『美脚』に捧ぐ

美脚に捧ぐ(第1話)

Masahiro_Narita

小説

35,097文字

美脚に溺れた人生の私小説的な何か….

思えば、街で女性を眺める際になぜか、その下半身ばかりに目が行くように

なったのは、いつ頃からのことだろうか?

 

俺は、ふと、自問自答した。

 

もともと、女好きであることは認めよう。特に、巨乳には目が無い。

いつも、満員電車の中やコンビニのレジ、あるいは交差点で女性と

すれ違うたびに、その胸元に目を配っていた。

 

しかし、俺はなぜか、昔から、女性の脚が気になって仕方がない。

今年45歳になるが、そういう嗜好はどういう形でインプットされたり

するものなのだろうか?

 

俺は、まず、女性の脚になぜ、惹かれるのかについて考えてみた。

 

 

そもそも、女の魅力は、まずは外観であり、見た目が美人である

ことは最低にして、絶対条件といえるだろう。

 

しかし、メイクや化粧品といった従来の女性の武器である化け技に加えて、

最近では、美容整形が花盛りの世の中だ。

 

ある意味で、金さえ惜しまなければ、生まれ持った容姿さえ、簡単に

人工的に作り変えてしまうことが出来る時代になったのだ。

 

たしかに、街を歩いている女性も昔に比べて、かなり美人が増えたと思う。

また、美の基準というものが、モデルやタレントのルックスで決められ、

それを模倣する形で、類似のメイクやファッションの美人も増産されて

いるのだろう。

 

会社のエレベーターで乗り合わせるOLたちのほとんどが同じような

メイクをして、同じようなバックを持ち、同じような身なりをしている。

 

まるで判で押したか、コピーや複写したような化粧や、あるいは

まさに見合い写真のように修正された外観が蔓延っていることに、

俺は辟易していたのかもしれない。

 

そう考えた時に、やはり、神が与えた本来の、本物の魅力とは、

女性のボディラインにこそ宿るのではないか?

 

しかし、それとても、例えば、俺が好きな巨乳に至っても、

今日、果たして、どれが上げ底でないかは、素人目にはまず、

わからない。

 

あるいは、ウエストに至っても、脂肪吸引したり、果ては、

肋骨を2,3本切除して、腰のくびれを作り出す美容整形が

あると聞く。

 

そうなると、もはや、何を信じていいのか?

ナチュラルな美しさというものを、いつしか、俺は憧れるように

なってきたようだ。

 

では、女性の身体で、どこが本当の意味での処女地なのだろうか?

 

それを考えた時、ふと、頭に浮かんだのは、骨盤から脚に掛けての

修正が利かない骨格の部分が最後の砦だろうということだった。

 

 

つまり、この部分に関しては、ほとんど、ナチュラルな状態での

女性の魅力が残されており、それはまさしく、究極の美としての

崇拝に値するのではないか。

 

しかし、先ほどの触れたように、太股の部分には、脂肪吸引など

の施術などによる不正改造の可能性もあるだろう。

 

しかし、そもそも、そんな施術をする必要がある脚は、俺にとっては、

まず、崇拝の対象外となることだろう。

 

すると、俺がこだわりたいのは、あるいは、ただ単純に憧れを

頂くのは、崇めるに値する美しい脚ということだ。

 

そう、俺は「脚フェチ」なのだ。

 

この感覚は、同じ嗜好を持つ者にしか、判るまい。

 

いろいろと御託を並べる前に、究極の「脚フェチ」とは、

どういうものなのか、教えてやろう。

 

それは、極めて単純な話だ。これで、自分が本物の「脚フェチ」

なのか、どうかが簡単に判定できる。

 

その判定手法とは、これだ。

 

『 脚 』

 

 

この字をじっと見て、なにか、もわーとした感覚というか、

いいなあ...とか、美しいなあ...と、感じたり、

妄想につながる感性があるか、どうかである。

 

 

この字を見て、椅子の脚くらいにしか、感じられないので

あれば、そういう者は脚について、語る資格がない。

 

お前に用はない。今すぐ、ここを去れ!

 

 

逆に、この漢字一文字を眺めるだけで、例えば、そうだな、

往年の美脚アイドルの筆頭格とも言える、森高千里の当時

のミニスカート姿でも、うっすらと見えてくるようであれば、

十分に見所がある。

 

我が同志として、心から君を歓迎しよう!!

 

 

実際、美しい脚、つまり、『美脚』という文字には、想像力と

妄想をにわかに掻き立てる怪しい魅力に溢れていると言っても

過言ではない。

 

しかし、考えてみれば、不思議なものだ。

 

従来、人間は、特に男というものは、女性のどこに魅力を

感じるかといえば、女性ホルモンでつくられたセックス

アピールの部分だろう。

 

それは、エストロゲン(卵胞ホルモン)によって作られた、

豊かなバストやヒップといった、女性らしい丸みを帯びた

優しい体つきのことであるが、いずれも生殖に関係している。

 

しかし、美脚への嗜好や憧れは、そうしたごく一般的な

セックスアピールとは異なった、つまり、下世話な言い方を

すれば、シモネタではない純粋な美への憧れといえるだろう。

 

その昔、遠くギリシャ建築からもたらされたエンタシスという

柱の建築美が、はるか、日本の法隆寺の回廊の柱にももたらされた

と、歴史の授業で習った記憶がある。

 

そうした柱の美しさを建築美や様式美として、教科書の上でも

褒めたたえるのであれば、女性の脚の美しさについても、

もっと、オフィシャルに堂々と語られても良いのではないかと

さえ、俺は思う。

 

事実、美術の教科書には、上半身を露出したミロのヴィーナス

像や、ヴィーナスの誕生という絵画も掲載されているが、

同じ女性美の一部であるはずの、美脚の魅力については、

どこか、淫靡なフェチズムの象徴として、ほとんど、変態の

嗜好として扱われている現実がある。

 

とはいえ、それについては、俺にも思い当たるふしがある。

 

まず、美脚の魅力は生殖やセックスに関係しない純粋な美的

嗜好とは書いたが、正直なところ、俺自身、女性の美脚には

性的な魅力を感じている。

 

いや、それこそが美脚の最大の魅力というものだろう。

 

たとえば、脚にせよ、尻にせよ、男でも同じものをもっている

し、男性モデルや長身タレントには、美脚を誇る者もいるだろう。

 

しかし、ホモやゲイでない俺は、いくら美脚であろうと、

そういう男性モデルやタレントの脚にむしゃぶりつくことは、

絶対にない。

 

しかし、これがまさしく、美しくゆるやかな逆円錐形を描く

女性の脚であれば、それこそ、まさにその外観的な美しさを

めでるように、ひれ伏し、しがみ付いて、その太腿に頬擦り

したいと、それこそ、死ぬほど憧れている。

 

そう、俺は純粋に、女性の美脚にむしゃぶり付きたいのだ。

 

そのすべすべした太腿の肌触りと、ピチピチした張りを

俺の頬で感じたい。そのなめらかな素肌に、唇を這わせて

下から何箇所にも無数にキスをしたい。

 

かつて、司馬遼太郎のエッセイか、何かで、どこかの

金持ちの骨董コレクターは、李朝時代の白磁の壷の美しさを

愛でて、毎晩、その壷を一緒に自宅のヒノキ風呂に入浴して

いると書いてあった。

 

俺は、骨董マニアでも、壷フェチでもないが、そのコレクター

の金持ちの爺さんの感覚が痛いほどわかる。

 

その爺さんは、まさしく、その美しく、なめらかな肌触りの

壷を撫でて、一緒に風呂に入る時に、性的な恍惚感を感じて

いるに違いない。

 

俺が、女性の美脚を撫でて、その肌触りや張り、ツヤ、形の

美しさを愛でるのも、まさしく、そうした国宝級の壷の

美を鑑賞するのと、なんら、変わらないだろう。

 

むしろ、壷などの無機物に性的興奮を覚える方が、よっぽど

どうかしている。いわば、ダッチワイフに萌えているような

ものだ。

 

こっちは、血の通った生身の人間の身体の一部に美しさを

感じ、永遠の憧れを抱いている。

 

果たして、どっちが人間として、まともな感性と言えるだろうか?

俺は、胸を張って世間に問いたい。

 

国宝級の白磁の壷の方が、経済的価値があるから、そっちに

憧れる方が高尚だとも言うのか?

 

それこそ、成金や拝金主義者の俗物根性ではないか?

俺は、そんな他人の尺度などに自分の感性を迎合したりはしない。

 

経済的な価値があろうと、なかろうと、美しいものは美しい。

それを愛でる気持ちの何処に、なんら、恥ずべき点があろう

ものか?

 

と、自己主張に一人感じ入って、誇らしげに胸を張ってはみた

ものの、実のところ、俺はこうした俺自身の女性の美脚に憧れ

る気持ちをどうしたいのか、判らないのが正直なところだ。。

 

 

例えば、電車を待つ駅のホームなどで、美しいヒップライン

からスラリと伸びた、惚れ惚れする美脚を持った女がいたとする。

 

そういう光景を見た時、俺はいつも、矢も盾もたまらず、その

脚にむさぼりつきたくなる衝動を禁じえなくなる。

 

もし、その瞬間に世の中の時の流れを止めることが出来たなら、

俺は間違いなく、その美脚にしがみつき、尻の谷間に自分の顔を

埋めるだろう。

 

その女がフレアのスカート姿なら、真後ろから脚に抱きつき、

スカートに頭を突っ込んでいるに違いない。

 

スカートの中では、その形よく盛り上がった桃尻が俺を迎えてくれるだろう。

それは、なめらかな肌触りのパンティストッキングやヒップガードルに包まれており、

思わずむしゃぶりついて、何度も頬ずりする俺に、まさしく至福の時を与えて

くれることだろう。

 

あるいは、そのスカートの前に廻って、美脚の太股に挟まれがら、

下着の上から、股間の甘美な匂いを嗅ぎたいとも思う。

 

そんな妄想に浸っているうちに、俺はふと、自分が脚フェチであることに

目覚めた瞬間があったことを思い出した。

 

そうだ、すべてはあの駅の階段からだった。

 

俺は、今から20年以上の遠い昔に想いを馳せていた。

 

*        *         *

 

あの時、俺はまだ、大学生だった。

そう、そして、まだ、童貞だった...。

 

 

「これは、もはや、犯罪行為ではないか!」

 

アルバイトからの帰り道に、駅の階段を登りながら、

俺は、小さな声で、そうつぶやいた。

 

俺が登るすぐ目の前の階段を、制服姿の二人の女子高生が

楽しそうな会話をしながら、キャピキャピと昇っていく。

 

だが、俺の目には、制服のスカートからスラリと伸びた

若いナマ脚が、まるで意思を持った一つの生き物のように、

なまめかしく、目の前でリズミカルに蠢いているように

映っていた。

 

その若くて、白くて、むっちりとした太腿の先には、

まさに芸術的とも言えるミリ単位のきわどさで、今、まさに

見えそうでいて、決して見えないパンツが隠されているのだ。

 

その状況は、まさしく、神業とも呼ぶべき、残酷にして

非情な、男の蛇の生殺し状態だったといえよう。

 

当時の俺は、まだ若かったせいもあって、脚そのものよりも

パンツや尻が見えることに異常なまでの執着を感じていた。

 

どう考えても、この無防備状態の後姿では、見えてしかるべき

筈のモノが、まさしく寸止めの見切りで、ちらりとも見えない。

 

しかも、当時から女子高生の制服は、独特の着こなしで、

超ミニスカート状態になっていたから、まるで、チアガールの

スカートのように、見えることを計算に入れたスカート丈で

ありながら、どういうわけか、一向に見えなかった。

 

計算といえば、それはまさに、こちらの身長や視点からの仰角を

計算し尽くした結果のようであって、いかにも簡単に見えそうで

いながら、実は、決して見えないという、絶妙なチラリズムを

演出していたように俺には思えた。

 

「これは、絶対に、俺を誘っているとしか、考えられない。」

 

俺は、つい、そういう独りよがりの妄想に取り憑かれそうに

なりながら、苦笑した。

 

そして、それと同時に、そういう誘惑が、こんなにも生活の中で

身近に存在することに恐ろしさを感じていた。

 

まさに、エロスの暴力だ。

 

街には、ミニスカートの女性たちが溢れている。

 

そうした女性の多くは、自分が他人の目にどう映るかを

知り尽くしていて、それを意識した立ち居振る舞いを

している。

 

そんな女性たちは、たいてい、自分の脚に自信を持ち、

見られることを楽しむために、わざわざそういう装いに

身を包んでいるわけであろうから、まさに計算づくといえる。

 

しかし、そこで一つ、腹立たしいことが俺にはあった。

 

それだけ、自分の脚に自信を持ち、美しく見られることに

喜びを感じているはずの女性が、なぜか、階段では、自分の

尻の下にバッグや手を廻し、下から見られることを異常な

までに警戒して、覗かれることを必死で防ごうとするのだ。

 

まるで、自分の背後を歩く男性は、すべてが痴漢であるような

警戒ぶりに、俺は腹の底から怒りが湧いてくるのだ。

 

「そんなに見られたくないなら、そんな格好で街を歩くな!」

 

と、つい、階段の下から、怒鳴りつけたくなった。

 

また、「誰がお前のパンツなど、見るか!」と、意地でも

前を見ないように、顔を背けたくなるのが常であった。

 

そんな連中に比べ、今、俺の眼前にて階段を登っていく若い

二つの下半身は、なんと無防備で、潔いことか!

 

今、まさに、俺がちょっと手を伸ばせば、すぐに届く距離に

彼女らに尻があるのだ。まさに、”指呼の間”だ。

 

いや、手を伸ばすどころではない。

俺が、あと、一歩踏み出せば、そのプリっとした

スカートの中に、すぐに顔を突っ込むことが出来る距離なのだ。

 

 

そういえば、かつて、大学教授を生業としていた経済評論家が、

ターミナル駅の長いエスカレーターの中で、手鏡で女子高生の

スカートの中を覗き、迷惑防止条例違反の現行犯で逮捕された

事件があった。

 

その男は、逮捕後、公判で有罪と確定され、罰金50万円の上、

”手鏡1枚没収”という、まるで江戸時代の見せしめ刑の

ような判決を言い渡された。

 

これは、検察の主張が「求刑懲役4カ月、手鏡1枚没収」あったこと

に由来するようだが、裁判官としてもこの”手鏡没収”という

フレーズが気に入った結果なのだろう。

 

そして、そうした刑罰以上に、その男はインターネット上で、

ミラーマンという渾名を与えられるという、いかにも現代的な

社会的制裁を受けていた。

 

俺は、このミラーマンの心境が痛いほど、理解出来る。

彼は、いわば、罠に掛かったようなものだ。

 

彼は、逮捕された直後は「つい出来心で…。」と素直に犯罪性

を認めていた。

 

が、逮捕のきっかけが別の駅から「目つきが怪しい」

という理由で鉄道警察隊員が尾行してきたことを知ると、

一転、「天地神明に誓って無実であると」犯行を否認した。

 

しかし、その後、過去にも同じ条例違反容疑で逮捕歴があり、

罰金刑になったことがあることから、その犯罪行為は

常習性を帯びていたとみなされている。

 

手鏡による覗きは、社会的には許されないことであろうし、

世間の女性一般にとっては、紛れもない迷惑であろう。

 

だが、今、俺の目の前で展開されているように、無防備で、

暴力的とすら思える誘惑が、ちらちらとしている光景を

目の当たりにすると、男の理性は脆くも崩れ去ってしまう。

 

目の前で、真っ白い若い太腿が健康そうに交差し、

スカートの中身が見えそうで見えない状態でちらちらしながら、

そして、それがこちらのごくわずかな努力で見えるのであれば、

つい、そこに目が行ってしまうのが、健康な男の本能ではないか?

 

もちろん、覗きは犯罪である。

しかし、おとり捜査のように、誘惑する方にも落ち度はないと

本当に言えるのか?

 

ついでにいえば、最近、社会問題になっているデジカメや携帯で

で盗撮する行為についても、俺は一言いいたい。

 

インターネット上でも、よくそういう画像が公開されているが、

やらせ写真は別として、いかにも盗撮したようなアングルや

シチュエーションの写真は俺は、受け入れがたい。

 

カメラなどの道具を使って、こういう光景を記録するのは、

卑怯というか、とても、アンフェアな気がする。

 

あくまでも、目の前で展開される淫靡な光景は、しっかりと自分の

網膜に焼き付ける限りにおいて、偶然に見られた幸運として、

許されるだろうと、勝手に考えている。

 

さて、話をもどそう。

 

その日、目の前でチラチラする女子高生のスカートに釘付けになっていた俺に、

神の恵みとも言えるべき、信じがたい奇跡が起きた。

 

俺の背後から、俄かに突風が吹き上げて、俺の目と鼻の先のスカートを

ヒラリと払い上げたのだ。

 

「きゃーっ!」

 

駅の階段に、彼女たちの悲鳴がこだました。

どこか、そのハレンチな状況を楽しんでいるような雰囲気だった。

 

俺にとっても、超ラッキーな瞬間だった。

いや、ラッキーな筈だったのだが、そうではなかった。

 

そうではない、どころではない。

俺は、次の瞬間、深い絶望の淵へと叩き込まれたのだった。

 

それは、なぜか。

 

答えは、一言。ブルマだった。

 

その女子高生たちは、スカートの中にブルマを穿いていたのだ。

それゆえの無防備であり、解放感であり、挑発だった。

 

「これは、卑怯だ!」

 

俺は、ふたたび、心の中で呟いた。

 

先ほどの犯罪的ともいえる挑発行為への呟きは、まだ、嬉しい悲鳴にも

似た困惑さによるものだったが、今回は絶望によるうめき声だった。

 

たしかに、考えてみれば、ブルマにせよ、パンティにせよ、

その中に秘められた若々しい肉体の価値には変わりないだろう。

 

また、体育服におけるブルマの姿には、制服とは違った魅力が

満ち溢れていることも認めよう。

 

しかし、スカートの中のブルマは、反則と言って良い。

男の夢と希望と願望と憧憬を無残にも打ち砕く禁じ手なのだ。

 

俺は、この瞬間、女性の下半身における尻への憧れとは、

はっきりと決別した。

 

すると、俺に残された憧れの対象は、やはり、女性の脚に

絞られた。そう感じた瞬間、俺には目の前に生えている

スカートの中のナマ脚に改めて目を向けてみた。

 

しかし、そこにあるのは、プリプリと太った、ハイティーンの

太い足でしかなかった。そこには、芸術的な美しさもなければ、

均整の取れた調和もなかった。あるのは、奔放な若い性だけだ。

 

つまるところ、これがフェチズムだと俺はその時に思った。

 

さらに俺は、自分の日常を振り返った時、自分のもっとも

憧れる対象が何であるかを自覚した。

 

俺が一番、欲しいもの。

今、一番、触れてみたいもの。

 

それは、女子高生の太腿である。

 

若くて、ピチピチして、少し太めで、見るからにパンパンと

したあの生脚であった。

 

そういえば、どんなに寒い冬の朝でも、彼女たちはいつもの

ミニスカートから生脚を晒していた。

 

あの光景は、今でのまぶたに焼き付いている。

 

寒風吹きすさぶ朝に、彼女らの生脚は、淡いピンクに

染まりながらも、まるで凍鶴のように寒さに耐えていた。

 

「なんという健気だ…。」

 

俺は素直に感動して、しばらく言葉を失ったまま、その

光景を眺めていた。

 

大学でも、毎年、春に高校を卒業して、新入学してくる

女子大生の姿は多く見慣れている。

 

彼女らは、つい、この3月まで制服のスカートから美しく

健康的な生脚を外気に晒していたのに、4月になった途端、

一気に大人の女性になったが如く、ストッキングを履き始める。

 

無論、女子高生の中にも寒い日はタイツを履いたり、

ジャージを着たりする娘もいるだろう。

 

それは、人間として、寒さに対する当然の備えなのだから、

文句を言うつもりはない。

 

が、どのように常識外れ寒さの中でも、堂々と生脚を晒す

女子高生が少なからずいるのだ。

 

2018年3月10日公開

作品集『美脚に捧ぐ』最終話 (全1話)

美脚に捧ぐ

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© 2018 Masahiro_Narita

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