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ベッドの上で制服を着た少女が笑いかける。間違いなくその映像の被写体は、高校一年生のときの彼女だった。ゆっくりと男に服を脱がされ、下着の中の乳首を撫で回されるうちに、彼女は吐息を漏らす。男がどちらかといえば大きめな乳房を吸い上げる。
一連の流れのその経過として、彼女は男のやや大きめのペニスを突き立てられた。肉欲のままにウェーブのかかった赤黒く長い髪を揺らしながら腰を振り続ける彼女の後ろ姿を見ながら僕は、あの頃の体育の授業で彼女がバレーのボールをレシーブして屈んだそのときの、短パンにはっきりついた下着の線のことを思い出して、性器の先が焼けつくように熱く痒くなった。
男が彼女を下から突き上げるのに合わせ、僕もまた竿を擦りあげる速度を速めていく。男の荒い息遣い。彼女の嬌声。上がっていく僕の心拍数。やがて男は彼女の中に子種をぶちまけ、僕もそれに合わせて果てる。
これは、何年も何年も繰り返してきた行為だった。その果てになにがあったのか、当時の僕が知ったらなんと言っただろうか。
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僕は、どこにでもあるようなそれなりに栄えた地方都市のなかの、下から二番目くらいの団地で生まれ、働き詰めで家にいない両親のもとで勝手に育った。
小さい頃からピアノが得意だった。いつもどこかの部屋で誰かが泣き、年長の男の子たちのバイクの音が聞こえ、怒鳴り声と食器の割れる音が聴こえる、そんな場所では、僕が一日中ピアノを弾いていようと、誰も気にしなかった。酔って機嫌の悪くなった父を除いては。父は、たまに僕をしたたか殴った。母はそんな父を止めず、僕を動かない目でじっと見つめるだけだった。
僕は十六歳になった。独学だったけれど、まだピアノが得意だった。その頃の僕は、公立の芸術大学の器楽科か国立大学の教育学部に奨学金を受けながら進学して、音楽の教員になることを目標にしていた。実際、可能性はあったと思う。中堅高校の冴えない小柄な少年は、暮らしを変えるために夢をみていた。
その頃、母がいきなり家を出て行った。朝から酒臭い大人や、泣き叫んでいる身体に傷のある子どもがそこらへんを歩いているこんな街では、そのくらいは普通のことだった。今にして思えば、母は父の横暴さや稼ぎの悪さや酒臭さに辟易して出て行ったというより、性生活が一致していなかったことが最大の原因だったのだろうと僕は考えている。
小学生の高学年になったとき、僕は父と母のセックスをみてしまったことがある。育ちの悪さ特有の早熟さにより、僕はすでに精通もマスターベーションもすませていて、そして、両親がやっていることの意味もよくわかった。深夜ふと目を覚まして両親の寝室を興味本位で覗いていたのだが、それはポルノをたくさんみた経験のなかった当時の僕にも異質なものというのはすぐに理解できた。父は、母に馬乗りになって、その白い首に手をかけていたのだ。
僕は両親の交尾の内容に微塵も興奮しなかったけれど嫌悪感を覚えなかったというのは、やはり僕にもその血はしっかりと受け継がれているということの証左なのだろう。そして、十六歳の僕は、その年頃にありがちな思春期の性欲の強さというのを差し引いても、ポルノ依存症とよんで過言ではなかった。
僕の初体験は、十四歳の冬だった。隣の棟の四階には、ひとつ年上の幼馴染が住んでいた。ギャルファッションに身を包み、小柄で肉付きのいい身体を押し上げるようなブーツを履いた彼女は、いつも胸元を強調していて、安い香水の匂いがした。僕は、彼女を樋口一葉一枚で買った。父親の財布から抜いた金だった。非常階段で、僕は彼女を後ろから突こうとしたが、中を二往復半したところで果ててしまった。あまりの早さに情けなくて泣きそうになったけれど、幼馴染は大笑いしたあと、誰にも言わないでいてくれた。
それから僕らはたまに、非常階段でプライベートな交尾をしたが、それらは人間的なセックスというよりむしろ、人間にまだなれていない未定なカタチをした人間に近いものによる交尾という意味が正しかった。要するに、僕も幼馴染も下手だったのだ。
僕らの関係は、春になったときに唐突に終わりを迎えた。それから季節が一回りしていくうちに、僕はインターネットで無料のポルノ動画を観ることを覚え、毎日猿のように自慰をした。だから、僕は、いつだって自分のペニスが痛くてしょうがなかった。
ようするに、十六歳の僕は、シコ猿だったのだ。冴えない自分の外見とジョックな同級生とを比べて惨めな気持ちになり、健康的な肉体を制服で誇張した少女を妄想の中で陵辱することでしか学校生活を乗り切ることしかできない、掃除用具入れの中で腐る牛乳の臭いがする汚い雑巾みたいなものだった。
その頃の僕の好みのアダルトビデオは、いわゆる援助交際モノだった。被写体の少女が本物であるかどうかは問題ではなかった。僕は日夜、自分のペニスとフラストレーションを鎮圧し続けた。
そんなある日のことだった。僕は、出会ってしまった。彼女に。
彼女は、遠山美枝子は、僕の高校の同級生だった。凛とした細く気品のある花のような雰囲気で、少し赤みのある長い髪をしていて、スカートの丈を短くするようなところのない少女だった。僕は、彼女のような子を見たことがなかった。そして、僕のように彼女に惹かれる男は、僕だけではなく大勢いた。つまるところ、彼女と僕とでは、天上人と虫ケラほどの違いがあり、僕は想像の中で彼女を陵辱し、屈んだときに除くであろう下着と素肌を垣間見るための努力をすることくらいしかやることがなかったのだ。
だけれど、ある日。それは梅雨の真ん中の日ことだった。僕はインターネットでその日のマスターベーションのネタにするためにポルノ動画を漁っていた。その中のひとつ、動画サイト内に表示されていた今でもそのタイトルは忘れない(『援交中学生 生中出し』、そう書いてあった)、何気なく押したそれで、僕はみつけた。彼女が、遠山美枝子が、中年男に中出しをされている裏モノの援交AVを。
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僕は二十一歳になった。僕は教員になれなかった。大学に進学することに失敗した僕はもうどうしようもなくて、生まれ育った団地を父に追い出されたあと、数百メートル先のトタンで出来たバラック街に転がりこみ、気づけば立派な『薬局』を開いていた。
もちろん、本物の薬局なわけではないし、薬剤師も常駐していない。僕が当時扱っていた薬は、草とエスの二種類で、僕はバラック街に拠点を置き、書類上では、街中の高層マンションに住むデイトレーダーということになっていた。寝泊まりは基本的にそこでしていたが、他人にはバラックのアジトに住んでいると言っていたし、アリバイも作っていた。
僕は薬売りだった。飛ばしの携帯、原付、預金口座。五十人の顧客を持ち、市内を売りさばく。連絡はネットよりも紹介が中心だった。
昼間は宅配が中心だった。昼間の客は大抵、シャブを欲していた。1パケでだいたい一万。5パケでひとつおまけをあげることもあった。客層は色々だった。曰く付きの土地に住む生活保護のジャンキーから普通のサラリーマン、キャバクラ嬢から銀行の頭取まで。パクられる可能性があって怖い相手に届けないといけないとき、僕は大抵運び屋を使った。失業中のおっさんによく運ばせたが、JRの駅の南口にうろついているホームレスを適当に選んで持って行かせることも多々あった。こうすると、客がパクられたときに顔を覚えられないで済むからだ。
自分で運ぶときは、僕は原付に乗って、チラシのポスティングの青年を装ったラフな格好をして(実際にカモフラージュとしてポスティングのアルバイトを派遣で受注することもあった)、郵便受けに入れる。そんな調子で僕は、簡単に現金を稼ぎ、無計画な貯金を繰り返していた。
夜にはクラブでこっそりと売りさばいていた。僕はクラシックを愛する者だが、クラブでかかるような音楽も嫌いではなかった。大抵のネタは草で、若い客が多かった。グラムで三千円ほど。チョコは六千円くらいで売っていた。マルボロのボックスに隠し、そっと渡していた。その頃の街では、いまだに反社が幅を利かせていて、睨まれないように場所選びは慎重にやっていた。目をつけられれば最後、恫喝からのみかじめが待っている。消えたやつは何人もいた。こういうのは嗅覚が大事だ。巻くのはガンジャとポリスだけじゃない、とはよく言ったものだ。こういう引用のようなことをサンプリングというらしい。何度か草を売った顔なじみの若い歌手が教えてくれた。幾つかの言葉は、かつて僕が聴いていた音楽の影響を受けたものだ。オマージュともいうかもしれない。もう何年も前のことだから言えるが、僕は今までに何度も彼の姿をテレビでみた。
薬局を開業した僕らはさしずめ、犬に狙われた狐だった。猟犬は狐を狩り、狐は兎を狩る。どうやって目を盗み、自分の狩りをするか。当時の僕の頭のなかはそれが中心だった。
ある冬の日のことだった。僕は顧客の風俗嬢のもとへ、コアラのマーチの空き箱にシャブを入れて、お薬の宅配をしていた。
僕と彼女(名前はレイナだった)は、セフレだった。相性がよかったのだ。170センチを少しすぎたくらいの身長のレイナは足がすらりとながくて、ガリガリに痩せていて、左腕が傷だらけでセックスのとき以外はいつも長袖を着ていて、薄茶色のショートカットが小さな顔を引き立てていた。レイナとするときはいつも、シャブを使った。だいたいいつも一日中セックスしているから、僕らはことを始める前にポトフや野菜スープを作って冷蔵庫に入れることから始めていた。
その日もセックスのあとに食べる料理を作り終わり、シャブをクリに刷り込んだ途端よがり涎を垂らし、獣のように尻を振るレイナの姿を想像しながら、半勃ちしつつ注射器の準備をしていたとき、レイナがふと、キメセクってデトックスじゃね?なんて言い出し、二人で笑いあったのを今でも覚えている。そのあと僕らは獣のようにイキ狂い、内出血で痛む身体を労わりながら、暖房をガン炊きにしたレイナの部屋で、二人で裸のままタオルケットにくるまって野菜スープを飲んでいた。
「アイスと葉っぱ以外は売らないの?」
僕はレイナの問いに黙って首を振った。レイナはたぶん僕よりもみっつかよっつ歳上で、中学を卒業して四国から出てきて北新地のクラブで働き、それからこの街の高級ソープで客を取っていると聞いたことがあった。もちろんこの話は眉唾だが、彼女は、イリーガルから合法、草からケミカル、果ては向精神薬に至るまで、色々な薬のことをよく知っていたことだけは確かだった。
「ふーん」
それっきりレイナは黙り、僕らは黙ってタバコの煙を天井に吐き出した。なんとなく僕は、潮時なのかな、と思った。こういう稼業は引き際が大事だ、直感に嘘はつかない、それが僕の信条だった。
レイナのマンションを出て、まぶしい夕陽に顔をしかめながら歩き出した僕は、行為後の特有の身体の重さにけだるくなりながら、ぼんやりと、僕が樋口一葉で初体験をした相手だった、ヤリマンの幼馴染のことを思い出していた。中学の卒業した後、家出をして、東京でデリ嬢をしているときいたけれど、今頃はイロになっているか、あるいは、東京湾に沈んでいるのかもしれない。一度本人から聞いたことがあるが、半グレ崩れの母親のヒモにレイプされたのが初体験だったというのは本当だったのか。あの町でそういうことがあっても驚かないが。
そうこうしてるうちに僕は死んだような顔で地下鉄に乗り、降り、巣穴であるバラック街に辿り着いた。ここは川の上の不法建築で、そんな場所だからインフラなんてなく、住人は僕のような狐ばかりというわけでもないから、そのめいめいがカネを出し合ったり、あるところからこっそりひっぱったりして生活していた場所だった。いつだってゴミの臭気がする汚い場所だった。ここは、この街に住む上澄み共が川に向かって垂れ流したクソが積もってできた場所だと、僕は思っていた。綺麗事の排出した邪なる部分をこれでもかというほど詰めこんだ場所だと、僕は思っていた。
僕の巣穴である小屋は、四帖風呂トイレ水道なしの、家賃二千円だった。マンションを一部屋持っているからここは単なる拠点で、もっと清潔な場所に移ってもよかったが、何かと都合のいい場所でもあったから身の危険を感じない限り引き払うつもりはなかった。
アジトの正面にある小屋は、生保の中年の男が住んでいた。その左隣はずっと空き家で、右隣は不法移民のロシア人やらフィリピン人やらブラジル人やらが入れ替わりで出入りしていた。僕の巣穴の左隣は気難しい顔をしたオモニで、右隣には大正生まれの爺さんが住んでいた。
固く汚い床の上に敷きっぱなしの寝袋に横になる。爺さんがわめく声が聞こえる。九十を優に超え、身寄りもなくこんな場所に住んでいる爺さんは、ボケていた。なにをして生きてきたのか知らない。その日も爺さんは、自身の所属していた重砲兵隊のことを繰り返し叫び、終いには軍歌を歌い出した。一度だけ爺さんが歌っている姿を見たことがある。震えながら敬礼し、鼻水を顎まで垂らしながら直立するその姿は、狂乱という言葉がぴったりハマった。
日の傾きかけた冬の貧民街に、ひび割れた歌声が響く。どの小屋も扉を閉じきり、知らぬふりだ。僕は爺さんの叫びを子守唄に、疲れた四肢を労わりながら目を閉じる。亡霊だ。これは、旧日本軍の亡霊なんだ。爺さんは、兵隊の亡霊にとりつかれているんだ。そんなことを考えながら、僕は意識を飛ばした。
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僕はマンションの自室の中で、テレビの大画面でアダルトビデオを観ていた。『ひと夏のアバンチュール34 みお15歳』、そんなタイトルの裏モノ児童ポルノで、何度マスをかいたか僕はもうわからない。みお、というのは、僕の高校の同級生である、遠山美枝子の芸名だ。
僕はいつも、彼女が挿入され、ピストン運動を始める際には必ずワーグナーを聴きながら自慰をすることにしていた。何百回と観てきた一連の流れの中で、どのタイミングで竿役の中年男が射精するか完璧にわかっていたから、僕は、彼女の膣壁の感触を想像しながら、男優と音楽の旋律とに合一化しながら果てた。
ティッシュに精液を吐き出しながら、僕は彼女がどんな気持ちでこのビデオに出演したか、それを考えていた。いつも思考は堂々巡りを繰り返し、結論は出なかった。いつか聞いてみたいと思う。画面の中で乱れる彼女の姿は今も僕の美の女神だ。当時付き合っていたらしいサッカー部のキャプテンは彼女の子宮に射精出来たのだろうか。今となっては知る由もないが。
ビデオが終わっても余韻に浸っていたら、携帯が鳴った。
「はい?」
「俺だ」
同業者である、薬局勤めの若い男だった。僕が付き合いのある数人のひとりだ。手堅い仕事をする、反社とも関わりあいのない、信用してもいい男だった。
話がある。そう言うと、彼は僕のマンションから歩いて十分くらいにある居酒屋を指定してきた。僕は了承して、一時間後を指定した。彼は、わかった、と言って、電話を切った。
僕はジャケットを羽織ると、巣穴に戻ることにした。あの汚いバラック街に住んでいると言った手前、服装もそれ相応にしないと勘ぐられてしまうからだ。だから着替えに戻らないといけない。こういう時に手間なんだよな、と、僕は日のすっかり沈みきった凍りつくほど寒い冬の街を歩き出しながらぼんやりと思った。もうすぐクリスマスで、どことなく浮ついた雰囲気があったが、僕はなにも思わなかった。
店に入り、煤けてよれたダウンジャケットを着た僕は彼に無言で手を挙げる。強面の彼は黙って頷いた。彼の名前はマルと言った。自称ドイツ人のハーフで、僕より二つほど歳上だと思う。色白で彫りが深く、二メートルほどのガタイのいいスキンヘッドのネオナチのような見た目の男だった。眼は青かったが、たぶんカラーコンタクトだろう。
マルは、おそらく薬局稼業は副業で、他に何かをやっていた。それがなんなのかはわからない。これだけ見た目が目立つ男だからか、人を使うことが多くてあまり表に出ることはなく、僕が彼と知り合ったのは、現物の卸の関係でだった。
「どうした?」
マルは答えず、大ジョッキのビールを一気飲みした。僕は店員を呼び止め、自分の分のビールと、マルの分も注文した。
僕らは向き合い、黙って煙草を吸っていた。
やがて二つのビールが届き、僕らは乾杯することも目を合わせることもなく飲み始める。周囲には仕事帰りのサラリーマンやOLが各々大きな声で愚痴を垂れ、黙々と酒を飲むのは僕らくらいなもので、店員も隣の席の客も、僕らのことなど気にもとめていなかった。
「あのな」
「ん」
「上がることにした」
そうか。僕はなんの感慨もなくマルをみた。マルも僕を見返した。
「トラブった?」
いや。マルは首を振った。
「いつまでも続けるようなことじゃあない」
それもそうだ。僕は黙って頷いた。マルのネタは葉っぱだったはずだ。一度聞いたことがあるが、マルは自分の商品をプライベートで使うことはほぼないと言っていた。僕自身、そこまで頻繁にネタを自分で使うことは無かったから、そこは一致していたと思う。
「で? なんで呼び出した? 」
マルは黙って、携帯を僕の手に握らせた。
「使うか使わないかは、お前の自由だ」
マルは僕の目をはっきり見て言った。僕もマルの目を見返した。マルは動かなかった。嘘をついているようには見えなかった。
「客か」
マルは頷き、周囲の様子を伺った。僕もつられて回りをみる。相変わらず、誰も僕らのことなんて、壁や衝立やメニューの張り紙程度にしか考えていないようだった。
「三十人。パシリのガキはもう全員切ってある。好きにしろ」
僕は考えた。罠かもしれない。マルがなにかトラブルを抱えていて、それで押し付けてきてるのかもしれない。お膳立てが良すぎる。獲物のウサギを前にして、僕は、猟犬の気配を探しだそうとしていた。
「心配なら裏を取ってみろ」
僕は曖昧に頷いて、なんとなく聞いてみたくなった。
「やめてどうすんの? 」
マルは黙ったまま僕の顔を見つめた。
「国に帰る」
なるほど。
「なあ、お前、疑問に思ったことはないか? 」
「なにを? 」
「なんでこんなことをしてるか」
「なんでだろうな」
楽だからかな。僕は少し黄ばみを帯びた壁に張られたおすすめメニューに息を吹きかける。
「リスクを背負う覚悟があれば、下手を打たなければ簡単に稼げる」
「うん」
「だけど、それが本当にやりたいことなのかときかれると、そうじゃない」
そうだろ、と、マルは僕に同意を促してくる。たしかにそうだ。僕だってやりたいことはあった。
「まあ、でも、これで飯食ってるわけだし」
「ジャンキーを生産して他人を食いものにする生き方に、義はあるのか? 」
僕はマルをみた。彫りが深い碧い眼の青年は、とても売人と思えない理知的な顔をしていた。
「ずっと、買うやつが馬鹿なんだ、そう思っていた。でもな」
マルは天井に向かって勢いよく煙を吐き出すと、そのままビールを飲み干した。
「これは義のない行いだ。そんなことは最初からわかっていた。もうこんなことは終わりだ。俺は嫌になった」
マルは店員を呼び止め、僕のビールもまとめて注文した。
「狂気と暴力の再生産だよ。この鎖には俺はもう関わりたくない。たしかに俺はプッシャーだった。それは消えない。だけど、その行いに対してこれからも俺は咎を背負うつもりだ」
僕は空になった自分のジョッキに、暖かい店内の中でついていく結露を眺めながら、それって貧困も含まれるのかな、と考えていた。
「お前にもあったんだろ」
「なにが」
「本当に自分がやりたかったこと、夢とか」
僕はなにも言えなかった。そっと指先で触れる、飲み干したジョッキについた結露は生ぬるかった。何かに見つめられている、そんな気がしていた。
それからしばらく僕は、マルがくれた携帯をマンションに置いたままにしていた。そのあと調べて、安全であるという裏は取れたが、なんとなく覗く気になれなかった。マルはトラブルなく足を洗った。今どうしているかは知らない。噂では、トルコ出身で、実家が大きな会社の御曹司で、留学生だったが稼業を継ぐために戻ったとか、そんなふうに言われていたが本当のことはわからない。ただ、どことなく彼に不良外国人にはないはずの品があったのも事実だ。あのよく冷え込んだ夜の勘定も知らぬ間に済まされていた。
僕とマルは同じ男からモノを買っていた。いわゆる、二次卸というやつだ。靴底やら石像の腕の部分やら肛門やら女性器やらで、船や飛行機でこっそり持ち込まれたシャブを取り寄せ、キロ単位で売りさばかれたモノを、数百グラム単位で僕らに売りさばくのがその男だった。マリファナの場合は、おそらく国内のどこかで栽培されたものを流していたと思う。事実、地元の先輩が隣の市の山の中で栽培した草を買ってさばくこともあった。
僕らは時に人を使ったり、あるいは直接、薬局として末端に送り届けていた。つまり、僕とマルはある意味の同僚のようなものだったのかもしれない。
彼がどうして僕にこの携帯を渡したのかはわからない。クリスマスプレゼントのつもりだったのかもしれないが、なんとなく、彼はせっかく広げた鉱脈を見ず知らずの相手に持って行かれるくらいなら、知り合いに渡したほうがいい、そう考えたのかもしれないのでは、と僕は今になって思うようになった。だとしたら、これはとんでもないクリスマスプレゼントだった。
僕は冬至の前の夜に、意を決して携帯を立ち上げ、客からの連絡を待つことにした。マルはすでに客には廃業することを伝えていたらしく、僕からコンタクトをとるときに用いる符丁まで用意していた。そのあとすぐに草を届けてくれという連絡が客からあった。量は大したことなかったが、急の連絡なので運び屋を呼び出すこともできず、僕は準備をして、待ち合わせの場所に向かった。それからなにが起こるか知っていたとしても、僕は同じように振る舞っただろうか。
そこは、繁華街の路地を二本ほど入った、人通りも歓声もないけれど、逃げようと思えば逃げ出せる、受け渡しの現場としては悪くない場所だった。待ち人は若い女だった。厚着をした冬場の遠目からもわかるほどほっそりとしているが胸も尻もしっかりと出ていて、それでいて身なりも悪くなく育ちの良さがあった。
黙って僕は女に近づく。美しい女だった。妙な違和感があったが、問題はなさそうだった。デジャブー、とでもいうのだろうか。僕は黙って、マルボロの空き箱を差し出す。
「振込先、変わったんで」
あ、はい。今にも折れそうな女の細い声を聴いた時、僕は気づいてしまった。心臓がシャブを使った時のように早鐘を打ち出し、記憶がフラッシュバックする。息が止まりそうになりながら、僕は女の方を見ずに早足でその場から去った。僕は、女のことを知っていた。名前を、遠山美枝子といった。
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逃げ込むようにアジトに戻り、震えと上がる息のまま、僕はダウンジャケットも脱がず寝袋に潜り込んだ。静かな夜のゲットーは、夜の冷たさに凍えていて、僕は自分の鼓膜で心臓の鼓動を嫌という程感じていた。
遠山美枝子が、僕の客になった。遠山美枝子が、僕から草を買った。そして、僕に気づいていない? 僕は慌てたように目を閉じた。網膜に、制服を着て級友と笑う彼女の姿が目に浮かぶ。夏服から透けた下着の色が目に浮かぶ。スカートから少しだけのぞく毛のない足が目に浮かぶ。束縛を解かれた胸の形が目に浮かぶ。淫猥な女性器の形が目に浮かぶ。ペニスを挿入されているときの顔が目に浮かぶ。
僕はネタをキメたわけでもないのに、もうすっかり興奮しきってしまって、そのままマスターベーションをした。疲れていても目は完全に冴えてしまっていたが、明け方が近づいてきた時に、眠りに落ちた。
夢をみた。僕は、高校生になっていた。彼女が級友と笑っている。僕はそれを、すえた臭いがする掃除用具入れの中で見つめていた。やがて彼女が服を脱ぎだす。僕は身じろぎせず、息をするのも忘れて覗いていた。やはり彼女は僕の美の女神だった。あのビデオと同じ、白い下着に手をかけ外そうとした時、僕がその隠された部分への期待に生唾を飲んだそのとき、彼女は掃除用具入れを、僕を、指差して嘲笑った。
そこで目が覚めた。叫んでしまうが、僕の声は隣の日本兵の亡霊の唱歌に掻き消される。呼吸を整え、水を飲み、僕は巣穴から這い出て、タバコに火をつけた。
朝日を眺めながら、ボケ老人の震える軍歌を聴く。ここは地獄だ。この臭く不衛生なバラック街に住むものは糞の上で腐りゆくのみの蛆虫に過ぎない。それくらい悲惨で、どうしようもないところだ。そしてそれが僕がここにいる理由だ。自分のルーツを忘れないようにするため。これが僕がこの場所に拠点を置いている訳のひとつだった。
爺さんは一体なんで毎日軍歌を歌い続けているのか。僕にはわからないが、やはり矜持のようなものに囚われているのだろうか。月に二度ほどある福祉の人の炊き出しの光景を眺めながら考える。昔日の亡霊。そんな言葉がふと胸をよぎった。
年が明けて数日が経った頃。遠山美枝子から連絡があった。注文された量は前回より増えていた。僕は少し考え、話がある、と連絡し、待ち合わせ場所を歓楽街近くのチェーン店のカフェに指定した。
次の日の夕方。遠山美枝子は黒いコートを着て、サングラスをしていた。髪はあの頃よりも赤く、強く巻かれていたが、やはり同級生だった頃のように、全体としては清楚なままだった。
「話って、あのぅ……」
僕は呼吸を落ち着け、屹立しそうになる股間とはちきれそうな心臓を抑え、気が遠くなりかけなりながら、緊張で耳が詰まったようになりつつ、ひとことだけこう告げた。
「……みお15歳」
薄い色素のグラスの向こう側で、彼女の目が見開かれるのがわかった。息を吸った音が聞こえた。僕は黙って立ち上がり伝票を持ち、千円札を重ねてレジに置き、振り返らずに歩き出した。
「ちょ、ちょっと……!」
彼女が何かを言おうとしていたが、僕は無視して二十メートルほど歩き、そのまま黙ってラブホテルの前で立ち止まった。
僕らは人二人分の距離をとって見つめあった。じんわりと背中に汗がにじむ。ほんの数秒のことだったろうが、それは僕にとって永遠の時間に感じられた。
「……はい」
返事を聞き、それから僕らは黙って部屋に入った。
あなたは何者なの。どこかであった気がするんだけど。そう問われたが僕は答えなかった。やがて彼女はひとつ深いため息をついたあと、シャワーを浴び出した。僕は気が変になりそうになりながら、こっそりと準備をした。
下着姿の彼女が顔を隠すようにして寝台に横になる。僕はその身体に女神の面影をいくつも見出し、その美しさに生唾を飲み込みながら後手のまま近づき、二の腕を掴んだ。
「やめっ……!」
抵抗する彼女を押さえつけ、針を腕に突き刺す。その瞬間彼女は叫び、失禁した。アンモニア臭が鼻をつく。僕は人生で一番興奮して、けれど頭のどこかで冷静に、僕はこのまま心臓麻痺で死ぬかもしれない、そう考えていた。
僕の目の前にいるのは、品の良い美しい同級生でも、援助交際で中年男に膣内射精をされていた女でもなく、ただただ涎を垂らし快感に狂うメスでしかなかった。ネタを自分の脈に打つ。一瞬で全身が冷たくなる。僕ははちきれそうになっている自分の股間をさらけ出し、よがる彼女にしゃぶらせた。先端に舌が這い、唾液まみれになる。僕は彼女の頭を鷲掴みにして喉奥を突く。髪の感触と頭蓋骨の形を手の中にはっきりかんじた瞬間、僕は獣に変わった。
それから僕らは動物のように交合った。意識が戻ったのはちょうど12時間が経った頃だった。上がった息のまま、汗と体液でドロドロになった遠山美枝子の身体を愛撫する。彼女は気絶したのか寝ているのか、いずれにせよ意識はなさそうだったが、僕の手の感触に、吐息を漏らして身をわずかによじらせた。
ついにやった。ついに。僕はタバコに火をつけた。やりとげたんだ。僕はそう呟いた。だけど、性器の開放感や射精後の感覚とは異なる、虚しさを感じていた。
本懐を遂げたというのに、美の女神と寝たというのに、僕は分からなくなっていた。本当にこれが僕のやりたかったことなんだろうか。黙って彼女の寝顔を眺める。それは凛として美しいものであったが、少女のような可憐さはもう探すほどにしかなく、僕は彼女が本当に彼女なのか少しだけわからなくなった。
不意に耳に、日本兵の爺さんの震えた軍歌が響く。そのとき僕は気づいてしまい、背筋が冷たくなった。僕は今まで一度も、彼女と、同級生の遠山美枝子と、会話をしたことなどなかったのだ。遠山美枝子の裸体に、今はもう、どこにもかつての彼女の面影はなかった。それは、若く美しい大人の女の身体だった。
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遠山美枝子と寝て、それからしばらく経たないうちに、僕はアジトを引き払い、売人をやめた。口座の金を移し替え、髪型も変え、マンションに引きこもりながら大学受験の勉強をした。元々国立大学にいこうとしていたので基礎は出来ていたこともあり、季節が一回りしてから、僕は逃げるように東京の私立大学の文学部へ入学することになった。
マンションを引き払って東京に出て、僕は、プッシャー時代にかじっていたDJをやったり、本を読んだり、他の学生と酒を飲んだり、旅行にいったり、まともな恋をしてみたり、単位を取ろうと必死になったり、普通の大学生のような生活を送った。その間一度も薬に手を出さなかった。
普通に就活をして、仕事にも慣れてきて、後輩もできて、そうこうしているうちに、最近は結婚を考えている。
自分でも驚くほどの変化だった。かつての自分の人生の中でこれほど穏やかな日々が続くこと。そして、いつかそれを失ってしまうのではないのか、そういう不安はある。
かつてのイリーガルな生活のことは誰にも口にしたことはないし、今ではそれが、ある種の幻影だったのではないかと疑いさえする。けれど、あの溺れ沈むような貧民街からようやく『普通』に辿り着いたということ。それに日々思いを噛みしめているのもまた事実だった。
だが、同時に僕は思うのだ。その『普通』には、踏み台にした誰かの血濡れた背中があるということを。そして、人生のどんな瞬間にも、あの日、美の女神を陵辱したこと以上に血が沸騰して興奮する、そんなことは訪れないだろうと。あの時に戻ったならば同じように振る舞うだろうと。もしそれが出来るのであれば、全てを放棄してでもそれをやりたいと。
亡霊は、決してその怨念の鎖を生者に断ち切らせたりはしない。それは在りし日の強烈な欲望が作り出した幻影であり、決して満たせない渇望によって作り出され、外れないように強固に首から鎖で繋がれているのだ。僕らは奴隷だ。亡霊に追い立てられる奴隷なのだ。そうやって生きて、そうやって死ぬ。
これからも僕の網膜はあの日の彼女の淫靡な姿を探し続け、僕の鼓膜には日本兵の亡霊の歌声が響きくだろう。かつての小汚い高校生の自分が本当に望んだことをも踏みにじった罰を。行いに対する咎を背負うことなく平穏に生きている罰を。欲しても手に入らなかったものを手にしようと欲した罰を。それを償う、その日まで。昔日の亡霊は鎖を離さない。
taw 読者 | 2016-07-23 16:38
鬱屈とした閉塞感の中で、解けない鎖に繋がれて、それでも人生は続く。
彼らの行く先が少しでも生きやすいものでありますように。
読んでいると夜の薄暗い情景が浮かんでくる。文章の雰囲気がとても好きです。
猫宮まひろ 投稿者 | 2016-07-23 20:16
コメントありがとうございます。
彼ら彼女だけではなく、私たちもまた鎖に繋がれて、でも、いつかはその鎖を断ち切って生きていきたいものです。