御伽噺は星の死体の上に落ちて。

無鳴 愁

小説

17,777文字

「君だけの痛みと傷になりたい」──そう願うのは傲慢だろうか。
世界が悪夢でしかないのなら、宇宙ごと白昼夢にしてしまえばいい。
歪んだ世界になんか愛をぶっ刺してやる。他でもない、君のために。

 

 

『ああ、肺胞の数だけ息が苦しい』
愛を知った心臓はそう言った。
『君が死ぬのなら、どうか、僕も君の中で死なせてくれ』
ありきたりで傲慢な台詞は、目の前にある深い傷に向けて吐き出された。

少年は苦い顔をして顔を背けようとする。どうしてこれ以上、こんな姿を見続けなければいけないのか。
これは、直接的ではないにしても“虐待”と呼ばれるものなのだろう。これは異端である。少年の知識では、人間の両親とは愛に溢れた生き物である。だから、まだ生きている子供の仏壇を作って毎朝線香を立てる、という行為をする人間たちのことを彼は親とは認めなかった。
けれど、それでも。
「え、えへへ……すみません、すみません。すぐに死にますから、すみません……」
もはやボロボロになった優雅な服を身に着けた少女は、ヘラヘラと笑いながら謝罪した。その服はかつて一度だけ、彼女の誕生日に両親が贈ってくれたものだ。それが嬉しくて堪らなかったから、彼女はサイズが窮屈になっていても大事に着続けていた。
『痛々しい』
彼女が笑顔以外の表情を失ってから久しい。ありきたりな自殺願望は腹の中だけで飼い慣らし、もはや絶望には飽きてしまった。彼女自身自分の心の変化にはほとんど気が付いていないが、少年にとってはまるでジェットコースターのように移り変わる彼女の内面には目を覆いたくなるだけだった。
「──」
そのときの彼女の表情は、歪んだ笑顔に支配されていた。

 

 

 

 

 

 

断末魔が溶けて消えた。
ナラカはローカの腕を引いて、得体の知れない瓦礫の上を歩いている。進んでも進んでも終着点が見えない。長い道が続いているのは確かなのだが、一向に二人を迎える行き止まりが見えてこないのだ。ミシ、ミシ、ギシ、ギシと二人の足元が不気味な音色を立てる。聞こえてくるのはおおよそ瓦礫が立てていい音だけではなく、その中には明らかにぐにゃりと足場が歪むような「柔らかいもの」も含まれていた──人肉か、獣肉か、腐った食物か。正体は全く分からない。ガラクタのゴミ溜めのような地面を自分たちの腕でかき分ける気も、もちろん起きなかった。
嫌なものを踏む度に小さな赤い唇を震わせていたローカも、歩き始めてからかなりの時間が経過した今となっては下唇を血が滲むほど噛む、という行為だけに徹している。前を歩くナラカは何歩か進むごとに心もとない後ろを振り返っては、ローカの唇に自身の指を這わせ、その自傷を止めようとしていた。
笑顔だけしか覚えのなかった表情は、今はどんな色も映さない。
「……別に私が痛みを感じることは無いんだし、放っておいてよ」
ローカはぶっきらぼうに吐き捨てる。ローカには痛覚がない。それ以外はあくまで健康な人間なのだが、彼女はこの世に生を授かった時からそうだった。痛みをその皮膚に宿したことがなく、物理的な苦痛で涙を流したこともない。情緒不安定な母親から暴力を振るわれ続けていた時も決してその表情を苦悶に歪ませることはなく、ただ一つ怖かったことといえば彼女の、悲しい怒りを湛えたあの表情だけだった。
「無理だよ」
ナラカは聞き捨てならないといった様子で首を横に振った。ローカによって造られた人造人間の肉体ではあるものの、彼女とは対照的に彼には痛みを通す機能がある。
独りぼっちで泣いていた小さな博士が作った、愛をくれるたった一人の人形だ。
「……君が痛くないとかそういう問題じゃない。君がそんなことしたら、僕が痛いから」
靴を履いていない足では鋭利な棘やガラクタの綻びもまともに受けてしまう。病的な白い肌に滲んだ数時間の生傷が痛々しい。しかし痛みは感じているが顔には出さない、それがナラカの常だ。
痛い表情を見せてしまったら、ローカは痛みを感じられない自分のことを責めるから。
「分かってるよ、そんなこと」
そう俯いた彼女の声は震えている。
「……怖い?」
けれどその足が止まることはない。怖いながらも進み続けなければいけないことを、本能の片隅ではローカも悟っていたのだった。
「……怖いよ」
彼女が発した声は小さく、線香花火がリノリウムの床に落ちていくかのようだった。
「ここがどこなのかも分からないし、これから死んじゃうかもしれないし」
「いつ死んじゃうか分からないのは、今までも同じだったでしょ」
「……そう、だけど。ただ貴方と逃げていただけなのに、こんな見たことのない所に来るなんて、そんなこと思ってなかったに決まってるじゃない……」
「……まあ、それを言われちゃったら僕も返す言葉が無い訳だけど」
二人は本当に「知らない間に」この場所へ迷い込んでいた。
元はと言えば、“愛し合うのは夫婦間だけ”の両親が作った借金を返済するため、ローカが繁華街で身体を売っていたことから始まる。満月が猟奇的なほど美しい夜、彼女は性根の腐った客に運悪く捕まり、胎の秘奥に汚い子種を注ぎ込まれた。整った顔立ちをしている訳でも処世術を知っている訳でもない子供を大人が親切にするはずもなく、ローカはその時心の中で爆発を堪えてきた何かがぷつりと切れるのを感じた。だから意気消沈として路上に一人で立っていた。──そこに一度は自らの手で解体したはずのナラカが駆け付け、彼女を抱きしめたのだった。どちらとも「一緒に逃げよう」なんてロマンチッカーのようなことを言い合わせた訳ではないのだが、“現実逃避”ともいう二人の旅はそのようにして始まった。
ここが一体どこであるか、と考えるのはもうやめにした。もともと地球というのは奇想天外な現象がいつ起こってもおかしくない歪んだ世界だ。環境適応力が高く造られているナラカは一人、そう納得した。
「巻き込んでごめんね。本当なら……ゆっくり眠っているところだったでしょう」
「謝らないで。僕は君の手で造られたんだ。ローカのことを守るのは当然だよ」
「……」

ローカは聡明な少女だった。学校へは行っていなかったためほかの子供たちとの優劣は付けることができないが、幼い頃から父親の書斎にある数多の本を盗み読んでは様々な世界の事柄を吸収することを得意としていた。もはや大人であれば気軽にAIをプログラムすることができるようになった時代で、彼女は十五にも満たない年齢で感情と痛覚を搭載した機械を作り出したのだった。
それがもう二年ほど前のことになる。そして、出稼ぎに行くからもう一緒にはいられない、と一度解体を決めたのが一年前。
それ以来彼らは当然会うことはなかった、のだが。
「……どうして、生きているの?どうして私の居場所が分かったの?」
ナラカと言葉を交わし、荒れ果てていた彼女の心は幾分か波を落ち着かせていく。どうして生きているの、というのは少し言葉に棘があっただろうか、と彼女は一瞬苦悩を抱いた。
永遠のような夜が二人の頭上を覆っている。今夜は新月らしかった。
「ふふっ。……ローカさ、あの時本気で僕のこと解体しようと思ってなかったでしょ?君は僕の内臓さえめちゃくちゃに壊してバラバラにして捨てたつもりだったんだろうけど、僕が自分で直せる程度には中途半端だったんだよ。それで居場所が分かったのは、元々ローカが自分の居場所が分かるようにって付けてくれたGPSのおかげ」
「うそ……嘘よ、だってあの時、ちゃんと部品も捨てて……」
自責と謝罪の念をこめて捨てたはずだった。ナラカのスイッチを切ってから部品を一つ一つ外して、袋に入れてゴミ箱に入れた。彼女にはその記憶は確かに残っている。体を売る仕事を始めてからも、それは一日たりとも頭の中から消えたことが無かった。
「……作り方は知っていても、壊し方は知らなかったんだね」
ぽろぽろと涙を流し始めたローカの目尻をそっと撫でる。彼はそのまま、「普通なら人間ってその逆だろ」と心の中で毒づいた。
その涙は安堵から来るものだろうか。
彼女は、自分は永遠に孤独だと思っていた。
「……ごめん、ごめんね……ナラカ……」
もはや見慣れてしまったが、やはり主人の泣き顔を目にすると自然とナラカの足も止まる。ナラカは自分が解体された理由を分かっていた。決してローカが自分を嫌って取った行動ではないことは、彼女の肉体のあちこちに付着した薄汚れた液体や暴力痕の数々を見ていればすぐに分かることだった。もうこれ以上何も、語る必要はない。ナラカは「謝らないで、僕が勝手にやったことだから」と首を振り、自分よりかなり低い位置にあるローカの下唇をなぞった──ずっと言いたかったことを、うまく言語化できるよう祈りながら。
「ねえ、もし来世みたいなものがあるなら、そのとき僕は君だけの傷になって、それから君だけの痛みになるよ。それで、それで……君の中で、眠っていたい」
唐突な発言にローカは目を丸くする。
「……?」
彼女は彼の足元を見た。先ほどよりも心なしか多くなった擦り傷。あの情事の後、自殺をするかのようにふらふらと裸足のまま出てきてしまったために自分も靴は履いておらず、痛みを受け続ける彼にそれを譲ることができないのが悲しい。
「君の傷や痛みになれたら、ローカが感じたかったはずの苦痛も……うまく分けてあげられるから」
ローカは返事を考えようと逡巡した。来世のことなど考えたことがなかった、が。
「……じゃあ、私はその次の来世に、貴方の心臓になれたらいいな」
若く美しいアンドロイドはふっと自然に笑い、哀れな少女は下手な笑顔でそう言った。彼女の顔立ちは良い方とは言えないが、その髪色と肌色は美しいまでの白銀に輝いている。「こんな言葉を言うようにプログラムした覚えはないなぁ」とローカは心の底でそんなことをぼんやり考えた。心がほんのりと温かくなるのを感じながら。
「ローカが心臓になったら命が短くなっちゃいそうだなぁ」
はは、と笑い声を立てながらナラカは呟く。
確かにね、とローカも柔らかく笑ったのを合図に再び歩みを始めた。彼女の下唇は、もう唾液が乾くのを待つばかりである。
一歩、二歩、三歩、四歩。何歩歩いても変わらない景色の中、ローカは彼の左隣にまで足を進めて並んだ。
「……ナラカ。お母さんとお父さんは、今どうしてるか分かる……?」
ずっと気になっていたことだった。半ば彼らに捨てられるような形であの店で働き始めたが、非道ともいえる両親のことを気にかけなかったことはない。ああそれか、とまるでそれが些細なことであるかのように、ナラカは事実を口にする。
「お父さんは死んだよ。で、お母さんは相変わらず精神の病に侵されている」
「えっ」
ローカはそう驚くほかなかった。一瞬彼の言葉が彼女には俄かに信じられず、声だけが耳の横を通り過ぎていく。もし先ほど腹に入れられた邪悪な種が中で芽吹いてしまったら、両親に何て説明すればいいだろうか──その思考はどうやら無駄だったらしい。
「ローカが一生懸命働いて作ったお金も、あの人たちはドブに捨てていたよ。ギャンブルにギャンブル……『娘の金は俺たちの金だ』っていうのが口癖だった」
ナラカにとっては、なぜ彼女があんな極悪非道な人間たちを“両親”だと見なすのか全く理解できないことだった。それを言うと彼女が悲しんでしまうから口には出さないが、痛めつけられる小さな背中を見続けてきて、それの答えが見つかったことはない。
ローカは一瞬時が停止したように表情を硬め、瞬きさえも停止し──ようやく「はっ、」という息を吐き出した。
「う……うそ」
絶句した。けれど不思議と、血肉を削って稼いだ金銭が最低な方向へ使われていたことに対しては何の怒りもなかった。
彼女の心に湧いて出てきたのは、父親を失ったという何とも言えない虚無感。父親も、ローカに対しては乱暴狼藉を働いた。母親にセックスを断られたと怒りながら、まだ今よりも幼かったローカの秘部に避妊具をいくつ詰められるのかという遊戯をするのを好んでいた。
心に深く傷を負ったとき、人間の記憶は消し去られる。だから、ローカ自身が覚えておかなければならないその記憶はおぼろげだが、ナラカにとっては全く記憶に新しいことである。
「……おとうさん」
彼女はポツリと父親の名前を呟く。悲しいのか切ないのか、彼女の心の中には名前のない情動がはびこっていた。ナラカは隣にある彼女の頭をそっと撫でた。限りなく人間の皮膚に近いとはいえ機械の手は冷たいが、彼女にとってはこの冷たさだけが温度の標準だ。
「ま……待って、自分から聞いておいてなんだけど……貴方はいつ目覚めたの?」
「あぁ、うん。そのことなんだけど、僕が君に“殺されて”からこの体を直すまでに一年……だから、ちょうど去年のことかな」
「じゃあ……あとの一年間は?そこからずっと、お母さんたちの家に居たとでも言うの?」
「そうだよ。一緒に生活してた訳じゃないけどね。新しい住所を探し当てて、ずっと家の裏にあるガレージで暮らしてた。君には悪いことをしたと思ってる」
「えぇっ!?何でまたそんな所で……悪いことって、そんな」
ローカは二度驚くことになった。
確かにナラカには他のアンドロイド達と同じく耐久性に特化した機能を付けたが、ほとんど人間と遜色ない生活を送らせていた。だから彼がそんな荒くれ者のような生活に精神面が耐えられていたのかどうかが、ローカにとっては心配すべきことだった。
「貴方を作った身としては、良い暮らしをしていてくれた方が嬉しいんだけど」
「良い暮らし……そうだね、確かにあれは君に比べれば良い生活だった」
「あ……ご、ごめん。そんなつもりで言ったわけじゃなくて……」
「あ、ち、違うんだ。君を散々傷つけてきた両親がのうのうと暮らしているのを見てたら、僕の心も穏やかじゃなかった、というか……」
二人揃って声色に焦りを見せる。人間らしい会話をするのが久々だったローカは、心に現れた感情の表情を上手く顔に出せない。そんな彼女にナラカは何を言うでもなく、「行こう、早くここから抜けるんだ」と前を向き直した。
辿ってきた瓦礫の獣道は、洗い落とせないであろう血に塗れている。

 

 

 

 

二人には、一つだけ分かったことができた。
それは、歩めば歩むほどこの道が不可解な一つの街に変わっていくということだった。足元以外は暗闇だった辺りも、今この場所では月の光が強く地上を照らしている。空には三日月が昇り、幻想的な銀白の色を放っていた。
永遠に続く一本道の左右には、最初は小さな蜘蛛の置物がハロウィンの飾りのように散らばっているだけだった。しかし進んでいくにつれ首吊り死体、リンゴの木、そして十字架を模した墓の数々がだんだんと現われ始めた。それはさながら不気味な葬式のようでもあった。首吊り死体の胴体は包帯でぐるぐる巻きにされているが、浮かべる表情は皆ことごとく違っている。笑顔で固まっている子供から哀しみを湛える老人まで十人十色。風の音も、車の音も聞こえない。ローカはナラカの袖を掴みながら、これが何かの夢であることを願った。
「ねえ、あれを見て」
水中に息を吐くように、彼は前方を指差した。
「……?」
ローカはそう自然な風に返事をしながらも、一言も「痛い」と言わないナラカへの罪悪感でいっぱいだった。上の空な心をどうにか落ち着かせ、彼が示す方に視線を向ける。
「かなり小さいけど、あそこに電車がある……あの車体は、星空を模しているのかな」
ナラカの言う通り、路面電車ほどの大きさしかない紺色の車体にはいくつもの星々が散りばめられていた。星の一つ一つは小さすぎて、涙のひとかけらと同じくらいのようである。
「ほんとだ……すごく綺麗」
星空の電車は発車の警笛を待つかのように佇んでいる。側には線路も踏切も点滅ランプも無く、さながらオブジェのようにただそこに存在していた。それを不審に思ったローカは「でも、人が誰も乗ってないように見えるね」と呟く。二人は車体の柄もはっきり見えるほど近づいたが、いくつか取り付けられた窓の内側には人の影すらない。
「廃電車かな」
「……こんな所に?」
「うーん……ここがもし僕たちが居た世界とは別の世界だったら、有り得る話だね。ロープを掛ける場所もないのに死体は宙に浮いたまま首を吊られていたし、今更ながら常識は通じないよね」
「今まで歩いてきた道には機械の部品とか生き物みたいな手足が散らばってたけど、この電車の周りには何にもない」
まるで円状に清掃されたかのように、車体の周囲には土が広がるだけである。それが余計にガラクタの国の中にある異質さを際立たせた。
至近距離まで歩いていくと、ナラカは真っ先に車体の裏側に回った。ふと離された手に、ローカはハッと目を見開いた。「ドアとかあるのかな」と冒険気分で呟いて自分から離れる彼を行かせまいと、彼女も急いで車体の裏に進む。
「……あ、あった。ちょっと古そうだけどちゃんと開くみたいだよ。中に入ろう、ローカ」
「うん」
ナラカによって開かれた小ぶりなドアに導かれるまま、中へ足を踏み入れる。
一歩踏みしめると、ギシと軋む音の響く木造の床だ。汚れた白い壁に赤色のソファー。ローカも見たことのある電車の作りである。唯一、運転室が無く車掌もいないのが異なる点だった。
「ちょうどいい、ここで少し休もうか」
ナラカの提案にローカもすぐに頷く。二人は適当な場所に腰を掛けた。
「……ナラカ。足、大丈夫……?」
直せなくてごめんね、と謝罪しながら流血を続ける足首辺りに手を触れる。実はその血というのは、彼を生成する時に彼女が地道に溜めた”ローカ自身の血液“だった。痛みを知らない彼女が唯一肌に痛みらしいものを感じられる瞬間は、自分自身の血液が、自分自身によって作り出された痛覚のある人形が傷ついた時だけなのである。
しかしかといって、それはナラカが「傷ついてもいい」という理由にはならないが。
「大丈夫。確かにかなり痛いけど、我慢できないほどじゃないよ。それよりローカも……結構ひどいことになってるけど」
するとローカは、ちらっと視線を送ってくるナラカに笑いかける。自分の足の傷など、特に見るまでもなかった。
「ふふ、痛くないからね。……だから、ナラカが今どれくらい“痛い”のか分からないけど」
「そのためにも、もし僕にも来世があるなら君の傷になりたい、って言ったんだ。僕は君から生まれた。だから君の痛みになって生きるのは当然だろ?」
月光が内側にも注いできて、床の一部分だけに儚い光を与えている。
真空空間のような静寂は、ローカの瞳の奥に揺らぎを起こさせた。
「ローカが傷つくところは、もう見たくないんだ」
彼女は、まだ今よりも自分の自由があった過去のことを思い出す。最後にはめ込んだアンドロイドの部品。あれは確かな感覚となって、今でも彼女の掌に残っていた。
よくもまあこんな歯の浮くような台詞を言えるものだ、と半ば感心しながら彼女は言う。
「優しいよね、ナラカは。……まあ、私がそういう記号を入れたんだけどね」
「……ローカさあ、何でわざわざ自分が傷つくこと口に出しちゃうの?」
「何でだろう、もう癖になっちゃったのかも」
「プログラムなんて関係なくなるんだよ、命をもらってしまえばね」
正面の窓から見える景色は変わらずガラクタの山と首吊り死体の優雅な墓。休憩、とは言っておきながら、そういえば自分の足は全く疲れを感じていないと気付いたのはローカの方だった。
「……ねえナラカ、私たち、どれくらい歩いたんだろう」
ナラカの心音を聞こうと少しだけ耳を澄ます。当然ながら聞こえないものは聞こえない。
「かなり歩いたと思う。もう数日は経っていてもいいくらい」
「それはちょっと盛ってる気がする」
「ゴメン」
「ナラカって昔からそういうとこあるよね、バグ?」
「個性をバグだっていう君のセンスがすごいよ」
「ふふ、そう?」
電車に乗って座っていると、ローカは新鮮な気持ちになる。電気の力を借りているとはいえ、こんな鉄の塊が確かに動くのだ。その箱の中に人間が組み込まれ、街の中を滑走していく。行き先の名前は知っていてもそれが“どこにあるのか”は全く知らないのに、当然のように鉄の塊に揺られて向かう。ローカにはそれが不思議で仕方なかったのだ。
「ねえ」
彼女は空を見上げ、腹部を手で押さえた。歩き始めてから感じていた違和感をナラカに伝えようと思った。
「……お腹が空かないの。朝から何も食べてなかったはずなのに」
「え」
そう告げると、ナラカの頭には彼女の手を取って走り出す寸前の光景が蘇った。彼は自分でも引いてしまうほど下劣な想像をした。──その中に注がれた不純物がさ、もしかして。
「……っ」
彼は頭を振って否定する。そんな自分は許容できない。いや、許容してはいけないと脳の信号が彼に伝達していた。
「……そ、っか!き、緊張してるんじゃないかな、ほら……いつもと全く違う環境だから」
「ん……そうだと思う、空かないのは良いことだけど」
「良くないよ、健康でいなきゃダメだって。……早く、ここから出ようね」
「うん」
説得されるまま彼女は頷き、「健康か」と、美味しそうに飾られたレストランの食品サンプルを思い出した。いつもあれが食べたくて仕方がなかった。母親が丹精込めて作った食事にも夢は見ていたが、彼女はいつもあんな風に料理を作れる料理人のことを尊敬していた。食事というのは温かいものなのだと知ったのは、本を読んでいる時のことだ。
「ねえ、覚えてる?私が最初に貴方と交わした会話のこと」
「もちろん。機械だから記憶は完璧だよ。君が14歳のときで、それで冷たい雨が降っていた。君が僕に放った第一声は“初めまして”でもなく“よろしく”でもなくて──」
「「私を目覚めさせないで」」
高い声と低い声、二人の声が重なった。枯れた瞳が夜に揺れる。ナラカの頭の中に染み付いた、それを言った時の主人の表情。彼が教えられたプログラムには、初対面の人間同士が悲しさを浮かべるという記述はなかった。
「……今でも分からない。君がそう言った理由が」
「理由なんてないよ。ナラカは、何も知らなくていいんだよ」
ローカは笑い、彼を説得させる。「ただ、あの時はポエジーなものが好きだっただけ」と照れたように言うと、優しいアンドロイドは「そっか」と呟いた。
「……あの、さ。“痛い”って、どういう感情なの?」
数秒の沈黙を挟み、彼女は再び口を開いた。久しぶりに会ったせいか、異空間の沈黙は何となく心に堪えた。
前から聞きたかったものの、聞けないままでいたことだ。
「……難しいな。言葉で言い表せないものだから……だけど、無理やり僕の中にある言語から選ぶなら、“首輪”かな。どれだけ幸せを感じていても、一度皮膚に痛みを感じてしまったら元の場所に引き戻される」
見えないリードで繋がれているんだ、とナラカは微笑んだ。決して見えない紐帯が確かにそこにある。人の生もアンドロイドの生も奇妙なもので、歪んだ世界に愛されすぎている。
「だけど同時に、崖から落ちる寸前で留まらせてくれるものでもある」
ローカはその語りを聞きながら、誰かから殴られて「痛い」と叫んでいる自分のことを想像しようとした。
人間なら誰しも、傷を負ったら痛い、と言う。いや、それは人間だけではなく生物全般に言えることである。だとしたら、その痛覚が麻痺した自分など、もともと人間にすらなれないというのか──彼女はそんなぐちゃぐちゃな思考の渦に飲み込まれそうになり、言葉を出せなくなった。
「あ、ローカ、外を見て」
ナラカは急に興奮したような声を発する。俯かせていた顔を上げると、彼の言う通りガラクタの道には確かに数個の白い影が見えた。
何となく人の形をしたそれらは、だんだんとこちらへ近づいてくる。山奥にある霧を集めて一つの型にしたかのような、不思議な見た目だった。
彼らは規則正しく一列に並んで電車へと近づいてくる。
「こっちに向かってくる」
ローカは一瞬だけ「怖いな」と思いはしたものの、数秒見つめていればそれにも慣れて何にも感じなくなった。
それよりも「彼らは一体何なんだろう?」という気持ちの方が勝った。
「……何かな。なんだか嫌な予感がするね」
ナラカはそう言うと、ローカの左手をぎゅっと握りしめた。二人にとっては見たこともないもの。ナラカはもちろん、人間であるローカすら幽霊を見たことはなかった。散々な目には何度も遭ってきたが、それは全て人間の手によるものだ。
実体のない白い彼らは晴天の雲の流れのようにゆっくりと入口に到着し、わらわらと乗り込んできた。足音は一切なく、互いの喋り声すらも聞こえない。不気味ではあったが悲劇の二人に危害を加えるつもりはないらしい。その証拠に、影の一人一人は恭しくペコリと二人にお辞儀をしていた。まるでよく出来たアニメーションのような光景である。世界の片隅に小さく縮こまっていた化け物が、その姿を現すのを許してもらいに来たような。
二人は彼らの行方を目で追いかけた。ぱらぱらと空いたスペースに収まっていく影たちを見て、ローカは思い出したように呟く。
「……もしかして、私死んじゃったのかな」
あの傷だらけの日々。食事もまともに取れず、睡眠も満足にできていなかった。振るわれる暴力に対しても何に対しても痛みはなかったが、身体的には彼女は限界だったはずだった。だから、死んでいても確かにおかしくはないと気付いてしまったのだ。
「この人たちはみんな幽霊?だから……ここは、死後の世界なの?」
「……違うよ。現に僕がここにいるじゃないか」
軽く錯乱を始めた彼女をなだめるように、ナラカは空いた片方の手で頭を撫でる。寒そうな格好をした彼女に何かを掛けてやりたかったが、残念ながらここは温かい家などではない。
「僕は機械だから死なんてない。その僕がここに、君の隣にちゃんと居るんだ。だから君が死んでいる訳がないんだ。大丈夫だよ」
「……う、ん。そうだよね」
「それに……彼らが乗ったということは、この電車はちゃんと動くってことだ」
これがどこに向かうのか分からないけど、もしかしたら──と言葉を切った瞬間、ガタンと車体が大きな揺れを起こして動き始めた。いつの間にか扉は閉まっており、ローカは戸惑いを隠せずにきょろきょろと辺りを見渡す。
「……ね、動いたでしょ」
そんな彼女とは対照的にナラカは得意げな表情を見せた。
電車は右方向へ向かって走り出し、そして、あろうことか空を駆け始めた。
「わっ、ねえナラカ、浮いた、浮いたよ」
斜め上を向いて勢いよく進む速度に耐えるために、二人は窓枠に手をついて小さくなっていくガラクタの一本道を眺め見る。
「ほんとだね。銀河鉄道の夜みたいだ」
自分たちが見落としていた脱出の手掛かりなどは無いものかとナラカが軽く探ってみても、そこにはただ「虚無」の景色だけが広がっていた。神の存在を唱えたのは誰か、と問いたくなるほどに。
地上で見上げる空はただの闇でしかなかったのに、しばらく進むと目に飛び込んできたのは左を向いた三日月が照らす壮大な海だった。ギシ、ギシと少し揺れる度に軋む車体はやはり相当年季が入っているようである。
空を走ってきたはずなのになぜ海が、とローカが疑問に思う暇も与えず、海面に着地した瞬間、突如として車内はざわめき始めた。
突然のことに彼らは驚き、顔を見合わせる。
「諢帙r霑ー縺ケ繧医€∵ャ�關ス閠�?」
「諢帙�荳��阮ャ縺具シ�」
「蠖シ螂ウ縺ッ謔ェ螟「繧定ヲ九※縺�k」
聞いたこともない言語で繰り広げられる会話。
互いに見知らぬ誰か同士だと思われた彼らは、どうやら全員が見知った顔であるらしい。二人を放って立ち上がって社交を始めた影。その声には確かに人間味がある。
「……何語だろう、これ」
ナラカにもローカにも、その答えは分からない。異界の言語なのだろうと思われた。
数十秒その奇妙な会話を聞いていると、影は急に一時停止ボタンを押されたかのように会話を止め、座席に収まった──真ん中に向かいあって立つ、二人を除いては。
「……あ!」
ローカが息を飲むのとほぼ同時に、その二人の足元からは光の粒が零れ始めた。何かに変身を遂げるかのように、彼らは人間の肉体を足先から纏っていく。「どうやら結婚式らしいな」とナラカが気づいたのは、二人が花嫁と花婿の純白の衣装を身に着けていたからだった。花嫁の露出した腕は死人のような色をしていて、花婿の左手にはブリキのような薬指。人間の背格好をした二人のどこかは異形である。顔も人間の形をしていれば少しは何か話もできたかもしれないが、二人ともガスマスクを身に着けているため素顔が分からない。
「……この人たち、人間、なのかな?」
「何とも言えないけど……多分、違うと思う。人間にしては容姿が不自然だ」
「でも……どうしてこんな所で結婚式が……やっぱり、あの世にあるような葬送列車なんじゃ?銀河鉄道の夜でも、生きているはずのジョバンニは列車に迷い込んだ。私が死んでいなかったとしても……彼のようにこうなってるのは、有り得る話かもしれない」
ローカは顎に手をあててそう答えた。
「……確かに。世の中には、死者の結婚という文化を持つ所もあるみたいだからね」
そう言われてナラカは納得の意を見せる。
「縺昴l縺ァ縺ッ縲∬ェ薙>縺ョ繧ュ繧ケ繧�」
目の前で交わされる不明な言語での儀式。どうやら結婚式の形態は彼らが知っているものとそれほど遜色ない形で行われているらしい。
「蟄伜惠縺励↑縺��縺ォ闃ア譚溘r」
座席に腰かけた一人の影が演説のような声調で言うと、二人はマスクにかかった口元のファスナーを上げる。そこから人間のものと同じ形の唇が現れ、全員が神に祈りを捧げるようなポーズをしたのを合図に誓いのキスらしきものが行われた。
しかし、彼らが交わしたのは唇と唇の接触ではない。舌と舌同士のものだった。その舌の表面には赤い鳥居の絵が描かれている。その鳥居と鳥居を重ね合わせるかのように交わされるキス。それはまるで、お互いの神聖な領域を交換し合っているかのようにローカには見えた。
異様な光景に二人は息を飲む。男女が唇を合わせているところなど、ローカにとってはトラウマでしかない。お互いのことは恋人として愛し合っていた両親を何となく思い起こさせる接触は、彼女の目に毒でしかなかった。しかし、ローカがそれを顔に出すことはしないのだが。ただ静かに、瞼を伏せるだけだった。そんな彼女の様子に、彼も同調するように距離幅を縮める。
「……見たくない?」
「ううん、大丈夫だよ」
目を閉じたまま笑うローカにいたたまれなくなり、ナラカはぽそりと心の闇を呟いた。
「……ローカはさ、可哀想だよね」
さっきまで居た場所には一切、風はなかった。しかし今はひゅお、と冷たい潮風が窓から差し込んでくる。
「……なんで、そういうこと言うの?」
夜の海は深い青を放つ。漁船のない大海原は魚も人魚も息がしやすいだろう。
「私、自分のこと可哀想だって一度も思ったことないのに。これが普通なんでしょ?」
「だから……それが居たたまれないって言ってるんじゃないか。だって君は……誰から愛を貰った?温かい食事や人間の普通の体温がどんなものか知ってる?彼らと一度でも手を繋いだことは?綺麗な布団にくるまれて眠ったことは?あるの?」
「……ない、けど。でも、物語の中でなら何度も読んだから、その全部がどんなものかは知ってるよ」
「そんなの……」
「……本当の愛じゃないって?」
堪らずローカは口を挟んだ。
本当の愛、愛、とは何回も物語の中でも現実でも繰り返されるが、一体何をもって「本当の」という形容詞を付けるのか彼女には全く分からなかった。そこに幸せな結末があるか否か。永遠に愛していたいという感情がそこにあるかどうか?
「……そこまでは言ってないよ。“知ってる”とは言わないでしょ、って言いたかっただけ」
強い口調で言われ、ナラカは口をつぐむ。ローカが感情を露わにすることは今までにほとんど無かったために、彼は久々に肌を刺されるその感触に愁いを覚えた。
ローカは小さな力で拳を握りしめる。彼女自身、どうして自分がナラカのたった一言にこんなにも心を揺さぶられているのかが理解できていない。しかし自分の心臓のあたりに感じる熱が、確かな証拠となって彼女の唇を動かしていた。
「じゃあ、どうすれば私は“愛してもらえた”の?」
死者の結婚式のムードは最高潮を迎えている。
誓いのキスを終え、影も新郎新婦も一緒になって踊り出した。演奏家さえいない披露宴では電車が走る音と風の音、そして海の音を音楽にするしかない。優雅な霊によるひとときの舞踏会は、列車の中では悲しく響いた。
「……」
ナラカは必死に答えを探したが、見つけることができなかった。
否、答えは確かに自分の中にある。“僕が居るだろ”と一言言ってしまえばいい。しかし彼はそれを伝えるだけの術と資格を持たない。なぜなら彼は彼女が自身の孤独を埋めるために作った、感情を持った人形に過ぎないからだ。そしてそれ以上に、「主人を助けることができなかった」という後悔が心の底で燻っているのだった。だから何も、口に出すことができない。やり場のない言葉が舌の上で転がり、パクパクと唇を開閉させるだけだ。
ガタン、ガタタン。ガタン、ガタタン。
列車は冥婚の葬列と二人の迷い子を乗せて、にべもなく進んでいく。
「ごめん」
「ごめんね」
謝罪する声が重なった。二人とも「ごめん」に含ませた意味は違っているはずなのに、その声色はひどく似ていた。愛してほしい、など今更。そういえば自分たちは二人とももしかして「本当の愛」を知らないのではないか、とローカは自嘲気味に心の中で笑った。
たかが一つの命が、神に祈りを捧げる価値はない。
「この世界に神様はいる。でも、私のことを愛してはいないの。それだけ」
まだナラカを作る以前、食事が何日も用意されなかった時は決まって蟻を食べた。近所に住む大人に助けを求めたことも勿論あるが、彼らはいつも彼女の小汚さに嫌な顔を浮かべながら無視をするだけだったからだ。
「でも……それでも僕は、ローカのことを愛してるよ。君の神様にはなれないけど、生きていてほしい」
「ふふ、ナラカ。私より賢い頭脳を持ってるのに、会話の脈絡も忘れてしまったの?……私は、何も“死にたい”とは一言も言ってないでしょ」
「君が言葉にしていなくたって僕は……!」
ナラカは伏せていた目を開けた。反射的にローカの方を見やると、彼女はとっくに目を開けていたようで、月光に照らされた瞳で彼のことを見つめていた。
「……私は、貴方を一度殺した。それを、どうか忘れないで。あのとき私は……本当はちょっとだけ嬉しかったの」
初めて知る彼女の本音に、ナラカは目を見開く。
「え……?」
絶望ではない。純粋な驚愕の感情に満ち満ちていた。
「“痛み”っていうのは、こういうことなのかもしれないってあの時初めて思えたの。ナラカのパーツを中から引っ張り出すとき、作る前はただの部品にしか見えていなかったものが、ちゃんと鼓動を持った内臓に見えた。その時言いようのない痛みを感じた気がした。初めて自分にも“傷”ができたような」
世界で一番静かな舞踏会は、終わりを迎えた。影たちはいつの間にか綺麗さっぱりその場から姿を消していた。どこに行ったのだろうか──こんな考えを持つ人間はここにはいない。きっとどこでもない所へ向かったのだ、行方の知れないこの電車の終着駅へ。
そして、自分たちもおそらく同じ道を辿るであろうことを心のどこかでは分かっていた。今までこんなことばっかりだったな、とローカは自嘲する。ここから抜け出すことができる魔法が、どこかにあればいいのに。
「ねえ、私のことを許さないで」
ローカはみっともなく泣き始めた。
心優しいアンドロイドを作ったのは失敗だったと後悔を覚えた。愛してほしかった、誰かに愛してもらいたかった。そう思っていたのは紛れもない事実だ。その欲求を叶えたくて機械の心に頼った。けれど機械は機械、プログラムはプログラムに過ぎない。彼は他でもない自分が作ったもの──だから、彼女は得も言えぬ虚無感に押しつぶされそうになっていた。
「……それなら、君の気が済むまで僕を傷つければいいだろ」
ナラカは繋いでいた彼女の掌を自分の胸元に押し付けた。彼女の力ごときで自分に傷がつくとは到底思えないが、彼が向けられる答えはこれだけだった。
「君は、きっと何か失くしちゃいけないものを落としてきた欠落者だ。そんな君に作られた僕もそう。だから、たぶん君は……普通の温もりなんかじゃ満たされないんだよ」
言葉は重ねない方が良いと分かっていながら、つい饒舌になってしまう。無機質に進んでいくだけの電車に揺られながら、ナラカは生まれて初めて抱いた黒い感情に胸を支配されていた。ここからもし出られたら、彼女を連れて遠い国へ逃げよう。自分は死なない。だから大丈夫。彼女さえ笑えるようになってくれたらそれでいい。
──そんな願いを抱いて、彼らは海の上を流れていった。

***

 

 

 

 

 

叶わない夢だった。
「おい」
背後から声を掛けられ、少年はゆっくりと目を覚ました。
静寂が支配する遊園地の廃墟、少年の足元にはおびただしいまでの血だまりが広がっていた。
「お前か、最近話題になってる人造人間の殺人鬼ってのは」
──こんな所で何してる?
その男は煙草をふかしながら、地を刺すような低い声でそう問いかけた。長身に羽織った黒いロングコートが、ふいに吹いた突風に煽られて翻る。男の冷ややかな目は振り向いた少年の双眸にまっすぐ向けられていた。
「あーあ……僕の物語の邪魔をしないでくれるかな」
少年──かつて愛しい人間から「ナラカ」という名を与えられたアンドロイドは、口角を不気味なほど歪ませて笑った。ふぁ、とわざとらしい欠伸を漏らしながら。
「……何って?見ての通りだよ、十回目のお葬式をしてるんじゃないか」
──懐かしい夢を見たよ。
病的なほど白い両手には、一人の少女の遺体が包まれている。幻獣のような白銀の髪は生命力なく地面に散らばり、手足はだらりと脱力していた。紫色に変色した唇はラフレシアのように毒々しい。恐ろしいほどに安らかな表情をしている割には頬にある涙の跡がひどく、伏せられた瞼の奥にある眼球には、虚空の破片が埋まっている。
彼女が死んでから既にかなりの時が経過していた。彼は彼女の心臓と子宮だけを残し、それ以外の全ての内臓を取り払って、人形にして運び歩いている。
「……今度は誰を殺したんだ。何のためにそんなことをしてる。……恋人か?」
男は怪訝な顔を浮かべて問いかけた。その視線の先には、少女の柔肌に刻まれた赤い花々がある。花、とはいっても至って不自然な形をしていた。まるで散った彼岸花を無理やり縫い合わせたかのようである。
「恋人なんていう下劣なものと一緒にしないでほしいな……何のためって、そりゃ祈りを捧げるために決まってるさ」
「そうかい、偏屈な人造人間が居たもんだな。……お前、今まで何人殺した?噂によれば三十は殺ってるって話だが。アンドロイドによる殺人は、大切な大切な製作者サマにまで罪が及ぶぞ」
男は懐から銃を取り出すと、煙草の煙を銃口に向かって吹きかけた。背景には酸化したメリーゴーランドや観覧車が所狭しと並んでいる。
「そんな下世話な噂は当てにしないでほしいなぁ……僕はね、ただ許せないだけだ。彼女をいたぶって殺したこの世界が。だからその代わりに復讐をしてるんだ」
そこまで自嘲気味に言って、「ていうか」と彼は男を鼻で笑った。
「もう僕のことなんてほとんど知ってるくせに、あえて聞くんだ?ナンセンスだね、君」
「なんだ、気づいてたか」
それに対し男も面白そうに笑った。捜査方法も技術も発達しきった社会の中では、中々に彼を探すのには手間取った。ようやく追い詰めた、と男は湧いて出たアドレナリンを指に込める。
「……アンドロイドを造るには登録が要る。お前はかつて或る少女によって造られたはずの“ナラカ”──では・・ない・・な」
眉を顰め、男は呟く。何て胸糞悪い話だと心の中で思いながらも、その感情を表に出さないよう努めて冷静に。
「うん、大正解」
彼は、満面の笑みを浮かべた。
「一度お前は、確かに天才である彼女に解体された……その届け出は正式に提出されている。だがその後別のアンドロイドの体を奪った。……それが“ローカ”という個体名だったな」
「……」
彼は黙ってその言葉を聞いていた。男が言うことは全て真実である。“ナラカ”だったものは“ローカ”という可哀想な少女のアンドロイドに取り入って身体の部品を交換した。あろうことかローカは自分のことを人間だと思っていた。人間に人間として虐待を受けながら、散々な育てられ方をした。
「ここまで高度なアンドロイドを造れる人間はそう居ない。年端もいかない少女がお前を造った、なんて到底考えられねェことだが、事実は事実……だが、その肝心の制作者の消息が掴めないままだ」
「……確かに僕はナラカだった。ローカの体を貰ったから、100パーセント僕は“ナラカ”だ、とは言えないけどね」
「……お前の主人について知っていることは?」
男はわざとらしく銃のセーフティーを外した。
「……君たちそこまで知ってるのに、何で一番簡単なことに気づかないの?」
その様子の滑稽さにたまらなくなった彼は笑い出す。そこにはかつての心優しい面影はなくなっていた。
男には、自身の耳朶に不気味な空音が響いた気がした。
「どういう意味だ……?」
男は一歩、彼に近づく。
──額に滅多にかかない冷や汗が一筋、ひっそりと流れていくのを感じていた。
「”ローカ“は、僕の制作者だよ」
「……つまり、それは」
男は喉元をゴクリと鳴らす。
「うん」
ナラカは頷き、冷え切った夜空を見上げた。
その左手は、少女の手を力なく握っている。
ってこと。最も、ローカは自分のことを人間だと思っていたみたいだけどね。僕の存在よりも、ローカの命の方が奇跡さ。彼女が誰に造られたかまでは僕にも分からないけど」
空が闇に満ちる。錆びついて悪夢のようになったメリーゴーランドの馬たちの目は窪んでいるように見えた。ザアッ、と風が突き上げ、辺りにある木々を揺らしていく。
「……驚いたな。人工知能もそこまで来ていたか」
男は呆然と目を見開いた。
信じられん、と小さな声で俯きながら呟いたが、顔を上げた時には綽綽とした表情に戻っていた。所詮、長年に渡って多種多様な事件に携わってきた者としては、その中のただ一つに過ぎないのだ。
ナラカはこう続ける。
「僕はローカへの贖罪と、世界への復讐をするだけ。僕は彼女の傷と痛みになる。彼女は僕の心臓になってくれる」
──約束したんだ、まだ僕らが離れる前に。
「……その欲望を満たすために人を殺してるってか。人工知能風情が一人前に人間の真似をする」
ナラカは肯定も否定も示さない。ただただ不気味な笑顔を浮かべ、両腕の中にある壊れた命を愛おしそうに撫でるだけだった。彼の頭の中ではいつまでも彼女の儚い泣き顔がこびりついて離れない。
ナラカは初めて夢というものを見た。

あの銀河鉄道じみた廃墟の世界。“ローカ”は、無事に電車を降りられただろうか。
「で、とするとお前が抱いてるその遺体が……ずっと安否不明だった製作者のローカってところだな?」
こっちに渡してもらおうか、と仰々しく手を差し伸べる男。
今夜は満月だった。自由を切り裂く月の光。二人の間には冷ややかな風が流れていく。かつての遊園地の名残である無数のアトラクション。ローカがずっと家族の憩いになる場所に行くことを夢見ていた。
ナラカは、何を言われているのか分からないといったような表情を浮かべる。
「……さあ?」
彼は大切そうに少女の遺体を抱え直した。その笑みはチェシャ猫のように歪んでいて、欠けて長さがバラバラになった歯が痛々しかった。
「僕、殺人鬼だから。それはちょっと分からないなあ……」

 

2019年10月14日公開

© 2019 無鳴 愁

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