Adan #62

Adan(第62話)

eyck

小説

1,634文字

ワタキミ的アイスバーグ作戦〈10〉

あ、そう言えばタカコさんの紹介はまだだったね。タカコさんは混血ハーフなんだ。父親はジャマイカ人、母親は日本人らしい。年齢は二十八だって言ってた。筋トレが趣味のタカコさんは引き締まった体をしていて、毛束がヒップまで伸びてるコーンロウの頭髪もクールだ。僕が常連客になったばかりのころはアルバイトを雇っていたけれど、店は一年くらい前から田古田さんとタカコさん夫婦二人だけで切り盛りしている。と、ここからちょっと余談だよ。僕は田古田夫妻が店で雇っていたアルバイトの娘にフラれた経験がある。ああ、あのころたしかに僕の世界はあの娘のものだったなあ。でもあの娘のものだった僕の世界はあっさり僕の手に返ってきちゃった。とりもなおさず僕はとり戻したくない自分の世界をたやすくとり戻しちゃったんだ。ああ、なつかしい。今となってはいい思い出さ。とりわけ月曜の朝は憂鬱だけど「月曜の朝は憂鬱」というそのフレーズの不思議な肌ざわりは嫌いになれないように、僕はその娘にフラれた思い出を忌み嫌うことなどできないよ。とは言ってもこれ以上なつかしさにひたるのはよくないね。夏の思い出を冬に思い出すとことさらその思い出の背中にお上品な厚手のコートをかけちゃったりするし。

 

「ラッパーの娘のTwitterいま見てるんだけど」とiPad片手にそう言ったのは田古田さん。「この娘と俺、誕生日いっしょだ。六月十四日。この日はアメリカのフラッグ・デーという記念日なんだよねえ。アメリカは星条旗を掲げる日で、アメリカ以外の国は星条旗を燃やす日。まあ昨今のアメリカでは国内でもフラッグ・デーに星条旗を焼却する——それが慣例になりつつあるようだけど」

 

「そんなことより亜男くん」とタカコさん。「又吉イエスを偲ぶ会で知り合った女の子にもちゃんとフラれたんだって? 君はほんとしっかり者ね。抜かりがない」

 

「その会でお知り合いになったのはマリア様というお名前の方だったらしいのですが」と横から口を挟んだのは姫宮さん。「坊ちゃんのそのお方への信心業しんじんぎょうは報われなかったようです」

 

その日は姫宮さんも来ていた。彼女はいつものように膝上丈のメイド服を着てウェイトレスをしてくれていた。ちなみに姫宮さんのチャッキーへのプレゼントはアウトソールがモップになってるドッグシューズだったよ。

 

「地代を受けとらない反戦地主だった又吉イエスの偲ぶ会に行ったのかい?」と怪訝な面持ちで夏太朗兄さん。「亜男くん、その会に行ったときかぶってた仮面の種類は何だったのかな。あ、いま装着してる仮面をつけたまま答えてもらってかまわないよ」

 

「いま夏太朗兄さんがかぶってるそれと同じ仮面」と僕は速答した。「というのは冗談。仮面だって? そもそも僕らに仮面を装着できる顔と呼ばれるその物体ある?」

 

僕はそうつけ加えて自身の両頬をひっぱった。つまり仮面をひっぱりおどけてみせたってわけさ。

 

「おいおい亜男それ以上仮面を脱ぐなよ。その仮面は社会から無料ただで借りてかぶらせてもらってるんだ。すこしは仮面を尊重しろ」と言ったのは北斗さ。「何はともあれ派手な失敗は地味な成功より価値がある。亜男、今回も派手にフラれてくれよな。というかもう失恋したことにして今から落ちこんでおけ。仕事は早いほうがいい。面倒なことは早め早めに片づけておくべきだ」

 

「うちの弟がフラれるわけないだろ」と言ったのは姉。「目下のところ百人くらい連続でフラれているのはたまたまだ。奇跡ミラクルが起きてるだけだ」

 

「ねえ亜男」と宇座あいが言った。「自身の忌日を設定してみたら? そしたら寝ても覚めても悩みつづけて生きることに覚悟ができるらしいわよ」

 

僕は宇座あいをはげしくにらんだ。自身の忌日を設定してみたらだって? ありえない。僕は自身の忌日を設定するようなそんなイカれた破滅型人間にだけはなりたくない、死んでも。

2020年12月28日公開

作品集『Adan』第62話 (全83話)

© 2020 eyck

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