(9章の3)
わたしは結局独身のまま30代を通り過ぎた。あの時に思い描いた年齢をとっくにすぎているのだ。しかしそれが、どうも実感としてわかない。
現在のわたしは、もう40代だ。多くの者が年齢よりも若々しく見える、平成の世の中。わたしは40代だが、今いる世界の同年代よりは若く見えるはずだ。昭和40年代の40代は、もうどこから見ても老人に一歩足を踏み入れているおじさんだった。中年という、その年代固有の呼び方も一般的だった。しかし平成の世では、学生と言っても通るような40代だっているほどだ。そんな世の空気に染まっていたのか、わたしはいつまでも若いつもりだった。モラトリアムという言葉が一般化されている平成の気風にどっぷり浸かり、妻も子もいないわたしはまだ、老いとは関係ないと思い込んでいた。50に間もなくなるというのに、自分の想像した理想の30代を、まだこれからのことと、半ば錯覚していた。そんなわたしに死が降りかかってきたのだから、考えてみればうろたえて当然のことだったのだ。
わたしは30代を過ぎ、40代も過ぎようというのに、まだ夕日を穏やかな気持ちで見つめたことがない。いや、「まだ」を付けるのはおかしいだろう。もう先がないのだから。結局、心穏やかな気持ちで夕日を見ることなどなく、人生を終えることになる。
こんな、ずしんと落ち込むようなことを考えても、それで気持ちが乱されるわけではない。
本当にこの夢の世界は、よくできている。幻覚作用などを使えば、夢の中の現実感というものは案外簡単なのかもしれない。むしろ、暢気にいられる状態を保つという方が、科学的にはむずかしいのかもしれない。そう思ってしまうほど、この楽天的な気持ちには助けられている。これがあることによって、どんなに深刻なことを考えても大丈夫なのだ。
わたしはもう、次のことに関心が移っている。そう、せっかくの3日間だ、この時代のものを味わい尽くす。それに限るというものだ。背筋を伸ばし、大股で駅舎を出たわたしは、ロータリーの先、通り沿いに、駅前旅館があると念じた。
この時代、旅館はそこかしこにあった。それも観光客だけでない、工事関係者や町への所用で来た者たちも宿泊する、ごった煮のような宿が。わたしは思い描いたとおりの宿を、通りの中ほどで見つけた。そして腰に手を充て、旅館全体を見回したあと、ガラス戸を開けた。
「ごめんくだ、さいぃ」
何度か廊下の先に向かって遠慮がちに声をかけると、奥から、老婆が訝しげな表情でこちらに向かってきた。
やせぎすで、腰の曲がった老婆。この時代、こんな老婆はたくさんいた。えらく齢に見えるが、これでおそらく、まだ七十を越えていないだろう。
ぺたぺたと足音が響く。老婆は裸足で、板に粘着するのか、少し湿っぽい足音が響く。そして額に皺を作り、わたしをじろじろと見た。きつい目をしたばあさんだった。なめるように、わたしを上から下まで見る。
「すみません。一泊いいでしょうか?」
わたしが言うと、遠慮もなくしかめ面を浮かべた。もう一度上から下まで見る。
そのうしろに女中が立っている。黒っぽいブラウスに白いエプロン。背が小さいというわけではないが、華奢で顔が小さく、小柄に感じる。前で手を組んで、老婆の後ろに控えていた。ハッとさせるような容姿だ。なぜこんな寂れた宿にこんないい女が、と首を捻りたくなるような容姿と振舞い。しかし、いて当然なのだ。わたしが念じたのだから。「掃き溜めに鶴がいる」、と。
それにしても、女中と想像したのが悔やまれる。女将とでも念じればよかったのだ。そうだったら、こんないじわるばあさんと対面しないで済んだのに。宿の主にはなんの注意も払わなかったので、普遍的なごうつくばあさんが出てきたわけだ。仕方がない。この時代ならではのものが味わえているのだから、これはこれでいいじゃないか。わたしはそう考え、諦めた。
「すみません。一晩いいでしょうか」
わたしは老婆にもう一度聞いた。
「ひとりかい?」
いらっしゃいでもなければ、どうぞでもない。仏頂面は変わらない。ひとり客か、思いつめて自殺でもしやしないか。そんなさぐりを入れている目だ。
「えぇ。ちょっと仕事で来たんですが、長引いちゃったもので。急ですみませんが」
わたしは言い訳がましく説明する。
「夕食は。夕食、いるのかい?」
老婆が尋ね、わたしは頷いた。
「できればお願いしたいのですが」
「じゃあ、これでいいかい?」
と、片手を出して指を2本立てる。これはふっかけられた。こんなボロ宿で2,000円とは。昭和40年だというのに。
「えぇ、構いませんよ」
女中の手前、わたしは平然と言った。
この時代は、しかしそうだった。こすっからかった。金銭に対してシビアで、誰もがちょっとでも掠め取ろうと、躍起になっていた。わたしは財布から、伊藤博文が肖像となっている、白味が強い大ぶりの札を2枚出した。
イチゲンの客とみると、ふっかける。どのみち金など財布から無尽蔵に出てくるのだから、困るものではない。しかし金銭の問題ではなく、不愉快な気分は抑えようがない。
金を受け取った老婆は、わたしと対称的に機嫌がよくなった。
「じゃあすぐに支度させるからね」
老婆は振り返って、2階の蓮の間を見てきてと、こっちの方はわたしにふっかけたときよりさらにぞんざいな口調で、女中に言った。
女中はこくりと頷き、静かに階段を上がっていった。その控えめな様に、わたしはさらに関心を深めた。
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