不安

悦也

小説

3,845文字

何処に向かっているのか、何故前に進むのかもわからないままただ橋の上を歩き続ける人々の群れ。それはいつしか一つの大きな流れとなり、徐々に速度を上げ、抗う個人の意思さえも呑み込んで行く……

橋の上を歩いていた。

理由はわからない。

ただ、気がついた時にはすでに私は橋の上に居て、前だけを見て歩き続けていた。

それは木造の、今にも朽ち果ててしまいそうな古い橋だった。足を踏み出す度に、足元の板は鈍く軋み、ささくれた表面が重みで撓むのがわかる。少しでも立ち止まれば崩れ落ちるような気がし、その恐怖に促されるように、私はただ、前へ、前へと足を進めた。

周囲には多くの人が居り、その誰もが私と同じように前へと向かって歩いていた。橋を埋め尽くす程の人が、群れを成すように続いている。辺りには彼らの不揃いな靴音が低く唸り、板の軋みと合わさって不気味な響きを奏でていた。

歩みを続ける人の群れに目を向けると、そこには知った顔もあれば、知らぬ顔もあった。皆一様に何処か疲れた顔をしていた。

歩く人々の表情は様々だった。

疲れに呑まれ、俯き一人黙々と歩き続ける者も居れば、力の無い笑みを浮かべ、周囲を歩く人に声を掛ける者も居た。

その中には、私の家族の姿もあった。父は、私の少し後ろで母の手を引いて歩いていた。

二人は私の視線に気付くと、微かに微笑んで見せた。兄の姿は見えなかった。姉は、父と母のすぐ傍で一人歩いている。私も、家族と今の距離を維持するように務め、何も考えず、ただ黙々と歩き続けた。

 

暫くの間、私はそれまでと同じペースで歩き続けていた。

しかし、気付けば、私と父らの距離は少しずつだが確実に離れはじめていた。知らぬ間に私の歩くペースが上がったのか、家族の歩みが遅れたのかはわからない。

慌てて歩調を落とそうとしたが、ここまで周囲の流れに呑まれてしまっては上手くいかない。募る焦りに、自分の呼吸が乱れ始めるのを感じた。

後ろを気にしてもたつき始めた私に、突然、背後の男が「早く歩け」と怒鳴った。

咄嗟に家族が後ろに居るのだと訴えたが、男は私の言葉を完全に無視し、表情に苛立ちを滲ませながら私を睨んだ。私は男の視線に少し狼狽しながらも、もう一度、同じように訴えた。だが、一向に男がそれを聞き入れる様子は無かった。

私の訴えを男は鼻で笑うと、「いいから先へ進め」と今度は命令するような口調で言った。

私は助けを求めるように辺りに目をやった。だが、周囲の人々は誰一人として私を救おうとはしなかった。私の周りには、人々の虚ろに濁った目があった。それらの目はどれもが流れを乱す私を明確に嫌悪していた。誰一人、私の事情を察する者など居なかった。彼らが私に向けたそれは、罪人を見るような、軽蔑するような目だった。

周囲の様子が突然変わってしまった事に私はただ驚き、唖然とした。知った者の顔を何人か見つけたが、彼らは私と目が合うと逃げるように先へと行ってしまった。

男はいつまで経っても歩調を速めようとしない私の背中を平手で何度も小突くようにして圧しはじめた。それは、酷く硬い、攻撃的な感触だった。男に急かされ、私は無理やりに足を前へと進めた。首だけ捻って背後を見ると、家族の姿はすでに見えなくなっていた。

「前だけを見ろ」

そう男は言い、また私の背を小突いた。

男の前へ進もうとする勢いは、どこか異常で、狂っているように思えた。私が後ろを気にする度に、男は私を恫喝し、先へ、先へと促した。

と、前を歩く者の流れの中から遅れ、こちらに迫る小さな背中が見えた。

薄汚れたシャツから覗く腕は、枯れた枝のように細く、浮き上がった血管が乾いた蔦のように浮き上がっていた。弛み、皺が無数に刻まれた皮膚から、それが老人なのだと言うことがわかった。

老人はもう体力が残っていないのか、ふらふらとした足取りで、前進しているというよりは、後退しているという感じだった。

私はぶつからないように肩をずらし、老人を避けた。

直後、すぐ背後で私の背を推していた男の肩に、老人がぶつかった。男は避ける素振りすら見せなかった。

老人は男の肩に圧されると、糸が切れたように音も無く顔から倒れた。倒れた瞬間、消え入るような微かな呻きを老人が漏らすのを私は聞いた。

だがそれを見た男は、手を差し伸べるどころか荒く舌打ちをし、すぐ傍で倒れた老人の手を踏みつけながら「早く前へ」と私に言った。

私は老人の姿を自分の肩越しに見つめた。立ち止まり、手をさし伸べるべきだろうと思ったが、すぐにまた男が私の背を小突き、前へ前へと怒鳴った。

老人は、震える手で立ち上がろうとしていたが、次々と来る人の群れに踏みつけられ、その度に頬をささくれ傷んだ木板に擦りつけていた。

結局、私は老人に手を差し伸べることが出来ないまま男と周囲の人波に圧され、その場を後にした。

 

「貴方は何故そんなに急いで前へ行こうとするのです」

家族を置き去りにし、老人を見捨てた罪悪感からか、私は幾分強い口調で男に問いかけた。

男は私の背を尚も小突きながら「そうしなきゃ駄目だからに決まっているだろう」と、私を馬鹿にするような口振りで言った。

私は、「すこしくらいのんびりしたところで駄目にはならないだろう、第一何が駄目になるんだ」と反論し「少し前までは誰もこんな速さで歩いてはいなかったじゃないか」と続けた。

男は気分を害したように目を見開き、「少し前までとは違うんだ。変わったんだよ。いいから黙って歩け、じきにわかる」と言った。

男の言葉を聞き、私は振り返り、立ち止まった。

足元の板が、耐えるような軋みを上げ、酷く撓むのを感じた。

男は突然立ち止まった私に勢いよくぶつかると、迷惑そうに舌打ちをした。

「そんな馬鹿なことをやっていると、本当に駄目になるぞ。流れは変わるんだ、その時の流れに乗らなければ駄目になるって事が何故わからない」

男はそう酷い剣幕でこちらを叱るように言うと、私を避けて前へ進もうとした。すれ違う瞬間、私は過ぎる男の腕を掴み、強く握った。

「何してるんだよッ、お前」

男は抗うように腕を振りながら私を睨みつけ、威嚇した。

「離せ、俺はお前みたいな馬鹿な奴に関わっている時間なんてないんだ。前に進まなきゃいけないんだよ」

激昂しながら言った男の手を、私は決して離さなかった。立ち止まった私と男の周りの流れが、そこだけ塞き止められるようにして乱れた。

周囲の人々はあからさまに迷惑だというような視線をこちらによこすと、私たちに肩をぶつけ、そのまま通り過ぎて行った。過ぎて行く人々の勢いは凄まじく、肩がぶつかる度に私は強く踏ん張る必要があった。足に伝わる板の軋みが、歯を食いしばるような硬質な響きに変わる。

「弱った老人を踏みつけてでもですか?」

私はそれでも勤めて冷静な声で男に聞いた。

「いいから離せよ」

男は私の問いに答えようともせずに喚き続けていた。何かが割れ、私と男の体が微かに沈むのがわかった。男は足元に目をやると、さっきまでの勢いが嘘のように唇を震わせ、意味のわからないことを捲くし立て始めた。

「家族を見捨ててもですか?」

それを無視し、私はさらに問いかけた。男を睨みつける。見ると、男の震えは唇から全身に広がり、その顔は徐々に蒼褪めはじめていた。

「離せって言っているだろうが、おい、頼むよ、離せ、頼む、離してくれ」

足元で、何かが折れる音が響いた。

それでも私が離さないでいると、ついに男は泣き始めた。

「貴方はそんなに急いで、何処に行こうとしているんです?」

私はそんな男の様子を無視して、更に聞いた。

「そんなの知るかっ! 皆が進むから行くだけだ、進む流れが速くなればそれに合わすだけだッ。そうしなきゃ駄目なんだ、駄目なんだよ! それにな、お前だって老人を避けたじゃないか。支えようともせずに、避けたじゃないか。そうやって立ち止まる事も出来たのに、家族がなんて言いながら結局は俺に急かされるままに進んだじゃないか。お前もわかっているんだろう、そうしなきゃ駄目だってわかっているから前へ進んだんだろう。本当はお前だって駄目になるのが怖いんだろうが」

男は顔中を涎と鼻水で滅茶苦茶に濡らし、口を一杯に広げて絶叫した。男のその絶叫は、鋭利な刃物で刺すように、的確に私を貫いた。冷静さを装う私を打ちのめすのには、それで十分だった。

男が叫んだその瞬間、私と男の力関係は完全に逆転した。男の手を掴んでいた自分の腕から、力が徐々に抜けていくのがわかった。

男は顔を拭うおうともせずに私の手から腕を抜くと、一度だけこちらをきつく睨み、無言で人の群れを必死に掻き分けるようにして、再び流れに加わっていった。

遠ざかる男の背中を眺めながら、私は暫くその場に立ち尽くしていた。

男の背中に、返すべき言葉が私には何一つ浮かばなかった。そんなものは、最初から存在しなかったように思えた。私が男に言った言葉は、どれもただの奇麗事でしかないように思えた。

撓んだ板の軋みが、限界を示すように、何かを堪えるように響き続けていた。

言いようの無い感情が胸の中で醜くうねる中、「駄目になる」という言葉がふいに頭に浮かんだ。

その言葉は、呪詛のように思考にへばりつき、ゆっくりと私を締め上げた。自分の額に汗が滲むのがわかった。強く、焦り始めているのがわかった。

人の流れは更に速くなっていく。

私は周囲の人間に肩をぶつけられながら、気が付けばまた流れに加わっていた。

流れに乗り、前に進んでいるのならば、全てがもうどうでもいいような気がした。

2011年4月29日公開

© 2011 悦也

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