スキゾフォニック・シグナルズ

サイファイ・ララバイズ(第4話)

諏訪靖彦

小説

30,118文字

統合失調症の豊島陽一郎は電磁波攻撃を仕掛ける女子高生の行動調査を興信所に依頼する。電磁波攻撃の証拠を掴んだ豊島は女子高生に電磁波攻撃をやめるように詰め寄るが……

 黒く分厚い遮光カーテンに直径十センチほどの丸い切り込みが入っている。カーテンは電磁波防止コートされた特注品だ。電磁波防止カーテンの切り込みには単眼鏡のレンズがはめ込まれ、鏡筒の中心はアルミ製の三脚で固定されている。窓の外に向けられたレンズの反対側で三十歳前後の男がスツールに腰かけ角度の付いた接眼レンズを覗いていた。男の名前は豊島陽一郎という。豊島は接眼レンズから目を離すと、ヘッドボードの上に置かれたディジタル時計に目を向けた。首をコキコキと鳴らした後、大きく伸びをする。日が明けてから二時間以上同じ場所を監視し続けていたのだから肩も凝る。豊島は三脚をずらすと、窓に近づき電磁波防止カーテンの切り込みをふさいだ。そして机の上に置かれたラムネケースから二・三粒のフリスクを取り出し口の中に入れる。奥歯でかみ砕くとガリッという音と共に口の中に爽快感が広がり清涼感が鼻から抜けた後、頭がすっきりしてくる。豊島は頭に被っているヘッドギアを取り外し机の上に置くと、シャワーを浴びるため部屋を出ていった。
 豊島は田畑の広がる田園地帯にぽつんと立った、三階建ての戸建てで一人暮らしている。一年前、両親が交通事故で他界した。豊島の家は地域の大地主だったため、多くの土地が遺産として豊島に残った。相続税を支払う為に必要な土地の処分を進めるうちに、貸し出している土地や田畑、資産価値など無いに等しい山を維持するのが面倒に思え、全てを清算した。そして多額の現金が豊島のもとに入ってきた。豊島はそれを使って事業を始めるわけではなく、投資をするわけでもなく、遊んで暮らすこともしなかった。今まで通り会社に勤め、今後するであろう結婚のための資金や、子供が生まれたときの教育費、老後の生活費等に充てようと全て貯金した。遺産だけで平均的サラリーマンの生涯年収以上あると言うのにだ。豊島は堅実な人生を歩むことを選んだ。しかしその人生設計に変更を加えなくてはならない事態が発生した。両親が死んで半年後、幻聴が聞こえ始めたのだ。それは、はじめ自分に危害を加えない意味のない言葉の羅列であったため、無視していれば普通に生活を送れていたのだが、あるとき通勤電車の中で、乗車している全ての人が自分を監視していることに気が付いた。怖くなり途中で電車を降りた。その足で近くの交番に向かった。通勤電車の中で集団ストーカー被害にあっていると警察に訴えたが、相手にしてもらえず、会社に助けを求めようと連絡するが、電話に出た総務の女は自分が握っている国家機密を聞き出そうとしてきた。豊島は携帯電話を地面に叩きつけ、誰かに付けられてないか細心の注意を払いながら家に戻った。それから仕事に行っていない。仕事を辞めると幻聴はさらにひどくなった。幻聴は意味のない言葉の羅列から明確な悪意がを持った言葉に変わっていった。空気振動で伝わる音ではない。ヘッドホンを付けても収まらない。それどころか周りの音が入ってこない分、明瞭に幻聴が聞こえる。豊島は知らないうちに脳に電極を付けられたのかと思い、脳神経外科を受診したが、脳神経外科の医師にメンタルヘルス科を紹介された。向精神薬が脳にダメージを与えることは知っていたし、さらに多くの電極を植え付けられる可能性もあったため、メンタルヘルス科は受診せず、家に帰ってインターネットで電磁波遮断ヘッドギアを購入した。幻聴に対する効果はなかったが、ヘッドギアを付けていると心が落ち着いた。頭への締め付けが心地よかったのかもしれない。ヘッドギアを付けながら考える。電磁波から自分を守るのも必要だが、自分を攻撃している奴を見つけ出すのも重要だ。そいつを問い詰めて自分に対して電磁波攻撃するのを止めてもらわなくてはならない。豊島はインターネットで双眼鏡を買った。双眼鏡で電磁波攻撃者を探したが、電磁波送信範囲は双眼鏡で見える範囲よりずっと広いはずだ。双眼鏡よりずっと高倍率な単眼鏡を買った。三脚も買った。単眼鏡で電磁波攻撃者を探すと共に、集団ストーカー対策として家の至る所に防犯カメラを設置し、家の周囲を監視することにした。
 豊島はシャワーから出ると、朝食の用意をする。ご飯と目玉焼きだけの簡単な朝食を済ませると、スーツに着替え外に出かける準備をする。銀行の封がされた札束や財布、必要書類、印鑑をブリーフケースに詰め込むと、ご飯を仏壇に供えて両親に手を合わせた。そしてラムネケースにフリスクを補充してから家を出ていった。
 豊島が向かったのは駅前にある興信所だ。部屋の中から家の周りを監視するうちに、豊島の家の近くに住む女子高生が自分に電磁波攻撃を仕掛けていることに気が付いた。彼女は誰も居ない部屋の中で口をパクパクと動かす。単眼鏡を通して見える彼女の口の動きに沿って頭の中に言葉が流れ込む。それは自分が二日間天皇に即位したときの公務の失敗を責め立てたり、三百十二回目の種付け時の失敗を理由に、国家機密を教えろという要求だった。全て身に覚えのあることだったため、部屋の中に有る盗聴器の撤去と、その女子高生の行動調査を興信所へ依頼していたのだ。豊島は家を出るとうつむき加減で興信所まで歩いていく。インナーイヤフォンからは大音量で木綿のハンカチーフが流れている。木綿のハンカチーフは何十というミュージシャンによりカバーされた名曲だ。十数種類のカバーバージョンをカセットウォークマンに取り込み繰り返し聞きながら歩いた。木綿のハンカチーフが一番電磁波被害を受けにくい。旋律が関係しているのかもしれないが、そうでないかもしれない。旋律が電磁波攻撃を和らげる科学的根拠がない。世の中は理由の無いことであふれていて、それが自然なのだ。自分が国家機密を握った経緯も、世界を二週間支配したことも、きっと自然の流れだったんだ。自分が天皇に即位したのも自分が特別な存在だったわけではない。しかしそれを聞き出そうとする機関には抗わなければならない。なぜなら国家機密だからだ。国家機密を知ってしまったからには、命に代えても国家機密を守らなければならないのだ。
 鉢がねのような簡易電磁波防止ヘッドギアを帽子で隠し、虹色にキラキラと輝く電磁波反射メガネをかけて下を向き黙々と駅前に向かう。顔を上げようものなら、自分を監視している視線にのまれてしまう。そうやって歩みを進めると興信所の入っているビルまで着いた。入口に貼られたポスターには「電磁波対策に高い実績」「集団ストーカーに有効な対処方法があります」と書かれている。豊島はこのポスターを見てこの興信所を選んだ。むき出しのコンクリートに囲まれた狭いビルの階段を上がっていくと、「@リサーチ総合調査」と書かれた紙がガラス窓に張り付けられた事務所が目に入った。豊島はガラスドアの前まで来ると、上着の内ポケットからラムネケースを取り出し、フリスクを数粒口の中に入れてかみ砕く。豊島はラムネケースにフリスクを詰め込み肌身離さず持っている。一日に百粒以上食べる為、外出するときはフリスクのケースでは小さすぎるのだ。口の中からフリスクがなくなると、ガラスドアに取り付けられたパイプ状の大きな取っ手を引き、中に入った。
 豊島がドアを開けると、受付の女性が軽く頭を下げ、口を動かす。声が小さいのか何を言っているのか聞き取れない。豊島は女性に自分の名前を伝えるが、女性は口をパクパクさせるだけだ。電磁波攻撃は空気振動まで操作できるのかと慄いたが、インナーイヤフォンを外し忘れていただけだった。豊島はイヤホンを外してからもう一度名前を言った。帽子とヘッドギア、電磁波防止グラスは外さない。自分の部屋と違ってここは電磁波対策がなされていないからだ。受付の女性は豊島をグレーのパーティションで区切られた一角に案内した。@リサーチ総合調査の事務所の中は、暗く狭いビルからは想像できないほど明るく、部屋の端々に置かれた観葉植物が、会社の健全性をアピールしているようだった。最初に興信所に来たときはその雰囲気に驚いた。豊島が抱いていた興信所のイメージは、受付を兼務している無精ひげの男が、天然なのか失敗したのか分からないようなパーマ頭を掻きむしりながら、めんどうくさそうに受付に現れて、ところどころ破れた合皮のソファーに座るよう促される。そしてむき出しの給湯器のある台所から、咥えタバコでタバコの灰が混じったコーヒーを汚いマグカップに入れ持ってくる。何日も拭いていないためタバコのヤニでくすんだガラステーブルの上にマグカップを置いたあと「それでおたくさんは、どんなことでお困りなのよ?」などと聞いてくるものだと思っていた。そんなことを考えていると、豊島の担当調査員の男が片手に取っ手分離型の使い捨てコーヒカップを二つ持ち、もう片方の手にブックファイルを持って現れた。
「おまたせしました」
 調査員はそう言いながらコーヒカップを置き、豊島の体面に座った。そしてブックファイルを広げた。調査員の名前は野上という。野上とは豊島が最初に集団ストーカー被害にあったことを相談した時からの付き合いだ。野上は集団ストーカー対策に防犯カメラを設置するアドバイスをしてくれた。しかも施工をする工務店まで紹介してくれた。死角が出来ぬよう、家のいたるところに防犯カメラを設置したため数百万の費用が掛かったが、それで集団ストーカーが家に入ってくることがなくなると思うと安いものだと思った。豊島は信頼できる調査員だと思い、何かあると彼に相談するようになった。自分の部屋が電磁波による攻撃を受けていると言うと、また工務店を紹介してもらい、家じゅうのカーテンを電磁波防止カーテンに付け替えてもらった。信頼しているからこそ、自分を監視し電磁波を送ってくる女子高生の行動調査を依頼したのだ。先週の月曜日から日曜日まで七日間、朝七時から夜十時までと依頼してある。基本調査費用は九十五万円で、それに諸経費等を入れて百二十万円程との概算だった。電磁波攻撃を止められるかもしれないと思うと安い金額だった。
「ええと、まず宮澤靖子の行動調査結果について説明させていただきますね。盗聴器探索については後程ご説明します」
 そう言って野上は豊島を見た。豊島は小さく頷く。
「我々は宮澤靖子の行動調査を先週の月曜日から一昨日の日曜日まで七日間行いました。通常は未成年の行動調査は行わないのですが、豊島様のご依頼だったため引き受けました。このことは他言無用でお願いします」
 野上は他言無用のところで声を小さくした。やはり野上は信頼できる調査員だ。この国の法よりこの国の機密が重要だと理解している。
「ええ、誰にも言いません」
 野上は豊島の答えを聞いて頷くと、行動調査報告を続けた。
「宮澤靖子は高校生なので、月曜日から土曜日までは学校に行きます。毎日朝七時四十五分に家を出ます。調査した六日間は毎日きっかり七時四十五分に家を出て行きました。これがその時の写真です」
 野上はブックファイルから六枚の写真を取り出し豊島に見えるように並べた。写真右上にはマジックで月~土と書かれている。豊島はその写真を眺める。どれも門扉を開け外に出ていくセーラー服姿の宮澤靖子が写っていた。一見全く同じ写真に見えるが、同じ時刻に家を出ているのなら同じように写るのだろう。豊島は写真を返すと野上に話の続きを促した。
「家を出ると十分ほどかけて最寄りの駅に向かいます。この間に友達には接触しませんでした。駅まで来ると定期券でホームに向かい、在来線の上り列車に乗りました。社内は混雑していますが、つり革を掴まれないほどではありません。電車内でも宮澤靖子は他人と接触しませんでした。不審な動きもありませんでした。六日間共です。乗車駅に着くと宮澤靖子の通っている県立の商業高校に向かいます。駅から十分程度です。駅から高校までの間も宮澤靖子は誰とも接触しませんでした。六日間共です。どうやら宮澤靖子は友達がいないようです。そしてこれがその時の写真です」
 野上はブックファイルから先ほどの写真とは別の六枚の写真を豊島の前に置いた。先ほどの写真と同じように写真の隅に曜日が書かれている。斜め上から校門を取ったと思われる写真で、どの写真も校門の前で生徒がひしめき合っている。一見すると、どの写真も同じように見える。数十人はいるかと思われる生徒の中から宮澤靖子を見つけ出すのは困難だった。豊島は写真を手に取り宮澤靖子を探していると、野上が赤いマーカーペンを取り出し、写真の一部に丸印を付けた。その場所を凝視すると、なんとなく宮澤靖子のような気がした。他の曜日に手を伸ばそうとすると、野上がさっと手を伸ばして写真を回収した。そして話の続きを始めた。
「月曜日から土曜日まで、授業中は校舎から出てくることはありませんでした。しかし校舎内にいる間でも我々の調査に抜かりはありません。学校周辺に調査員を配置させ、校舎内を監視していました」
 豊島は「その時の写真です」の言葉を待ったが、野上の口から出てこないので、こちらから質問することにした。
「学校周辺から校舎内を監視していた時の写真はありますか?」
 野上の目が一瞬泳いだ。そして下を向きブックファイルをぺらぺらと捲る。そして「ああ、これですね」と言いながら写真を取り出し豊島の前に置いた。今度は一枚だけだ。曜日すら書いていない。写真を見ると黒板に向かってチョークで何やら書いている中年の男性の姿が写っている。どこかピントのズレた写真で遠くから写したように見えた。
「これは誰ですか?」
「宮澤靖子の担任です」
 野上は即答した。
「担任の先生が何か関係しているんですか?」
 野上は困った顔をして数秒間沈黙した。そして何かを思い出したかのように言った。
「それはですね、豊島さん。誰が宮澤靖子を教育しているのか調べていたからです。宮澤靖子が電磁波攻撃や思考盗聴を行っている人物であれば、それを教育している人物が誰なのか調べる必要があると思ったからです。残念ながら担任の写真しか取れませんでしたが、宮澤靖子が校舎内で何をしていたかは、学校周辺に配置した調査員がきちんと調べています」
 ボケた写真を撮るのがやっとであれば、宮澤靖子を監視するのは難しいのではないかと思ったが、@リサーチ総合調査のことだ、自分には言えない秘密の調査方法があるのだろう。豊島は黙って頷いた。
「校内で宮澤靖子はいたって普通の女子高生でした。成績までは分かりませんが、クラスの中でどう思われているのかもわかりませんでした。調査員の報告ではいたって普通の学園生活を送っていたようです」
 野上はブックファイルを眺めながら説明しているが、開いているページには何も書かれていないように見える。恐らくページを覆うビニールが蛍光灯に反射して豊島の位置からは見えないのだろう。
「担任の教師は……、宮澤靖子の担任教師の名前は何と言いますか?」
「ええと……さ、斎藤さんです」
「その斎藤先生が国際諜報機関と繋がりがある人物で、その手助けを宮澤靖子が行っていたということは考えられませんか?」
「調査員の報告によると、二人は普通の教師と生徒の関係だったようです。遠藤さん、いや斎藤さんは国際諜報機関のメンバーではないようです」
 野上はもうブックファイルを見ることすらしてない。その様子を見て豊島は、野上が事前に調査ファイルを読み込んでいるのだと感心した。
「では、宮澤靖子が私に強制的思念通話を行ってきたり、私の家に盗聴器を仕掛けるようなことは、学園生活からはうかがい知れなかったんですね」
「はい。豊島さんのおっしゃる通り宮澤靖子は他の生徒と同じように、学園生活を送っていました。これが帰宅時の写真です」
 野上がブックファイルから写真を取り出そうとすると、それを豊島が制止した。
「写真はもういいです。@リサーチ総合調査さんの行動調査を信頼していますから」
 豊島は上着のポケットからラムネケースを取り出しフリスクを数個口の中にいれた。口の中の爽快感が頭の芯を突き刺し頭脳が明瞭になった気がする。
「では、宮澤靖子の行動調査では、怪しいところが何もなかったということですか?」
 野上は軽く首を横に振ってから話をつづけた。
「宮澤靖子は月曜日から土曜日は学校に行き、授業を抜け出すことなく真面目に授業を受けていたようです。帰ってきてからも一歩も家を出ませんでした。家と学校の間を往復しただけです。宮澤靖子は部活動も行っていないようで、学校が終わるとすぐに自宅に帰宅しました。そして友達もいないようです。一人も友達がいません。しかし我々は日曜日も宮澤靖子を調査しています。豊島様より日曜日の調査依頼も頂いておりますので、しっかり調査させていただきました。その日曜日に収穫がありました。宮澤靖子の異常行動を見つけ出したのです。因みに土曜日に学校から帰るときの写真が……」
「土曜日の写真はいりません。写真はもういいですから、日曜日に宮澤靖子がとった奇行を詳しく教えてください」
 野上は一度出した写真を引っ込めた。ちらっと見えた限りでは、先ほど見た校門の写真と同じように見えた。野上は下校写真をしまうと、ブックファイルのページを開き、八ミリビデオテープを取り出して豊島の前に置いた。豊島は八ミリビデオテープを手に取り野上に聞いた。
「これはなんでしょう?」
「我々はカメラだけでなく、ビデオカメラも使い宮澤靖子を調査いたしました。ここに収められているのは日曜日の宮澤靖子です。宮澤靖子は午後三時二十五分に自宅を出ました。その時の写真が……」
 野上がブックファイルのページを戻す仕草をしたところで豊島が制止した。
「いりません。続きを話してください」
「宮澤靖子は自宅を出ると門前小学校方面へと向かいました。調査員は細心の注意を払い宮澤靖子を尾行したのですが、小学校裏で見失ってしまいました。門前小学校裏には春日坐神社の表参道があります。調査員は折角だからと神社を参拝するため表参道の階段を上り春日坐神社の境内に入りました。そこで本殿横の休憩所に座る宮澤靖子を見つけたのです。恐らく熟練の調査員特有の、ある種の勘が働いたのでしょう。熟練調査員は神社の境内に敷き詰められた砂じゃりを踏む音から気付かれてしまわないよう、ビデオカメラを回しながら垣根を伝い宮澤靖子に近づきました。垣根の中で宮澤靖子の様子をうかがっていると、急に立ち上がり不自然な行動をとり始めました。この八ミリビデオテープにはその様子が収められています。因みにカメラとビデオカメラとビデオテープは経費として計上させていただきます……」
「それは大丈夫ですから、早くテープを見せてください」
「分かりました」
 そう言うと野上はテーブルに置かれた小型テレビのAV端子を開き、ハンディカメラに繋がったケーブルを接続した。そしてハンディカメラのテープ投入口に先ほどの八ミリビデオテープを入れ、テレビの電源ボタンを押した後、ハンディカメラの再生ボタンを押した。テレビに映し出されたのは、神社の境内で砂じゃりの上に立っている宮澤靖子の姿だった。周りには誰も居ない。そのことを確認するようにカメラが宮澤靖子を中心に左右に動く。そして宮澤靖子の顔にズームアップした。口元が動き何かを言っているように見える。茂みに隠れて撮影しているのか時折カサカサと葉の擦れるようなノイズが混じる。何を言っているのか耳をそばだてるがあまりよく聞こえない。豊島は野上に目で合図をする。視線の意味を理解した野上はテレビのボリュームを上げた。すると断続的ではあったが宮澤靖子の声が聞こえてきた。
――何度言われても……そのつもり……ない……そんなに急に…………から、私は……ま……生殖……した……たね……だから…まって……
 豊島は途切れ途切れ聞こえる言葉を繋げ、意味が汲み取れないか注意深く聞いた。そしてある言葉が聞こえた瞬間、脳裏に閃光が走った。
「野上さん、今のところをもう一度再生してください!」
 豊島の要求を受けて野上はハンディカメラの巻き戻しボタンを数秒押した後、すぐに再生ボタンを押した。
――……生殖……した……たね……
 閃光が脳を刺し、脊髄を通り唇を震わせ手足を震わせた。豊島は思った。やはり宮澤靖子は自分の秘密を知っている。二日間天皇に即位した後、世界各国の王族との生殖を強要された。その中で三百十二回目の種付けの時に取り返しのつかない失敗をした。宮澤靖子は種付け失敗のことで自分を辱め、国家機密をしゃべらせようとしているのだ。このビデオが撮影されたのは日曜日だと言う。日曜日に同内容の電磁波攻撃があったかどうかは憶えていないが、この映像はそれがあったことを示している。この八ミリビデオテープは決定的証拠なのだ。
「野上さん! これは決定的証拠です。これで宮澤靖子が私を攻撃していることがはっきりしました。ありがとうございます!」
 豊島は目に涙を浮かべ手を差し伸べてきた。野上は豊島の言う決定的証拠が何なのか理解できない様子だったが、全てわかっていますよとでも言うように豊島の手を握り返し微笑んだ。豊島は握った手を直ると興奮冷め止まぬ声で話を続けた。
「次にやるべきことは、盗聴器が部屋に仕込まれているか調べることです。詳しいことは国家機密になるので野上さんにはお話し出来ませんが、私しか知らないことを宮澤靖子は知っているのです」
 豊島はラムネケースを取り出すと、直接口に当て、フリスクを口の中に流し込んだ。
 
 豊島は@リサーチ総合調査を後にすると、インナーイヤホンを耳に装着し、カセットウォークマンの再生ボタンを押した。チェリッシュの木綿のハンカチーフが流れる。豊島はメロディを口ずさみ、ポケットの中で野上から渡された八ミリビデオテープを握りしめる。曲のリズムに合わせて強弱をつけて握りながら、薄暗い階段を下りて行った。
 宮澤靖子が豊島に対して行った電磁波攻撃の決定的瞬間を確認した後、豊島はすぐにでも家の中に仕掛けられている盗聴器の探索をしてほしいと野上に頼んだ。宮澤靖子が電磁波攻撃を行っているのが確実となった今、彼女に証拠を突きつけ、電磁波攻撃を止めさせることは可能かもしれない。しかし家の中に仕掛けられた盗聴器は一刻も早く探し出さなくてはならない。宮澤靖子が盗聴を止めても、仕掛けられた盗聴器を使って他のストーカーが盗聴する恐れがあるからだ。そのことについて野上に説明すると、野上は思考盗聴の可能性について言及した。思考盗聴は盗聴器を必要とせず、盗聴対象者の脳内電気信号を遠隔取得出来るため、対処が非常に難しいという。しかし対処方法がないわけではない。家の中に数か所、電波通信機能抑止装置を設置し、家の外壁を電磁波バリア素材に張り替えれば防げる可能性があるそうだ。外壁を変えるとなると、家の全面改築の必要が出てくる。工事費用については心配ないが、改築するとなると仮住まいが必要になるなと考えていると、野上はいったんパーティションを離れ、豊島の家の見取り図と見積書、そして工事契約書を持って戻ってきた。野上は準備が良い。こちらから提示したわけでもないのに家の見取り図を用意している。しかも敷地内に仮住まい用のプレハブ小屋まで書かれた見取り図を持ってきた。改築時の仮住まいが敷地内にあれば安心だ。豊島は見積書を見定めた。盗聴探索費や盗聴器撤去費と共に、思考盗聴対策費用が書かれている。電波通信機能抑止装置のメーカーは聞いたことが無かったが、電磁波バリア素材は防衛庁技術防衛本部と三菱重工業が共同で極秘開発している国産ステルス支援戦闘機バリア素材と書かれている。そんな物を自分の家に張り付けていいものか野上に聞いたところ、「通常は一般家庭に使用できませんが、豊島様は適用対象でした」と言われた。豊島は@リサーチ総合調査の底力を思い知った。仮住まい用プレハブの建設費、防犯カメラ設置費など、見積もりを上から順番に確認していくと、最後に電磁波攻撃対策総工事費四千三百万円と書かれていた。総額の上に、大きな字で特別優良顧客割引五十万円と書かれている。野上は見取り図を使い電磁波攻撃対策工事について詳しく説明した。豊島は提示された見積もりに納得すると「いつも割引してもらって済みません」と言って契約書に押印した。そして盗聴器探索の日程を決めた後、宮澤靖子の行動調査費用を支払った。
 @リサーチ総合調査の入ったビルを出ると、駅前交番が視界に入る。宮澤靖子の電磁波攻撃について、警察に訴えることはしない。野上からも言われたことだが、証拠となる八ミリビデオテープを警察に持って行っても、相手にされないどころか、逮捕される可能性がある。警察は国際諜報機関と繋がっているのだ。豊島はすぐにでも宮澤靖子に接触し、電磁波攻撃を止めさせたかったが、今日は平日だ。宮澤靖子は学校に行っているだろう。宮澤靖子の家は把握しているので、いったん自分の家に戻り、単眼鏡で宮澤靖子の家を監視し、帰ってきたところで尋ねに行こうとも思ったが、家に行くとなると、宮澤靖子以外の家人が出てくる可能性ある。宮澤靖子の家を観察した限りでは宮澤靖子の母親は専業主婦だ。宮澤靖子が帰ってくる頃、家にいる可能性が非常に高い。宮澤靖子の母親が宮澤靖子と同じ国際諜報機関員であれば都合がいいが、今までの観測情報から母親はおしゃべりで、よく長電話をしているが、宮澤靖子のように壁に話しかけるようなおかしな行動はとっていない。母親は国際諜報機関とは関わりはないだろう。かといって学校に乗り込んでいくわけにもいかない。@リサーチ総合調査が調べた限りでは学校内に宮澤靖子と意志を共にしている人物はいないようだ。友達も一人もいないらしい。それに学校内で不用な混乱を起こしたくはなかった。ではどうやって宮澤靖子と接触すればいいのか。豊島はそう考えながら周りを見渡した。平日昼間の駅前ロータリーは人がまばらで、豊島の周りには特に人がいない。ここで宮澤靖子を待ち伏せるのはどうだろうか。宮澤靖子は電車通学している。帰宅時には必ずこの改札口を出てくる。ここで待ち伏せするのが最善の方法なのではないか。だからと言って宮澤靖子が改札口から出てきてもすぐに接触してはいけない。会社員の帰宅時刻には早いが、宮澤靖子と同じく帰宅する学生が沢山いるからだ。国家機密について話しているところを学生に見られたくない。駅前ではなく宮澤靖子の跡を付け、人通りが少なくなったところで接触することにしよう。しかし、いくら人通りが少ない場所を狙ったとしても、駅から宮澤靖子の家までに山道を通るわけでもないし林の中を抜けるわけでもない。日中なので全く人がいないということもないだろう。国家機密について話すところを民間人に見られたくない。人通りが少なくなったところで宮澤靖子と接触し、さらに誰もいないところへ宮澤靖子を誘導して、二人きりなったところで話を切り出そう。しかし、その誰もいない場所とはどこだろう。自分の家には盗聴器が仕掛けられている可能性が高いから、他のストーカーに盗聴される恐れがある。盗聴される心配がなくて、人が来ない場所なんてあるだろうか。豊島はポケットからフリスクを取り出し口の中でかみ砕く。そうだ、宮澤靖子に聞けばいいのだ。何でもかんでも自分で考えるのはよくない。宮澤靖子の助けを借りよう。宮澤靖子は国際諜報機関の工作員なのだ。そのような場所を幾つか知っているだろう。いくら工作員でも困っている人は助けるだろう。人助けができなければ工作員は務まらない。そこは宮澤靖子を信じよう。宮澤靖子に紹介された、盗聴器が仕掛けられていない、誰もいない、誰も来ない場所で、電磁波攻撃と盗聴の証拠となる八ミリビデオテープを宮澤靖子に見せる。そして今後一切の電磁波攻撃を止めるように言おう。攻撃を止めない場合、これからもずっと宮澤靖子の部屋を単眼鏡で監視すると言ってやろう。しかもビデオカメラを接続して二十四時間録画すると警告してやろう。しかし宮澤靖子が話を聞かず、攻撃してきた場合はどうすればいいだろうか。宮澤靖子は国際諜報機関の工作員だ。突然武器を取り出し襲ってくるかもしれない。豊島は上着やズボンのポケットを探り、武器になるようなものは持っていないか確認するが、何も出てこなかった。丸腰では危険だ。自衛措置がとれるものを準備しておかなくてはならない。豊島は駅前商店街へ向かった。
 
 豊島は駅前ロータリーに面したガードレールに腰かけ、宮澤靖子を待っていた。背中には十四インチの小型テレビと八ミリビデオテープを再生できるビデオデッキ、それと小型発電機を背負子に括り付け背負い、ブリーフケースは背負子のフレームに引っ掛けるように提げている。豊島は宮澤靖子に襲われた時のことを考え、護身用の武器を探しに駅前商店街に入った。そして電気店の前を通りがかったとき、宮澤靖子に証拠映像を見せるにはビデオデッキとテレビが必要だと気が付いた。豊島はそのまま電気店に入りテレビとビデオデッキを購入した。さらに宮澤靖子が案内してくれる盗聴器が仕掛けられていない場所に、電源がなかった場合ことを考え発電機も買った。発電機にはガソリンを入れてある。背負子はドン・キホーテで手に入れた。電気店の店員から発送先を聞かれたが、発送されては宮澤靖子に証拠映像を見せることができない。豊島は店員に運ぶものを持ってくるから開梱しておいてくれと頼むと、商店街の中にあるドン・キホーテへ向かった。ドン・キホーテに入りキャリーカート売り場まで行くと、キャリーカートを大きくしたような背負子が目に入った。手に取ってみるとずっしりと重い。重いが、作りはしっかりしているように見える。背負えば重さは気にならないかもしれない。何より両手が自由になるのがいい。宮澤靖子の跡を付けるのに、キャリーカートを引きずっていては不自然だし動きにくい。豊島はドン・キホーテで背負子を買い電気店へ戻った。電気店へ戻ると買った商品がすべて開梱されていた。店員に手伝ってもらいながら、発電機、ビデオデッキ、テレビの順で背負子に乗せていく。最後に、店員にお願いして、背負子に乗せた状態でそのまま使用できるよう、発電機とテレビとビデオデッキを接続してもらった。そして宮澤靖子が映った八ミリビデオテープをビデオデッキにセットした。発電機のひもを引っ張ればテレビとビデオデッキの電源が入り、宮澤靖子の悪行が自動的にテレビに再生される仕組みだ。テレビのブラウン管は外側に向けてある。宮澤靖子に映像を見せたいときに、さっと後ろを向いて発電機のひもを引っ張るだけでいいのだ。効率的だしスマートだ。
 豊島が宮澤靖子に証拠映像を見せるときのことをシミュレーションしていると、改札口を出る人に学生が混じり始めた。宮澤靖子は友達が一人もいない。寄り道してくることはないだろう。そう思ったとき、宮澤靖子が改札から現れた。宮澤靖子は一人だ。やはり友達はいない。豊島は宮澤靖子と適切な距離をとるため、暫く待った。そして駅前ロータリーを抜け、左に曲がったところで豊島は立ちあがった。立ちあがったが、発電機のひもがガードレールに引っかかり、発電機が作動してしまった。それと同時にテレビが点く。豊島の聴覚はインナーイヤフォンから大音量で流れる木綿のハンカチーフに支配されており、背中のテレビが発するガサガサという草木を分け入って進む音に気付くことはなかった。発電機のピストン振動を僅かに背中に感じたが、偶然にも木綿のハンカチーフのリズムと同調してしまい、違和感を感じることがなかった。宮澤靖子に証拠音声をしっかり確認させるため、テレビのボリュームは最大に設定してある。豊島は宮澤靖子との距離を保ちつつガードレール沿いに歩き、駅出入口まで来たところで、視線を感じた。豊島は立ち止まり、あたりを見渡す。
 視界に入る全ての人が豊島を見ていた。ティッシュを配る若者が手を止め豊島を見ている。後ろを振り返るとバスの待ちをしている列全員が豊島を見ている。豊島を中心に半径二十メートル内にいる全員が足を止め豊島を見ている。立ち尽くす豊島の背中には、茂みの中から女子高生を盗撮している映像が流れていた。
 豊島は思った。こいつらは集団ストーカーだ。こんな時に限って集団ストーカー被害に合うなんてついてない。どうすればいい。考えるまでもない。逃げるんだ。走って逃げるんだ。経験上、集団ストーカーはこちらが走って逃げた場合、追いかけて来ることは少ない。走って駅前から離れれば大丈夫だろう。しかし宮澤靖子の通学路に向けて走ってしまっては宮澤靖子に追いついてしまう。遠回りになってしまうが、いったん商店街を抜けて集団ストーカーを撒いた後、宮澤靖子の帰宅ルートに向かい合流すればいい。時間との戦いだが、全力疾走すればなんとか間に合うだろう。
 豊島は内ポケットからラムネケースを取り出すと、フリスクを口に含んだ。そしてクラチングスタートの体勢をとる。フリスクをかみ砕く音が合図となり豊島は全力疾走した。背中に女子高生を映しながら駅前を駆け抜けた。駅前を抜けるとそのまま商店街を疾走する。駅前を抜けてもなお、商店街を歩く人々が豊島を見ている。顔を上げると集団ストーカーの視線に飲まれてしまうと思った豊島は足元を見ながら走り続けた。背中に女子高生の口元を映しながらシューゲイザーが疾走する。商店街は全長二百メートル程ある。駅前から商店街を抜けるまで二百五十メートル程ある。豊島は一度も止まることなく商店街を走り抜けた。
 駅前商店街を走り抜けると、左右をブロック塀で囲まれた通りに入った。豊島の住む町は田畑の広がる田舎町であったが、駅前商店街の周囲には住宅街が広がっている。豊島は突き当りのT字路で立ち止まり、両ひざに手をつき呼吸を整えた後、左に曲がりまた走り出した。宮澤靖子の帰宅経路は知っている。この道の突き当りをまた左に曲がれば宮澤靖子の通学路に合流できる。このまま走り続ければ間に合うだろう。豊島は二つ目の突き当りまで来ると、今度は立ち止まらず左に曲がった。背中から流れる宮澤靖子の声と共に走り続けた。そのまま二つの通りを跨いで宮澤靖子の通学路に入ると、二十メートルほど先に宮澤靖子の後姿を見つけた。間に合った。しかも周りに人はいない。豊島はこのまま宮澤靖子に接触しようとしたが、走り続けたため息が上がってしまっている。このままではまともに宮澤靖子と話が出来ないため、少し休憩してから接触することにした。電柱の陰に隠れ、宮澤靖子を見失わないよう観察しながら息を整える。
 突然宮澤靖子が振り返った。豊島は電柱から出した頭をさっと引っ込め、宮澤靖子から見て完全に死角になるよう、体をブロック塀側に向けた。なぜ気付かれたんだ。工作員であっても、あれだけ離れていては気配を感じることは出来ないだろう。もしかすると住宅街一帯に赤外線監視装置が張り巡らされているのかもしれない。豊島の背中からは宮澤靖子の声が大音量で流れているため、宮澤靖子に気付かれるのも当然なのだが、豊島にはなぜ気付かれたか理解できなかった。さらに言うと、豊島は呼吸を整えたのち、宮澤靖子と接触するつもりでいたため、姿を見られても問題ないのだが、宮澤靖子を追ううちに目的が接触から尾行に変化してしまっていた。生殖がどうこう言っている宮澤靖子の声を大音量で流しながら豊島は電柱に沿って両手を挙げ必死で身を隠した。帽子の隙間から電磁波防止ヘッドギアを伝い大粒の汗が垂れてきた。豊島は首を振り、汗を振り落とす。すると宮澤靖子のいる反対側に、ランドセルを背負った小学生が近づいてくるのが見えた。豊島は首を振り、汗を飛び散らせながら、どうかそのまま通り過ぎてくれと願っていると、小学生は豊島の姿を見て立ち止まり、顔を強張らせながら後ずさりした後、来た道を引き返した。そして全速力で走り去っていった。
 小学生がいなくなり安心していると、こつんという衝撃を背中に感じた。豊島が振り返ると、そこに宮澤靖子がいた。豊島が小学生に気を取られているうちに宮澤靖子が近付いて来ていたのだ。豊島は驚き、目を見開く。宮澤靖子は口をパクパクさせながら何やら叫んでいるようだ。何を言っているかまるで聞こえない。電磁波攻撃で空気振動を遮断されたのかと慄いたが、インナーイヤフォンを付けたままだった。うっかりしていた。豊島はカセットウヲークマンを停止させインナーイヤファンを外す。すると宮澤靖子の怒鳴り声が聞こえてきた。
「何をやってるんですか! なんで私の映像を流しているんですか! 迷惑だから止めてください! 色々意味が分かりません!」
 豊島は宮澤靖子が何を言っているのか理解できなかった。迷惑を掛けているのは宮澤靖子の方だ。盗聴し電磁波攻撃を行っているのは宮澤靖子の方ではないか。豊島は姿勢を正すと宮澤靖子に言った。
「おちついてください。宮澤靖子さん。怪しいものではありません。私は豊島陽一郎というものです。実は折り入って相談したいことがありまして……」
 豊島の言葉を最後まで聞かず、宮澤靖子が言葉を重ねてきた。
「あなた頭おかしいの? そんな格好して怪しくないとか意味が分かりません! 折り入ってとか言ってますけど、折り入ってとは真面目に真摯な態度でお願いすることを言うの、私を盗撮した映像を流しながら歩いている人の言う言葉じゃないのよ! あなたの行動は全然折り入ってないのよ! それにそんなシステムどこで売ってるのよ!」
 宮澤靖子は錯乱している様子だ。豊島は宮澤靖子の怒号で人が集まってこない心配になった。あたりを見渡すが幸いにも誰にも見られていない。しかしこのままでは宮澤靖子と交渉するどころではない。豊島はポケットからナイフを取り出すと、宮澤靖子に突きつけた。
「すこし静かにしてくれませんか。私はあなたと交渉しようと思っています。ですが、ここではお話しできません。誰かに聞かれる可能性があります。盗聴されている可能性があります。二千年会議で議決された協定と、国家機密の件と言えば分かってもらえますよね?」
 宮澤靖子は突きつけられたナイフを見てひるんだ。そして首を傾げると宙を見つめる。
「どこを見ているんですか? やましいことがあるから目を逸らすんですか?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
 そう言って宮澤靖子は豊島に視線を戻した。怯えているのか声が震えているように聞こえる。
「盗聴器のない場所でなければ交渉出来ません。盗聴器がなくて誰も来ない場所へ案内してください。工作員のあなたであれば、そんな場所を知っているでしょう? 私は知らないので、人助けだと思って案内してください。工作員であれば困っている人を見過ごせないはずです。私は困った人ですから」
 しばしの間沈黙が流れる。すると豊島は背中にドコドコとピストン振動を感じた。豊島はナイフを握っていない方の手で発電機に触れる。いつの間にか電源が入ってしまったようだ。しかし発電機が自動的に作動するなんてことがあるのだろうか。そう言えばさっき宮澤靖子に背中を叩かれた。あれは発電機のひもを引っ張った衝撃ではなかったのか。まったく油断ならない。宮澤靖子はどんな時も嫌がらせをしてくる。しかし、テレビの音が聞こえてこないのはなんでなのだろう。発電機を作動させれば自動的にテレビが点くはずだ。さては電気店の店員が配線をミスったな。まったく油断ならない。油断ならないがテレビが点かなくてよかった。配線がきちんとされていれば、住宅街で宮澤靖子の声が大音量で再生されてしまうところだった。危なかった。結果良かった。しかしこれではスマートな方法で証拠映像を見せることができなくなった。仕方ない、宮澤靖子に配線を見てもらってから映像を再生してもらおう。その前にいったん発電機を止めなくてはならない。ドコドコと背中の振動が煩わしい。豊島が背中に手をまわし発電機の電源ボタンを探っていると、宮澤靖子が神妙な面持ちで言った。
「わかった。案内するよ」
 片手を背中でばたつかせながら豊島が言った。
「ありがとうございます。でもその前に発電機の電源を切ってくれませんか?私の背中の背負子の一番下の段の左、いや、あなたから見て右側に、オレンジ色に点灯するスイッチがあるでしょ? それをオフの方へ押してください。お願いします」
 豊島が宮澤靖子に背を向けると、宮澤靖子は発電機の電源を切った。豊島は前に向き直ると、すかさずナイフを宮澤靖子に差し向ける。
「では、お願いします」
「ちょっとまって、豊島さん。誰も来ない場所へ案内するのはいいけど、ナイフを向けたままじゃ誰かに見られたときに困るでしょ。通報されちゃうかもしれないから。だからナイフをしまって欲しいの」
 それもそうだ。豊島は素直にナイフをポケットにしまった。ナイフはドン・キホーテで買った飛び出しナイフだ。刃先を押すと中に引っ込むタイプの飛び出しナイフだ。刃先が丸まって痛くないタイプの飛び出しナイフだ。プラスチック製の軽いタイプの飛び出しナイフだ。ドン・キホーテのパーティーグッズコーナーに売っていた。金属製で鋭い刃をもったタイプのナイフを持ち歩けば銃刀法に引っかかってしまうため、このナイフを選んだのだが、正解だったようだ。ナイフをしまう時に指を切ってしまわないか心配しなくていいし、そのままポケットに入れられる。出すときもシャッと出る。刺したり切りつけることは出来ないが、それを補って余りある利点がこのナイフにはある。
 豊島がナイフをしまうのを確認すると、宮澤靖子は先ほど小学生が歩いてきた方向へ歩き出した。豊島は急いで宮澤靖子の隣まで走ったが、並んで歩かれるとい嫌だから後ろを歩いてほしいと宮澤靖子に頼まれた。仕方なく宮澤靖子の後方五メートルの間隔を保ちながら歩いていく。そのうち小学校が見えてきた。何気なく小学校のグラウンドを覗くと、幾人かの生徒がボールを追いかけて遊んでいる。皆楽しそうに笑っている。自分もあの頃は悩みなんて何もなくて、無邪気に友達と遊んでいた。あの楽しそうな小学生に比べ、今の自分はどうだ、集団ストーカーに監視され電磁波攻撃まで受けている。誰にも監視されず、好き勝手に歩き回れたあの頃を取り戻すことは出来るのだろうか……そのためにも宮澤靖子との交渉を成功させなければならない。自由を手にする最初に一歩になるんだ。豊島は宮澤靖子に視線を戻す。宮澤靖子は校門を通り過ぎ、小学校の敷地に沿うように校舎裏へ続く道へ曲がった。校舎裏には春日坐神社の表参道がある。@リサーチ総合調査の熟練調査員が宮澤靖子の悪行を撮影した場所だ。もしかすると春日坐神社は国際諜報機関の秘密基地なのかもしれない。春日坐神社自体が模型世界なのかもしれない。そんな場所に連れていかれたら何をされるか分かったものではない。豊島は宮澤靖子のすぐ後ろまで近づくと、肩を掴んだ。宮澤靖子立ち止まり豊島に振り向く。そして豊島をキッと睨んだ。まるで人殺しの目だ。
「ちょっと、触らないでよ!」
 豊島は宮澤靖子怒鳴り声にびくっと肩を上げ、同時に宮澤靖子の肩に添えた手を離した。
「ああ、すみません。肩を掴んだのは変な意味じゃなくて、その……」
「その、なに?」
 宮澤靖子は苛立ちを露わに豊島に聞いた。宮澤靖子は豊島に対して敬語を使うのを止めたようだ。いつの間にか立場が逆転している。このままではいけないと、豊島はポケットに手を入れ、ドン・キホーテで買ったおもちゃのナイフを取り出そうとするが踏みとどまった。ここは小学校の校舎裏だ。校舎から見られる危険がある。事を荒立てないためには、このままの立ち位置で話した方が賢明だろう。
「宮澤靖子さんがどこに向かっているのか気になって」
「どこって、あなたが人の来ない場所に連れてけって言ったんでしょ? だから、人が来なくて誰もいない場所に向かってるのよ」
「ええ、そうです。私が案内してほしいと頼んだのですが、その場所ってあの神社ですか?」
 豊島はそう言って表参道の先にある神社の鳥居を指さした。
「そう。神社の境内。あそこは神主さんも常駐してないし、めったに人が来ないの。お祭りのときは賑わうけどね」
 やはり春日坐神社に連れていくつもりだ。春日坐神社が国際諜報機関の秘密基地ではないことを確認しなければならない。模型世界や表層世界ではないことを確認しなければならないのだ。
「念のために確認しますが、あの神社はあなたが所属している機関の秘密基地じゃないですよね?」
「私の所属機関? しいて言えば、私の所属は県立飛鳥商業高校だよ。飛鳥商に秘密基地なんてないわよ。あ、でも廃部になった部室があるよ。馬鹿な男子達がそこを喫煙所として使ってるから、秘密基地と言えないこともないかも。でも私は行かないよ、そんなところ」
「では、神社自体が模型世界の入り口ってことはないですよね?」
「春日坐神社の建築様式は大社造よ。春日って付いているけど春日造じゃないの。面白いわよね。元々は別の神様を祀っていたのかもね。それでなんだったかしら、そう模型世界かどうかってことよね。延喜式に記録がある由緒ある神社なのよ。だから模型のわけないの。ほら、さっさと行くよ」
 宮澤靖子は前に向き直り、表参道に歩き出そうとした。豊島はすぐに宮沢靖子を呼び止める。まだ確認すべきことがあるのだ。
「ちょっと待ってください。神社の境内に盗聴器は仕掛けられてないですよね?」
 宮澤靖子は再び振り返ると豊島に言った。
「あんな所に盗聴器を仕掛けてどうするのよ。ほとんど人が通らないのよ。それとも神様を盗聴するっていうの? そんなバチ当たりなこと誰もしないよ」
 宮澤靖子の話し方から嘘を付いているようには見えなかった。確かに神社に盗聴器を仕掛けるのは、いくら何でも不敬すぎる。宮澤靖子を信用することにしよう。豊島がそう考えていると宮澤靖子が一足先に階段を登り始めた。豊島は急いで後を追う。階段の登り口にから鳥居を見上げると、階段が壁のようにそびえ立っているように見えた。それもそのはずで、頂上の鳥居まで急な階段が百段ある。豊島は肩を動かし背負子に乗せたシステムのポジションを直すと意を決して、階段を登り始めた。宮澤靖子はひょいひょいと階段を登っていったが、豊島は背負子の重からなかなか思うように登ることが出来なかった。豊島がやっとの思いで半分ほど登り、上を見上げると、宮澤靖子は頂上の鳥居から豊島を見下ろしていた。宮澤靖子は鳥居をくぐらず待ってくれているようだ。豊島はあまり待たせては悪いと思い必死で登った。なんとか鳥居まで来た豊島は深呼吸して息を整えると、鳥居へ向かい足を踏み出す。すると宮澤靖子に制止された。
「豊島さん、ちゃんとお辞儀しなきゃだめでしょ。ここからは神様の領域なんだから。お邪魔しますって意味で、お辞儀して入らないといけないのよ」
 宮澤靖子はそう言うと鳥居の左側に立ち、本殿に向かって一礼してから鳥居をくぐる。そして手水舎に向かった。豊島も宮澤靖子に倣って鳥居をくぐった後、手水舎で両手を清める。先に清め終わった宮澤靖子は側で待ってくれている。のどが渇いていたので口を漱ぐふりをして水を飲んだ。大丈夫だ、宮澤靖子は気づいていない。豊島がハンカチで手を拭いていると宮澤靖子が話しかけてきた。
「あそこに休憩所があるでしょ。あそこで話をしましょ」
 宮澤靖子は本殿右わきにある休憩所を指さしている。木で出来た大きなテーブルの両側に地面に埋め込まれた腰かけ椅子が四つ並んでいる。
「ええ、そうしましょう」
 豊島がハンカチをしまい休憩所に向かおうとすると、宮澤靖子がそれを止めた。
「ちょっと待って、豊島さん。せっかく神社に来たのだから一緒に参拝しましょう」
 そう言って宮澤靖子は本殿に向かい歩いて行った。豊島もポケットから小銭を取り出して後に続く。宮澤靖子を糾弾しに来たのにまさか一緒に参拝することになるとは思ってもなかった。しかしいったい何を願えばいいのだろう。隣にいるやつを懲らしめて下さいと神様に願えばいいのか? いやそんなことお願いしたらバチが当たる。それに宮澤靖子はそんなに悪い奴ではない気がしてきた。いやいや騙されてはいけない。電磁波攻撃の決定的証拠があるのだ。豊島は横に立つ宮澤靖子をちらりと見る。自分ほどではないが宮澤靖子も階段登って汗をかいたのか、髪の毛が頬に張り付いている。女性は汗をかくと大変だなと思いながら見ていると、宮澤靖子が両手で鈴の緒を持ち、大きく左右に振った。豊島は急いで手に持った小銭を賽銭箱に投げ入れた。そして柏手を打って目を瞑る。しまった。流れで柏手を打ってしまったが、何を願えばいいか決めてなかった。さて困った。この状況で一番良い願い事は何だろう。あまり長く考えていると沢山願い事をしている欲深い奴だと宮澤靖子に思われてしまう。考える時間は殆どない。よしこれにしよう。この世の中から戦争がなくなりますように。この世の中から差別と貧困がなくなりますように。この世の中の人々が幸せでいられますように。最後に、家の中から無事盗聴器が見つかりますように。いやまて、世の中のお願いをした後に家の中のお願いするのは規模が小さすぎないか、それに盗聴器は見つからない方がいい。見つけてもらうよう@リサーチ総合調査へ依頼したが、見つからないに越したことはないのだ。神様。えっと何の神様か知らないけど春日の神様でいいのかな、最後の願いは変更でお願いします。最後の願いは、集団ストーカーや電磁波攻撃を受けることがない普通の生活に戻してくださいに変更します。よろしくお願いします。
 豊島が一礼して顔を上げると近くに宮澤靖子の姿がなかった。豊島は逃げられたかと思い慌ててあたりを見渡す。すると本殿右横の休憩所のテーブル奥に座っている宮澤靖子を見つけた。豊島は宮澤靖子に欲深い奴だと思われてしまったか心配しながら、休憩所まで歩いて行った。そして宮澤靖子と対面になる様に座った。座ったけれどあまり楽にはならない。そうだ、背負子を外し忘れた。このままでは宮澤靖子に電磁波攻撃の証拠を見せることが出来ない。それに配線を直さなきゃいけない。豊島は宮澤靖子に「ちょっと失礼」と言って立ち上がると、地面に背負子を下ろした。そして背負子の下を持ってテーブルの上に乗せようとした時、異様なものが豊島の視界に入った。
 休憩所の椅子に腰かける宮澤靖子の左斜め後ろ、本殿の裏から通路に向けて、灰色の楕円体が、通路に倒れ掛かるように浮かんでいる。豊島は一瞬ダチョウの卵が宙に浮いているのかと思ったが、目を凝らすと、その楕円体は頭頂部の尖った黒い西洋兜のようなものを被っており、本殿との境には楕円体の下部から延びた黒い帯のようなもので繋がっている。本殿裏から人が覗いているようにも見えるが、あれが人の頭であるならば、突き出た位置から考えて、身長はゆうに二メートルを超えているだろう。豊島はその物体を見つめながら、持ち上げた背負子を地面に戻した。記憶域からあの物体に該当するものを探し出そうとするが見つけられない。豊島は強く目を瞑り再び開ける。異様なものは本殿の裏から通路に出て来ていた。首の下には胴体と四肢があり、一見すると背の高い人にも見えるが、体躯の大きさに比べ頭が小さく、アンバランスな印象を受ける。頭頂部が突き出た兜の中にある灰色の顔は、目がなければ顔だと認識出来ない程凹凸がなく、のっぺりとしている。灰色の肌に浮かんだ二つの目は黒目だけで構成されており、頤がない鋭利な顎が爬虫類を思わせる輪郭を形作っている。全身を包む黒い鱗状の甲冑が西日に照らされ鈍色の光を放ち、甲冑の中で非対称に不規則に散らばった装飾具と思われる物が青や緑の光を放っている。異形なるものは、足の間から灰色の尻尾をちらつかせ、砂じゃりを踏む音と甲冑が擦れる音を響かせながら豊島に近づいて来た。豊島はゆっくりと右腕を上げ、異形なるものを指差した。
「あれは……あれは、何なんだ……」
 宮澤靖子は豊島の指さす方向へ振り向いた。宮澤靖子は異形なるものの姿をとらえると、左手を上げ、手を振った。異形なるものも同じように手を振り返す。
「あ、あれを知ってるのか、宮澤靖子……あれは何だよ……あれは何なんだよ! 誰も来ないと言ったじゃないか! 俺をはめたのか、宮澤靖子!」
 宮澤靖子は豊島の怒号を聞いて、豊島の方に向き直った。
「誰も来てないじゃない。あのダチョウの卵みたいな頭をしているのはキチガイさんだもの。人間じゃないのよ」
 豊島の期待した答えではない。だが異形なるものの名前がキチガイだということは分かった。自分のニックネームと同じだ。キチガイはどう見ても宇宙人だ。もしくは悪魔だ。自分の知っている国家機密にない情報だ。いや国家機密どころの話じゃない。あれはオカルトの範疇だ。宮澤靖子の言うように人間でないのは確かだが、人間以上に厄介な相手じゃないか。そう考えている間にもキチガイはどんどん近づいてくる。豊島は逃げ出したかったが、動いた瞬間、キチガイがギャンと飛び跳ねシャーとか言いながら襲ってくるのではないかと思うと、動けなかった。
「人間じゃないのは見れば分かる! そんなことを聞いているんじゃない! キチガイは宇宙人なのか? それとも悪魔なのか? あいつはいったい何なんだよ、何なんだよ宮澤靖子!」
「だから、キチガイさんだって。豊島さん、声大きいよ。興奮して凄く大きな声でしゃべってるよ。境内の外まで聞こえたら、それこそ人が来ちゃうよ。落ち着いて。すーはーすーはーって深呼吸して。ほらやって」
 豊島は宮澤靖子の言われるままに深呼吸した。だめだ、全然落ち着けない。逆に足が震えてきた。恐怖が全身をまわった。立っていられない。豊島はテーブルに手をつくと、そのまま崩れ落ちるように椅子に座った。テーブルを見つめながら、意識が遠のくのを感じる。頭から何かが抜けていく感覚と共に、テーブルの木目が近づいてくる。豊島がテーブルに頭を打ち付ける寸前、何か硬いものよって額を支えられた。
「頭大丈夫ですか?」
 隣から声が聞こえた。豊島は頭を上げ、自分を支えた物を見る。豊島が真っ先に思い浮かべたのは鳥の足だ。白い丸みを帯びた膨らみの周りに五本の指が放射状に伸びている。指は付け根から一本一本、黒い鱗のようなもので覆われ、先端には鋭い爪が生えている。豊島はその物体の付け根から鱗伝いに視線を上げていく。するとそこに中腰のキチガイがいた。
「キチガイさん、その場合は頭を怪我しませんでしたか? だよ。その言い方だと、気が狂っていませんか? に聞こえるよ」
「靖子は私を呼び出すときに豊島陽一郎は気が狂っていると言いました。しかし、あの場合に使うべき言葉ではないと理解しました」
 宮澤靖子とキチガイが何やら会話しているが、頭に入ってこない。豊島はラムネケースを取り出し、残っているフリスクを全部口の中にいれた。ラムネケースの底をトントンと叩き、粉になったものまで口の中にいれた。フリスクをかみ砕くと段々と落ち着いてくる。震えが収まったところで隣にいるキチガイに言った。
「大丈夫です。私の頭は大丈夫です」
 キチガイは宮澤靖子から豊島に視線を移すと口角を上げた。遠目には分からなかったが、キチガイの顔には人間と同じ場所に口や鼻がある。口は動いているので、そこから発声していると分かるが、鼻は小さな穴が二つ開いているだけだ。鼻として機能しているようには見えない。
「安心しました豊島陽一郎。隣に座ってもいいですか?」
 豊島が答える前に宮澤靖子がキチガイに言った。
「キチガイさんは私の隣に座るの。初対面の人の隣に座るのは非常識なのよ。普通は知り合い同士が隣に座って、初対面の人とは対面に座るの。だからこっちに来て」
 キチガイは身体を上げ、チャリチャリと音を立てながら向かいに歩いていく。豊島はキチガイを見上げながら思った。やはり二メートルはゆうに超えている。襲われたら一溜りもないだろう。ドン・キホーテで買った飛び出しナイフは役に立たない。キチガイ相手にあれが通用するとは思えない。こんなことならば刺せて切れるタイプのナイフを買えばよかった。しかしキチガイに刃物が通用するだろうか。キチガイに刃物。理由は分からないが、なんとかなりそうな気もする。
 キチガイは宮澤靖子の隣まで来ると足を窮屈そうに折り曲げ椅子に座った。それを確認してから宮澤靖子が豊島に向かって言った。
「それで、私に何の用?」
 豊島は体ごと後ろに振り向くと、地面に置かれた背負子のフレームを持ち上げ、テーブルの上に置いた。そして宮澤靖子とキチガイが見やすいように位置を調整する。
「今から見せる映像は宮澤靖子が私に電磁波攻撃を仕掛けた時の決定的証拠です。言い逃れ出来ない証拠です」
 そう言うと豊島は発電機のひもを勢いよく引っ張った。発電機が作動しドコドコという振動がテーブルを伝い豊島の左手を震わす。やはりテレビには何も映らない。発電機は作動し、ビデオデッキも電源灯が緑色に点灯しているが、テレビの電源灯がついていない。豊島が背負子裏の配線を見直すため腰を上げると、宮澤靖子が手を伸ばしテレビの電源ボタンを押した。するとブラウン管からボオッと通電する音が聞こえ、テレビの電源が入った。宮澤靖子はすかさず音量ボタンを押しボリュームを最小にする。テレビの電源が切れていただけだったようだ。いつ電源ボタンが押されたのだろう? 宮澤靖子のことだ、接触してきた時に発電機のひもを引っ張ると同時にテレビの電源ボタンも押したのかもしれない。まったく油断ならない。
「これが電磁波攻撃の証拠?」
 テレビに映った映像を見ながら宮澤靖子が言った。
「そうです。決定的証拠がこの映像に……」
 豊島はそう言いながらテレビを見る。そこには体操着を着た女児が小学校のグラウンドでドッジボールをしている映像が映し出されていた。映像は女児の膨らみかけた胸、ブルマを履いていなければ男児と見分けがつかないような小さな尻、そこから延びた肉付きの少ない太ももを追いかけている。
「あなたロリコンなの?」
 宮澤靖子は眉をしかめ、変態でも見る目で豊島に言った。豊島はしばし映像に見入っていたが、我に返り慌ててビデオデッキの停止ボタンを押した。この映像はいったい何なんだ。@リサーチ総合調査で映像を見たときは宮澤靖子の悪行しか映っていなかったはずだ。こんな映像は記録されていなかった。見せられた八ミリビデオテープをそのまま渡してもらったはずだ。まさか熟練調査員は宮澤靖子を見失った後、神社に参拝する前に小学校のグラウンドでドッジボールをする女児を盗撮していたのではないだろうか。そして宮澤靖子を見つけた後、その映像に上書きする形で宮澤靖子を撮影した。いや、@リサーチ総合調査に限ってそんないい加減な調査をするはずがない。百五十万円も払って行動調査してもらったのだ。豊島は訝しげにビデオデッキ前面のカウンタ表示を見る。すると三十五分を示している。電気店でシステムをセットアップするときにテープを巻き戻していたはずだが、いつの間にか進んでいる。もしかすると何者かがビデオデッキを遠隔操作し、テープに記録されている映像を書き換えたのかもしれない。そうとしか考えられない。八ミリビデオテープは磁気記録されたアナログ映像だ。電磁波を使えば書き換えることなどたやすいだろう。豊島は宮澤靖子の映像が書き換えられていないことを願いながらビデオデッキの巻き戻しボタンを押した。
「性成熟していないオンナを性対象とする豊島陽一郎のようなオトコをロリコンと呼ぶのですね。では、性成熟していないオトコを性対象とするオンナはなんと呼びますか? 靖子?」
「そんなの知らないわよ」
 豊島は宮澤靖子だけでなくキチガイからもロリコン呼ばわりされながら、八ミリビデオテープが巻き戻るのを待った。巻き戻しが完了すると再生ボタンを押す。垣根伝いに宮澤靖子を追う映像がテレビに映し出された。よかった宮澤靖子の悪行は書き換えられていない。
「ロリコンは子孫を残すことが出来ません。ヒトの進化と繁栄に寄与することが出来ません。この国ではロリコンに人権はありますか?」
「人権は認められているわよ。ロリコンだって人間だもの。この国で人権がないのは皇族位なものよ。ゲイやレズビアン、トランスジェンダーだって子孫を残すことが出来ないけど、人権は認められているよ」
「やはりヒトは寛容的な種ですね。性成熟していない女児に性的興奮を覚える豊島陽一郎にも人権があるのですね」
「だけどね、この国では性的嗜好で差別をしてはいけないことになっているし、それらの嗜好をもつ人に対して寛容的であらねばならないと理解はしていても、本能が拒絶してしまうこともあるの。私みたいにロリコンを気持ち悪いと思う人もいれば、何とも思わない人もいるし、ゲイやレズビアンのことを気持ち悪いと思う人だっている。何事に対しても人それぞれの受け取り方があるの。だから人間の社会はキチガイさんの思っているほど単純じゃないのよ」
 宮澤靖子とキチガイはロリコンについて熱く語っている。豊島は二人の注意を引くために手を上げた。するとキチガイが豊島に言った。
「何ですか、靖子に気持ち悪いと思われているロリコン豊島陽一郎」
「……えっと、私はロリコンではありませんし、変わった性的嗜好を持っているわけでもありません。ましてや変態なんかじゃありません。いたって正常です。まずそれを断っておいてから……ええと何を言おうとしていたのかしら……そうそう、ロリコン談議の最中に申し訳ありませんが、この映像を見てもらえませんか。先ほどの映像は何者かによって記録内容を書き換えられたもので、本来見せたかった映像ではありません。今映っている映像が見せたかった映像です」
 豊島の言葉に反応してキチガイが口を開いた。
「豊島陽一郎は正常ではありません。豊島陽一郎は身体的健全性を保っていますが、大脳皮質下領域に重大な変質が見られ……」
「キチガイさん。それはあとでいいから、豊島さんが大変な思いをしてここまで持ってきた映像を見ましょう」
 宮澤靖子はキチガイにそう言うと、テレビに目を向けた。テレビには休憩所の脇に立つ宮澤靖子の姿が映し出されている。ビデオカメラの映像は周りに誰もいないことを確認するように周囲を映したあと、宮澤靖子の口元にズームアップしていく。映像の中で宮澤靖子は口を動かし何かをしゃべっているようだが、何を言っているか聞き取れない。これは電磁波攻撃による空気振動の遮断ではなく、音量の問題だ。豊島がテレビのボリュームに手を掛けると宮澤靖子に止められた。
「大きな音を出したらダメだって。音がなくても映っているのは私なんだから、何を言っているかは大体分かるよ。それに録音された自分の声を聞くのが嫌なの。豊島さんもカセットテープとかに録音した自分の声を聞いたことがあるでしょ。この声は自分の声じゃないとか、こんな声で人と話していたなんて恥ずかしいとか、思わなかった? 時間を掛けてゆっくりと築き上げた自分の世界が、自分を構成する主要素ではなく一番外側にあると思っていた聴覚から、何の準備もしないまま攻撃されて崩れていくような感覚。ヒアリング・カタストロフと言ったらいいかしら。とにかく自分の声は聞きたくないの」
 友達のいない宮澤靖子にとって、他人に自分の声がどう聞こえようと関係ないと思ったが、話が長くなりそうなので頷いて返す。宮澤靖子には友達が一人もいないが、母親と同じく話し好きなようだ。
「それで何だったかしら、そうそう決定的証拠映像ね。うん。そこに映っているのは間違いなく私だよ。たしか、こないだの日曜日だよね? 門前小でドッジボール大会があった日。ずいぶんきれいに撮れているね。手振れもしてないし、日ごろから盗撮してるでしょ? 熟練盗撮魔が撮ったって感じの映像だもの。映像の位置からあそこの垣根から撮影しているようだけど、あのとき、豊島さんいたの?」
 宮澤靖子は豊島の右前方の垣根を指差した。
「いえ、私が撮影したわけではありません。人を使い宮澤靖子の行動調査を行ったのです。私が信頼している興信所の熟練調査員が、宮澤靖子が私に電磁波攻撃を与えているところを撮影したのです。これは決定的証拠です。本人であれば分かると思いますが、映像の中で宮澤靖子が話している内容は……」
 豊島は一旦話を止めた。そして周りを見渡し誰も居ないことを確認すると、深呼吸してから続きを話した。
「私が第二成人形態儀式の一環で二週間世界を支配した後、アメリカ大統領に頼まれ二日間天皇に即位した時に指揮した斎藤大虐殺と、天皇に即位していた間に強要された、世界中のプリンセスとの生殖行為に於ける失敗をネタに、私に国家機密を話せと脅迫しているのです。インドの梵が何よりも崇高なものなのは疑う余地はありませんが、天皇の血脈も同じくらい重要なももなものです。私の代で絶やしてはいけないと一生懸命頑張りましたが、うまくいきませんでした。いえ、序列をつけること自体誤りです。失礼しました。とにかく、宮澤靖子はどうしてそれらを知っているんですか? 斎藤大虐殺は斎藤さんしか知りませんし、生殖失敗はサウジアラビアの王女しか知りえません。私の家に盗聴器を仕掛けたんですか?それとも思念盗聴ですか?」
 豊島の話を聞き終えると、宮澤靖子とキチガイは顔を見合わせた。宮澤靖子の口は半開きだ。ここまで決定的な証拠を突き付けられるとは思っていなかったようだ。豊島はこの流れで宮澤靖子に電磁波攻撃を止めるように説得しようと考えていると、豊島の話を興味深げに聞いていたキチガイが口を開いた。
「サウジアラビア王女との生殖行為に失敗したとは、生殖行為の最中に男性器が機能不全に陥ったということでしょうか? 豊島陽一郎は海馬、偏桃体、視床及び側坐核がこの国の平均的なオトコより小さい為、それらが男性器機能に影響及ぼしたと考えられます。反対に側脳室や淡蒼球は平均的オトコより大きく、淡蒼球は左右で体積が違っていて……」
 宮澤靖子がそっとキチガイの肩に手を置く。
「話がややこしくなるからキチガイさんは黙っていて。私が豊島さんと話すから。キチガイさんはそのあとをお願い」
 キチガイは宮澤靖子に顔を向けると口角を上げた。
「豊島さん。その映像が撮られたときに私はキチガイさんと会話していたの。通常であれば頭蓋に埋め込まれた電極によって頭の中で考えるだけで、キチガイさんと通話出来るんだけど、ここ二週間くらい電波状況が悪かったのね。太陽なんとかの影響で、なんとか電子がなんとかかんとかだから……ええっと、とにかく会話が出来なかったのよ。だから日曜日はこの場所まで足を運んでキチガイさんと会話していたの。家の中よりずっと電波状況が良いからね」
 宮澤靖子の頭蓋に電極が入っているのは知っている。そうでなければ電磁波攻撃などできない。頭蓋に埋め込まれた電極を使ってキチガイと通話しているのも本当だろう。しかし、映像に映っている宮澤靖子がキチガイと話していたというのは嘘だ。映像が撮られたときは自分に対して電磁波攻撃を行っていたはずだ。プリンセス・オブ・サウディ・アレイビアとのセックスで立たなかったことをなじっている音声が残っているのだ。
「やはり音声で確認しましょう。言い逃れ出来ませんよ、宮澤靖子」
「だから嫌だって言っているでしょ。聴覚世界の崩壊……」
「じゃあ、キチガイとは何の話をしていたんだよ!」
 話をはぐらかす宮澤靖子の態度に、豊島の声が段々と大きくなっていく。
「会話の内容は言いたくない。これはプライバシーの問題だから。でもね、信じて、私は豊島さんに電磁波攻撃を加えていたわけじゃないのよ。キチガイさんと話していただけなの」
 やはり嘘をついている。宮澤靖子はその場限りの言い訳でごまかそうとしている。豊島は宮澤靖子に怒りをぶつけた。
「宮澤靖子でなければ、誰が俺に電磁波攻撃を仕掛けてくるんだよ! 俺は、お前に、お前のような工作員や秘密警察に攻撃されて、人生がめちゃくちゃになったんだよ! 俺はこれからもずっと、窓の外を監視し続けなきゃならないのか? これからもずっと電磁波攻撃におびえながら生きていかなくちゃならないのか? 俺をほっといてくれ、もう俺に関わらないでくれよ!」
 宮澤靖子は人差し指を口元に持っていく。
「落ち着いて話しましょ、豊島さん。私は誰があなたに電磁波攻撃をしたか知っているよ……」
 宮澤靖子の隣で静かに話を聞いていたキチガイが会話に割り込んできた。
「そろそろ中短期記憶を操作できる限界です。靖子」
「わかった。けど、そういう話は思念で言ってよね。いいところなんだから。大詰めなんだから。犯人を追い詰めているところなんだから」
 宮澤靖子がキッとキチガイを睨んだ。宮澤靖子との会話を邪魔された豊島も一緒にキチガイを睨む。二人の視線にキチガイは肩をすくめた。
「誰なんだ? 俺を攻撃しているのは誰なんだ?」
 宮澤靖子はテーブルに肘をつき、手で顎を触る。そして豊島を見据えると、ゆっくりと話し始めた。
「それは豊島さんだよ。豊島さんは病気のせいで自分の周りに敵を作らなければ自我を保てなくなってしまったの。豊島さんは精神分裂症なのよ。最近は統合失調症と言うのかしら。電磁波攻撃を受けていると感じるのは幻聴なの。他人が自分の秘密を知っていると思うのも病気のせい。幻聴に自分の秘密が混じるのは自分が幻聴の発生源だからだよ。だから豊島さんの秘密を知っているのは当たり前なの。私のことをフルネームで呼ぶのもそう、統合失調症患者は意識的に、いえ無意識と言った方が良いのかな、己の価値基準から逸脱した人間を敵だと認識して、その人物のことを忘れないように、他者と混同しないようにフルネームで呼んでしまうの。統合失調症患者の特徴なのよ」
 豊島が呆然と宮澤靖子の話を聞いている隣で、宮澤靖子を映していたテレビの映像が小学校のグラウンドに切り替わった。
 
「気分はどう?」
 豊島は休憩所のテーブルに両肘をつき頭を押さえている。軽い浮遊間を感じるが、頭痛や吐き気はない。豊島は顔を上げると向かいに座る宮澤に声を掛けた。
「大丈夫です。お騒がせしました」
「そう。よかった」
 夕日に照らされ赤く染まった頬が僅かに膨らみ柔らかい微笑みを作る。宮澤は美人ではない。いまどきの女子高生がするように、髪の毛を明るくしたり化粧をしたりしていないせいか、実際の歳より幼く見える。美人ではないし幼く見えるのだが、黒目がちな瞳からは意志の強さが感じられ、幼さからくる危うさを芯の強さで支えているような不思議な魅力を持っていた。
「ビデオを見てもらう予定でしたが止めます」
「そう。どんな映像を見せてくれるか楽しみにしていたのに」
 宮澤は肩肘をついてじっと豊島を見つめてくる。豊島はその視線に気恥ずかしさを感じ、目をそらした。
「色々と勘違いしていたようです。宮澤さんにあらぬ疑いを掛けて酷いことを言ってしまいましたが、どうか許してください」
「別に酷いことは言われてないよ。むしろ一緒に参拝して楽しかったじゃない。私はこの神社によく来るんだ。神様にお願いごとをして、ここに座って昔のことを考えるの。楽しかったことや、つらかったことを思いだして……決して忘れないようにね」
 宮澤は豊島へ向けた視線を外し宙を見る。
「神社に参拝するのもたまにはいいですね。宮澤さんに正しい参拝方法を教わったことだし、これからも来ようと思います。神社の境内は何か特別な空気を感じます。透明だけど厚みがあって外の世界と隔絶しているような、そんな不思議な空気を感じます……ああ、高校生をこんな時間まで引き留めてはいけませんね。そろそろ私は帰ります」
 豊島は立ち上がると宮澤に向かって深々と礼をした。そして背負子を背負い鳥居に向かって歩いていく。宮澤は豊島の後姿に手を振ったが、豊島が振り返ることはなかった。

2018年12月23日公開

作品集『サイファイ・ララバイズ』第4話 (全12話)

サイファイ・ララバイズ

サイファイ・ララバイズは1話、10話を無料で読むことができます。 続きはAmazonでご利用ください。

Amazonへ行く
© 2018 諏訪靖彦

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

著者

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

"スキゾフォニック・シグナルズ"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る