僕が家庭用綱渡り器具から降りたのは摩子と約束した時間の三時間まえさ。けっきょく綱渡りは成功できなかったけど達成感――というか万能感を覚えちゃったよ、なぜだか。おそらくその妙な感覚は“White pride”と書かれたそれに黒色の打ち消し線を水平に引くことができなかったとき襲われるあのとびきり強烈な無力感と対極をなすものだろうよ。“White pride”ってこんなふうにまっすぐ打ち消し線を引けなかったときの無力感ったらないもん。
僕は家庭用綱渡り器具から降りたそのあと風呂に入り、歯を磨き、ひげを剃り、鼻毛を切り、そうしておめかしをして摩子と待ち合わせした那覇新都心へ向かった。景気づけにディーゼルを一杯飲んだからタクシーを利用したよ。そう言えば待ち合わせ場所へ向かう途中、花屋に立ち寄って花束を見繕ってもらったんだ。首に刺青が入ってて鼻ピアスをしてて黒縁眼鏡をかけた無精ひげのやせたおじさんが見繕っていたから不安だったけど、小さなヒマワリみたいな花を主役に据えたなかなかの花束をおじさんはこしらえてくれたよ。
待ち合わせ場所は複合型商業施設の南側の巨大なアルファベット「Q」の下だった。僕は待ち合わせ時刻の一時間も前の六時にそこへ到着してしまった。だからね、僕はその巨大なQの看板を見上げながら世の人々を悩ますQと戦うことにしたのさ。緊張を紛らわすためにね。デートらしいデートをするのは初めてだしさ。まあ緊張するのも忘れるくらいの緊張はしてなかったとも言えるね、緊張してたってことは。
摩子が来たのは「バチが当たる確率って何パーセントだっけ?」というQと「『人工知能の発達によりなくなる職業ランキング』で政治家って何位だったっけ?」というQとの壮絶な戦いを繰り広げているとき。待ち合わせ時刻から四十分ほど経過していたけど、そんなの何の問題でも――もとい、Qでもなかった。いい女は待ち合わせに遅れると聞いたことがあったし、それにその定説から分かるとおり摩子は待ち合わせに遅れることがとても似合ってた。何にせよ、膝上丈の白のツーピースを着た女子が「ごめん」と言いながら小走りでやって来るという夢にまで見たシチュエーションを僕は体現できたんだ。四十分の遅刻も遅れるって連絡がなかったのも何の問題もないよ。
「亜男くん、それ」摩子は僕の首元を指差して言ったんだ。「オオゴマダラみたい」
僕は英字新聞がプリントしてある蝶ネクタイを締め、村上隆の〈お花〉のぬいぐるみバッジを隙間なくあしらったジャケットを着ていた。僕は摩子に気づいてもらえたとき笑顔を送ったつもりだけど、おおかたその顔はナチュラル記号〈♮〉を配列したみたいな幾何学模様だっただろうさ。要するにガイ・フォークス[注1]のようなこの上ない自然な笑顔ではなく緊張で顔がひきつっていたかもしれないってこと。
僕は後ろ手に隠していた花束を摩子に差し出した。摩子は「男性から花束をもらうのは初めて」と言いながらそれを受けとり喜んでくれた。そして摩子は束になっているその花たちの名前と花言葉を僕に教えてくれた。でもね、例によって僕はその花々の情報をすっかり忘れてしまったから紹介できないんだ。かろうじて僕が憶えているのは主役の小さなヒマワリみたいな花の花言葉だけかな。たしか「崇拝」だったと記憶している。
まあそれはそれとして、摩子はこう言って僕の腕に抱きついたんだ、不意に。
「ユーカリの木にしがみつくコアラになっていい?」
つづく
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[脚注]
1.ガイ・フォークス(の仮面)
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