Adan #36

Adan(第36話)

eyck

小説

2,319文字

はじめてのアルバイト〈4〉

「それ以上言うと亜男に穴が空く。利亜夢、もうそれくらいにしておけ!」

 

姉が僕の頭をスマートフォンで撮影しながら息子をそう叱ったのは、半日がかりでレインボー・アフロにしてもらった僕の頭を利亜夢が過度に称賛し続けていたからさ。あとそれからね、その場には文字通り姉の飼い犬ボストン・テリアのチャッキーもいたんだけど、彼は僕のおかげで〈後ろ歩き〉という芸を覚えたようだったよ。

 

「亜男、お前最近夕方からよく出かけているようだな。女でも買いに行ってんのか?」とスマートフォンを置いて僕にそう訊いたのはカメラマンさ。

 

アルバイトを始めたんだと僕が答えると姉は驚いていた。僕の知る限り彼女はアルバイトさえしたことがない。自分と同じ怠け者の血が流れているはずの弟が就労するなんて信じられないことなんじゃないかな。姉はたぶん漂白処理記号とかウエットクリーニング記号などにバツ印をつける仕事くらいしかできないと思う、そんな仕事があればの話だけれど。アルバイトしている理由について姉は尋ねてこなかった。でもアルバイト先の名称と場所は訊かれた。なので僕は教えてやったよ。

 

それはそれとしてレインボー・アフロについて少しは話しておかないとね。元々のミディアム・アシンメトリー・エアリー・ヘアが伸びきっていたからボリュームは悪くなかったんだ。おまけに発色もよかった。ただし、髪のダメージが気になった。完璧主義者の作家が完璧主義者で居続けることに必死で作品の完成度など気にならないといったそんなひょうきんな作家の気持ちに僕はなれなかったのさ。髪のダメージが大きかったのは、アフロパーマとブリーチとカラーリングは一日で一度にやらないほうがいいとおばさんに言われたにもかかわらず構わず一度にやってもらったからなんだ。でもまあそんなことより、読者諸賢が気になるのはレインボー・アフロの手入れについてじゃないかな。答えてあげる。まず頭は普通に洗えるらしい、うん。「らしい」と言ったのは、僕は「その日」が来るまで頭を洗わなかったのさ。頭を洗わなかった理由はせっかくの美しい虹が消えるのを恐れたため。なんだって? 頭を洗わないで大丈夫だったかだって? 大丈夫なものか! においのほうはココナツのヘアフレグランスをかけまくっていたから大丈夫だったんだけど(僕自身は)、そんなことよりも痒みが……。もう痒くて痒くて夜も眠れないほどだった。失恋した日の夜より眠れなかった……ああ! いま思い出しただけで頭が痒くなる! だからもうレインボー・アフロについての話はここまで!

 

とどろきさんが僕のローライダーに乗って僕のマンションに来たのは明くる日の午後三時半のこと。僕の頭を見た姫宮さんから「雨が降らなくても虹は現れる」というハワイのことわざを教わったあとのことさ(姫宮さんのそれが冗談だと分かったのはつい最近だ……)。

 

轟さんはローライダーの販売/改造/修理/メンテナンスも請け負っている自動車屋の社長さ。彼はハンサムで、筋肉質で、背が高くて、髪型は七三分け[注1]で、セミフォーマルの服を着こなしていて、首や手にタトゥーが見え隠れしていたけれど、とても物腰の柔らかい人だった。年齢は三十一だと言っていたかな。

 

そんな轟さんには一点だけ欠点があった。そう、一点だけ。その日の一週間前、彼が車庫証明の書類を持って家に来たとき僕は彼から渡された名刺を見て閉口せざるを得なかった。なぜって「車屋クルマヤ黒猫クルーマヤー」とかいうセンスの欠片もない、正気の沙汰とは思えないショップ名だったからだ。轟さんは夏目漱石の小説「吾輩は猫である」に登場する「車屋の黒」からとったと言っていたけど、それは自身の駄洒落を取り繕うための後づけにしか聞こえなかった。でも轟さんの狂気、いや手抜かりはそのショップ名だけなんだ。轟さんは仕事が出来る男だ。それは疑う余地がない。彼は比類なきバスボイスの持ち主なんだ。天からそのような声帯を与えられた人で仕事の出来ない人を僕は知らない。

 

「気は確かですか、荻堂さま」

 

轟さんがその声帯を駆使してそう言い放ったのはマンションに併設された自走式駐車場にやって来た僕を視界にとらえたから。彼が僕の頭の外側だけでなく内側まで心配するのもまあ無理もない。車庫証明の申請書に捺印した先週の僕とはまったく違う姿なのだから。僕は聖良ちゃんがよだれを垂らすであろう男に変身していたのさ。言うまでもなく頭はレインボー・アフロ、体はエアロビクスウェアでめかし込んでいて、そしてたまたま家にあったクラウン製の大きな古いラジカセを担いでいたんだ、うん。僕は五時からアルバイトがあった。納車の受け取りにサインして、ホッピングの操作を轟さんから習ったらただちに出勤しなければならなかった。したがって僕の気が確かか不確かか、そんなどうでもいいことを轟さんに説明している時間が僕にはなかった。先に述べたように、アルバイト先へは高速道路を利用して五十分もかかるんだ。何が言いたいのかというと、ローライダーのホッピング・メソッドを轟さんから教わる時間は三十分くらいしかなかったってこと。

 

ホッピング・メソッドを指南して欲しい、と僕は轟さんに早速願い出た。すると彼はこう言ったのさ。

 

「承知しました。しかしここでは飛び跳ねた際に発生する音の跳ね返りが甚だしく、その反響音を聞いたマンションの住民の皆さまのほうが驚いて高く飛び跳ねそれこそ『狂人がいる』といって通報されかねません。移動しましょう」

 

つづく

 

[脚注]

1.七三分け

2020年3月15日公開 (初出 https://note.mu/adan

作品集『Adan』第36話 (全83話)

© 2020 eyck

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