僕は部屋に戻った直後、なぜ我に腕を二本しか与えなかったのだ、とそんな理由で神を呪った。というのも、僕は右手に持った電動歯ブラシで歯磨きを、左手に持った電気シェーバーで髭剃りをしたんだ、トイレで。そう、お尻を拭う手が絶対的に不足していたのだ。
でも、僕はめげなかった。お尻を拭う作業を放棄しなかった。諦めなかった。その結果、僕は二本しかない腕で見事にその三つのミッション――つまり歯磨きと髭剃りとお尻拭きを完遂したのだ。
僕はヒカルさんの夫役として恥ずかしくないシックな格好に着替えた。白のワイシャツに黒の七分丈パンツを合わせた。頭はオールバック[注1]にしてみた。それから僕はジョルジオ・アルマーニの香水をふり、気持ちを作って備瀬家の部屋に帰還した。ここまでに要した時間は、一分五十秒。
僕は約束どおり二分以内に戻って来た。でも一同揃って部屋を出たのは、それから三十分後のことだった。どうしてかというと、あのブス姉の無意味な身支度が三十分もかかったのだ。しかも僕はその三十分間ヒカルさんと話をするのも叶わなかったばかりか、顔を合わせることすらできなかった。ヒカルさんは姉の身支度に付き合わされて、衣装部屋から出てこなかったんだ(軟禁だ!)。そんな横道な姉の支度を待っているそのあいだ僕は何をしていたのかというと、居間でチャッキーに足を噛まれながら利亜夢とモラちゃんの手にした水鉄砲の的になるという苦役を強いられていた。
僕が備瀬家の部屋に戻って来て三十五分後、一同はようやく那覇市にあるデパートへタクシーで向かった(そのデパート内に利亜夢の行きたがっていたゲームセンターがあるんだ)。我々は二台のタクシーに分乗して行った。姉とヒカルさんの二人、僕はモラちゃんと利亜夢(モラとリアムってわけか……)と一緒だった。僕はヒカルさんとの疑似夫婦デートに胸を躍らせていた。だから車内ではしゃぐ利亜夢とモラちゃんの戦闘機のような声は一切気にならなかった。いつも胸を躍らせていれば本物の戦闘機のそれも気にならないのかもしれないね。
「やんちゃで世話し甲斐のある利亜夢とモラちゃんの子守をさせてやるよ、亜男。私とヒカルは買い物してくるから」
姉がそう告げたのは僕がクレジットカードでタクシーの乗車の支払いを済ませたときだった。姉のその声色には気が咎めるといった色彩が皆目なかった。ちなみにそのときヒカルさんは姉の背後で僕に向かって敬礼ポーズをとっていた。
つづく
[注釈]
1.オールバック
"Adan #17"へのコメント 0件