名もなき母

深澤うろこ

小説

1,998文字

第一回ブンゲイファイトクラブ予選敗退作。

 日の暮れかけた公園でひとり遊んでいると、母が迎えにきた。母は100メートル手前でもすぐに母だとわかった。銀色の羽根が光をぐしゃぐしゃに乱反射するからだ。僕は母が公園に着くまでに水道で手を洗い、公園の入口で母を待った。やって来た母は「タイちゃん」と僕の頭を撫で、手をとった。背中の羽根が僕の頬をかすめた。羽根は、厚さを見れば透けそうなほど薄いのに、鏡面みたいにピカピカしている。
 歩いていると後ろから自転車に乗った二人組の、中学生くらいの男の子たちが僕たちを追い越した。数十メートル先で自転車を止めて、こちらをじっと見ていた。僕は目をそらして母を見た。母は何事もないように前を見て歩いていた。僕たちとの距離が縮まると、二人組は自転車を漕ぎだして去っていった。国道に出てトンネルに入った。
「今日のごはんはなんだと思う?」母が聞いた。
「ハンバーグ」
「正解」と母は嬉しそうに言った。母はハンバーグしか作れなかった。
 トンネルは、おんおんおんと音が反射していた。車が走り抜けるとびしゅっ、と大きな音がする。水のなかにいるときみたいに心ぼそかった。世界が急激に縮んでひとりきりになった気持ちになるのだ。しかしいまは母と手をつないでいるから、少なくともふたりだと思えた。
 家に帰り、母の作ったハンバーグを食べた。父は今日も遅くなるようだった。
「美味しい?」
「うん」
 ハンバーグのかたわら、母はストローで水を飲んでいた。一日にコップで何杯も母は水を飲む。お腹の袋にそれを貯めるのだと言う。そうしていれば何日かは何も食べずに過ごすことができるのだと。
 夜中に玄関のドアが開く音で目が覚めた。父が帰ってきたのだ。隣のリビングから父と母の会話が聞こえてくる。母は「美味しい?」と聞き、父は「うん」と答える。カチャカチャと食器の音を聞きながら、僕は再びまどろんだ。

 母が消えた。ある朝起きると、リビングに母の姿がなかった。書き置きも何もなかった。その翌朝もそうだったので、父は仕事を休んだ。警察署に行って帰ってきた。帰ってきた父は椅子に腰掛けながら体を前に丸め、片手でこめかみの辺りを支えていた。
 突然のことに、僕も父も呆然とするしかなかった。その日は父が料理を作った。カレーだった。ハンバーグ以外のものを食べるのは久しぶりだった。冷蔵庫を見ようとするといつものように父に止められた。「ハンバーグの材料がたくさんあるけど、今日はちがうものにしよう」と言いながら父が作ったカレーは美味しかった。
 母に再会したのはテレビのなかだった。ある夕方、親戚から電話があった。「ナルコさんだと思う」と言われてつけたテレビには東京の高層ビルが映っていて、ビルの真ん中辺りから灰色の煙が出ていた。スマートフォンのらしきカメラがズームすると、ところどころの窓に、取り残された人々が映っていた。そこに、するするすると右下の辺りから影のようなものが入ってきた。銀色の羽根。母だとわかった。母は体の色を黒く変色させていた。六本ある腕と二本の足で吸いつくようにビルの壁面を這っていた。「これはなんだろうか」とナレーションが入った。これは母です、と僕は思った。
 画面がスタジオに切り替わった。眉間にしわを寄せてモニターを見ていたキャスターが、右端のひげ面の人に「今のは……」と聞いた。ひげ面の人はなにも答えられないようだった。

 数日後、母は発見された。ビル群の路地裏で、焼け焦げた状態で見つかったという。遺体の確認を父だけがして、僕は父から間違いなく母であると聞いた。
 父に抱かれながら僕は泣いた。大声で泣いていると心の芯の方は徐々に冷たくくっきりとしてきて、僕はいつかこうなると思っていたような気がしていた。あのビルの火事で死者がたくさん出ていたけど、助かった人もいたと父が教えてくれた。
 最低限の修復をしてもらい、母は棺に入れられた。葬儀には電話をくれた父の親戚が参列した以外は誰も来なかった。
 僕は母を改めて見た。それは辛うじて原型をとどめているだけの物体だった。そうやって形あるものが無くなる、という儀式をさせられているのだとつよく思った。
 母が焼かれるあいだ僕は中庭の芝生のある空間にいた。葬儀場の屋根には煙突がついているけど、最近のは煙が出ないのだと係のおじさんが言っていた。
 僕は芝生のうえに寝ころがった。草のにおいがむわっと広がっている。僕はチキチキチキチキチキと鳴き声をあげた。芝生を両手でがむしゃらに掘り返し、黒く湿った土を食べた。手についた蟻やダンゴムシも食べた。むしゃむしゃと食べて、全部吐き出した。胃がうけつけなかった。母のハンバーグみたいな味がした。僕は気持ち悪くて涙が出るのか、、なにかがかなしくて泣いているのかわからなくなっていた。父が呼びに来るまでそうしていた。父と部屋に戻り、寿司を食べた。じゃり、と土の味のマグロは錆びたシャベルみたいだった。

2019年11月24日公開

© 2019 深澤うろこ

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