2個のぶよぶよとしたかたまり

吉井アナン

小説

10,112文字

喫茶店の仕事帰り、プラハの旧市街広場のほうへ向かっていると横断歩道の前で2個のぶよぶよとしたかたまりと出会った。私はそれを拾って店に持ち帰り、倉庫のダンボール箱の中にしまった。すると翌日から喫茶店には多くの客が詰めかけ、店はかつてない盛況ぶりに満ちた。と、ある日、おかしな客がやって来て店の雰囲気は乱れてしまう。私は店と客たちをその客から守るため、2個のかたまりの力を信じて応対に努める。

プラハの街で、私が喫茶店の支店長になって早三年が経つ。上層部の古い頭によると、女に店を任すのはそうあることではないらしく、言わば私は特別に見られていた。

その期待に応えようと、私は毎日、朝から夜遅くまで働いた。より多くの客と接し、それなりにていねいな応対に努めてきた。

でも当初は、伸びない売り上げに悩んだり、すぐに辞めていくアルバイトに困ったりと、四苦八苦の連続だった。何をやってもうまく行かず、でも何もしなければ打開できず、そして悪い結果ばかりを招いていた。

それがある日を境に一変した。私は拘束感から解放され、憂鬱な気持ちとは無縁となった。そして逆に、一つの空間に長くいられることに喜びを抱くまでになった。

いったいどうしたことだろう、とこの心境の変化に私自身が驚いていた。

でもよく考えてみると、当時の負の連鎖を断ち切ってくれたのは、一年半前に起きた「あのできごと」だったのではないかと思えてくる。

今、振り返ってみても確かにあれは不思議なことだった。

 

 

その夜、私は喫茶店の戸締まりを終え、店を出た足で旧市街広場のほうへ向かっていた。

ツェレトゥナー通りの交差点に差しかかり、横断歩道の前で信号が青に変わるのを待っていたときだった。

ふと見た足もとに、2個のぶよぶよとしたかたまりが落ちていた。

それは2個とも無色透明で、どちらも独立した単体だった。手に取らなくとも、見た目からして締まりのないふっくらしたものだと判断でき、クラゲでもなく、水が入ったビニール袋でもないものだった。

もう少し具体的に言うと、その2個はテトラポッドみたいな形状をした、てのひらサイズのかたまりだった。

あたりに人はいなく、誰かが置いていったものなのかわからない。空から急に降ってきた感じはなく、仕事の疲れから生じる私の幻覚でもなかった。

それはどこからかやってきて私の足もとに転がった、と捉えるのが自然だった。外灯の明かりはその2個の表面を鈍く濡らし、少し身を震わせているように見えた。

何これ?

私が不思議に思うのは当然だ。そしてその1個を抵抗なくつかんでみた。やっぱりぶよぶよしていて、でも粘着性はなかった。

信号が青に変わった。私の横を一人の女性が追い越して行った。彼女は2個のかたまりに気づいていない様子。私は2個のかたまりを見たまま、その場を動かなかった。

信号がまた赤に変わろうとする頃、私はもう1個のかたまりも手に取った。ぶよぶよとした感触は両手からからだに伝わった。

奇妙なことに違和感はなく、1個を両手で持つよりも、両手に2個同時につかんでいるほうが心に落ち着きが宿った。

私はその2個のぶよぶよとしたかたまりを持って喫茶店に戻った。そしてその2個を店内の倉庫に運び、ビニールシートに包んでダンボール箱の中に入れ、さらに発砲スチロールで箱内のスペースを埋め、ゴミだと思って捨てられないよう、棚の一番上に置いた。

するとどうしてかな。目から涙が出てきた。止まらず、胸は打ち震え、困惑した。でも、明日から素敵な日々を送ることができる。なぜかそう思える自分がいた。

 

翌日、喫茶店には多くの客が訪れてくれた。昨日とは比べものにならないほどの数だった。

驚きと喜びと活気で、店内は朝から晩まで絶えずにぎわい、忙殺の渦の中にきらびやかな汗が飛び散って爽快な一日が流れた。

その勢いに乗って、アルバイトの従業員はいつになく仕事をそつなくこなし、誰もが客に親切な応対を心がけ、みんな感謝の気持ちを胸に笑顔を見せていた。

その日から店内はアクティブな雰囲気に満ち、その月の売り上げは過去最高を記録した。

それ以後は、他店舗の営業所と比べて売り上げで一度も負けなくなり、店に来る客は増え続け、何人もの常連客を確保した。

そうした私の活躍ぶりが親会社の社長の耳に入ると、私は特別に報奨金と賞状をもらい、昇進者のリストに加えられた。

すべては2個のぶよぶよとしたかたまりのおかげだった。その2個と出会ってから、私の人生は大きく変わったのだから。

とにかく、2個のぶよぶよとしたかたまりはあらゆることに貢献してくれた。一つ代表的な例を取り上げると、その2個のかたまりは、店内に客が少なく停滞しているとき、数人の人間に姿を変えてくれることだった。

それらは客席に座り、あたかも客人かのように振る舞い、ちゃんと金を払って店を出て行くのだった。

そのため、一般の人たちは絶えず繁盛している店だと思い、次々に入店してくれる。

一度、おもしろいできごとがあった。私が清掃道具を取りに店内の倉庫を開けようとしたときだ。ふいにそのドアが内側から開き、一人の男の子が出てきた。

鼻の頭にイボのようなほくろをつけた、一〇歳くらいの男の子だった。がっしりした肩幅をしていて、農耕で生計を立てているような貫禄を持っていた。

私に会釈したその男の子は、倉庫内を振り返って何やら短く言葉を発した。

それが合図なのか、次の刹那に倉庫から次々と人が出てきた。

私はびっくりして声もだせなかった。

倉庫から出てきた彼らは、みんな成人した男女の姿をしていて、それぞれ手にコーヒーカップを持っていた。そして彼らは、空いている席に座ると気ままにおしゃべりを始めた。

その奇異な光景を見ていると、彼らがふと一斉に立ち上がった。何をするのだろう、と目が好奇な眼差しに変わるや、案の定、彼らのやりだしたことに私は歓喜した。

彼らは、コーヒーカップを片手に店内で踊りだしたのだ。

喫茶店は一瞬にして陽気な舞踏会場と化し、隅々まで気持ちのよい水がたわむれるかのような空間を作り上げた。

これには一般のお客さんも嬉々と驚きに表情が明るくなり、その感興から手拍子と指笛が鳴り止まなかった。

と、横に立っている男の子が私の服の袖を引っ張った。彼に連れられて私は倉庫に入り、棚の一番上に置いてある段ボール箱に近づいた。

段ボール箱を床に下ろしたときだ。その箱の中から、一人の小さな女の子が飛びだしてきた。両手を横に大きく広げ、満面の笑みで私を見た。まるで『ライフ・イズ・ビューティフル』のジョズエみたいな登場のしかただった。

ボンジョールノ、プリンシペサ!

男の子よりも背の低い、笑顔のきれいな女の子だった。私の後ろにいる男の子とちがい、なで肩で、顔にほくろ一つないきれいな顔立ちをしていた。手先は器用そうで、その手には紙幣を何枚か持っていた。

私はその女の子から紙幣を受け取った。数えてみると、今、店内で踊っている彼らが注文したコーヒーの代金に相当した。

私はその代金の一部から、男の子と女の子の二人に新しい住まいとして木製の箱を買った。その二人は、2個のぶよぶよとしたかたまりがかたちを変えた姿だと思ったからだ。

案の定、そうだった。

そして残りの代金は売り上げとして納め、翌月、私の給料は上がった。

その後も、2個のぶよぶよとしたかたまりはたびたび私の前に現れ、喜びを与えてくれた。男の子と女の子の姿として現れたのは一回きりだったが、姿がなくとも私が誠実にしていることでよい結果をもたらしてくれた。

逆に、そのかたまりに苦しめられたこともあった。客の入りが絶えず止まらないことで、休む暇も食事を取る時間も難しくなったことだ。

そのため、当然のごとく疲労は溜まり、体調を崩しやすくなった。礼儀知らずの、扱いに困る客の応対が増えたことも苦痛につながった。

でも、そういった苦難もおのずと解消されるのだった。やがて私の店は軌道に乗ることができ、絶えず繁盛してくれた。

そう、2個のぶよぶよとしたかたまりがいてくれる限り、私の喫茶店で起こることはすべてうまくいくのだった。

 

今日の午後にもちょっとしたことが起こった。今日は朝から天気がいいこともあって、開店そうそう多くの客が訪れ、正午まで客席はずっとほぼ満席の状態だった。

幸運なことに、今日一緒に入っているアルバイト従業員たちはみんな仕事ができ、ある程度の経験を持っていた。そのため店の回転はスムーズに滞ることなく、客からのクレームもなければ、商品を買わずに帰っていく客もいなかった。

昼前まで休みなく私は働き、正午から少しのあいだ店の控え室で休憩を取った。私は椅子に座ってホットのカフェ・モカを飲み、午後からの出勤表に目を通していた。

すると、ドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

そう言って返事をするやいなや、ドアが開いて声が入ってきた。

「ねえ、モカ」

私をそう呼んで入ってきたのは、ウェイトレスのシェイクだった。私たちはお互いをニックネームで呼び合っていた。

「どうしたの?」

私がカフェ・モカをテーブルに置くのと、シェイクが言葉を発したのは同じタイミングだった。

「ちょっとお店のほうに出てくれない? やっかいな客が来てるの」

シェイクはそう言って控え室の外をあごで示した。

「やっかいな客って、今日はどんなの?」、私は胸の前で腕を組み、膝で足を組んだ。

「なんかね、変な男性客よ」

「どう変なの?」

「アロハシャツを着てるのよ。この真冬に」

「それはちょっと変ね」、私は腕組みをほどいた。「ズボンは黄色とか、緑一色とか。そういうのでしょ」

「ピンクよ」

「オーケー。その男は私が応対するわ」

「ごめんね、休憩してるときに」

「いいのよ。変な客には慣れてるから」

「でも今日のはかなりめんどうかもしれないよ」

私は膝で組んでいた足もほどき、とにかくシェイクに微笑を返しておいた。

控え室から出て、問題となっている客の前に出向いてみた。あの男よ、と私の横でシェイクがすばやく指を差した。

その指が示す先を見て、なるほど、と私は思った。確かにめんどうくさそうなにおいがする。

その男は二人掛け用のテーブル席のソファー側に座っていて、真冬の最中、トロピカルなアロハシャツに、ショッキング・ピンク色のジーンズという格好をしていた。素足にはサンダルを履いていた。

若者であれば様になるかもしれない。でもその男は明らかに五〇を過ぎた中年に見えた。

白髪交じりの髪を七対三に分け、無精ひげを鼻の下とあごに散らしている。格好の派手さとは真反対に、ルックスとスタイルは貧相で、肌は灰色に近く、染みとほくろが無数浮いていた。

「だからさっきから言ってるだろ!」

その男性客はさっきから怒っているようだった。私は彼の傍まで行き、笑顔を繕って優しく声をかけた。

「どうされましたか? 何かお気に召さないことでもおありでしょうか?」

男は答えず、細くて視野の狭そうな目で私を見た。私が続けて何か言おうとすると、男は貧乏揺すりを始め、テーブルに載っているアイスコーヒーのグラスを振動させた。

そのグラスの横に置かれているサングラスにも揺れが伝わった。その二つはどちらも色が黒く、天井の明かりを反射していた。

「気に召すも何も、さっきから俺は言ってるだろ!」、男は片手を頭の上に振り上げた。

私の背後でシェイクが小さくため息をつき、さっきからこんな調子なのよ、とぼやいた。

私は笑顔をまた作り、少し身を屈めて両膝に手をあてた。小さな子を相手にするかのように見ると、男は振り上げた手で真後ろの壁を叩き、怒っていることを見せつけてきた。

「お客様、どうされたのです? 周りにほかのお客様もおられることですし、大声や、そのような荒っぽいことはお控えになってはいただけないでしょうか」、私はしとやかな口調と苦笑いを介して言った。真剣なまなざしをしてはっきり言葉を述べると、こういう客は逆上するに決まっている。

「俺は怒り浸透なんだ! もう本当に怒ってばかりいるんだ!」

私は配慮したつもりだったが、男を逆上させてしまった。

「俺はただ知りたいだけなんだ!」

「何をお知りになりたいのです?」

「だからさっきから言ってるだろ!」

「はあ」、私はその場にひざまずき、男を見上げた。「申し訳ございません。私は今、初めてここまで参りましたので、お客様のおっしゃっていることをまだ把握しておりません。差し支えない程度でけっこうですので、どのようなことがあったのかをお話していただくことはできないでしょうか?」

少々バカていねいすぎたかもしれない。

「これだよ!」

だけどこの男に限っては、少しばかり大げさなくらいが効果的なようだった。男は壁を叩いていた手でテーブルのアイスコーヒーを指差した。

「そちらの商品に何か問題がおありなのでしょうか? よろしければお取り替えさせていただきますが」

「そうじゃない! そうじゃないんだ!」、男は激しく首を横に振った。「だからちがうと言ってるだろ!」

私の後ろでシェイクがまたぼやいた。私は振り返って、シェイクに仕事に戻るよう指示した。

「でも、モカ。あなた一人じゃ……」

「いいの。大丈夫よ」

本当に大丈夫だから、と私は心の中で言って男に向きなおった。

「お客様。ちがうと言われましても、私にはどういった問題をお客様が抱えてらっしゃるのかわからないのです」

すると男は、何かうめくような声を上げながらアイスコーヒーのグラスを手に取った。それから反対の手で、テーブルの表面を思いきり叩いた。

男の近くに座っていた客がびっくりしてこっちを見てきた。シェイクのため息が背中で聞こえた。

「モカ。ほかのお客さんが帰っちゃうよ」

「大丈夫」、私は振り返ってシェイクにそう言い返した。「大丈夫。本当に私に任せておいて。私はここの店長よ。何かあったら責任はすべて取るわ。あなたは自分の仕事に戻って。いい?」

そう言い、最後に目で念を押すと、シェイクは渋々レジのほうへ去って行った。

「だから俺が言ってることを聞けと言ってるんだ!」

私はまた男を見た。そして、大丈夫、と心の中でまたつぶやいた。大丈夫。うまく解決できる。周りのお客も帰らない。

「お客様。どのようなことでお困りなのでしょうか?」、私は床に正座をした。「話してはいただけませんか?」

「だから言ってるだろ!」

いいえ、何も言ってないわ。あなたはただ怒鳴っているだけ。

「いいか、俺はさっきから言ってるんだ。だけど俺が言ってることに誰もまともに答えようとしない。だから怒ってるんだ!」

ふいに目の前の男が新聞紙の燃えかすみたいに見え、私は笑いそうになった。でもなんとかこらえ、誠実な表情を作って応対に心がけた。

「おい、聞いてるのか! わかってるのか!」

「はあ、そうおっしゃられましても……」

「空を見てみろ!」、男は天井を指差した。「見ろ! 今日の空を。とても灰色をしている。雨模様だ。それなのにこのコーヒーはなんなんだ!」

男が言っていることはさっぱり理解できなかった。男が指差しているのは空ではなくて天井だし、だいいち、窓から見える空は快晴で、雨が降る様子はまったく見受けられない。

「もう我慢の限界だ!」

男はアイスコーヒーを床に叩き落した。当然、グラスは割れ、破片と氷とアイスコーヒーの液体はあたりに飛び散った。

「俺は帰る!」

男は立ち上がり、出入り口のほうに歩いて行った。私は正座したままその場を動かず、床の残骸を黙って見た。何滴かのアイスコーヒーがズボンに付着したが、ズボンの色が黒いので目立ちはしなかった。

立って出入り口のほうを見ると、男はそのドアに手をかけようとしていた。瞬間、確実に大丈夫だと思った。なぜって、男の背中をぶよぶよとした2個のかたまりがさっと横切ったのを見たからだ。

男は店から出て行った。

しばらくして店内はまたにぎやかな雰囲気をとり戻した。さっきまでは何か騒然としていて、グラスが割れたときは静まり返っていた。中には男の言動を恐れる客たちもいたし、その男が店内にいることで帰ろうとした客もいた。

私はグラスの破片を拾ったり、ほうきで掃いたりして、濡れた床は雑巾で拭いた。

一通り片づいたあと、おばさんの客が私に話しかけてきた。さっきの男がなぜ怒っていたのか、その理由を教えてくれたのだ。

あの男は、ブラックのコーヒーにミルクを入れたら灰色になるはずだ、とそう言っていたそうだ。

実際にはそうならない。ブラックのコーヒーにミルクを入れたら茶色に変わる。

男はその色の変化に納得ができなくて怒っていた。なんとも不可解な理由だった。

「あのおじさんは、ブラックのコーヒーが完全な黒じゃないってことを知らないんだね」、おばさんは顔をしかめながらそう言い、ブラックのアイスコーヒーにミルクを注いだ。

するとそのコーヒーは、みるみる茶色に変わっていった。

そう。ブラックのコーヒーって、ゴキブリの色に似てるのよね。

とにかく、妙な男が帰ったあとも引っきりなしに客は入店してくれた。閉店五分前まで客席はすべて埋まっていて、レジの前にはテイクアウトを希望する客の列ができていた。平日だというのにすごい盛況ぶりだった。

閉店後、私はアルバイトの子たちと一緒にあと片づけを行い、片づけが済むとみんなを先に帰らせた。私は一人店内の控え室に残って書類に目を通し、来月のシフトを考え、明日の開店準備を任す従業員に書き置きを残した。

すべての事務作業を終えると、私は水を汲んだバケツと雑巾を持って倉庫に入った。木枠の箱を棚から下ろし、その中からぶよぶよとした2個のかたまりを取りだした。

思ったとおり、どちらも表面が少し黒くすすけていた。私はバケツの水に雑巾を浸け、しっかりと絞り、そのかたまりについた黒い汚れを落とした。

この2個のぶよぶよとしたかたまりが、コーヒーが持つ黒い色素を少しずつ吸収してくれているのだった。

この店だけではなく、おそらく地球上のあちこちにぶよぶよとした無色透明のかたまりはあるのだと思う。それらが黒い色素や悪い心を少しずつ吸収し、世界を平和に保ってくれているのだと思う。

その象徴となるものが、ブラックのコーヒーだ。

だからどこへ行っても世界中のコーヒーは、ミルクを注いだら色が茶色に変わる。

決して灰色にはならない。私はそう思って毎日、2個のぶよぶよとしたかたまりを磨いている。

 

 

 

後日、閉店の直前にアロハシャツの男が入ってきた。先日の件を知っていたアルバイトの子たちは嫌な顔を見せたが、私は平然としていた。半ば、その男の再登場を歓迎する気持ちだった。

男はレジでアイスコーヒーを頼み、受け取ると、前回と同じ二人掛けのテーブルに向かった。

男はアイスコーヒーを載せたプレートを右手に、反対の手には大きな紙袋を提げていた。男はテーブルにプレートを置いてソファー側に座ると、フォンディメント台を布巾で拭いている私を呼んだ。

私は男の真向かいの席に座った。背後で店員たちがざわついているのを感じた。

「先日はどうも失礼いたしました」、いきなり男は頭を下げてきた。「僕はどうかしていました。とんでもなく無礼なことをして、申し訳ない気持ちでいっぱいであります」

男は突如として礼儀正しくなっていた。心からそう言っていた。口調と表情には反省の色がにじみ出ていた。そこまできちんとするのであれば、服装も正してくればいいのにと私は思った。

「ちょっと日焼けされました?」、私は明るい声で訊ねた。

「え? ええ、まあ、ちょっと」、男は顔を上げ、後頭部に手をあてた。「わかりますか?」

「ええ。肌の色が少し茶色いなと思ったんです。真冬に日焼けということは、スキーにでも行かれたのですか?」

「まあ、いろいろとありまして」、男は日焼けについて言いたくない感じだった。

「この前の件は解決されたのですか?」、続いて私は質問した。

すると男は、言いにくそうな表情を見せた。「ええ」と発した声は乾いていて、やはりそれ以上は何も説明したくない様子だった。

「そうですか。それはよかったですね」

男は重々しくうなずき、腰の脇に置いてある紙袋を手に私をじっと見た。

「お詫びの印です。どうか受け取ってください」

「とんでもない」、私は少しのけぞり、男に両のてのひらを見せた。驚く振りをしたのだった。

「いいえ。とんでもないことを僕はしたのです。ですから、どうかもらってください」

その紙袋には、いくつかの果物が入っているのが見えた。

「たいしたものではありません。ヴァーツラフ広場の近くにある果物屋で買ったものですから。でも受け取ってもらわないことには、僕の気持ちがおさまらないのです」

「ですがこのようなことをされましても……、わたくしたちは、お客様に心地よい空間を提供する、ということを心がけているのです。前回、お越しになられたときは、わたくしたちの応対がお客様をご不快にさせたのです。お客様が悪いのではありません。ですから、このようなものを受け取るわけには――」

「僕はほんとにひどいことをやったのです。あんな騒ぎを起こして本当に最低な男です。だからせめて、お詫びの印を受け取ってください」

「そうは言われましても……」、しつこく断る振りする。

「受け取ってほしいのです。お願いします!」

男は頭を下げながら紙袋をテーブルの上に置いた。もともと視野が狭い上にうつむいたことで、アイスコーヒーがまったく目に入っていなかったのだと思う。危うく紙袋でグラスを倒しそうになった。

危機を回避したのは私の反射的な動作だった。私は半ば無意識にアイスコーヒーのグラスをつかみ、テーブルの上を紙袋が占有しても問題ない状況を作っていた。

グラスを載せていたプレートは床に落ちたが、割れはしない。何人かの客と従業員がプラスチック製の音に反応しただけだ。

テーブルに置かれた紙袋の中には、メロンやパイナップル、マスカット、洋ナシなど、高級な果物ばかりが入っていた。男には果物屋を営んでいる知り合いがいるらしく、その知人から果物を安く買ったそうだ。

男がしつこく頭を下げて受け取るよう言うので、私は受け取らざるをえない顔を見せ、ではいただきます、と申し訳なさそうに言って紙袋の取っ手に指をかけた。内心はとても嬉しい気持ちでいっぱいだった。

私はその紙袋を床に置き、同時にアイスコーヒーのグラスをテーブルに置き戻した。落ちたプレートはシェイクが拾ってキッチンに持って行ってくれていた。

私は男の胸もとにグラスを置いた。男はうなずき、ありがとうございます、とていねいに言った。

「一つミルクをいただけませんか?」、男は指を一本立てた。

「かしこまりました」

私はシェイクに、フレッシュとストローを一つずつ持って来て、と言った。

その二つが届けられると、男はフレッシュのふたを開けて中身をアイスコーヒーに注いだ。それからストローで時計回りに何度か混ぜた。

コーヒーはたちまち茶色に変わった。

「やっぱり、ブラックのコーヒーにミルクを入れたら茶色になりますね」、男は言った。「これが当然の結果ですよ」

「ええ、そうですね」、私は笑顔でうなずくだけでよかった。

 

 

その夜も私は閉店後に一人残って、すべてを片づけたあと、倉庫の中でぶよぶよとしたかたまりを2個ともていねいに磨いた。

2個のぶよぶよとしたかたまりは、少し黒く汚れていた。磨いてもなかなか取れない部分もあった。でも一生懸命こすっているうちに汚れは落ち、またきれいな無色透明に戻った。

この2個のかたまりが問題を解決に導いてくれている。今日のことだけでなく、昨日も一昨日も、ことあるごとに助けてくれている。

このかたまりが自ら問題を呼び寄せ、自分の力で解決しているだけなのかもしれないが、でもやっぱりこの2個のおかげで喫茶店もお客さんも、店員も私も潤っている。

だからもし、この2個のかたまりがなかったら……。と怖くなってしまうこともある。

けれども私がこの2個のかたまりを大事にしている限り、見捨てられることはない。

私は思う。みんな何かに守られて生きているのだって。

あなたを守っているのはあなたの家族かもしれないし、別の誰かは先祖に守られているのかもしれない。

友人やペットが守ることだってあると思う。動物だけでなく、植物に守られている人だっていると思う。

会社、学校、お金、宗教。そういったものに守られている人だっているにちがいない。

ただ、ときにそれらは人を守るのではなく、あなたを苦しめることがあるかもしれない。

あなたから自由を奪い、時間に追われ、命を削られることだってあるかもしれない。

でも信じていれば、こちらから裏切りさえしなければ、最後はあなたを救ってくれる。だから大事にしないといけない。

そして私の場合、その大事なものが2個のぶよぶよとしたかたまりにすぎなかっただけ。

私はそう信じている。

2010年12月14日公開

© 2010 吉井アナン

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