用意したティッシュで涙を拭いたTONIGHT

春風亭どれみ

小説

6,544文字

どこにでもいる男の、いつもよりちょっぴり虚ろな一日、本当にあったかどうか、信じるか信じないかはあなた次第です。

その日、どこにでもいる凡百の匹夫は、なけなしの身銭をはたいて、東京ドームの一塁側内野指定席の11列目にいた。ここからはマウンドもバッターボックスもよく見える。場内からは流暢な英語のアナウンスが流れ、彼の周りでは、本場からのツアー客がわざわざ見慣れたチームを応援するためにはるばる駆けつけているようだった。

 

“No foam”

 

ドームのどこに売店があるのか知らないが、そろいもそろってホットドッグを手にした彼らは、念入りに売り子さんに伝えると、顔立ちからして聡明なモルツのジャケットを羽織った売り子さんは器用にサーバーから泡のまったく立たないビールを注ぎだし、手際よくお釣りとともに、彼らにそれを渡すのだった。そして、指の間に福沢諭吉を3枚挟んだまま、ジェットパックみたいなビールサーバーを背負ったまま、軽やかな足取りで階段をのぼっていくのだった。

 

“Go Piscotty! Let’s go Oakland!”

 

今日、ここはドームの中のアメリカだ。

抽選の末に当たった席がこの場所である手前、仕方のないことなのだが、その中でまっさらなマウンドで足場を踏み固める馴染みのある青年にエールを送ることは何とも肩身が狭い心地がした。匹夫はアジアサイズの座席には収まりきらない巨体を揺らして応援するこの集団ほど、熱心にこの真剣勝負のカードを見ていない。匹夫の贔屓球団はシアトルでもオークランドでもなく、千葉にあるのだから。だいたい、エールを送ろうとしている青年にしたって、つい去年まで、こともあろうにその匹夫の贔屓球団のライバルチームでエースを務めていた男なのだ。その狭い肩身の匹夫の前で、大男たちが恐ろしいスピードで球に食らいついたり、塁間を駆け抜けたりしている。その姿を匹夫はただただ圧倒されるしかなかった。

 

けれども、空調も弄っているわけでもないのに、その瞬間だけ、ドームは一人の男のオンステージとなった。匹夫を含め、普段は乾いた眼をして、総武線に詰め込まれている折々の顔が少年と少女に戻っている。割れんばかりのコールを一身に受ける白髪交じりの紳士は、「こんなにも小さかったっけな」と思うほど、かつて見た姿よりも魔法が解けたかのように、ほっそり小さくなった気がした。

試合の展開は終盤の8回。4対4の同点。2アウトながら、シアトルのベッカムが弾丸のような打球を放ったおかげで、一打勝ち越しのチャンスが生まれている。こういう舞台でもクールに決める背番号51はニクいほどに見てきた。それは時に頼もしく、時に絶望的だった。わざわざVHSやDVDに録画していなくても、みんな、その姿を覚えている。ここにいる誰もがそうであったし、ドームの外を街を歩く人々にもそれは焼き付いているはずだった。

 

 

けれども、20年ぶりに生で見た彼の姿は傍目には同じように洗練されているように見えるのに、結果だけが、違った。三邪飛、二ゴロ、見逃し三振。それでも、彼がバッターボックスに立つと、ホームラン級の歓声が絶え間なく響き続けた。それが彼の背負い続けてきた重圧であり、そして、誇りでもあったのだろうか、匹夫にはその一片も推し量ることはできなかった。

彼はヘラジカのマスコットではない、誇り高き野球選手だ。匹夫は、

 

「イチロー、チャンスだぞー!!」

 

普段、贔屓チームの選手たちが同じ状況を迎えた時に、かけるであろう言葉と同じ言葉を叫んでいた。そして、バットから鈍い男が鳴る。

駆ける……駆ける……!!

これは、いつでも記憶から引き出せる魔法がかかった瞬間だ。遊撃手がもたもたしている間に、51番は45歳の身体に鞭を打って、ガムシャラに走る。間一髪……アウト。場内は溜め息ではなく、拍手と労いの賛辞でいっぱいになっていた。匹夫の掌も区ラッピングが止まらない。深緑のキャップを被った巨漢たちもビールを飲んでいた手を止めて、立ち上がり拍手を送っていて、そのうち、一人なんかはおいおいと泣いていた。よくよく見ると、この巨漢は匹夫よりも幾年ばかりか年少にも見受けられた。

“Wizard”と畏れられた男が地道に石を積み重ねて築き上げた魔法はもう年老いた身体には残酷にも残っていなかった。魔法はひとりでに彼の身体から離れ、ドーム中に蒔かれていたのだ。細身の中年の男は、その後、米国流のハグの嵐を受けながら、ダグアウトの中に消えていった。平成31年3月21日21時36分のことだった。

そして、試合はいよいよ、分からなくなった。それと同時に、匹夫はたと気づくのだ。

少年の日々はもう帰ってこない。己もたいがい肌のくすんだサラリーマンであり、サラリーマンは明日の仕事のために終電というものを気にかけなくてはならない。

 

どんな焼酎よりもほてって、夢見心地にさせてくれる空気だった。

 

その空気が未練がましくて、結局、匹夫は終電を逃した。まあ、良いのだ。明後日は土曜日であり、一日くらいは職場にあるものだけでなんとかやり過ごせる。格好も……そこまで、極端におかしな格好ではないはずだ。第一、サラリーマンが常にスーツに身を纏って、汗水流す不健康な時代は、彼の引退よりもずっと前に終わっているのだ。近場のホテルは同じことを考えた、ぽっかり穴が開いたような顔をした者共たちがすでに先約を決めているであろうから、黄色い電車で4駅先の錦糸町でベッドを探すことにした。51番がアメリカにいる間にすっかり髪が白くなったように、子どもだった匹夫の身体は青年を飛び越して、漫画喫茶で一夜を明かすには到底持たない肢体に変貌していた。錦糸町という町は駅前から商店街と色町が区別なく、ごちゃまぜになっている。歌舞伎町でさえ、新宿東口から道路一本隔ててあるというのに。シャッターの前で、ローライズからゴムの拠れた派手な下着を曝け出している泥酔者が街の性格をそのまま体現しているようだった。

それだけ駅からも近いこともあり、想定していたよりも早く、宿は見つかり、そして、思ったよりも安くついた。なんでこんなに安いのだろうか、建物がおんぼろで、ジャグジーも、ネット環境も、貸出品にも乏しい為らしいが、別に匹夫は構わなかった。むしろ、古めかしい旅館のような内装、中でも人の垢が馴染んでそうな畳の和室があることが嬉しかった。どっかりと腰を下ろして、もう何年も買い替えていなさそうなテレビを付ける。

 

「本当に妻と一弓には感謝の思いしかない」

 

テレビでは、独特の噛み締めるような語調で、ちょうど彼が内助の功を内助の域に留めず、その謝辞を素直にささやいていた。CMが入ると、今度は今を時めく、アスリートでありながら、アーティストである若き挑戦者たちの戦いを目に焼き付けろとばかりに大会の中継の宣伝が幾度も繰り返された。

この昭和のにおいを強くとどめた空間では一層力強いメッセージに映った。そして、それは正しく素晴らしいことだった。それなのに、この空間でひっきりなしに行われたであろうことと一緒に肩身が狭くなっている己に匹夫は気が付いた。所在なく、きょろきょろとあたりを見回すと、和室の床の間に飾ってある一枚の色紙のところで目が留まった。こんなところにサインをよこすのはどこの誰なのだろうか、身を乗り出して、のぞき込むと、「トゥナイト 山本晋也」の一筆があった。

 

あまりにも場に馴染みすぎていて、笑けてきた。匹夫は、トゥナイトはⅡしかしらない。そのトゥナイトⅡも、色気づいた若者でも見るのは、ダサく、気恥ずかしい加齢臭のキツい番組であった。

それでも、この番組のことを知っていたのは、番組の末期に安めぐみが出ていたからだった。背番号51が少年期のアイドルなら、スリーサイズ85-58-85は思春期のアイコンとなってくれた人なのだ。コミックバンドが歌にしたこともあり、覚えやすい彼女のスリーサイズは同世代のニキビ面の間では結構正確に覚えられているものだった。それと同時、匹夫は本来タイムリー世代でないはずのサングラスにちょび髭を生やした週刊漫画ゴラクにでも出てきそうなサングラスにちょび髭を生やした胡散臭い映画カントクの存在も海馬の片隅にいつまでも居座らせ続けていたのだった。

このサインは匹夫が生まれる遥か前の昭和59年9月3日に書かれたものだった。そもそも、カントクは当時いくつだったのだろう。とっちゃん坊やのようなナリの人なので、まったく年齢のあたりがつけられなかった。昭和9年会あたりだろうか。今は便利でそれくらいのことは一瞬でも調べられる。意外にも、この宿は専用のWi-Fiも飛ばしていたので、秒で彼の基本的な情報はすぐに手に入った。彼は昭和14年の生まれらしかった。彼のサングラスの下の瞳は、敗戦の陰を僅かながらも記憶しているそんなことが分かった。

 

(それでは、このサインが書かれた当時の年齢は……)

 

匹夫はテレビに映る精悍な男の顔を眺め、テレビの電源を消した。冷蔵庫を開けると、ぶるっときた。インモラルなセンチメンタルのせいだろうか。ラブホテルで宿賃をひとりで払っているのだ。脳裏に”STAY”と二重線でマーキングされた「Y」の文字が泳いだ。

おもむろにスマートフォンで、待機を命じられている人を探し始めた。歳下でも歳上でもかまわなかった。烏滸がましい思いがあったので、人を絞り込まずに探した。ただ匹夫は、もしも、やってきた人が同世代の人ならば、時の重さに過敏になっている今は、とても感傷に耐えられないだろうと感じていた。

リキッドなクリスタルは、ずっと曇り続けていた。匹夫はその中から一人に、頼りないオファーをだした。買ったのではない、これはオファーなのだと己に言い聞かせながら。匹夫は、電話を切るなり、途端にうとうとしだして、一畳の畳の上にごろり寝転んだ。

匹夫が再び目を覚ましたのは、執拗なベルの音がようやく彼の耳に届いた頃だった。電子音でない物理的な響きは、柔らかくも図太く鼓膜の奥に踏み込んでくる。片方の瞼を抑えながら、スマートフォンを取り出すと、着信の履歴が3件も入っていた。慌てて、さながら勝手口のような北向き玄関を開けて出迎えると、ピンクのセーターに身を包んだ娘さんが身体をゆらゆらツイストさせながら、立っていた。掌はほとんどのびきった袖口に隠れているが、もともと、そういうデザインなのかもしれない。

 

「ごめんね、待たせてしまって。ちょっと、うたた寝しちゃって」

 

匹夫が頬を掻きながら、平謝りすると、自称19歳だという娘さんは、

 

「えー、そーなんですかあ? たぶん、それ、こっちが遅れちゃってごめんなさいって電話ですよー。なんだあ、じゃあ急がなくてよかった。ヘアアイロン貸してもらってもいいですか」

 

と、言うなり、もうパンプスを脱いでいて、振り向けば、キャミソール姿で胡座をかき、錠剤の包装をパキパキと割っていた。

彼女は裸になる手際が非常なまでにはやかった。キャミソールを床の間に脱ぎ捨てると山本晋也カントクのサインは黒のレースに覆われて見えなくなった。毛の刈り取られたぺちゃんこの下腹から棒切れをくっつけてみたような彼女の足は両手ですっぽり覆ってしまえるほどにほっそりしていた。不思議なことに目鼻立ちのパーツは、少し前に見た東京ドームの売り子さんに近しい。姉妹だと言われてしまえば、信じ込んでしまいそうなほとだ。けれども、その顔は画面越しではないはずなのにぼかしがかかっている風だった。ワインの色をした下着姿の娘さんは慣れた手つきで3枚の福沢諭吉を吸い取ると、そのままホックに手をかけ、躊躇いなく釣鐘の形をした胸を露わにさせた。指には大粒の真珠が艶めいている。

匹夫は股座にシャワーの雨を浴びせ続ける娘さんの話に、湯船の中から、ずっと相槌を打ち続けた。彼女の口は話を聞いて欲しがっていた。

普段は地下アイドルをしているということ、コスプレが趣味でちょうど今日、東京ドームシティで好きなアイドルのキャラクターの格好をしてきたので、後で写真を見てほしいということ。だから、コスプレがたくさんできるこの仕事は気に入っているということ。しかし、地下アイドルをしているのに、撮影をしてもかまわないだなんて、そんなリスクしかない行為を許していて彼女はよいのだろうか。そんなことを思いながらも、匹夫は口に出さなかった。

湯船からあがると、お喋りな彼女も流石に一息をついた。通学鞄を模した道具入れの中から、粗雑に畳まれたセーラー服やチャイナドレスが顔を出した。四つん這いで荷物をまさぐる。サービスのつもりなのか、単にしどけないだけなのか、肉の薄い彼女の尻は丸出しになり、錐で穴を開けたようにぽっかりとした穴が剥き出しになっていた。匹夫は、その下に垂れ下がっている襞を玩具のように、横に引っ張ったり、こねくり回したりしていた。

 

「そうだ……ちょっとこれを着てみてくれないかな?」

 

思い出したかのように匹夫は、背負ってきたリュックの中から、1枚のユニフォームを取り出した。レプリカのユニフォームはシリコンフォレストらしいコバルトグリーンをしていて、背中には燦然と51の数字が輝いていた。匹夫は、彼の象徴ともいえるルーティンのジェスチャーをして、娘さんに微笑みかけた。

 

「これ、野球のユニフォームですかあ。えー……野球どうやるんだろ、わかんない」

 

彼女はどうにもピンときていない風だった。ユニフォームに袖を通すと、マリナーズコンパスが火照って薄桃色になった娘さんの乳頭を隠した。馬鹿正直に彼女の言うことを信じるなら、イチローがジョニー黒木や松坂大輔と真剣勝負をしているときに彼女は生まれた。蠍座だというから、恐怖の大王が居座った後の世を生きる一人の人間なのだ。

こうして今この時は、酸化するように過去に姿を変え、勇気をなくした者から、しっかり中年は中年らしく心根もかわってゆくのだ。テレビを付けると、中年ながら紳士の佇まいを湛えた男が子どもたちにクールであたたかいメッセージを送っていた。娘さんは頬杖をつきながは、テレビに大写しになった一人の中年男性を眺めていた。

 

「なんか、夢とかあるの。地下アイドルをやっていて」

 

沈黙に耐えかねていたわけではないが、匹夫はそれとなく娘さんに尋ねた。彼女は、

 

「あります。わたし、タワマンに住みたいんです。最上階」

 

そう言って朗らかに笑った。そうか、タワーマンションか。それなら、この派遣業務もなんかしらのコネになるかもしれないし、稼ぐに拙速ではあるが、それでもはやいははやい。

それが彼女の夢なのだ。生まれながらにして、タワーマンションに住む人もいる中でささやかな夢じゃあないか。それなりに困難もあり夢中になれるかもしれない。少なくとも匹夫は、タワーマンションなどには住めないのだから。

 

「しないんですか?」

 

ミルク色した手のかかっていそうなネイルの爪が肉に挟まれているものをめくりあげた。

 

春分の日を過ぎた錦糸町の朝はとても早い。匹夫は夜勤明けの警備服のワッペンにサンドイッチされながら、誕生したばかりの𠮷野家超特盛の脂肉にむしゃぶりついていた。肉が多くて、顔をうずめんばかりだった。始発の黄色い電車は意外と賑やかに混んでいた。今日を休みにして4連休にしている家族連れも多いのだろう。男の子か女の子か判別がつかないぷくぷくした子がうとうとしている。

目を覚ますコーヒーがわりに、立ち上がって、つり革に掴まり爪先立ちをした。慣れないホテルの剃刀で顔を切り、大臣のように顔中に絆創膏を貼りたくっている。

 

「余計な仕事が入らなければいいなあ」

 

ぼんやり考える匹夫のリュックの中には、くしゃくしゃに丸まった51番のユニフォームが入ったままだった。

 

 

2019年3月23日公開

© 2019 春風亭どれみ

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