活気のある商店街から横にそれた裏路地に、その喫茶店はあった。
それは、昼だと言うのに、キラキラとした服飾店の日陰にあって、薄暗く、名前も分からない植物が、花も咲かせずひっそりと植木鉢に植わっているような、少し陰気なお店だった。中に入れば、コーヒー豆の匂いが、籠った湿気と共にもわり、もわりと漂っているのを感じる。こんな店、絶対友達なんかに勧められない、とか思いながらも毎回来ちゃう。
と、いうより、私的には、友達に勧められないって感じだからこそ、案外すんごく気に入ってるんだよね。わかるかしら。友達に言えないけど私は好き、っていうこの謎の秘密な感じ。私だけの、とかって私の奥底に眠ってほこりをかぶった支配欲求がどうしても、どうしても露わになっちゃうような、ダメ喫茶店。こんなんだから、お客さんが来ないんじゃないの、とかって心の中で評論家になりながら、ダメ出しをしつつ尚「でも、そこがいい」と、エゴイズム丸出しになっちゃうような、丸裸で柔なお店。あぁ――有名にならないで!
「――しおりちゃん、こんにちは」
と、カウンターの奥から、おじいちゃん店主のくぐもった声が聞こえた。サイフォンがごぽごぽと音を立てているから、余計に聞きづらい。だけど、私は常連なの。店主の、ちっちゃな声を聞き逃すわけがないのです。
「こんにちは、今日も来ちゃいました」
「ああ、いつもありがとうね」と、サイフォンに遮られながらも、優しい声が私の耳に直接響く。「誰もいないから、好きなところに座っておくれ」
ありがとうございます、と一礼した後、私は左の方の一番奥の、大きなソファの席に勢いよく座った。ぼふん、とバネの音が響く。小さなクッションが二つ置いてあるその席は、私の特等席なの。いつまでも、お客さんが来ないように。そう祈りながら、ふわふわと麻の触り心地が良いクッションをぎゅーっと抱きしめる。
店主が水を運びに来ると、私はいつもどおりブレンドを頼んだ。店主はしわくちゃな笑顔で、「お待ちください」と言った。見た目で言えば、七十は過ぎているようにみえる。髪はすっかり白髪で、頭頂部は地肌がつやつやと見えている。だけど、背筋はしゃんとしていて、多分見た目ほどは年じゃないんじゃないかな。なんだか、見ているだけでとても安心するの。
店内を見渡せば、店主の趣味なのか、骨董品がずらりと並んでいる。特に、この席の隣に並々ならぬ存在感を漂わせているミシン――説明書きによれば大正時代のミシンだそうだ――は、来る客全員が注目して、ずうずうしい客なんかは「動かしてもいい?」なんて店主に話しかける。動かしちゃダメ。私は、このミシンがとってもお気に入りなの。だって、このミシンのおかげで、他の席から私のこのソファが見えないようになっているから。いわば、このミシンは私と社会の間の断絶。ありがとう、ミシンさん。――さて、本を開くか。
今日は、短編小説集を二冊もってきた。恋愛小説。ふふ、私らしくないって? 確かに、普段はホラー小説だの、サイエンスフィクションだのを持ち歩く私からしてみれば変だわよ。けど、私だって華の女子大生! じゃなかった、一応共学の大学だから、大学生の女子! あれ? 女子大生って、今は別にそういう意味じゃない? ――ま、いいや。とにかく、今日はさっき図書館から二冊、恋愛小説を借りてみたの。恋愛って何か、ちょっと知りたくて。え、何かあったって? いやいや、何もないわ。何もない。何もないったら――
「お待たせしました、ブレンドです」と、店主が後ろから声をかけてきた。
「あっ、ありがとうございます」
「ほほ、なにかいいことでもあったのかい?」と、店主は私の顔を見た。私は、目頭が熱くなって、慌てて目を背ける。
「い、いえっ、今日はちょっと恋愛小説をか、借りてきまして」と、ちょっと声がうわずる。なにやってるの、しおり。べ、別に変なことはないじゃない。
「おお、そうなんだね。恋愛小説だったら、もしかしたらこのコーヒーと合うかもしれないよ」
「ほほう、そうなんですか」
「ほっほ、では、ごゆっくりどうぞ」と、店主はすっとカウンターへ戻った。
と、私は少しばかり店主の言葉に引っかかっていた。恋愛小説がコーヒーと合う、とはどういうことだろう。
もしかしたら別に深い意味で言ったわけじゃないのかもしれない。社交辞令かもしれない。コーヒー屋さんなんだから、思考がなんでもコーヒーと結びついちゃうのだわ。だから、恋愛小説がコーヒーと合うなんて、私にゆるふわパーマが似合うって言ってんのと同じかもしれない(だって、華の女子大生だからね!)。
だけど、私としては、やっぱり気になる。だって客観的に見て、店主と私だったらどう考えても私の方が恋愛について知らないわ。だから、店主の知っている恋愛から、私の知っている恋愛を引いて出てきた恋愛成分の中に、コーヒー豆が混ざっていたってなんにもおかしくない。だったら、深い意味はないんだとあっけなく切るよりも、恋愛とコーヒーについて考えた方が絶対に良いに決まってる。
じゃあまず、私の知っている恋愛ってのを考えてみようかしら。――とは言ったものの、私はすぐその回想を振り払った。ダメダメ、こんな素敵な場所で、あの男を思い出すのは絶対に、嫌。
私はすぐに、手元の短編小説集を開いた。空白の多い、ゆとりのある目次に、オシャレな題目がずらりと並んでいる。
「空、夢、希望……丘の上だの、鳳仙花だの。まったく、ホラー小説だったら絶対におそろしい内容に違いないわ」と、独り言をつぶやくと、再びあの男の顔が出てきた。私は今度は振り払うだけじゃ飽き足らず、イメージの中でその男の脳天にナイフを突き刺した。へっへっへ、どうだ。頭に鳳仙花を咲かせてやったぜ、二度と出てこないで!
カチ、カチ、と時計の音が店内に響いている。私は、コーヒーカップを手に取った。そろそろと水面が揺れて、湯気がふわりと細くなびいている。私は、鼻をコーヒーに近づけ、匂いを嗅いだ。とたんに、若い樹木のような青臭い香りが、私の鼻腔の奥を刺激した。くんくん、はぁ――この、独特な香りが良いのよね。だけど――猫舌なので、私はまた、コーヒーをテーブルに置いた。するとまた、あの男の顔がのっぺりと顔を出した。
――しおりちゃんは、コーヒーが良く似合うね。
あぁ、もう! やめろ、喋んな! 私の頭の中に、勝手に現れないで!
はぁ、最悪。ほんと、最悪。あいつに、コーヒーの話を出すんじゃなかったわ。もう、人生、最大の汚点! ――私は、本を閉じて、天井を見上げた。固まっていたうなじが伸びて、少しだけ気持ちが良かった。
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