カナリヤの森

佐藤潤

小説

10,159文字

佐久間尚也は祖父・佐久間和政の葬儀で美しい 看護士・室田百合に出会う。尚也は百合に惹かれて近づき、関係を持ってしまう。しかし、百合と和政は誰も知らない秘密の関係であることが明らかになっていく。百合と和政たち老人との間に起きた、過去のおぞましい出来事とその顛末。実際に起こった、女看護士が患者の骨を次々に折るという事件の外枠を借り、老人と少女の後ろ暗い欲望と罪を描いた物語。

真夜中の病棟に小気味良い音が響く。静かな森の中で、落ちている枝を踏み抜いてしまった時のような気まずさを感じる。枝はいつ落ちたのか分からず半分朽ち果ているのに、はっとするほど大きな音がするものだ。誰かに気付かれやしないかと周囲を伺うが何も起こらない。そして暗い森に再び静寂が訪れた。

巷ではクリスマス前夜ということで、あらゆる家庭でチキンが食べられていることだろう。縁起物の揚げたチキンは油まみれで、子供たちはくちゃくちゃと音を立てながら肉をむさぼる。骨をしゃぶる。自分では一度も食べたことがなかった。唇が脂でぬらぬらと光るのが生理的に我慢ならない。何より、チキンの骨だけになった残骸、アレはとても無様で見るに耐えない。反吐が出る。

室田百合はそこでチキンについて考えることを止めた。丑三つ時、勤務先の病院の一室。佐久間和政という患者の胴体をさすっていた。一見して患者の身体を気遣う看護士の姿そのものであるが、百合は仕事ではなく、愉しむためにそうしているのだ。夜の闇に透ける白いシーツ、白い壁、ベッドをすっぽり覆う白いカーテンはまるでゆりかごのように時を忘れさせる。百合とこの老人は、ふたりきりで秘密の行為をしている最中なのだ。老人は、寝たきりで満足に口もきけない。時折、地鳴りみたいなうめき声をあげるのみ。百合が右脇腹から右胸部にかけて圧迫すると、ごり、ぱき、と幽かに乾いた音がする。百合はただ、弄ぶことに集中する。感触を感じたい、実感したいという感覚のみを張りつめる。

百合は、壁に貼ってある鏡に映った自分の美貌にうっとりとした。もともと整った美しい顔立ちだが、自嘲と興奮が混在して微妙な笑い顔を形造っている。たまらない表情だ。百合は自らと見つめ合いながら、体勢を入れ変えた。暗闇の中を手探りだけで、今度は佐久間和政の胴体の左側に手を伸ばす。今夜は長い夜になりそうだ。

 

葬式に来た坊主は長いお経を端折って録音したものを流しただけで謝礼を貰いやがる。そんな長閑な雑談で親戚一同が盛り上がっている横で、佐久間尚也はぬるくなったビールを舐めていた。祖父の和政は八十八まで生きた。まあ大往生だろう。晩年は寝たきりでほとんど話しもできない状態だったが、十分に生きた。平穏で幸福な人生だったのではないか、尚也はそのように納得していた。しかし、引っかかることがあった。

孫である尚也と故人の娘でもある尚也の母が、遺体を清める手伝いをした。丹念に身体を拭いていき、強くこすったりはせず撫でるように清める。そう母に教わりながら丁寧に拭いていたとき、尚也は遺体の一部に違和感を感じた。胸から腹にかけて、何かおかしい。尚也は母の目を盗んで、適当な所をこぶしで強く押してみた。すると大した抵抗なく、肺があるであろうあたりまで、握りこぶしが吸い込まれる。あわてて引っこ抜いたが、少し凹んでしまった。鼓動が早くなった。なんだか死体を陵辱しているような後ろめたさを覚えて、母にも言わなかった。死体なのだから、何処か壊れていて当然だろう。無理矢理そう考えることにした。それに、違和感ならもう一つあった。尚也は母を見つけて聞いてみた。

「そういえば見慣れない女の人がいたんだけど。」

「ああ、あの綺麗な人でしょう。尚也が最後におじいちゃんに会ったときにはまだいなかったわね。ここ半年くらいおじいちゃんを担当してくれた看護士さんよ。」

「なんだ、そうなんだ。でも、普通は看護士さんって患者の葬式になんか来るのかな。ましてや火葬場にまで。」

「無理もないのよ。あの人まだ若いでしょう。なんでも、担当の患者さんが亡くなるの初めてなんですって。それにすっごく親切にしてもらったし。来てもらって嬉しかったわ。」

尚也の母は少し感傷的になったのか、やおら涙ぐんだ。

「おじいちゃんね、最後はほとんど喋れなくなったけど、けっこう血色良くなってきてたのよ。もう長くないのは薄々分かってたけど、それでも嬉しくてね。室田さんが担当になってからだった気がするし、室田さん自身が来たいって言うし断る理由もないじゃない」

尚也だけが見ていた。雲ひとつない空に直角に突き刺さった火葬場の細い針のような煙突の下、近しい人間が火葬されて立ち昇る黒い煙を見て、皆がそれぞれ感傷に浸っている。しかしその室田という女は、何とも言えない表情をしていた。尚也は魅せられ、目を奪われた。女は唇をきゅっと結び、満ち足りたような、それでいて哀しいような複雑な表情だった。尚也はその女から目が離せずにいた。最後に骨を拾うときもそうだ。親戚でもない彼女は遠まきに控えていたが、その間ずっと手の甲を噛んでいた。何かをこらえるときに小さい子供がよくするように、ずっと噛んでいた。吐く白い息の様子を見ると、彼女が激しく呼吸しているのが見て取れた。声を出さずに泣いていたのかもしれない。尚也は、祖父の身体を陥没させた自分の手を見つめた。彼女のこぶしにはくっきりと歯形がついていた。

 

葬儀から数日後、忌引きのついでに有給も取っていた尚也は、祖父の入院費の支払いの為に病院に行くことになった。年を越したばかりの一月、病院の白い建物の無機質さがいっそう底冷えて見え、寒さに震えながら入り口に入る。病院特有の臭いと、生暖かい暖房がないまぜになって尚也の身体を包み込んだ。

支払いを済ませ、何とは無しに祖父がいた病室へ行ってみることにした。そこは四人部屋になっていた。他の三つのベッドはカーテンで囲まれている。たぶん寝ているのだろう。尚也は空になっている祖父のベッドの近くにある丸椅子に腰掛けた。すでに糊の利いた真新しいシーツが敷かれていて、祖父の面影はない。

「あの、なにか」

尚也は女の声に驚いて振り向いた。病室の入口に室田百合が立っていた。当然喪服ではなく、看護士用の白衣を着ていた。

 

尚也は百合を病院の近くの喫茶店に誘った。勤務が終わるのを待っていたらすっかり日が暮れた。百合は私服に着替えてやってきて、尚也は少し残念に思った。白衣という格好に性的な欲望を刺激されていたからだ。当初の目的は祖父の遺体の違和感について、臨終に立ち会った百合に意見を聞くことだったが、百合はまるでデートにでも来たようなくだけた雰囲気で笑いかけてきた。確かに美しい女性には違いない。肌が透き通るように白い。百合がビールを注文したので、ぼんやりしていた尚也も慌ててそれに倣った。

「病院の臭いが好きなんだ。」

尚也はやや緊張していたせいか妙なことを口走っていた。

「だから、何と言うか、室田さんから病院の臭いが少しだけすると思って。」

「どうしても取れないものなんです。消毒液の臭いだと思うんですけどね。好き、という人なんてあまりいませんけど。」

百合は少しはにかんでから、真面目な表情になった。

「あの、この度はご愁傷様でした。ご葬儀にまでお邪魔してしまって、親戚でもないのに火葬場にまで行って立ち会わせてもらっちゃって。」

「いえいえ。母も室田さんには感謝しているみたいです。祖父だって喜んでくれたんじゃないかな。」

しばしの沈黙のあと、ビールが運ばれてきた。

「じゃあ、祖父に」

「はい、佐久間さんに」

ふたりは死者に献杯し、一息に飲み干した。

 

酔っぱらってしまって口説いたのか、それとも誘われたのかはよく覚えていない。尚也は百合のアパートのドアの内側で明かりも点けずに接吻していた。そのまま、舌を吸ったままで、つがったような体勢でワンルームのいちばん奥にあるベッドまで進みそのまま倒れ込む。夢中でむしゃぶりつく。肝心なことは何も聞いていなかった。肝心なこととはもちろん祖父のこと、そしてお互いのことである。同じ年齢ということ以外互いの何を話しただろうか。しかし、尚也は思考を捨てたがっていた。だから下半身の動きにだけ集中した。窓外の薄明かりでお互いの身体をかろうじて確認しながら、着々と溶解させていく。数日前に祖父が亡くなったのにこうやってセックスをしていることが不思議だった。アルコールは消毒にも使用するがこうやって人と人との関係を曖昧にし、くだけたものにするのにも一役も二役も買うものだ。そもそも病院の臭いの大部分は消毒液としてのアルコールの臭いなのか?それはもしかして死臭をごまかすための臭いではないのか?病院で死臭がするのは当たり前だではないのか?なぜそれを隠さなければならないのか?看護士という職業の者は常に多忙だから欲求不満なのか?医師と不倫しているのではないの

か?注射が下手な者は婦長になれないのか?今、この目の前の女からは少しだけ病院の臭いがする。アルコールの臭いだ。何がなんだか分からない。ああ、思考を捨てたい。セックスに没頭したい。尚也は動きの速度を上げた。

やがて、百合の下腹部から独特の女性の臭いが立ち昇った。仄かに残った消毒液の臭いをかき消す、生々しい臭いだ。でも決して不快ではない。目を瞑ったまま切ない声を上げる百合は、絶頂に達しかけていた。百合が背を反らせるたびに、細身の身体にあばらの線が浮いて刻まれる。反る角度が深さを増していく。尚也自身が、みるみる百合の内側のひだに取り込まれていくのが分かる。もっと。百合が吐く息と同時にそんな囁きを漏らす。興奮した尚也はもはや何も考えなくなった。

ほぼ同時に登りつめ、尚也は百合の中で爆ぜた。宙を仰ぐ。その瞬間だ。眼が暗闇に浮かぶモノをとらえた。それは、窓の端に吊り下げられた赤色の鳥かごだった。

 

鳥かごは真っ赤に塗られていた。月明かりに妖しく浮かび上がっている。

「アレの中には何も入ってないね。」

鳥かごをぼんやり見上げながらつぶやいたが、百合は答えなかった。肩で息をしながら今は尚也の腕の中にいる。

「なんでこんなことしてるんだろうな」

尚也は独りごとのようにつぶやいた。百合は笑っているようだった。優しい手つきで尚也の身体をさする。乳首のあたりから心臓を通ってわき腹のあたりまでを何度も何度も往復する。

「俺は思うんだ。さっきも言ったと思うけど、火葬場であなたを見かけたときあなたは異質だった。変だったよ。もちろん見たこともない人だったっていうのもあるけど。興味を持った。何か理由があると感じた。もしも、今日あの病室で会わなかったらもう二度と会えなかっただろうね。でもなにかの拍子にきっと、百合さんを思い出してたと思う。」

「なにかをごまかしてるみたいに聞こえる。後悔してるの?」

「いや、そういうことじゃない。でもほら、喪中だからさ。知ってると思うけど。なのに何だかすごく興奮してしまって、ちょっと恥ずかしいんだ。」

百合はくくっと笑った。部屋はずっと真っ暗なままで、鳥かごだけが月明かりにぼんやり浮かび上がっていた。

「大往生だったと思うんだ。だから悲しくはなくて意外と泣けなかったよ。百合さんは泣いてくれてたみたいだったね。ありがとう。俺はじいちゃん子だったし、思うところはあるけどね。昔一緒にカナリヤを飼ってたことがある。あの鳥かごを見て今思い出したんだ。でもそのカナリヤが死んじゃったのか、逃げちゃったのか憶えていないんだ。すごく可愛がってたのに。百合さんも何か飼ってて、アレはそのままになってるのかな」

時間をかけて息を整えていた百合は、耳元まで顔を寄せてささやいた。

「おやすみなさい。話しの続きは、朝になったらね。」

 

夢を見た。妙にリアルな夢だった。

とてつもなく大きな鶏小屋は見た目は普通なのに内側の壁は極彩色に塗りたくられている。特に目を引くのは強調された赤い色彩。鶏の頭の角も同じ赤色をしている。無数の鶏が蠢いている。幼い男の子はそこで信じられない光景を見た。男の子の祖父であろう老人が鶏を食べていた。ぐちゃぐちゃと嫌な音がする。しゃがみこんで夢中で食べているのだ。血で口の周りが鮮やかに光っているように見える。老人は食べ残しの鶏の脚をくわえたまま立ち上がり、さあおいでというように両手を大きく拡げる。男の子がいやいやと首を振ると、老人はウロコがついた鶏の脚をばりばりと音を立てて咀嚼し、ぺっと地面に吐き捨てた。唾液と血で濡れた噛み切れない鶏の足が不快な音で地に落ち、そこに鶏達が一斉に群がる。激しくついばむ。共食いの祭りだ。老人は血だらけの唇を微妙に歪ませて笑いながらこちらに近付いてくる。両手を大きく拡げたままで。男の子はいつの間にか幼い女の子になっていた。その少女は身構えたまま後ずさりするが、どんどん鶏小屋の端に追いつめられてゆく。男の子がいつの間にか老人の後ろにいて、老人と一緒に少女のことを凝視している。男の子と老人は突然、ふたりでけたたましく叫び出す。

コケーッ!ココ!コケーッ!

夜明けを知らせる鶏の鳴き声みたいだ。老人の血まみれの手がいよいよ女の子に届くだろうというその瞬間、光が差し込んできて鶏小屋は瓦解していく。崩れ落ちる。白い光に包まれる。何もみえなくなる。白い闇が訪れる。

 

どんどん、と激しくドアを叩く音で尚也は目が醒めた。朦朧としながら何とか腕時計を確認する。深夜二時を回っている。ここがどこなのか一瞬分からなくなった。横に寄り添う肉の肌触りでようやく思い出した。百合のアパートだ。

再び激しくドアが叩かれた。百合は他人事のようにじっと尚也を見ている。暗闇だがそうと分かる。百合の視線に射すくめられたように尚也は動けない。百合が何かの呪文みたいに囁いた。

「和政さん、意識がはっきりしてたわ。寝たきりだったけど、起きてたの。」

百合は笑っていた。

百合は起き上がると素早く衣服を身に付けた。三たびドアを叩く音が響く。百合は玄関に行ってドアを開けた。真っ暗な部屋に少しだけ光が差し込む。

「室田百合さんですね。」

外には男がふたり立っていた。

「殺人容疑で逮捕します。署までご同行をお願いします。」

尚也は、ひとりで闇の中にとり残された。

 

後日、室田百合はニュースで報じられる存在となった。六人の入院患者の肋骨を折った傷害致死の容疑で逮捕された女看護士として。寝たきりの、しかも口もろくに利けない老人患者ばかりを狙って人目を盗んで肋骨をへし折った。動機は職場での人間関係のストレス、謝意を示さぬ患者への鬱憤が溜まっての衝動的犯行だという。直接の死因がみな病死や老衰であるということ、またすべての遺体が既に荼毘に付されていることで、肋骨骨折と死との因果関係が証明されることはなく、やがて容疑は傷害に切り替わったという報道を最後に世間からは忘れ去られた。

尚也は図書館で百合の事件が載った新聞記事を読んでいた。次に科学系の本棚で、重厚な分量の人体図鑑を手に取ったみた。肋骨の項の図解を見た。肋骨、いわゆるあばら骨の十二対で計二十四本の肋骨の形状は、まるで鳥かごだった。尚也は自分の祖父の身体の感触を改めてイメージした。あれは肋骨がバラバラに折れていたのだ。薄皮の内部には、潰れ、ひしゃげた鳥かごがあったのだ。

尚也は百合に対して恨みや憎しみを抱けずにいた。なぜだかわからない。喪服での百合や白衣の百合を思い浮かべて、発情さえしていた。とりわけ強烈な印象は、あの暗い部屋で見た、百合の裸体と赤い色をした鳥かごがある光景だ。百合の最後の言葉は何だったのか。佐久間和政が覚醒しているのを分かっていて、肋骨が折れる痛みを味わせてやったとでも言いたいのだろうか。あの女は、ほんとうに報道されているような他愛ない動機で、あのような行為に及んだのだろうか。直に百合に触れてしまった尚也は、いまだ渦中にいた。祖父とあの女の間で起こったことをちゃんと知りたい。しかし百合は今現在、刑事裁判中の身である。百合に面会しに行くのはためらわれた。

 

被害者である六人の年老いた男。そのうち五人は既に死亡している。だが、ひとりだけ生きていた。尚也はその老人の家族の許可を得て彼を見舞うことにした。表向きは、同じ事件の被害者の家族としての慰問である。しかし本当の目的は、室田百合に近付くことだった。尚也は、少しだけ探偵気取りだったのかもしれない。調子に乗って長時間録音できるレコーダーを懐中に忍ばせもした。ここで何が語られるかも知らずに。

以下は尚也と老人との対話の全てである。

「ご家族から聞いてると思うんですけど、僕の祖父も…。」

「ああ…。」

「すいません、やっぱりお話するのが大変でしたらすぐに引き取ります」

「待ちなさい…君は佐久間さんの…。」

「そうですが。あの、知り合いだったんですか?」

「やっぱりアレのことを聞いておるのか?」

「何のことでしょう。」

「私たち六人で始めたことだ。」

「何を仰ってるのか分かりません。」

「私たちは共犯者だったんだ。生き残ってるのは私だけだ。」

「共犯者?」

「絶対に表にでない秘め事だった。あの女が現れるまではな。我々六人の秘密だったんだ。君は昔カナリヤを飼っていただろう?」

「はい。でもなぜそれを…共犯っていうのは…。」

「説明しなくてはならないようだ。というより私が話したいだけかもしれない。私の命もそう長くはない。…君の祖父、佐久間和政さんがカナリヤ会の発起人だ。カナリヤ会は野鳥愛好会。表向きはな。私たち六人が同じ病院に入院していたのは偶然ではない。お互いを見張っていたのだ。喋るわけはないのはわかっている。だが死ぬまで怯えていたというわけだ。ちなみにカナリヤは飼育種の鳥だ。野で見ることはめったにない。たまにかご抜けしたやつもいるらしいが。とにかく我々は七羽のカナリヤを鳥かごに入れてそれぞれ飼うことにした。」

「どういうことですか?何がなんだか…。」

「七羽と言ったろう。会員は六人だった。最後の一羽はある少女に贈った。…七人目の会員はいなくなってしまったから、代わりに少女に贈ったんだ。当時私たちは、バードウォッチングで来た者、散策に来た者、キノコを採りに来た者、森の一部を管理していた者、などだ。最初は知り合いではなかった。どこにでもいる引退して余生を送る者同士が暗い森のなかにたまたま集まっていたんだ。ある日だった。佐久間さんが突然、少女を見つけた、と言い出した。」

「祖父が…。」

「そうだ。佐久間さんが、少女がいる、と言う。誰かが孫でも連れてきたんだろう、皆そう思った。でも佐久間さんの様子がおかしい。老人と少女が森のなかの、一番奥の深くまで二人で入って行ったと言うんだ。それは確かにおかしい。何故ならその場所は森のなかでも危険な場所なんだ。間違っても孫を連れていくところではない。そこには自然にできた巨大な縦穴のような空洞があって、過って落ちて死んだ者もいるという話しも聞いたことがあった。森では最も忌わしい場所。私たちは不審に思ってその場所まで行ってみることにした。私たち六人の老人が。」

「………。」

「穴の中に老人と少女がいた。そこで見たものは…こればかりは言えない。言いたくない。おぞましい光景だった。悪夢だ。そしてもっとおぞましいことに…私たちはきっと昂っていたんだ。性的に。まったく現実感がなかった。ともかく、その老人を総掛かりで少女と引き離した。老人は薄笑いを浮かべていた。恐ろしい顔だった。人間じゃないみたいだった。私は色んな感情が込み上げてきて、その老人を思いきり殴ってしまった。その後は滅茶苦茶だったよ。血まみれだ。参加しない者はいなかった。全員で憑かれたように殴り続けた。やがて老人は動かなくなった。死んだんだ。その間、少女はずっと黙って見ていた。」

「………。」

「そいつのしわくちゃの顔も体も憎かった。自分たちも相当歳が行ってるのに。その老人は百歳近いと思われた。ほんとうの歳は分からないけど、とにかく恐ろしい怪物か妖怪に見えたんだ。皮膚から肉や骨がはみ出して、汚らしくくたばっていた。誰かが言った。善いことをしたんだ。善いことを。悪いやつをやっつけたんだと。しかし実は皆、少女の視線を背中に感じていた。ちらりとしか見ることができなかった。少女は無表情に見えた。何とかしなくてはと焦った。誰かがナタを持っていて、よく磨かれた鎌もあった。私たちは全員で、その老人をばらばらに分解した。執拗に細切れにした。何故だろう?今思えば、ただ埋めてしまえば良かったのに。人のかたちをしていてはいけない気がしたんだ。ただのモノになれば罪悪感なんてないんだとでも思っていたのかどうか。私たちは夢中で老人を解体していた。夜が迫っていて、虫が鳴いていて、むっとした湿気に汗まみれだ。暗い森は薄気味の悪く静まりかえって、解体する音だけが辺りに反響してるんだ。少女は何をしていたと思う。」

「………。」

「しばらくして、少女も参加してきたんだ。信じられないんだが。歳の頃は五つか六つだったのに。よじれた衣服が痛々しかった。目だけが異様に光っていた。相変わらず無表情だったが妙に生き生きして見えた。少女は胴体に異常に興味を示していたが、やがてひとりでに話し出した。飼っていたカナリヤが逃げ出したこと。この森に逃げ込んだと。そう言って少女は連れて来られたと。逃げたカナリヤはおじいちゃんが飲み込んじゃったんだ。だからこのぐちゃぐちゃした体の中にあるの。ここだよって。そう言いながら胴体の隙間に手を入れて、少女は少しだけ笑った。私たちは黙々と作業を続けていた。細かくちぎれた部分を全て、散り散りに離して埋めた。もちろんカナリヤは見つからなかったが、私たちと少女は契りを交わしたような気分になっていた。ただの達成感だよ。その時はどこか麻痺していたんだと思う。佐久間さんが少女を連れて帰った。同じくらいの歳の孫もいるからと言っていたよ。君のことだろう。しばらく経って、連絡先を交換していた我々は森に再び集まった。日常に戻っていた私たちは、人をひとり殺したという事実に押しつぶされ、罪悪感は増していた。穴を土砂で塞いだ。たまに集まることを決めた。誰にも言えないが、ひとりで背負うには耐えられない。それがカナリヤ会となったわけだ。私たちはずっと好々爺を演じ続けていた。ごく数回集まったが、誰かが口を割ってないことを確認する目的もあった。そう、カナリヤを飼うことにしたのは儀式のようなものだ。六人だけの秘密の証。何より私たちは「あのこと」をむしろ積極的に行ったんだ。少女に対する後ろ暗い衝動的な気持ちがそうさせたんだと思う。恥ずべきことだ。でも忘れられなかった。佐久間さんだけが少女の居場所を知っていたから、カナリヤを託した。少女が喋ってしまうのが一番怖かったが、佐久間さんは、その心配は絶対ないと言い張った。絶対に喋ることはないんだと。どうしてそう言い切れるのかは誰も聞けなかった。なぜか佐久間さんには、理由を聞いてはいけないというような迫力があった。少女のことを佐久間さんに押し付けてしまった格好だが。君は当時、少女に会ったことがあるそうじゃないか。佐久間さんが言っていた。もう分かっているとは思うが…当時のその少女と、私たちは終の寝床に選んだ病院で再会したということだ。もちろん今話したことはもう私しか知らない。誰にはなすつもりもない。誰にも言わないで欲しい。君に話したのは、自分勝手な懺悔だ。罪の告白だよ。すまなかった。」

 

両の手を重ねて胴体の左側に置き、全体重をかけて残りのあばら骨を一息で折る。驚くほど軽い音がする。肋骨など軽々と折れるものだ。殺しはしない。看護士という職業柄と独学で得た知識によって、内臓に刺さらない角度と部位を熟知していた。これまでの経験も生きた。初めて二十四本全ての肋骨を綺麗に折ることができた。六人目は特別だから、大変満足である。でもこれで最後。巡礼の旅はもう終わりだ。思い描いた通りの目的地に自らたどり着いてみせた。佐久間和政が低くうめく。虚ろな目で宙を彷徨っている。まだまだふたりで愉しむ時間は残されている。この老人が、誰に壊されたのか死ぬまで話すことはないだろうと、室田百合は充分すぎるほど分かっている。ふたりは共犯者であった。ふたりにしか分からない悦楽を共有ていた。感触を確かめるように、何度も何度も何度も何度も身体をさする。それはあくまで優しく、労りの仕草であった。何ともいえぬ臭い。百合にとって今は好ましい芳香が老人の全身から漂う。あのときの臭いと同じだ。百合は思い出していた。佐久間に連れて行かれたあの日の出来事を。あの森でのこと、それと、森を出たあとのことだ。そうだ、私と同じくらいの歳の男の子がいたっけ。どうしているだろう。百合は微笑む。哀れな老人を見下ろして笑う。あなたが最後だと思ったんだけど、まだ続きがあるのね。楽しみだわ。お葬式には呼んでくださいね。そう囁いてあげた。

2010年11月13日公開

© 2010 佐藤潤

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

きちがい 病気 老人

"カナリヤの森"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る