やまいの事

応募作品

みゆ

小説

8,769文字

六月の投稿、「家畜と入れ替わる話」のつもりで書きましたが、どうしてもこれ以上削れませんでした;;

古い日本家屋で、たびたび狂気に陥る美しい娘と、それを大事に見守る人たちの物語です。どういう事件が起きたかは、色々な解釈があるかもしれません。初投稿ですが、よろしくお願いします。

エレベーターがあんまり早く上がっていくので、息がつまりそうになります。

十五……二十……四十五。目がチカチカするほど階が上がって、やっと一番上の階で停まりました。五十階。

おそるおそる出てみます。ふかふかした絨毯を踏んで、突き当りのドアに、頂いたカードを近づけました。

重い扉を開けて、真新しいフローリングの廊下を抜け、眩しくて目を細めました。天井から床まである大きな窓から、いっぱいに光が入っています。青い空の下に、高層ビルが並んでいます。ため息が出てしまいました。これから、ここに住むのです。慣れ親しんだ、あの古いお屋敷とはあまりにも違う。

私は、腕まくりをしました。あちこちに段ボール箱が積まれたままです。とにかく、お嬢様がみえるまでに少しでも片付けておかなくては。

 

お嬢様と始めてお会いしたのは、ちょうどお嬢様が五才になられたころでした。くりくりとした大きな瞳、つややかな黒髪に着物の赤が映えて、本当にかわいらしかった。

広いお座敷の上座に、お父様と並んで座られたお嬢様は、にこにこと笑って、新しくお世話係になった女たちを面白そうに見ておられました。

「みな、これが私の大事な娘だ。目の中にいれても痛くないとは、この子のためにある言葉だろう。しっかり頼む」

お嬢様を膝に乗せた旦那様が重々しく言われると、しっかりたのむ、とお嬢様が真似して繰り返しました。その様子があまりにも可愛らしくて、私は一目ですっかりお嬢様が大好きになってしまいました。

お嬢様は、大変利発な方でした。ひらがな、カタカナはもちろんのこと、簡単な漢字まですらすらと読み書きができて、絵本だけでなく、旦那様の書庫にあるむつかしい本や、新聞を持ち出して、読みふけっているのをよくお見掛けいたしました。一度など、私が落とした手紙を拾ったお嬢様が、宛名を読んで持ってきて下さいました。

これ、ねえのお手紙でしょう。そう言って得意げに封筒を差し出してきたお嬢様の、満面の笑顔。色々な辛いことがあった時期に、何度あのお顔を思い出して泣いたことでしょう。賢い、そして優しい、本当に珠のようなお嬢様でした。

 

一度目の、あのことが起きたのは、お嬢様の六才のお誕生日の、朝早くでした。寝床でまどろんでいますと、どこかから悲鳴と、どたどたと人が走り回る物音がします。

誰か。お嬢様が。そんな叫び声が聞こえてきたので、私は寝間着のまま飛び出して、お嬢様の部屋へ走りました。

お嬢様の部屋の前には、人だかりができていました。中からはぞっとするような金切り声と、男の人たちの怒鳴り声が聞こえてきます。入り口の襖のところには、私と同じ手伝いの女たちが泣きじゃくっていました。私はすぐ、人だかりをかき分けて部屋に潜り込み、恐ろしいものを見たのです。

お嬢様が。昨日の晩、私にお話をねだり、甘えながら眠ったお嬢様が。口から泡を吹き、半狂乱になって暴れ、使用人の男たちに押さえつけられています。お気に入りの、卵色のパジャマはずたずたになり、ほとんど裸で、小さな体のあちこちが畳にすれて真っ赤になっていました。押さえつけている男たちが汗だくになるほどの暴れ方で、桜貝のような唇からは、ひっきりなしに恐ろしい金切り声を上げていました。ぎゃあ、とも、ひい、とも聞こえるようなそれは、とても人間の喉から出ているとは思えません。

どけ、どくんだ。呆然と見ていた私は、強く突き飛ばされて倒れました。旦那様が、真っつ青になって駆け込んできたのです。やがて、表に救急車のサイレンが聞こえてきました。表玄関が乱暴に開けられ、救急隊の人たちがやってきて、お嬢様を担架に乗せていきました。

お嬢様がひっきりなしに上げる恐ろしい悲鳴と、動転した旦那様の怒鳴り声が、サイレンと一緒に行ってしまうと、ぐしゃぐしゃになった部屋は、恐ろしいほど静かでした。朝の白い光の中で、ぼろぼろになった障子紙を拾い集めていると、池の向こう側にある鶏舎で鶏たちが騒ぐのが、やけにはっきりと聞こえました。

 

お嬢様はそのままご入院されました。その間、あの愛らしいお姿をなくしたお屋敷は、本当に火が消えたようでした。旦那様は毎日病院へ通われていましたが、ただのお手伝いにすぎない私は、もちろんお見舞いにいくことはできませんでした。お嬢様がいつ帰ってこられてもいいよう、お部屋をお掃除している時など、お好きだった絵本や、人形や、小さな箪笥に収められた洋服をちら、と見るたびに涙が零れました。お屋敷に務めている仲間たちも、いつも鬱々として、暗い顔でした。お嬢様は、それだけ皆に愛されていたのです。ですから、一年ほどでようやく退院された時は、本当に、皆心から喜びました。

 

入院していた事を、お嬢様は全く覚えていないようでした。忘れたままにしておくのだ……旦那様が辛そうにおっしゃったので、屋敷のものたちもあのことには触れませんでした。何より、賢くて優しいお嬢様の姿をもう一度見られたのが嬉しくて、誰も強いて思い返したりはしませんでした。

半年ほど経って、自宅での療養を終え、以前から通っていた幼稚園へ戻り、次の春には小学校へご入学され。初めての運動会があり、ご学友と部活動を楽しまれて。時は過ぎ、季節は巡り、いよいよ明日は、修学旅行という晩に。また、恐ろしいあのことが起こりました。

 

通りかがりに、お嬢様が着替えを忘れているのに気付いた私は、脱衣所の表から声をかけました。

お嬢様。入っても良いですか。お返事がありません。

お嬢様。やはりありません。

お嬢様はとても素直でご陽気なたちで、声をかけた者を無視することなど、普段はないのです。もしかして、部活動で疲れていて、浴槽で眠り込んでいたりしたら……ぞっとした私は、失礼を承知で脱衣所へ入り、もう一度、今度はもっと強く、呼びかけてみました。

お嬢様。お返事なさってください、ねえやです。お嬢様。

やはり返事はないまま。私はぞっとし、お風呂場の扉を開けて飛び込み、そして悲鳴を上げました。お嬢様が、広い浴槽の中に沈んでいるのです。

駆け寄って引き揚げようとした瞬間、目が合いました。いっぱいに見開かれ、じっと私を見ています。なんだか魚のような、まるで心の読めない目でした。恐ろしくなりながら、それでも無我夢中でお湯から引き上げると、お嬢様がものすごい力で私を振り払おうとします。腕、足をぴったり体に沿わせて固まったような、おかしな姿勢で、すごい力で跳ねるのです。激しく咳き込んで、その度に大量のお湯を吐き出しながら、お嬢様は私の手を振りほどいてお湯に沈もうとするのです。

誰か。誰か……。

助けを求めて叫んでいると、すぐに数人が駆けつけてきてくれました。私が事情を話すと、すぐに救急車が呼ばれ、お嬢様は、また病院へ運ばれて行きました。

 

―それから半年後、お嬢様はお屋敷へ戻ってきました。でも、お元気になられた訳ではありません。ベッドに横になって、ほとんど一日中眠ったままでした。心電図やら、点滴やら、色々な管を入れられて、下のお世話も必要なのです。一度、お嬢様のご様子を見に来られた旦那様がぽつり、ぽつりと話してくださったのですが、体のどこかが特に悪いという訳ではない。ただ、意識が戻るとひどく暴れて、ご自分まで傷つけてしまいそうになる、ということでした。まるで陸に上がった魚のように、からだ全体で跳ねて、泡を吹き、息をすることもままならないのだとか。

だから、薬で眠らせているのだ。仕方ないのだよ。

旦那様はそう仰って、お嬢様の細い手首を撫でられました。お可哀想な旦那様。お可哀想なお嬢様。

私は、看護師から教わってお嬢様の看病を致しました。寝汗を拭き、髪を梳いて、爪を切ります。お嬢様は、ずっと眠ったきりという訳ではありませんでした。薬の効き目が薄れてくると、ふっと目を開けて、ぼんやりとあたりを見回すことが、あるのです。あまり意識がはっきりしてしまうと、また恐ろしいことになるので、お医者様の診察が済むと、すぐに眠くなる薬を投与されてしまいます。でも、ぼんやりとでも目を開かれて意識があるようですと、私は嬉しくて、涙が出てしまいました。

 

そんなありさまが、それから一年半ほども続いたでしょうか。修学旅行の前の日に倒れられたお嬢様が、本当ならば中学三年生になられる、春のこと。季節外れの大きな嵐がありました。

異常気象というのでしょうか。それとも、春の嵐というように、よくあることなのでしょうか。暮れに降り始めた雨が、夜半には恐ろしいほど荒れ狂って、お庭も、おみおつけの菜などを少しばかり育てるための畑も、鶏舎や犬小屋も、めちゃくちゃになりました。

朝になり、様子を見てみようと表へ出て、みな呆気に取られました。池が溢れたのでしょう。白砂の上に、たくさんの鯉が白い腹をみせていました。そうしてその日の昼、お嬢様が意識を取り戻されました。二年ぶりのことでした。

 

旦那様は、始めは半信半疑のようでした。無理もありません。お屋敷の仲間たちも、心の中ではほとんど諦めていて―お気の毒だが、もう正気に戻られることはあるまいと、そう考えておりました。

でも、始めはただぼうっとしていたお嬢様が、日が立つにつれて頷くようになり、物を食べ始め、そうしてついに、またあの陽気な、茶目っ気のある調子で話されるようになると、だんだんと皆もうきうきと浮かれ始めて、とうとう、お屋敷全体、毎日がお祭りのようにふわふわとした喜びに包まれました。

二年間寝たきりだったお嬢様のリハビリは、長いことかかりました。でも、本当はつらいはずのリハビリも、お嬢様があんまり明るく、楽しそうにされるものですから、そのうきうきとした気持ちが皆に伝染して、本当に楽しい毎日だったのです。皆、なにかと理由をつけてお嬢様のおそばにいたがりました。料理人は滋養のつくよい卵を手に入れたからと甘味を焼き、庭師は美しい花が咲いたからと顔を出します。本当に、この時が、皆、一番生き生きと楽しく過ごした時だったかもしれません。

旦那様は、もうお嬢様を学校へやろうとはなさりませんでした。それどころか、お屋敷から外へ出ることをお許しになりませんでした。それこそ、手のひらの中へ握り込んだ珠のようなお嬢様でしたから、お元気になられたお姿を、一瞬たりとも離したくなかったのかもしれません。それとも、怖かったのでしょうか。

とても、とても残念なことに、旦那様の恐れは現実のものになりました。三度目のあのことが起きたのです。そして、三度目のそれは、これまでで一番、皆に取って辛いものになってしまいました。

 

その春、お嬢様は十六才になられました。花のようにかれんな、私たちみんなの、大事な大事な姫様です。静かな昼下がりに、洗濯機を回していると、中座敷の方から大きな声が聞こえてきたのです。私は洗濯籠を放り出して廊下を走りました。嫌な予感がしました。そして、それは的中してしまったのです。

中庭に面した濡れ縁の下、踏み石のところ。お嬢様が、着物の袖を振り乱して地べたに膝立ちになり、まるであほうのように、獣じみた笑い顔で、舌びらを突き出して、呆然と立ちすくんでいる旦那様の足を舐めまわしていました。あ、と声を上げたきり立ちすくんだ私を、硬直したまま、旦那様が目だけで見ました。

ねえやか。はい。旦那様は、とても悲しそうに仰いました。

医者を呼びなさい。どうやら、また始まったようだ。

お可哀想な旦那様。お可哀想なお嬢様。私は、急いでお医者を呼びました。

 

こうして始まった、三度目のあのこと、は、結局五年ほど続きました。これまでで一番長いそれ、に、旦那様も、御屋敷の者たちも、すっかり打ちのめされてしまったのです。

今回のそれ、は、前の二回のどちらとも違いました。お嬢様は始め、服を着るのを嫌がり、何を着せてもすっかり脱いでしまいました。でも、根気よく、それこそ幼い子供に言うように何度もご説明しましたら、服を着せかけても脱いでしまわなくなりました。それに、二度目の時のように、暴れて、暴れて、仕方ないということもありません。むしろ、世話をする者たち、わけても旦那様のことは、とても嬉しげにお迎えになるのです。

言葉はお忘れになられて一言も話せませんでしたが、こちらの言うことは、お分かりになられているような気もしました。お名前を呼べば、一散に走ってこられます。そして名前を呼んだ者に体ごとぶつかり、抱き付いて、全身で好意を表されるのです。少し、行き過ぎに思われるほどでした。

そのせいで、嫌な出来事が起こりました。十六才で正気を失われたお嬢様が、お可哀想に、回復しないまま二十才をお迎えになられた冬のこと。成人式には出席できなくても、せめて……という旦那様の考えで、お屋敷の中だけでお祝いの席を設けました。お嬢様はにこにこと上機嫌で、時折叫び声をあげて旦那様に飛びかかり、美しい振袖を翻しておられました。相伴に預かった私たちも軽くお酒をいただいて、宴席は月が昇るころにはお開きとなり、私は洗い場を手伝ってから寝床へ入りました。

が、そういえばお嬢様のお部屋の鍵を締めただろうか……と心配になって(お部屋の鍵を外側からかけておかないと、夜中にお部屋を出られてしまうので)、そっと寝床を出て、お嬢様の部屋へ向かいました。

お部屋にたどり着きますと、扉が細く開いています。あぁ、やはり閉め忘れていたのだ……と慌てながら、そっと扉を開け、私は言葉を失いました。大きな寝台の上に、お嬢様が半分裸で後ろ向きに転がされていました。そして、それを押さえつけているのは、同じ使用人仲間の若い男でした。お嬢様は、よく旦那様やお医者に内緒で菓子を寄越すこの男に、よく戯れかかっておられました。おおかた、今日もその調子でふざけていたお嬢様に、男が酒の勢いで悪心を起こしたのでしょう。

その光景を見たとたん、私は飛びかかっていました。私では到底かなうわけもないのですが、とにかく頭に血が上って、後先考えずに、しゃにむに殴りかかったのです。当然、返り討ちにあい、私は男に突き飛ばされて床の上にどんと落ちました。息が詰まり、咳が出ました。でも、痛くも、恐ろしくもありません。ただただ、大事なお嬢様に、不埒なことをしかけた男が憎くて、憎くて、私はもう一度飛びかかり、噛みつき、ひっかいてやりました。

男は悪態を吐きながら逃げていきました。ベッドの柱に縛り付けられていたお嬢様の縄をほどき、寝間着の上に引っかけていた半纏を着せかけました。白い肌のあちこちに傷があります。最後に、お嬢様の唇に食い込んでいた猿ぐつわを外して差し上げました。怯えきった様子でしがみつくお嬢様は、ずっと震えておられました。

 

お嬢様に乱暴した若い男は、旦那様たちがすぐに捕まえてどこかへ連れて行きました。お嬢様は、その後もいっさい変わったご様子はありませんでした。本当に、まったく変わりません。おそらく、ご自分に何が起きてしまったのか、分かっていらっしゃらなかったのでしょう。お可哀想に思いましたが、かえって良かったのかもしれません。失われたものは、もう二度と戻らないのですから。

そのことがあってご様子が変わったのは、むしろ旦那様でした。それまでは、いくらか気持ちの通じる日もあるお嬢様を、時には優しく、そしていけないことをした時にはお叱りになり、辛抱強く読み書きを教えたりなどなさっておりました。

ところが、あの忌まわしい冬の日からは、ただもう、疑いと、お怒りだけに憑りつかれたようになって、お嬢様をご自分の部屋に閉じ込めておしまいになられました。お食事やご入浴その他のお世話一切を旦那様が自らなされると宣言され、私たちはただ、旦那様のお部屋がある離れと母屋をつなぐ、渡り廊下までしか行かれないのです。三度三度のお食事を始め、トイレットペーパーやら、タオルやらといった生活必需品まで、渡り廊下で直接旦那様にお手渡しするのでした。

旦那様は、どんどんやつれていかれました。これまで、誰かの世話などされた事はないのです。お屋敷の者はみな、はらはらしながら見守っておりました。何度か、見かねた者がお嬢様のお世話をさせてほしいと申し出たのですが、旦那様はひどくお怒りになって、申し出は受け入れられませんでした。

 

そのようにして、次の、次の冬のこと。ちょっとした騒ぎがありました。お屋敷では、随分と長い間、それこそお嬢様がまだ小学生のから、一頭の犬を飼っていました。茶色い毛がふさふさとした、大きくてひょうきんな犬で、お嬢様も可愛がってらっしゃいました。たださすがに年を取ったのか、お嬢様に三度目のあのこと、が起きてからは、走り回りもせず、庭のあちこちをよたよたと歩き回ったり、たまに濡れ縁から母屋に上がり込んで、皆を困らせたりする程度でした。

その犬が、とうとう死んだのです。どうやって入り込んだのか、お嬢様が元使っていらっしゃったお部屋の中へ入り込み、ベッドの上で冷たくなっていました。お部屋に埃が溜まらないよう、掃除に入った若い家政婦仲間が見つけて悲鳴を上げ、母屋はちょっとした騒ぎになりました。

上で犬が死んでいたマットレスはもう捨てるか、からだはどこに埋めようか……そんなふうに皆で相談していますと、離れから大声が聞こえました。お嬢様に何かあったのだろうかと、皆で慌てて駆けていきますと、渡り廊下からお嬢様が走り出てきました。寝間着は乱れ、髪はぼさぼさで、顔は真っ青でしたが、皆、すぐに気づきました。

お嬢様は、三度、正気を取り戻されたのです。

これは、どういうことだ。呆然と呟かれたお嬢様は、すぐに皆にもみくちゃにされました。お嬢様が生まれた時からお勤めしている料理人も、毎日お嬢様が戻られることを信じてお部屋を片付けていた女たちも、もちろん私も。皆、おいおいと泣きながらお嬢様を取り囲み、抱きしめて、喜び合いました。お嬢様、お食事を。いやいや、まずはご入浴されて、お着替えを。いや、それよりもまずはお医者様を呼ばなければ……。そんな風に喜びあっておりますと、誰かが、そうだ旦那様は。とふと思い出して言いました。そういえば、旦那様はどこにいらっしゃるのだろう。まだ離れにいらっしゃるのでしょうか。

俺がお呼びしてこよう、そういって離れに入った料理人が、しばらくして、強張った顔で戻ってきました。

どうしたの。私が尋ねると、料理人は、ただ一言、お医者様をお呼びしろと呟きました。

それから、多分警察もだ。一体どういうことなの。

亡くなられている……。料理人が震える声で言った瞬間、お嬢様が、ぐにゃり、とその場に倒れてしまわれました。

 

―それからの数か月は、本当に目が回るような忙しさでした。お医者様と、その後に警察がやってきて、離れにはしばらく近寄ることもできませんでした。旦那様はやはり離れで亡くなられており、警察はお嬢様を疑い、かなりしつこく取り調べがありましたが、お嬢様の状態を知っていたお医者様と、私たちお屋敷の者の証言が結局は通り、旦那様は、お可哀想なことですが、ご自分で亡くなられたのだろう、ということで落ち着きました。

お嬢様は、旦那様が亡くなられてから半日ほど気を失っておられましたが、その後は今度こそ本当にお目覚めになり、お屋敷で静養されている間に、だんだんと力を取り戻されました。警察の取り調べも済んで三月ほど経ったある日のこと、お嬢様は私をお呼びになりました。

ねえ、私、この家を処分しようと思うの。そして、東京へ引っ越すわ。

お嬢様は、しっかりした声でそう言われました。

はい。なんでも、お嬢様のお好きになさってくださいまし。私がそう言いますと、お嬢様はころころと鈴を振るように笑われました。

ずいぶん素直ね。ねえは、お嬢様が健やかで、お幸せならば、それでいいのです。

そう重ねて申し上げますと、お嬢様は感極まったように私の手をぎゅっと握られました。

もう、この家はいや。ねえ、東京へついてきて。そして私の世話をしてちょうだい。

お嬢様はそういうと、美しい瞳で私をじっと見つめるのです。私は黙って頷きました。

 

さて、そんなわけで、私は引っ越しの荷物を片付けているのです。相変わらず、大きな窓からはさんさんと太陽が差し込んできます。日当たりがいいのは結構ですが、これでは少し暑すぎるかもしれません。

「ねえ、片付いたの」

「お嬢様。年寄をびっくりさせてはいけませんよ」

いつの間にかやって来ていたお嬢様が、うふふ、と悪戯っぽく笑いました。

「明るくて気分がいいな」

お嬢様は、そう仰って窓にぺたりとおでこをくっつけられています。

「少し、眩しすぎるように思います。ブラインドを下ろしましょう」

「だめ、もっと見るの」

お嬢様がゆっくりと振り向きました。性のいい、さらりとした髪に光が当たって、後光を背負っているようです。

「ねえ。お前はここにいるのよ。お前だけがここにいて、私の面倒をみるの。他の人は、入れてはだめ」

お嬢様がほほ笑みました。なんて美しくて、清らかな。私は頷きました。眩しすぎるのか、お嬢様は片手を上げてひさしのように顔を隠しました。そこへ真っ黒に影が射すのは、やっぱり光が強すぎるのでしょう。

2017年6月16日公開

© 2017 みゆ

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SF ホラー ミステリー 純文学

"やまいの事"へのコメント 4

  • 投稿者 | 2017-06-17 00:00

    ちょっと古風な奇譚として楽しめた。お嬢様のストーリーに加え、人間の中の獣性を示唆する使用人の男による強姦やなぜか人間っぽい犬の死のエピソードなども、すみずみまで仕掛けの行き届いた良作だと感じさせる。確かに字数制限は超過しているが、面白さという点では高く評価できる。また、漢字や語句の選択に首をかしげる箇所は一部あるものの、全体的に文章も端正で読みやすい。

    • 投稿者 | 2017-06-17 15:32

      こんにちは。コメントありがとうございます。

      初めての投稿で読んでいただけて、とても嬉しいです! 家畜との入れ代わり物語を、谷崎潤一郎の作品によくある、「異常で美しい人を、それよりも下の立場にある崇拝者が語る」 という形式を借りて書いてみました。

      語り手の使いそうな言葉、語り手がしでかしそうな間違い、、をイメージして書いたので、あちこちおかしな表現があると思います。でも、意図しない箇所にも誤りもあるはずなので、恥ずかしいです。。

      ありがとうございました。

      著者
  • 投稿者 | 2017-06-18 07:02

     綺麗な文章の作品です。谷崎潤一郎の作品を思い出しました。眺めているだけで楽しめるように思えます。
     ですが、話の掘り下げが浅くストーリー自体の驚きや感動は小さかったです。文字数を規定の倍使っているのに、それを効果的に使えていないように感じました。登場人物もステレオタイプだったと思います。今回は文字数のことも考慮して採点させて頂きました。

    • 投稿者 | 2017-06-18 17:09

      こんにちは。コメントありがとうございます。

      谷崎潤一郎は大好きな作家なので、そう言っていただけるととても嬉しいです。
      もちろん、まだまだ足元にも及びませんが。。

      物語を書くのが好きな割に、人間の内面とか心にはほとんど関心がないので、登場人物も紋切り型になってしまうのかもしれません。

      精進して、もっと楽しんでいただける作品が書けるようになりたいと思います。

      しばらく書くことから離れていたのですが、やっぱりこうして反応をいただけるととても励みになりますし、書くのが好きだなと実感しております。

      ありがとうございました。

      著者
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