辺の出来事は、このあたりにはまだ伝わってきていないようだった。
「一彦さんはたしかにここに来ましたよ。心当たりがあります。大丈夫、きっと寄り道をしているだけです」
「寄り道……? どうして……」
弟への心配で目を真っ赤に腫らしたハツ子の頭を先生はそっと撫でた。
「その理由はきっと一彦さんが教えてくれますよ。さあ、一緒に行きましょう」
ハツ子の手を引き外に出ると、空はすでに燃えるような茜色に染まる時間を過ぎ、黄昏時の紫に変わっていた。こんな中をひとりきり不安を抱えてここまで走ってきたハツ子はさぞ心細かっただろう。
目指す場所は子どもの足でも教室からそう時間のかからない距離にある。元は江戸の頃に建てられた古い講堂があったところで、数年前に取り壊され空き地になってからは町人達の憩いの場になっていた。子ども達の遊び場として賑わうだけでなく、時折流れの骨董商が露店を出していたり、秋には小規模な祭りが行われたりもする。
空き地が見えてくるあたりから、もう元気そうな子ども達のはしゃぐ声が聞こえてきている。声に安堵したのか、ハツ子は固く握ったままだった手を少し緩めた。
「こんにちは。君達ここでこの子に似た、七歳くらいの男の子を見かけていませんか」
遊んでいた子ども達は教室では見たことのない顔ぶれだった。先生が声をかけると子ども達はこんな時間にまだ遊んでいることを怒られるとでも思ったのか、揃ってしまった、という表情で固まったが、どうやらそうではないらしいと知るとめいめいに口を開き始めた。
「男の子なら来たよ」
「花を探してたみたいだけど、この間そこの茶屋のお姉さんが生け花のために摘んでいっちゃったからもうなくって」
「それを教えてあげたら、山まで行ってみるって言ってた」
――ざわりと、嫌な予感が背を撫ぜた。
「山に、と言ったのですか?」
「うん。少し登った先にある、見晴らしの良いところまで行くんだって」
先生の声がふいに固くなったので、子ども達はそわそわと顔を見合わせた。今度こそ遅くまで遊んでいたのを叱られると思ったのか、僕達今から帰るところだよ、帰り支度しててちょっと遅くなっただけだから、などど言い訳を口々に並べ始める。しかしその声はもう先生の耳に届いてはいなかった。
「そう……でしたか。教えてくださってありがとうございます、助かりました」
さっと山の方を見遣る。夕暮れ前の最後の赤い光がまさに山向こうに消え去ろうとしていた。山は黒い影となって薄明かりの中に不気味な存在感をもってそびえ、さらに悪いことに、遠くに見える入道雲は昼よりも大きさを増している。町がすっかり宵闇に包まれる前に山を越えて、久々の夕立をもたらしそうだった。
「ハツ子さん、ここから一人で家まで帰れますか」
常とは違う先生の声音に、ハツ子はびくりと肩を震わせる。
「嫌です、私も一緒に一彦を探しにいきます……っ」
「いいえ、いけません。すぐにもっと暗くなりますし、雨が降り出すかもしれません。私ならすぐに行って、帰ってこられますから」
安心させようと笑いかけたが、ハツ子は首を横に振るばかりだった。
「やだよ、先生……やだ……」
「大丈夫です、一彦さんと一緒に帰ってきますから。どうか真っ直ぐ家まで帰って、待っていてください」
ついにぽろぽろと堪えきれぬ涙を流し始めたハツ子の前にしゃがみこむと、先生は小さな頭を慈しむように優しく撫でた。
「家に帰ってご両親に伝えてください。頼みましたよ」
不安に眉を歪めるハツ子にもう一度だけ笑いかけると、先生は山の方へと、さらに細く人もない道へと振り返らず歩き始めた。山から吹き下ろす夏にしては冷えた風にけほ、こほんと二つ三つ空咳を零すも、その歩みを止めることはなかった。
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