右から左から蝉の鳴き声が途切れることなく輪唱のように響く中、泣きべそをかいた男の子が教室にやってきたのはそんな夏の終わりのある日、太陽が真上を過ぎて少し経った頃だった。
「一彦さん、どうしたんです……そんなに目を真っ赤に腫らして」
「先生、先生あのね、ねえが怒って……僕の顔なんかもう二度と見たくないって、」
姉のハツ子とまたも喧嘩したらしい一彦は、泣きべそを汚れた手のままに拭ったせいでできた筋を頰に黒く残したまま、先生の腰のあたりにひしとしがみついた。
一彦たち姉弟はとにかく些細な口喧嘩の絶えない二人だった。姉のハツ子が九歳、弟の一彦が七歳と歳も近いため、いつも小学校から仲良く教室にやってくるのだが、帰りにはお互いそっぽを向いて口もきかなかったり、ひどいときにはどちらかが大泣きしていたりする。それでも次の日になるとやっぱり揃って教室にやってくるので、喧嘩するほど仲が良いとはきっとこういうことを言うのだろう。
「こんなに顔を赤くして……暑い日は帽子をかぶらないと具合を悪くしますよ。さあ、中にお茶とお菓子がありますから、一緒に食べましょう」
今日はまだ誰も来ていませんから、好きなお菓子をどれでも選べますよ。みんなには内緒です。頬の汚れを拭いてやりながらそう言うと、一彦は泣きべそをかきつつもようやくへにゃりと笑った。
「……それで、ハツ子さんを怒らせてしまったのですね」
「うん。先生、ごめんなさい」
姉への罪悪感からか、一彦はしょんぼりと項垂れている。
「約束を守らなかったことについてはきちんと謝って、そうしたら今度は一彦さんの話も聞いてくれると思いますよ」
「でも、ねえはもう僕の顔なんか二度と見たくないって……」
どうしよう、今度こそ本当に口きいてくれなくなっちゃったらどうしよう。またもべそをかき始めそうな様子で俯きつつも、傍にある菓子の箱が気になるのか時折ちらりとそこへ目をやる一彦を、先生は微笑ましく見つめていた。
自分には幼い頃兄弟喧嘩をしたという記憶があまりない。とはいえ直次に訊いてみると何故か苦々しい顔を返されるので、実際喧嘩はあったらしい。幼い自分は自覚もないままに弟に大層迷惑をかけたのだろうと思うと申し訳なかった。
「大丈夫、ちゃんと話せばわかってくれますよ。……これは二人へのお土産です。仲直りしたら一緒に食べなさいね」
一彦に渡したのは、丸みを帯びた花型が可愛らしいビスケット。池沢がくれたもので、聞くところでは近頃大層羽振りの良いらしい吏員から、往診の礼にと山ほど受け取ったらしい。そこらで買えるものとは違って栄養価の高い高級品で健康にも良いらしく、是非にと持ってきてくれたのだが、大半は子ども達にあげてしまったと知ったらまた大げさに溜息をつくだろうか。
「先生、お土産にしたら僕だけみんなに内緒でお菓子貰ったこと、すぐにばれちゃうよ」
「おや、それは困りましたね……ふふ」
「先生、隠し事がへただね!」
「本当に、下手ですね」
いつか二人が大人になって幼き日の思い出を語り合うとき、今日のことも懐かしく思い出したりするだろうか。仄かにミルクの香るビスケットの味を、あるいはそれをくれた人のことも――。
日の入り前を告げる夕七ツの鐘の音が、山の方からこだましてきた。夏とはいえ山向こうに沈む太陽は思いのほか駆け足で、暮六ツの頃には子どもが一人歩きをするには不安な暗さが辺りを包み始める。子ども達はみな夕七ツを聞くと各々の家に帰っていくのが、暗黙の決まりのようなものだった。
「先生、僕早く帰ってねえに謝る」
「それがいいですね。きっとハツ子さんも今頃帰りを待っていると思いますよ」
慌ただしく立ち上がった一彦の、ポケットからこぼれそうなビスケットの包みを押し込んでやりつつ先生も玄関に向かう。
先生さようなら、また明日! 言うが早いか一彦は振り返りもせず通りの方へ駆け出そうとして、はたと何かを思いついたのか、ぱたりとその足を止めた。
「先生、お花持っていったら、ねえは許してくれるかな」
先生からのお土産だけじゃなくて、僕からのお土産もあったら喜ぶと思うんだ。そう言う一彦は来たときの泣きべそは何処へやら、すっかり機嫌を直したようで、心なしかいつもよりも頼もしく見えた。
「お花がなくても許してくれると思いますけれど、きっと喜びますよ。どこに摘みに行くのですか?」
「お山のふもとの、この間みんなで行ったところ。あと半月もしたら咲くって先生が教えてくれた……ええと何だっけ、夏がつく花……夏……」
「夏水仙ですね。あそこならば遠くないし大丈夫でしょう。あまり遅くなる前に帰るのですよ」
「うん、先生ありがとう。また明日!」
ぱたぱたと通りを走っていく一彦は、少し走ってはポケットの中のビスケットを落としていないかと触って確かめ、また走っては確かめを繰り返している。あれでは帰り着く頃にはすっかり割れて小さくなってしまいそうだ。
「さて、と。藤倉さんが帰ってくるまで掃除でもしていましょうか」
見上げた家々の屋根の向こうには、少しずつ白んで夕日の色に近づきつつある山の端が見える。雁行する鳥の群れが夏の影の向こうへと飛び去っていく。
あと一週間ほどで子ども達の夏休みも終わり、いつもの教室が戻ってくる。その前に一度きちんと片付けをしておこうかと、先生は着物の袖をたくし上げた。
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