「ヒカルさんって人にキスされたんだろうな。よかったな、亜男」
北斗のその発言はあまりに唐突だった。母子ともに健康です、と本人から報告を受けたときの女性たちの首のように、ぴんと立っていた僕の両手の中指はうなだれてしまった。北斗は続けて言った。
「ヒカルさんって人のその行動は背徳行為だが、道徳のほうだって人間にずっとしがみつかれてもしんどいと思ってるだろうしな。まあ、許してやれよ」
北斗は僕にとって何か都合の悪いことを思いついたという顔をしていた。気味の悪い笑みを浮かべていたのさ。しかしまあ、そんな表情を浮かべていなかったとしても、僕は彼のよこしまな考えを嗅ぎ取ることができただろうさ。何せ十五年以上の付き合いなんだから。
「僕らはもう二十歳、大人[注1]だ。考えが子供っぽいと言われて憤るどころか、むしろそう言われると悦に入るのは、大人になってしまったからなんだ。そして大人の興じるかくれんぼでは大勢の鬼のほうが隠れるというルールなのも僕は承知している。だからもう君の魂胆は分かってるよ、北斗。その汚染された心の水面に、どういった結末を搭載したプレジャーボートが浮かんでるんだい?」と僕は訊いた。すると北斗はこう答えた。
「ヒカルさんって人が実は男だったっていう結末を搭載したプレジャーボート」
僕は椅子から立ち上がった。そして北斗の口から電子葉巻を取り上げて帰る身支度を始めた。なぜって、面白くなかったからさ。僕の友人は北斗だけじゃない。僕がこのとき必要としていた友人は、僕に気持ちのいい言葉を浴びせてくれる友人だ。そもそも北斗とは波長が合わない。彼と気が合うところなんて「敗北する努力家の姿を見て愉悦を覚える」ことくらいさ。
「休学を取り消したらどうだ、亜男。女々しい琉歌ばっか詠んでないで少しは将来のこと考えろ。今を生きるな」と北斗が言った。僕は彼の部屋から出ようとするところだった。
僕は北斗の部屋の引き戸の前で足を止めはしたけれど、振り返らずにただ肩をすくめて見せた。北斗は何も分かっちゃいない。むしろ僕は将来のことしか考えてない。ヒカルさんとの将来のことしか。
僕はおもむろに振り向いて北斗を睨みつけた。そして僕はマーフィーの法則の名句をもじった次の言葉を北斗にお見舞いして、彼の家を後にしたんだ(僕も北斗も実際に眼鏡をかけてるわけじゃないよ)。
「四つ葉のクローバーを発見できる確率は、かけている眼鏡の値段に比例する!」
つづく
[注釈]
1.大人
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