騒擾

応募作品

高野 真

小説

13,784文字

騒擾【そうじょう】
集団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱すこと。騒乱。擾乱。(大辞泉による)

高野真執筆作品。
破滅派12号(10周年記念号)応募作品。

 菊の節句も過ぎたというのに、釜炒りにされているかのような暑さがいつまでも続いていた。鴨の河原はその流れを絶やして久しく、ただ人頭大の石ころばかりが帯となって続くさまはいつぞや見た地獄絵に描かれた賽の河原を思い起こさせた。
 いや、それよりもこの石どもは――、
 その日御役目でこの地に赴いた京都町奉行公事方同心の駒込某には、己が目の前で死にざまを晒していった者どもの首のようにも見えた。
 攘夷だの開国だの、倒幕だの佐幕だの姦しい時世になり、夥しい血が流れていた。
 駒込某にしてみれば、見廻組も新選組も、長州も薩摩も土佐も所詮は鄙人に過ぎぬが、大義に殉じた者には相違なく、どんな無様な遺体にも最低限の敬意は忘れなかった。
 しかし三年前の夏、長州と薩摩・会津の戦に端を発するどんどん焼けで妻も家も失って、以来駒込某は豹変した。全てが、怒りと憎しみの対象となったのである。
 東に脱藩浪人の斬刑とあらば当番同心を押しのけてでもその首を落としに行き、西に志士の乱闘とあらばいち早く現地へ向かい斬り捨てられた者どもにとどめを刺した。
 ゆえに、今日も。市中で札撒きをした咎で捕えられた不逞浪人の首を斬るのである。
 男は非人に連れられ、河原に筵を敷いただけの粗末な刑場へと姿を現した。色が抜け染みだらけになった浅葱の着流しに、やつれた頬。それでいて、目だけが異様にその輝きを保っているのが駒込某の気に障った。
――常世大神宮なる札を神符と称してこれを洛中に撒き、以て世情を紊乱せしめ、
 同輩の同心が罪状を読み上げる声が河原に響く。
 かつては処刑となると多くの見物人が集まったものだが、今となっては誰も集まらぬ。それだけあのつまらぬ戦で市中の人は減り、人死ににも皆慣れてしまったのだ。
 地獄の釜から漏れた湯気か、蒸し暑い風が河原を撫でていく。
 その風に乗り、漣のように聞こえてくる人々の喚声がある。
 ここは、賽の河原。ここに転がるは、己が斬った者どもの首。ならば、ここに聞こゆるは、
――不届き千万につき、右の者を斬罪に処す。
 その声に我に返った駒込某は、襷を締めなおすと、腰のものをするりと抜いた。
「最期に水を所望致す。水を呉れ」
 男が不意に言葉を発した。
「ならぬ。貴様に呉れてやる水などない。川もこのざまじゃ」
 目を合わせることなく、答えた。くたびれた黒羽織には、波紋のように塩が吹いていた。
――ええじゃないか、よいじゃないか。ええじゃないか、よいじゃないか。
 漣はやがて波濤となり、幾重にも打ち寄せる。
――天から御札でええじゃないか、みなで踊りゃええじゃないか。
 駒込某にはそれが地獄の石臼を挽く音のように聞こえた。
 腹の底から全身へと震えが伝わるのを見て、男の口元がかすかに歪んだ。
「ええじゃないか」
 直後、駒込某の腕が半円を描いて大きく動くと、白刃が陽光を受けて魚鱗の如く輝いた。

***

――でありますから、さいぜんから申しておりますとおり、京都盆地の地下には北東から南西へ向けて水みちが流れている訳でありまして、すなわち、三条大橋の西詰に位置するここで地下を大々的に掘らはるとですな、洛中の井戸水に大きな影響を与えると、そういうことを危惧しておる訳でありまして、そら近年では井戸水を使うたはるお店もだいぶんには減りましたけれども、今でも寺町やら錦小路界隈へ行ってみてください、漬物屋さんやら豆腐屋さんやらぎょうさんありますでしょう、あれみんな井戸水使うたはるんです、それからお風呂屋さんですな、これも水道の水やなしに今でも井戸水使うたはるようで、今般の工事でもし水が枯れたりでもしたら皆さん商売が出来んようになります、けれどもこれは決して大仰に言うてる訳ではないんです、川端通の地下に線路を引いたときにも、御池通に地下鉄つくるときにも市内のあちこちで水が退いたり濁ったり、あるいは枯れて使いものにならんようになってしまったという話が事実あるというのは、ここにお集まりの皆さんもご存じのことであろうかと思いますけれども、そもそもこの京都という街そのものがですな、水盆とも言われるいう巨大な地底湖のうえに成り立っておると、そういう研究結果を発表したはる先生もおられまして、たしか関西大学の先生やったかと思うのですけれども、ともかくも何万年何億年という途方もない年月を経てできた自然が足元にはある訳ですな、それを人間の手で崩してしまってええもんですやろか、これは私らの商売がどうこういう問題でなしに、

 いつ終わるとも知れぬ近隣住民の長広舌に、古川は唇を血が出るほど噛んであくびをこらえていた。古川は京都を地盤とする建設会社のいち渉外部員である。渉外部の仕事は、新たな工事に着手する際に近隣住民に対して工事説明会を開催すること、そして工事中の苦情の受付窓口となること。要は、工事を進めたい会社側と工事に迷惑する住民の間に挟まり、サンドバッグになれということである。
 ゆえに、今日もこうして暑い最中にネクタイも取らず上着も脱がず、上司とともに会議室で針の筵に座しているのである。
 古川にしてみれば、誰が何をどれだけ言おうと、この界隈の雑居ビルを軒並み解体して一大商業施設を建設するのは既定路線であって、法令違反でもない限りは工事を止めようもないのである。だとすれば、むしろさっさと建設工事を進めて開業し、集客に貢献してもらった方が良いのではないか、と思うのもまた自然なことであった。
 いったいいつまでこの不幸な説明会は続くのか。梅雨の湿気が古びたビルの一室を蒸風呂に仕立てあげる。汗を吸えるだけ吸い切ったシャツは背中にじっとりと貼りつき、不快なことこのうえない。音ばかり大きい空調は室内の澱んだ空気を引っ掻きまわすばかりで、詰めかけた住民たちの饐えた老人臭で噎せ返るようであった。
「ご意見は承りました。今回はディープウェル工法とリチャージウェル工法を併用するとともに、地下水脈の下流側に位置する井戸については、施工中継続的に水位を観測することといたします」
 一方的に話を切り上げる上司の一言に、古川はほっと一息ついた。と、その一息は長い長い溜息となり、吐ききった分の酸素を補うべく大あくびとなった。よう分からん説明したうえに、なんやあの隣の若いん、あくびしとるぞ、の言葉に慌てて口をつぐんでも後の祭りであった。

***

 説明会のあの日、がたがたと音を鳴らして席を立った近隣住民の捨て台詞。それが、傷口から湧く膿のようにいつまでも古川の心をじくじくと湿らせていた。解体工事に着手して三か月、古ぼけた雑居ビルたちは一掃され、跡地では新しい商業ビルの建設が始まっていた。
――お宅ら、いまいま商売始めはったような人にはわからはらへんやろうけど、あんまりこの辺いじくって悪さしとったら三条河原の塚に眠る人たちの怒り買いまっせ。
 上司の岩木課長に尋ねても、この界隈は地下水位が高いからちょっと掘れば水が出るのは当然のこと、連中の戯言をいちいち真に受けていては仕事にならないとにべもない。
 しかし、それでも気になるものは気になるのである。三条河原の塚とは何なのか。怒りとは何なのか。かつて鴨川の河原は処刑場として使われ、その首が三条大橋の袂に晒されたこともあると聞く。しかし、それが工事とどう結びつくのかがわからないのだ。岩木課長は戯言と決めつけていたが、本当にそうなのだろうか。
 心に澱を残しながら自宅の玄関に踏み入れると、そこには青いパンプスが一足。雑然とした三和土に、そこだけ彩が添えられる。倫子が来ているのであった。思えば、苦情の電話が入るたびに走り回り頭を下げ、翌週の工事予定表を持って各戸を回り説明をし、そこでも叱られ頭を下げ、毎日がその繰り返しであった。倫子に最後に会ったのはいつだっただろうか、それすら定かでない。一緒に行こうと約束していた祗園祭ははるか忘却の彼方、送り火こそはと言いながらも結局はオフィスの窓から人ごみを眺めただけで終わってしまった。
「相変わらず仕事仕事なんやね。うちの名前覚えてるか?」スーツ姿のままベッドに寝転がり、携帯電話から目も離さずに倫子は言った。こういう機嫌のときには何を言っても逆効果である。手遅れながらも周りに散らかしたままの洗濯物やら本やらを片付け、古川は無言の返答をした。
「なあなあ、今こんなん流行ってんねんで。自分、知らへんやろ」差し出して見せた画面では、動画が再生されていた。三条大橋西詰、現場真向かいのコーヒーショップの前で、踊る男の姿。満面の笑みを浮かべ、天の恵みを全身に受け取るが如く掲げられた両手。
 一定のリズムに乗せて運ばれるその足。右、右、左、左。風の音にかき消されて聞こえないが、口が動いているところからして、何か唄いながら踊っているのかもしれない。「関連する動画一覧」の項目を見ると、成程たしかに同様の動画が市内各所で撮影されているようである。芸大生あたりの新手のパフォーマンスであろうか。それとも、フラッシュモブとかいうやつであろうか。ともあれ、現場の目の前でやるのだけは勘弁して欲しい。頻繁に出入りする工事車両の邪魔だけはしてくれるな、古川はそう思った。
 そんな思いを知ってか知らずか、横でぼさっと寝転がっていた倫子が一言、「みなでおどりゃええじゃないか」とつぶやいた。

***

 お前の仕事は「歩くこと」だ。かつて先輩が言っていたとおり、古川は一日に何キロも歩く。現場の周りを歩いて、路上にゴミが落ちていればそれが何であれ拾う。商店会の主要な会員が経営する店へ顔を出して、菓子のひとつ、雑貨のひとつも買ってくる。町内会長や、うるさ型の老人宅を訪ね、工事の近況を報告する。そこで誰々さんが文句言うてたで、と耳にすれば、現場責任者を連れて頭を下げに行く。もちろん週に一度は丸一日を費やして近隣の家々に工事予定表を配って歩く。
 現場の隣に構えた工事事務所から、京都駅にほど近い本社へ向かうときにも古川は歩く。過去の工事で世話になった人と出会えば挨拶し、新しい空地を見つければ本社の不動産部へ一報を入れるためである。
 京都の夏は本当に暑い。山々に周りを囲まれ、釜の底で炒られているかのように上から下からじりじりと灼かれるのである。靴底はすぐに痛むし、会社お仕着せの作業服には汗染みが広がる。それでもなお、毎日、古川は歩く。
 そうして街を歩いていると、たしかにそこかしこで例のパフォーマーを見かけるのだ。高瀬川沿いに揺れる柳の木の下で、マダム行き交う四条河原町の百貨店の入口で。緑濃い渉成園の池に腰まで浸かって、京都駅バスロータリーのど真ん中でクラクションを浴びながら。
 みんなこの暑さで頭がどうにかなってしまったのではなかろうか、と古川は思った。ともあれ、今日は金曜日である。帰り際にひとっ風呂浴びて、一杯ひっかけないとやっていられない。地面に吸いついて離れようとしない両脚に鞭打ち、古川は会社への路をのろのろと歩んでゆく。

 本社の自席へ戻ると、机上にレポートが置かれていた。岩木課長が近隣住民に約束した、地下水位の観測結果をまとめたものであった。次の定例説明会ではこのデータを提示して、周辺環境に影響がないことを理解してもらおう。そんな腹積もりでページを追っていた古川の目は、一つのグラフに釘づけにされた。
 おかしなことに、どの計測地点においても水位が急上昇しているのである。通常、地下を掘削するときには、湧水の存在が工事の支障となるため、基礎面よりもさらに深くに井戸を掘って水中ポンプで排水する工法を採る。しかしそれでは水脈の下流側では水位が下がってしまう。これは近隣住民が指摘したとおりである。それゆえ今回の工事では、汲み上げた水を配管を通じて工事エリア外に送り、井戸を通じて再び地下へ戻しているのである。当然ながら、汲み上げる水量と地下へ戻す量は同じになる。よって、地下水位に変動が起きるはずがない。
 念のため過去の天気を調べてみても、この一か月ほどは雨が全く降っていない。ゆえに、地下水位が、しかも現場より下流側で上昇するなど、普通では到底考えられないのだ。
――週明けにでも、現地の地下がどうなっているのか、見に行ってみよう。いや、定時を過ぎたとは言え、今ならまだ技術部の連中も残っているだろう。この資料を持って行って教えを乞うべきかもしれない。
 腰を浮かせたところで、誰かに双肩を押され古川の身体は椅子に戻された。振り返るとそこには野木和部長の姿があった。野木和部長は渉外部の大ボスである。柔和な表情でどんな小難しい近隣住民とも話をうまくまとめてくる一方で、部下の仕事に関しては大変厳しい人物でもあった。何か言われるのかと身をすくめる古川の前で、野木和部長は何やらもごもごとその口を動かした。社員の行儀にもうるさい部長が、オフィスで、しかも歩きながら物を食べているのが意外であった。一体何を食べているのだろうか。
「まぁそない慌てんと。これでも食べたらどないや」ぐいと差し出された電話帳大のタッパーウェアの中は、薄切りにされた胡瓜の漬物がうろこのようにびっしりと敷き詰められていた。
 顔を上げて周りを見やれば、渉外部の面々みなが口を動かしているのだ。野木和部長だけではない。あの岩木課長も、同期として長年机を並べてきた堤も、女子大を出て入社したばかりの野内も。タッパーウェアを抱え込み、手づかみでぼりぼりぼりぼり食っている。口の端に切れ端がつくのも気に留めず、ぼりぼりぼりぼり貪っている。決して広くないオフィスに反響する咀嚼音が、古川を骨の髄から震えさせた。
 これ以上はこんな所に居られない、取るものもとりあえず駆け出した古川は、野内が妙に鼻にかかった声で「みなで食べりゃええじゃないか」と言うのを背中で受けた。

***

 いつまでも鼓膜に残る咀嚼音と、足から這い上がってきては身体を犯す暑さに古川は気が狂いそうであった。否、蝕まれているのは古川だけではないのかもしれなかった。
 四条烏丸交差点、車の奔流の只中に立ち、身にまとうはボロ布一枚、「仏国土人民戦線解放派」の鉢巻を締め宙の一点を見つめる男。烏丸六角東入ル、三方をビルに囲まれた古刹の庭の白鳥住まう池へと注ぐ小さな滝に、顔を浸け一心不乱に水を飲む老婆。その手から伸びる紐の先に結わえられていた古毛布とおぼしきそれは、しかし近づいて見ると干からびた猫の死骸であった。
――ええじゃないか、よいじゃないか。
 人々の囃したてる声が、風に乗り漣のように聞こえてくる。古川にはもう、どこまでが現実で、どこまでが暑さの見せる虚構なのかがわからなくなり始めていた。今はただ、ここを立ち去るのみ。地獄の釜から湧き立つ湯気をまとった風が、柳の枝をぬるりと揺らした。

 それでも、ここだけは変わらず平穏である――。
 冷水を絞った手拭いを頭に載せ、首まで湯船に浸かった古川はようやく人心地ついたのだった。がらがらと引き戸を開けると、そこはもうひとつの我が家。もはや親戚のように親しくなった番台の親爺に声をかけ、名前入りの柳行李に服を脱ぐ。自分専用の行李を置くことができるのは、錦市場にほど近いこの銭湯において常連だけが許される特権なのである。
 市松模様に彩られたタイル床の先には、翠色に縁どられた浴槽が並ぶ。泡風呂、ジェット風呂、電気風呂、ひとつひとつは小さいながらも一通り楽しめるここの湯を古川はたいへん気に入っていた。
 何をするでもない時間。何と幸せなことか。ここ最近の我が身の周辺を振り返るに、こうしてただ湯に浸かり、ぼさっと洗い場の往来を眺めているだけでも心身ともに十分に癒されるのである。
――いつまで経っても暑うおすな。昔は送り火が終わったら涼しなったもんですけどな。
 すすと隣に寄ってきた老人が湯煙越しに古川に話しかけた。客同士のこうした会話もまた、銭湯での楽しみのひとつであった。
――おかげで何もする気が起きひんし、こうして一日中風呂に入っとりますねん。まぁ、何かする気が起きたところで、わしみたいな年寄りは風呂に入るぐらいしかすることあらしませんけど。
 老人の乾いた笑いに古川も釣られて笑ったが、その笑顔も長くは保たなかった。
――せやけどお兄ちゃん、なんですな、最近の工事っちゅうもんはえらいもんですな。ほれ、三条大橋の西詰で大きい大きいビル建ててますやろ?あれのせいですっかり水みちが変わってしもたんですわ。
「井戸水が濁ったり、枯れたりしてしまったんですか?」なるべく平静を装って古川は尋ねた。こうした何気ないやり取りの中に、思わぬ仕事のヒントがあるものだ。もしかすると、例の異常現象について何か聴き出せるかもしれない。
――いやいや、それが逆なんですわ。ここの風呂屋もそうですけど、みんな水が増えて増えて。どこの井戸も仰山湧いたはるようですわ。工事の騒音やら何やら言うたはる人も居るようやけど、こんな美味しい水が鱈腹飲めるようになったんやし文句言うたら罰が当たりますわな。
 かこおん、と一際甲高い音が浴室に響いた。この爺さん、何を言うてるんや。盗み見るように視界の隅に捉えたその老人は。
 鼻の下までどっぷりと湯船に没し、鯰のような大口を開けて湯を飲んでいる。小刻みに上下する咽喉仏、額から上がる湯気。一点を見つめるその目が、この湯全てを飲み干す決意でもしているかに見えた。
「まあそない慌てんと。お兄ちゃんも一杯飲んで行ったらよろしわ」後ろから野太い声がした。黒檀の幹のように色濃く隆々とした腕が、古川の頭をぐいと押さえつける。顎が、唇が、人中が湯に沈み、鼻の先からぶごぶごと泡を吹く。盲滅法に腕を振り回し、力が緩んだところで抜き手を切るように湯船を這って出た。振り返れば湯船は男どもで超満員、老いも若きも喫水線は鼻の下、恍惚とした表情で湯を飲み干さんとしているのであった。
 ただひとり件の老人だけが、あばらの浮いた枯れ木のような、けれども腹だけは布袋のように膨れあがった妙な身体で仁王立ちになり、「みなで浸かりゃええじゃないか、みなで呑みゃあええじゃないか」と呵呵大笑した。

***

 どこをどう逃げ帰ってきたものか、古川にはもうそれすら定かではなかった。右手には未だほの温かい水のしたたる手拭いを、左手には財布と携帯電話をむき出しで持ち、気づけばアパートの自室の前に突っ立っていた。濡れた手を震えさせながら、ポケットを指でまさぐる。鍵と一緒に中へ突っ込んであった小銭やレシートが辺りへばらばらと散るのも気にならなかった。今はただ、この身を早く扉の中へ潜り込ませたい。その一心であった。二度、三度、四度。脂汗でぬらぬらとする手が把手を滑る。五度、六度。ようやく開いた扉の先へ古川は飛び込んだ。
 ぐずり。真っ暗な玄関で予期せぬ柔らかさに足を取られた古川は、思わずその場に手をついた。疲れ切った古川に身体を支える余力は残っておらず、餓鬼のように四つ這いになるほかない。
 その掌が、膝頭が、つま先が何かにずぶずぶと沈み込む。力を加えると泥のように崩れてしまうのに、その指先に感じるのは硬さとなめらかさであった。そして、かすかに鼻腔をくすぐる、青臭さとほの甘さの混ざった匂い。肌を伝う、汗とは違う何かの雫。ざりざりと壁紙をなぞり、古川は電燈のスイッチの在り処を探した。
 ぱちん。手元に確かな感触を味わうと同時に、黒く塗り潰されていた古川の視界は一瞬にして反転した。白、白、白。しかしそれは、決して大袈裟な表現ではなかった。
 見渡す限り一面に、豆腐が敷き詰められているのである。フローリング敷きの廊下に、隙間なく整然と、あたかもタイルのように。顔すら映り込みそうなすべらかで艶めいた表面から、それが絹ごし豆腐だと知れた。
 一体誰がこんなことを。そしてどこまで豆腐で埋められているのか。恐怖を担保に膨らんでいく好奇心を小脇に抱えて、古川はぐじゅりぐじゅりとそれを踏み潰しながら奥へと進んでいく。

――倫子、お前何してんねん。
 古川の視線の先には、「田植え」にいそしむ倫子の姿があった。デニムの裾をめくり、ブラウスの袖を巻き上げ、麦わら帽子に頬かむり。農家の女房もかくあるやのその姿で、居間兼寝室のワンルームの床上に、端から順に豆腐を敷き詰めているのである。山と積まれたパックから一丁ずつ丁寧に取り出し、ちまちまとかじっては大きさを整え、恭しく手を添えて並べていく。辺りに立ちこめる大豆の香りと、ぴたぴたという湿り気を帯びた音。そこへ指先で穴を穿っては、若緑色をした苗を一本ずつ植えるのだ。ベッドの上にはまだたんまりと、苗が飼い葉のように積まれている。あと一時間もすればきっと、この家に見事な田圃が生まれることだろう。
「俊くん、おかえり。今日は早かったんやね」気配に気づいた倫子がはたと顔を上げた。
「豆とみさんでお豆腐買うてきたんえ。水がええから美味しいし、お米もよう育つと思うわ」
 豆とみは錦市場にある老舗である。自慢げに倫子の指さすその先には、レンガ積みのように未開封のそれが山を成していた。倫子まで狂気に呑まれてしまったのだ。ぐずぐずに崩れた豆腐の残骸を顔に塗りたくっては恍惚とするその姿に、古川は否が応にもそれを悟らざるを得なかった。
「美味しいさかい俊くんもおあがりやす」、腕をつかむその手を力ずくで引きはがす。
「そない言わんとちょっとでええから」、なおも縋りつくその身体を足蹴にする。ぬらりぬらりと足を取られ、前へ進むも思うに任せぬ。倒けつ転びつ、二人の男女が純白の泥の中をのたうちまわる。
「逃げる阿呆に染まる阿呆。同じ阿呆なら染まりゃええじゃないか」
 息を切らし、白和えのように豆腐に塗れ、それでもなおじりじりと身を捩らせ這い寄る倫子を、古川は思いきり両の掌で打ち据えた。決して憎悪からそうした訳ではなかった。ただそうでもして、己が正常であることを確かめたかったのであった。倫子は怨怨と泣き喚いたが、古川は脇目もふらず三たび街へと飛び出した。
――ええじゃないか、よいじゃないか。ええじゃないか、よいじゃないか。
 潮騒のような群衆の雄叫びが、いつしかすぐそこから聴こえてくる。時は満ちたのだ。

***

 古川は三条通を走った。西洞院、新町、室町、烏丸通。東へ進むほどに人が増えていく。ええじゃないか、よいじゃないか。東洞院、高倉、堺町、柳馬場。雑居ビルの合間を、煉瓦造と石積みのビルヂングが走馬灯のように通り過ぎていく。
 京都という街は、洋の東西、時の古今がモザイク画のように入り乱れ、切り貼りされて構成されている。それだけではない。生と死、男と女、吉と凶、優と劣、貧と冨、盛と衰、貴と賤、愛と憎、和と争。碁盤の目状のこの街の地層には、それらが経糸緯糸となって幾重にも織り込まれているのである。そして、その根底にあるのは――
 水だ。地下水である。京都盆地を北東から南西へ、鬼門線に沿うように水脈が帯を描く。地上を渦巻く人々の罪業は慈雨とともに地中深く浸み込み流れを為し、長い年月を経て浄化されていく。だとすれば、その水脈を乱せばどうなるか。未だ罪業に塗れた水を汲み上げ、使えば何が起きるのか。

 ええじゃないか、よいじゃないか。色欲におぼれてもええじゃないか。
 着流し姿にステッキ突いた禿頭の老人、おなごはどこじゃ、おなごはどこじゃと彷徨い歩くも年頃娘に相手にされず、家路を急ぐ小学生を目ざとく見つけ、それがスカート目がけて己が老犬解き放つ。
 ええじゃないか、よいじゃないか。傲慢におぼれてもええじゃないか。
 スカート食われた少女の背には真紅のランドセル、一万円札を束で取り出し、道行く男の左の頬を引っぱたき、馬乗りになってハイシドウドウ、ハイドウドウ、金が欲しけりゃそらやるぞ。
 ええじゃないか、よいじゃないか。強欲におぼれてもええじゃないか。
 銭金欲しさに這いずり回るスーツ姿のサラリーマン、金髪ギャルの細首を自らのタイで締め上げて、その掌中からわずかな銭を奪い取り、パチンコで倍じゃとほくそ笑む、獲らぬ狸の何とやら。
 ええじゃないか、よいじゃないか。憤怒におぼれてもええじゃないか。
 身を売り稼いだ銭を盗られた女、怒りに任せてブランドバッグを振り回し、神も仏もあるものか、家々の玄関先に祀られた祗園さんの粽を引きちぎり、止めに入った男の口にねじ込んだ。
 ええじゃないか、よいじゃないか。暴食におぼれてもええじゃないか。
 身にまとうはチェック柄のボタンシャツ、裾はデニムにきちんと納めた小肥り学生、食えぬ粽をむごむご食みつつ、リュックサックより取り出した盗んだ供物の饅頭三個、喉つまらせているさまを、通りすがりの醜女が嘲笑う。
 ええじゃないか、よいじゃないか。嫉妬におぼれてもええじゃないか。
 頭に鉄輪、頬に紅、丹色の着物は用意できなかったと見え季節外れのバラ柄浴衣、見目の醜さ心の卑しさ相俟って、まさに鬼女というほかなく、不倫アイドルの写真を片手に手当たり次第に釘打つも、五寸ならぬ五センチ釘では何とも間抜け。
 ええじゃないか、よいじゃないか。怠惰におぼれてもええじゃないか。
 お助けくださいお巡りさん、痩せぎす男の駆け込み訴え、きちがい女にやられたのですと釘の刺さった額を見せるも、痴話喧嘩は犬も食わぬとけんもほろろの警察官、なお訴える取り上げられぬの押し問答の末は乾いた銃声二、三発、哀れ男は血花を咲かす。
 ええじゃないか、よいじゃないか。ええじゃないか、よいじゃないか。
 その声々は三条通名店街のアーケードに轟轟とこだまして、古川は波濤に揉まれる木の葉の如く、狂騒の渦の中にその身を右往左往させながら東を目指した。

 河原町通に至ると、もはや周囲は(ええじゃないか、よいじゃないか)無政府状態に陥っていた。片側二車線の車道も、その両側の歩道も全て(ええじゃないか、よいじゃないか)乱舞する人々で埋め尽くされている。京つけもの大安の前に乗り捨てられたタクシーは(ええじゃないか、よいじゃないか)お立ち台と化し、ボンネットも屋根も柴漬けの汁に塗れながらべこべこと凹んだ。クラクションを鳴らしながら走ってきたバスが何十人もそのタイヤに巻き込みつつ(ええじゃないか、よいじゃないか)、からふね屋珈琲のショーウインドウに突っ込んで色とりどりのパフェのサンプルを飛び散らせた。
 ぷしゅっと小気味よくドアが開くと、待ちきれんとばかりに(ええじゃないか、よいじゃないか)乗客が飛び出して銘銘に踊った。首根っこを掴まれ引きずり出された運転手は呆然としていたが、警官から差し出された(ええじゃないか、よいじゃないか)柄杓を口にすると目を見開いて踊りの輪に加わった。
 十重二十重に雲霞の如く押し寄せる(ええじゃないか、よいじゃないか)群衆の間をすり抜け、小突かれ、蹴躓きながら、古川は三条大橋東詰の現場を目指した。池田屋騒動の跡地に建つ居酒屋の前に駐められたトラックの荷台からは酒や肴が勝手に振る舞われ(ええじゃないか、よいじゃないか)、気を良くした餓鬼の群れはさらなる施しを求めて乱舞した。そんな狂気の最中を平然と歩く者も稀には居たが、「輪に交わらぬ者がおるぞ」と瞬く間に取り囲まれ、わっせわっせと胴上げされて(ええじゃないか、よいじゃないか)衆生の波間に投じられ、その後は杳として知れぬ。古川は見よう見真似で「ええじゃないか、よいじゃないか」と踊る素振りを見せつつ、その身をするりと現場の仮囲いに設けられたくぐり戸の中へ滑らせた。

 かん、こん、かん、こん、かん、こん、かん、こん。
 携帯電話の仄明かりの下で鈍く光るアルミ製の仮設階段を、足音高く地下へと潜っていく。上下左右を分厚い鉄筋コンクリートで囲まれたここまでは、外の騒ぎも聞こえない。耳に届くは、己の鼓動、吐息、そして足音のみである。古川はふと、母胎というものはこういうものなのかもしれない、と思った。
 であるならば、頭上を行くこの配管は臍帯か。古川と建物とを結ぶそれに右へ左へと導かれたその先に、目指すものはあった。
 半畳ほどの大きさの、鈍色のハッチ。把手を引き出し、腰に力を入れてひと思いに持ち上げると、さらに下へとつながる梯子が姿を現した。
 無機質に伸びる地下茎に手を掛け足を掛け、一段一段と降りて行く。弱々しい光は、この穴の奥底までは届かない。真っ黒な深淵から湧き起こる、むせ返るような湿気が、古川に纏わりついた。吽吽と読経のように聴こえる音は、排水ポンプによるものなのか。
 たぽん、と微かな音がした。靴から、作業ズボンの裾口から浸入したそれが、その凍える手で以って体温を脚から奪おうとしていた。地下水がここまで湧き出しているのだ、と古川は思った。
 足裏に確かな感触を覚えて、梯子からそっと手を放す。水位は膝下ほどしかないようであるが、それでも刺すような痛さに古川は顔を顰めた。朧な光が水面を夜光虫漂う海のように僅かに照らしだしたが、それが却って周囲の闇を色濃くしているのであった。ひた、ひた、ひたと小波を立てながら、一歩、また一歩と古川は歩みを進めていく。この空間のどこかに、地下水をくみ上げているポンプがあるはずなのだ。感染症のように人々へ伝播していくあの狂気を止めるには、ポンプを停止させ、地下水脈の撹拌を止めるほかない。

 右手にライトを点灯させた携帯電話を持ち、左手で暗闇をまさぐる。明かりを高く掲げ、周囲を窺う。どこに目指す排水ポンプが、そしてそこから連なる配管があるかわからないがゆえに、右へ左へ、上へ下へ、傍から見ればパントマイムのように左手をかき回す。廃れた溜池のように濁った水の中には何があるかわからず、つま先で探りながらじわりじわりと進んでいく。右、右、左、左。一定のリズムに乗せて足を運ぶことに慣れてきたそのときであった。
 左手が、ひんやりとした何かに触れた。右の掌中から発する光を、慌ててそちらへ向けてみる。一筋の光が、暗幕を裂くように走った。
 大人の腕でひと抱えはあるような、「円筒」がそこにはあった。
 木の板を束ねて作ったかのように、縦方向に幾本もの筋が通っている。横方向に等間隔に現れる帯は「円筒」を一周しており、箍のような役割をしているように見える。表面を一面覆うかさぶたのような黒い付着物は、カビであろうか。そして「円筒」の蓋の部分からは水がこんこんと湧き出し、表面を伝い、周囲へ溢れ出している。とめどなく、いつ何時までも。この中に、目指すものがあるのだ。古川は今にも浮き上がらんばかりに揺れる蓋に向かって、その手を伸ばした。そして、中を覗きこむと、

――男と、目が合った。

 はじめは、自分の顔が揺れる水面に映り込んでいるのかと古川は思った。しかし、どう見ても自分の顔ではないのだ。青白く痩せこけた頬、そこからつんつんと飛び出した髭剃り跡。ぼんやりとこちらを見つめる、白く濁った眼球。海藻のように揺れる、髪。いったいこれは何なのだ?覗き込んでいた古川は、あっと驚くと同時に手にした携帯電話を「円筒」の中に落としてしまった。沈みゆく携帯電話に合わせて、「円筒」が内より照らし出される。果たしてそこに納められていたのは、浅葱色の着流しを身につけ、後ろ手を結わえられたまま前かがみに正座する人間の姿であった。肩から上には赤黒くすっぱりとした平面のみを見せ、本来そこに載っておくべき首こそが、膝の上に収まりゆらりゆらりと水に揺られながらこちらを向いているのである。
 この「円筒」は、座棺だったのだ。
 此奴をここから引きずり出さねば、と古川は思った。何の因果があるかは知らぬが、斯様なところに存在する死体は常ならざるものに違いあるまい。此奴に触れた水が配管を通じて地下へ戻され拡散するがゆえに、あの狂宴が繰り広げられているのだ、と。あれを止めることが出来るのは、いま、ここに居る、自分ただ一人であるという使命感が古川を行動に走らせた。
 袖をめくり、ずぶずぶと座棺の中へと腕を沈める。捕縄を指先で掴み、身体を引き起こしてから、両脇の間に腕を差し込む。慎重に、しかし思い切りやらねばなるまい。そう思ったそのとき、古川の脳裏に声が響いた。
「水を所望致す。水を呉れ」
 そうだ。水を飲まねばならない。古川は思った。何故かはわからぬ。しかし咽喉が乾いて仕方ないのだ。唾液を呑みこんでも、かさかさの内臓に爪を立てるような痛みを感じる。ただ口から息を吸うだけであるのに、煙でいぶされたかのように噎せ返ってしまう。水だ。水が欲しい。水を飲みたい。腹がいっぱいになるまで水を飲みたい。浴びるほど、溺れるほど水が欲しい。水、水、水、水。
 ええじゃないか、よいじゃないか。気づけば地上の狂騒がこの地下空間にもこだましている。これは幻聴なのか、それとも誰かがここに居るのか。だがいまの古川には、そんなことはもうどうでも良いことであった。それよりも、水が飲みたい。
 ええじゃないか、よいじゃないか。ええじゃないか、よいじゃないか。
 飲みたきゃ飲めばええじゃないか。飲んで狂やええじゃないか。
 ええじゃないか、よいじゃないか。ええじゃないか、よいじゃないか。

 大きく息を吸い胸郭を拡げた古川は、満面の笑みとともにその頭を座棺の中に突っ込んだ。

【参考文献】
NHKスペシャルアジア古都物語 京都千年の水脈
   (NHK「アジア古都物語」プロジェクト編)
京都の「ええじゃないか」について
   (南和男 駒沢大学文学部 一九九〇年)

(2017年9月29日脱稿)

2017年9月29日公開

© 2017 高野 真

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