II
「とある前衛劇団を私は半年前に退団して二か月前からベルリンに住んでるおばさんの家に居候させてもらってたの。その劇団を退団した理由は自分なりの表現を考えるためだけにすべての時間を使いたくなったっていうか、うん、決して表現者の道を諦めたわけじゃないの。亜男くん、いきなりだけどコモンマロウティーって知ってる? 青色のお茶のことなんだけど、そのお茶にレモンを入れるとピンク色に変化するのね、理屈は知らない。で、話はここからなの。私はまず亜男くんをレモンだと仮定したのね。それで具体的に亜男くんの何を取り込めば私は変化するのか、ついこのあいだちょっと考えてみたわけ、暇だったから。するとね、こんな答えが降りてきたの。『亜男くんの童貞を奪えばいい』という答えが。亜男くんってチェリーボーイだよね? 隠さなくてもいいよ、雰囲気で分かるから。よく考えて亜男くん。私はいま自分をコモンマロウティーに例えて、ややこしいけどチェリーである君をレモンに例えたわけだけど、実は私はレモン、君はコモンマロウティーでもあるのよ。言ってる意味分かる? 要するに、自分が変わることと相手を変えることをお互いいっぺんにできちゃうってこと! アメージングだと思わない? そんなわけで私はチェリーボーイハンターとして生きていくことに決めたの。これから世界中のチェリーを摘むっていう表現の旅に出るつもり。コモンマロウティーの海に巨大なレモンを落としに行くつもりっていうか、つまりね、チェリーボーイハンターという表現者になるつもり。私の摘むチェリーの記念すべき一粒目が亜男くんなの。その理由はまあ単に私の知ってるチェリーくんが亜男くんしかいないってだけなんだけど。あ、私は変な病気とか持ってないから安心して。はい、それじゃあ亜男くん、ここまでの私の話を聞いて何か言いたいことある?」
摩子にそう訊かれて僕が言ったことをお伝えする前に、まず先に摩子と喋っていた場所の説明からさせていただく。このとき僕と摩子がいた場所は那覇市にある公園、漫湖公園のベンチだ。僕らがなぜこのエキセントリックな名称の公園にやって来たのかというと、それは摩子に指定されたからなんだ。空港にいる摩子を車で迎えに行ったら彼女が漫湖公園に行きたいと言ったのさ。摩子がどうしてこの公園に来たがったのか、それはのちに彼女のとった行動で明らかになる。さて摩子に「何か言いたいことある?」と問われた僕の返答はこんな感じ。
「まず君に謝りたい。君にチェリーボーイハンターなどという不名誉な生き甲斐を見出ださせたのは僕だ。そしてそれは僕にとってもとうぜん不名誉極まりないことだ。僕が君のためを思ってできることと言えば君が奪おうとしている僕の童貞を僕が守り切ることだと僕は思っている。君の名誉を守るために、僕は僕の童貞を君から死守しなければならないんだ。できれば反論は聞きたくないよ。君と僕の名誉のためにね」
僕はあまのじゃくな性質を持った青年じゃない。僕が摩子にそんなことを言ったのは彼女に心底惚れていたからさ。前述の僕の台詞は正真正銘、僕の本心だ。僕はチェリーボーイを卒業したいと日々それだけを考えて生きている。が、僕は節操がない男じゃない。道徳心と冷凍庫の中のバケツアイスだけは人生でまだ一度も切らしたことがないんだ、僕は。
「聞いて亜男くん、私は補助輪みたいな人間になりたいの」と摩子。彼女の瞳はベルリンで会ったときよりずっと輝いていた。「補助輪ってすごいと思わない? だって人に必要とされなくなることを目標にして働いてるのよ。私もそんな人間になりたいの。世の中は大人の考え方しかできない大人ばかりだからチェリーボーイハンターなんて受け入れてもらえないのは百も承知よ。でも私に中指を立てる人がいたら私はその中指を帽子掛けにするでしょうね。とにかく私はこの股で世界を股にかけて活動するって決めたの、PM2.5のように。あるいはなにがしかの新型ウイルスのように」
僕は首を横に振った。「僕には君が脱線する目的で造られたレールの上をしっかり走ろうとしているようにしか見えない。何にせよ僕のズボンのチャックを君に向かって開け放つって決断は僕にはできないよ。僕は君の名誉のためにズボンのチャックを閉ざし続けるつもりだ。君の目的を打ち砕くことが僕の目的になるわけだ。君の人間性を疑ってるわけじゃないよ。チェリーボーイハンターになろうっていう動機、君のその動機があまりに純粋すぎるから僕は君を拒むことしかできないんだ。その僕の真意は分かってくれているのかな?」
摩子は頷いた。「君の真意も、それから君が気づいてない君の真意も私は分かってるつもりよ。私だって処女のとき彼氏からの求めを半年くらい拒み続けたもん。亜男くん、無理なら無理で構わないわ、一向に。亜男くんが私という補助輪を必要としていないのならそれは好ましいことだし。私は人に必要とされなくなることを目標にしているわけだから」
「待って! 僕のことを簡単に諦めないで欲しい。もちろん僕は君の名誉のために君を拒み続けるけど、僕の補助輪になることをそう易々と諦めないで欲しいんだ。なぜってそれは僕が君のことを――ええと、僕の視点から少し離れてみることにしよう。さっき君が言った大人の考え方しかできない大人が言いそうなことをあえて君にぶつけてみるけど、君は愛もなく世界中のチェリーたちと一儀に及べるのかい?」
摩子は微笑した。「愛しかないよ。お金に対する無償の愛のような愛だけしかね」
つづく
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