わたし達家族の運命は、あの日のジェットコースター。
ささやかな幸せから、底無しの地獄へと急降下。
全ては、異形のモノの予言通り。
ヤクザ三人組は直々顔を出しますが、父が病床なので荒っぽい言動は取りません。
いざとなれば、わたし達を売春と臓器売買で金にできるという冷酷な計算。
ただ変わったのは、わたしを見るヤクザ三人組の六つの目に、困惑と――殺意が浮かんだこと。
一二才のわたしを、リンチやレイプすることはしません。
それは慈悲などではなく、他の組員からの蔑視を避けるため。
それにわたしを「商品」にする場合、なるべくきれいな体で売りたいという下劣な思惑。けれど幹部からの指示なのか、突然、取立ては過激になりました。
「この家族は人から借りた金を、平気で返さない悪い奴等です」と書かれた紙が何枚も、隣近所にばらまかれました。
日増しに重くなっていく、隣人達の「巻き添えは迷惑」という無言のプレッシャー。
そして、ヤクザ達の拡声器での怒声。内容は張り紙と同じ。
金髪モヒカンが恨みを晴らすかのように、毎日この近辺で、甲高い声でわたし達を中傷します。
弟は学校にも行かず、部屋で布団にくるまって震えながら一日を過ごす有様。
母も痩せ衰え、目の下にはドス黒い隈。
回復しつつある父は何かを調べ、誰かと連絡を取っていました。
また法外な仕事をする気なら、次は力づくで止めるまで。
様々な裏家業を調査中、父が見つつけたもの。
それは「夜逃げ屋」。
でも今度はそれで金を「稼ぐ」のではなく、「払う」のです。
父の出した結論は、逃亡――夜逃げ。
けれど夜逃げの費用は、今の我が家で用意できる額ではありません。
夜逃げだけなら、一人三十万円。それで、その道専門のプロに依頼できます。
でも父は我が家を捨てる決心はしたものの、思い出が刻み込まれた家具一式を可能な限り、次の「新居」に運びたいと希望しました。
わたしも賛成!
家族にとって、我が家は唯一のオアシス。それを捨てねばならないのです。せめて愛着と思い出に溢れる家具は、可能な限り持って行きたい……。
そうなると、跳ね上る費用。総額は、百万円。家具の夜逃げの請求額。これが相場だそうです。
さらに。
わたし達は、ただ引越しをするのではありません。
極めて危険な連中から「逃亡」するのです。
そのためには、完全な「別人」になることが必須。
そのためには、他人の戸籍を購入しなければなりません。
戸籍は一人当たり、これまた三十万円。これも相場。戸籍は浮浪者等から調達できるとのこと。
完全な逃亡費用の総額は、三百四十万円。
今の我が家では、とても捻出できない金額。
父は決断しました。
男としての誇りを犠牲にすることを。
その夜、父は深夜に電話をかけました。
父の部屋の前で、聞き耳を立てるわたし。
扉で仕切られていますが、会話はクリアに聞こえました。しかも父の声だけでなく、受話器の向こうの相手が発する声さえも。
異形のモノと遭遇して以来、五感は異常に発達し、身体能力は飛躍的な向上を遂げています。
それへの疑問と困惑を退け、受け入れているわたし。
それが家族を救う一助になるのなら、悪魔から与えられた得体の知れない力だって……。
父が連絡した相手。それは、藤堂の本家でした。
「私の不甲斐無さで、大きな借金を背負ってしまいました。しかも闇金融です。ひどい取立てに会ってい ます。わたしの体に藤堂の血は
流れていませんが、妻には……」
「能書きはいい」
傲慢で冷酷な返答。
「お前達の窮乏ぶりは把握している。呆れる他無いな。恥さらしもいいとこだ」
「……申し訳ありません……それでですね、あの、誠に申し上げにくいのですが……」
「金の無心か」
汚いウジ虫に話すような、見下した声。
「金はやる」
単刀直入な結論。
「ただし、借金の肩代わりなどせん」
ならば、お金をわたし達にどう使えと?
「あの、それは……」
「我々がヤクザに一銭でも払うと思うか?」
「あの、一昔前までは、その、総会屋に……」
「あれはビジネスの一環だ……今にして思えば、あの時代の商売が一番面白かった」
本家の人間の口調が、一瞬柔らかくなりました。それは本当に一瞬のことでしたが……。
「クズどもに金はやらん。藤堂一族がヤクザに金を渡したとなれば、信頼に傷がつく。それに噂を聞きつ けた他の暴力団どもが、ハイエ
ナのように群がってくる」
「し、しかし、先程、お金をいただけると……」
「誤解させたか? お前、夜逃げ屋と交渉しただろう?」
――えっ!
父の声にならない驚き。
「夜逃げの金を払ってやる。要は、現物支給だ。戸籍を買う計画だそうだな。それで、我々もお前達の救 済に乗り出すことにした」
すでに、そこまで把握している……偵察衛星顔負けの藤堂一族情報網。
「お前達の失踪届けを出す。未知の土地で、全くの別人として生きろ。七年以上な。それでお前達は、法 的に死亡したことになる。その
間、一切我々に接触するな」
つまり、戸籍代も含めた夜逃げにかかる費用は――手切れ金。
「あの女の問題も、遥か昔の話。未だに一族の恥ではあるがな。これを機に、お前達とは縁を切る。それ で全て解決だ。いいな?」
「……はい」
消え入りそうな父の返事。あの女とは母のことでしょう。
「今後は直接、夜逃げ屋とお前とで交渉しろ。この電話が最後だ。今後は永遠に、お前達と接触すること はない」
絶縁状。でも父には、他に選択肢などありません。
『縁を切ることなんかしないし、できないさ。私達は必ず再会する。そして永遠となる』
「き、清彦様!」
突然、電話の向こうで乱入者が。
清彦?
一族の小さな会合で出た「うつけの清彦」。
父はか細い声で何度も礼を言い、相手は何も言わず電話を切りました。
夜逃決行当日。
家族を前にして、父が言いました。
「みんな、今日も普段通りに過ごそう」
夜逃げ屋から、そう指示がありました。
夜逃げの準備は、すでに終えています。
取立て屋の監視を警戒して、わたしと弟は普段通り登校しました。
休み時間に校舎を歩きました。
けれど、何の感慨もありません。
所詮ここは、相手への思いやりを欠いた烏合の衆の巣。
しばらく歩くと、弟が山本達にイジメられている現場に遭遇しました。
最後の日まで、この有様。
山本達は五人。弟を取り囲んでいました。
「お前だけじゃなくて、親父も弱虫なんだな」
山本の小学校四年生らしい発言。
それを聞いて笑う腰ぎんちゃく達。馬鹿な小悪党には、馬鹿な腰ぎんちゃく。
「お前のバカ親父、借金して、ヤクザに追われてるんだろ? どうしょうもねえ。ま、俺の親父がエリー ト過ぎるんだけどな」
一層大きくなる、腰ぎんちゃく達の笑い声。
目の焦点がぼやけた弟。すでに抜け殻状態。心の中の殻への避難。それが、弟ができる唯一の自己防衛。
「しかも、隣近所まで迷惑かけてるって? 全く、お前達は家族そろって害虫だな」
ガッ!
固いモノ同士がぶつかる鈍い音。
一斉に振り返るガキども。
わたしは腰ぎんちゃくの一人の襟を掴んで引っ張り、その腰に膝を叩き込みました。
やられた腰ぎんちゃくは床に倒れ、ひどい鈍痛と下半身の痺れに、声も出せません。
「な、何だよ、こいつはっ?」
「……このバカの姉貴だよ」
山本の声には緊張感。そして恐怖。
突然のわたしの登場に、弟の目の焦点が結び始めます。。
山本達は下級生ですが、体格はわたしに勝ります。
華奢な女子のわたしと、床で悶絶している仲間との間を、忙しく行き来する残党四人の目。
その中の一人が山本へのおべっかで、わたしに殴りかかってきます。
わたしへの不気味さを必死に我慢して。
けれど、わたしを殴るために引いた拳が、突き出されることはありませんでした。
わたしの方が先に、彼の鼻に拳を叩き込んだから。
グシャッ。
鼻骨が砕ける音。彼は狂乱の渦の中、血が吹き出る鼻を押さえながら、まるでダンスを踊るように、もがき苦しんでいました。
ヤケになった腰ぎんちゃく達が、一斉に襲いかかってきます。
わたしには、その全てがスローモション。
一人目の額に頭突き。
彼の額は縦にきれいに裂け、鮮血が噴き出しました。真っ赤な薔薇が咲いたよう。とても綺麗。
二人目のパンチを難なくかわし、彼の腕を両手で掴み、その肘にわたしの膝をテコのように叩き込みました。曲がるはずのない角度に、直角に曲がった彼の腕。痛みよりも、その歪な形が、彼をパニックにさせたようです。
わたしは山本のすぐ目の前に立ちました。
弟をいたぶり続けた十才の少年。
驚愕と恐怖に見開かれた目、全身の毛穴から噴出す冷や汗。ガタガタ震える下半身。股間から濡れていく学生ズボン。先程の威勢はどこへやら。
何て矮小な人間。悪知恵だけが働き、要領の良さのみを吸収し続ける少年。
わたしは山本の顔に、唾を吐きました。プライドの高い人間には、暴力よりも屈辱が何よりのダメージ。
立ち尽くす弟の手を引いて、その場から離れました。
弟の私を見る目に浮かんでいたのは、感謝ではなく恐怖でした……。
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