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バベル

本多りお

誰にも理解されないまま、少年は瓦礫の中で1人高い塔を築く。雨の日も、風邪の日も、雪の日も。

集英社オレンジ文庫 第237回 短編小説新人賞 「あと一歩」作品 

タグ: #純文学

小説

9,976文字

切り立った崖の上。歪な構造物が月明りを受けて、巨大な影を成している。構成物は錆びた鉄骨、鉛筒、削れた煉瓦壁のかけら。土台となるのは、風化して穴の開いた小屋である。蝶番の外れかけたドアがかろうじて鉄骨の隙間から見えた。
今にも崩れ落ちそうなその塔の傍には、別の小さな影が見える。齢十ほどの少年。斜面に立てかけられた梯子を登り、その頂上にトタンを置いた。ぐらつかないよう位置を整えて小さな釘を打ち込む。一度手を放してみて、トタンがずり落ちないことを確かめる。そして満足したように一つ頷いた。
再び下に降り、地面に散らばった瓦礫の中から、かつて雨樋であったであろうものを拾って梯子の下まで引っ張っていく。錆びだらけで所々欠けているが、それでも少年の身長程度の長さはある。少年はそれを地面に引きずりながら少しずつ動かした。とうとう梯子までたどり着き、再びがらくたの塔の頂上へと登っていく。右手に雨樋を持ち、左手で梯子をつかみながら、一段一段慎重に。
忙しなく動く少年の手足を、月明かりが照らしている。生白く光る肌には、幾つもの出来立ての傷がぬらぬらと目立っていた。

「あっ」

汗と泥にまみれた手の中を、雨樋が滑る。完全に少年の手から離れ、むき出しの太腿をかすめて落ちた。
また一つ、少年の体に生傷が増えた。
地面に叩きつけられたにもかかわらず、運よく雨樋は壊れなかった。もう一度拾って、落とさないように慎重に握りしめる。今度は思った通りの位置に積むことができたので、一度地面へ降りて、また新しいがらくたを選んだ。梯子を登り、置く場所を決め、固定する。空が白み始め、月が見えなくなるころ、少年はようやく手を止めた。塔は、少年の背丈の半分ほどだけ大きくなった。
飛び出した鉄骨をよけながら、少年はぼろぼろの小屋の中へと入っていく。外は少しずつ明るくなってきているが、小屋の中はまだ暗かった。屋根や壁には穴が目立つが、幾重にもなったがらくたが隙間風を防いでいた。少年は床に放り出されていたカバンの中からパンを取り出し、割って半分だけ食べた。水を飲みたかったが、水筒の中は空で、硬いパンが口の中に張り付いて不快だった。食べ終わるころには、太陽はもうすっかり空に昇っていた。
食事を終えると、少年は日銭を稼ぐために街へと出かけた。立ち並ぶ廃墟の間を、がれきに足を取られないように慎重に歩いていく。進むごとに生き生きと変化する風景の中を、息を乱しながら歩く。次第に廃墟は温かみのある家々になり、落ちていた穴だらけのパイプたちは規則正しく張り巡らされ、動作制御装置の明かりに街が明るくなっていった。朝靄の中で、ようやく起き出した人々の声が聞こえ始めた。
中心街に入り、大通りを抜ければ、工場にたどり着いた。この町は蒸気機関によって動いていて、インフラはすべて蒸気が生み出すエネルギーによって支えられていた。工場では蒸気が通るパイプを製造しており、少年は鋼を運搬する手伝いをして日銭を稼いでいた。機械の操作をするには身長も力も足りないので、鋳造炉で使用する鋼を台車で運ぶのだ。工場の中で最も単純な作業で、最も賃金の安い役割だった。鋼が溶けるほどの炎で熱された工場の中、少年は同じ動線を往復し続ける。狭い工場の細い通路の中を何人もの人が行き交い、時たま舌打ちの音が聞こえた。少年は押し退けられ蹴られながら、積まれた鋼が台車から落ちないように慎重に運んでゆく。鋳造炉に近づくにつれて台車の取手がじくじくと熱くなり、数日前についた掌の傷が燃えるように痛んだ。
正午を過ぎたころ、少年は工場の外の建物の陰で、朝のパンの残りを食べた。壁を一枚隔てているだけだが、外気は澄んでいて涼しかった。少年がひっくり返ったバケツの底面にちょこんと座り込んでいると、男が一人近づいて行った。男は少年の横の地面にどっかりと座り込み、彼の顔を覗いた。

「おじさん」

少年は男の顔を見てほほ笑んだ。

「なんだか久しぶりだね」

「ああ、最近は街の外で仕事することが多くてなあ。なかなか昼時にここまで来られなかったんだよ」
「別にわざわざ来なくてもいいのに」

男は、少しわざとらしいくらいに残念そうな顔をした。

「そんなこと言うなよ。俺は毎日だってお前の顔を見たいのにさ」
「ふうん」

二人の間をひんやりとした風が吹き抜けていく。

「ところでさ、お前、まだ崖の上でがらくた積んでるのか?」

少年は、パンを食べようと口元に運んでいた手を止めた。

「積んでるよ」

少年は目を合わせず、一言だけ返事をした。

「前から言っているが、うちに住んでもいいんだぞ。男の一人暮らしだし、気兼ねしなくていい。それに、俺はお前の母親の幼馴染だし」
「母さんの話は聞きたくない」

手に持ったパンをぼそぼそと弄りながら、少年が男の話を遮った。

「・・・すまない」

男はうなだれて、それでも、と食い下がった。

「俺はお前を心配しているんだ。あそこは廃墟ばかりだし、家もぼろぼろだろう。うちに住めば食事だって用意できるし、寝床だってある」
「大丈夫だよ。あの家でだって雨風は凌げるし、こうしてパンも食べれてる」
「そうはいってもさ・・・」

男は、少年の生活が心配なのだと何度も食い下がった。しかし少年もかたくなに大丈夫だから気にするな、と繰り返す。
少年は発展のない会話にいい加減嫌気がさしてきて、ため息をついた。

「大丈夫だって言ってるじゃん。僕の事はもう気にしないで。ここにももう来なくていいから」

少年は、尚も言い募ろうとする男の言葉を遮るようにして立ち上がった。もう休憩の時間は終わりだから、働かなくてはならない。少年は男を置き去りにして工場の中へと戻っていった。
その日の仕事はいつもよりもずいぶんと遅くに終わった。トラブルがあったのか、それとも工場長の気まぐれかよくわからないが、通常の終業時間になっても鋳造炉が止まることがなかった。少年はぐったりとしながら帰路に就く。もう空っぽになったはずの水筒がとても重く感じた。
翌日、翌々日、その次の日と、少年はずっと同じように毎日を過ごした。朝起きて半欠けのパンを食べ、廃墟を抜けて工場へ行き、小屋の床で少し眠ってから月が昇るころに起き、がらくたを積み上げる。しばしばどこからか様子を伺う様な視線を感じてはいたが、誰にも話しかけられることはなかった。
ある夕方、少年は仕事終わりに町のパン屋に寄った。そこは少し商品の値の高い店で、いつもとは別の店だった。少年が店先に現れると、パン屋の店主は少し目を見開いた。少年があの崖で瓦礫を積み上げ続けていることは、町の人間なら誰もが知るところだった。
道路に面しておかれたガラス張りのケースの中に、数種類のパンが並んでいる。その中から、少年はいつもより銅貨三枚分ほど高いバゲットを指さした。店主は無言で、紙袋にそのバゲットを詰める。少年が受け取ると、眼前にぐいっともう一つの袋が付きだされた。

「ラスクだよ。持っていけ」

袋の中には、四角い小さな塊が、砂糖にまみれて入っていた。パンの耳で作ったラスクのようだった。

「…ありがとう」

身に覚えのない親切に困惑しながらも、少年はありがたく受け取ることにした。食事の足しにできるものが増えるのは嬉しいことだった。

「それ、私が作ったのよ」

店主の後ろから、おさげ髪の少女が自慢げに顔をのぞかせた。
久しぶりね、と少女は微笑んだ。

「そうだね。久しぶりだ」
「あなた、学舎に来なくなっちゃったものね」
少年はグッと口を結んだ。

「教室でもみんな心配してるわ。お勉強もしないで、あんなものを作って」
「今更勉強なんて意味ないさ」
「そんなことないわ。文字が読めれば机に座ってお金を稼げるし、計算ができれば悪い人に騙されないで済むもの。その方がきっと、あなたのお父さんもお母さんも喜ぶと思うの」

少年は、少女を鋭く睨め付けた。

「喜ぶわけないだろう。もう死んでるんだ。会えもしないのに、喜んだりするわけがないじゃないか」

そう言い放つと、少年はパンの袋を抱きしめて、店の前から走り去った。少女が追いかけてくるような気配がしたが、追い付かれないように懸命に走った。湿気の多いこの町は、夏は蒸し暑く冬は水蒸気が冷やされて寒い。少年の頬は、運動したことと空気の冷たさによって赤く染まった。普段は左に曲がる道を右に曲がってみて、真新しい家々が立ち並ぶ通りを通り過ぎ、路地へと入った。一歩一歩足を進めるにつれて、妙な薄暗さとツンとした独特なにおいが増していく。中ほどまで進んで、少年はようやく足を止めた。知らない道を歩いたことで頭の端が冷え、少年は少女への態度を少し後悔した。彼女はおそらく少年の事を心配してくれただけで、傷つけようという気はなかったのだ。しかし、やはり知ったような口を利かれるのは我慢ならなかった。
ただ立ち止まっていても仕方がないので、少年はゆっくりと細い道を進んでいく。地面に染み付いた汚れと夕闇が混じって足元がよく見えない。道を形作っている建物と建物の隙間が少しずつ狭くなっていき、最終的には壁に閉ざされてしまった。ぼんやりと傍まで近寄ると、思ったよりも壁の背が高い。樹状に上へと伸びているひび割れをたどっていけば、その先に空が見えた。

「お兄ちゃん、そんなところで何してるの」

傍の家の窓から、五歳くらいの子供がこちらを覗いていた。

「月を見てるんだ」

子どもは、窓枠から顔を伸ばし、少年と同じように空を見上げた。

「今日は細いお月様だね」

子どもらしい鈴の転がるような声だった。

「人間は死んだら星になるんだ。知ってる?」

脈絡のない返答に、子どもは驚いたように黙ってしまった。少年は構わずに話し続ける。

「人が死んだら、魂が宇宙まで昇って、星に宿るんだ。人は毎日たくさん死ぬから、だから空には星がたくさんあるんだ」
「お月様もお星さまなの?」
「そうだよ」
「じゃあ僕のママはお月様にいるのかな」
「あの月は僕の父さんだから駄目だ」
「えぇ。ケチ」

二人は黙って空の向こうに目を凝らした。風に雲があおられて、三日月を覆い隠してしまったが、彼らの目には、分厚い空の向こうの満月がはっきりと見えていた。

「夕飯できたぞー」

暫くして、間の度向こうから子どもに夕食を知らせる声が聞こえてきた。ぱっと目を輝かせて家の中に戻ろうとする子供を、咄嗟に呼び止めた。

「なあに、お兄ちゃん」
「これ、やるよ」

少年は抱えていた袋のうち、透明な方を差し出した。

「ラスクだってさ」

子どもはにっこりと笑った後、伺うように少年を見つめた。

「いいの?」
「うん。僕、甘いの苦手だから」

ありがとう、と元気よく礼を言って、子どもは家の中に戻っていった。ぴったりと閉ざされた窓を見ながら、少年は微笑んだ。
すっかり暗くなった中を、少年はあの小屋へと帰っていく。少し前とは打って変わって、少年の足取りは軽い。いつもは見ると憂鬱な気分になる廃墟街も、今日は少年だけの秘密基地かのように楽しく映った。
家に帰りつくころ、三日月は空のてっぺんまで昇り切っていた。少年は心無しいつもよりも疲れている気がして、帰り着いてすぐに小屋の中で眠ることにした。玄関ドアの脇に座り込み、膝を抱え込むようにして眠った。
少年は月が傾き始めるころにぱっちりと目を覚ました。ううん、と大きな伸びをしてから、少年は立ち上がる。勢い良く小屋のドアから外へと飛び出した。
小屋を出てすぐ、少年は塔の材料になるものはないか周辺を探し始めた。月が細く、月明かりが手元を照らしてくれないので、何度か瓦礫につまずいて転びそうになった。暫くしてから、小屋から少し離れた場所に、元は鍛冶屋の看板だった金属板を見つけた。がらくたの中に突き刺さる様にして埋もれていて、少年は何度も手を滑らせながら引っ張り出した。苦労して手に入れたそれは、長い間雨風にさらされていたにしては状態が良く、四隅以外には錆びついた様子も見られない。久しぶりに良い広いものができたと、少年は嬉しくなった。普段なら、何躊躇いもなく塔の一部にするのだが、この鉄板に限ってはもったいないような気がした。
少年は鉄板を地面に置くと、思いついたように小屋の中から夕食用のパンを持ってきた。紙袋からパンを取り出すと、薄い月明かりの下でも、つやつやと焦茶色に光っているのが分かった。いつも食べるものよりも形の整ったそれを見て、少年は握りつぶしたいような気持になったが、噛みちぎらないように注意しながらパンを口にくわえた。
金属板を紐で自分の背中に括り付け、ガラクタの塔の梯子を登り始めた。てっぺんより少し下の、鉄骨が数本並行に迫り出した場所の側で登るのを辞め、片手だけを使って器用にその上に載せた。釘やら糸やらを使って金属板を固定した後、数回足蹴にして外れないかを確かめた。板と鉄骨はきちんとくっついてびくともしない。少年は満足して、ひらりと金属板の上に飛び乗った。板は膝を立てて座っても少し余裕があるくらいには大きく、少年はその上にのんびりと腰を下ろした。ふと思い立って、足を板の端から下へと投げ出す。真下から冷たい風が吹き上げて、少年の髪をぱらぱらと揺らした。下を覗き込めば切り立った崖と黒々とした海に細い月が映っていた。
少年は、海面に映る月を見ることが好きだった。空に浮かぶ月はどこまでも冷たく動じないが、海面の月は忙しなく揺らめき親近感が湧く。少年は幼い頃から何度も、崖の上から身を乗り出しては父に叱られていた。ただ、、父は少年を叱った後には必ず抱き上げて膝の上に座らせ、一緒に月を眺めてくれた。そして、夜空に一際目立つ星々を指さしながら、亡くなった祖父母や親籍の話をしてくれた。少年と父にとって、火星は祖母、木星は祖父、父の弟はシリウスだった。今でも彼らは彼方から見守ってくれているのだと、少年は心から信じていた。
少年はもう一度、鉄板から見下ろして海面を眺めた。三日月は変わらずよく見えるが、星々は波に混ぜられてよく見えない。風の音に交じって、どこからか父の叱る声が聞こえた気がした。
翌朝、少年は塔の鉄板の上で目を覚ました。冬の夜風にさらされたまま眠りこけたせいか、全身冷えて体が動かし辛かった。少しぼんやりとしながら下に降り、塔を確認してみると、前日と比べて腰の高さほどしか大きくなっていなかった。少年は足元の小さい鉄くずを強く踏みつける。反射のように一つくしゃみをした。
風邪をひこうが寒かろうが、工場は毎日稼働している。工場の中は相変わらず灼熱で、昼時に感じる外気との温度差でめまいがした。仕事を終え、気まぐれにいつもとは違う道を通って帰った。本当なら昨日のように少しばかりの贅沢をして気分を変えたかったが、如何せん金がなかった。
小屋の経っている開けた場所へ出て、そのまま突き出した鉄骨の下から中へ入ろうとしたところで、少年は顔をしかめた。いつもは工場でしか会うことのない男が、険しい顔で立っていた。
二人はしばらくの間、黙ったままで見つめ合った。男は、少年に何を言うべきか悩んでいるように見えた。

「お前、夜はどこで寝てるんだ」

男がうなるように尋ねた。

「その中だけど」

少年は、目の前の小屋を顎で指し示した。屋根の上から被さっている鉄骨の影のせいで、小屋は鬱屈とした雰囲気を醸し出している。男はそれを一瞥してから、懇願するように少年を見つめた。

「なあ、もういい加減教えてくれないか。お前は何であんなものを作ってるんだ。もうずいぶん大きくなったじゃないか。十分だろう。」
「まだ駄目だよ。僕は大丈夫だから気にしないでってば」

少年は、もう何度口にしたかわからない言葉を返した。

「大丈夫なわけがないだろうが!」

怒鳴った男の声が、周りの瓦礫に反射してよく響いた。

「俺は今まで何度も何度も注意してきただろ?こんなことを続けていたら危ないんだ。手も足も傷だらけだし、あのてっぺんから落ちたら死んでしまう。小屋だってもうボロボロなのに、あんな重さの物をのせて、いつ潰れてしまうか分からないだろう。もう十分だ。やめなさい」
「十分じゃない!まだ何も足りない」

今度は、少年が声を張り上げた。

「僕は、父さんに会わないといけないんだ」

少年はそう吐き捨てた。

「は?」

男には少年の言葉の意味が理解できないようだった。

「父さんに会うって。お前、お前の父さんはもう死んでるだろう」

まさか、父親が死んだことを分かっていないのかと、男の背筋を冷たい汗が伝った。

「そんなことはわかってるよ。だから僕は月を手に入れないといけないんだ」

男は言葉を失った。少年の言葉の理屈が全く理解できなかった。反論しようにも、意味不明過ぎて、それもできなかった。
そんな男の様子を、少年泣きそうな目で見つめた。

「分からないの?教えてくれたのはおじさんじゃないか」
「え?」
「分からないんでしょ?それならもういいよ。おじさんは僕の事をどうにもできないから、もう来ないで」

少年が小屋の中へと入っていく。男は少年を追いかけなければならないと思った。しかし、伝えるべき言葉が見つからない。そうしているうちに、少年の姿が小屋の中へと消えた。男は、ぴったりと閉ざされたドアをぼんやりと見つめていた。
少年は、狭い部屋の中でそっとため息をついた。小屋の隅に置かれた朽ちた木製のベッドへと近寄る。もう何年も使われていないそれの端には、母が愛用していた手鏡が置かれていた。少年は手鏡を手に取り、ボロ屋には似合わない精巧な掘り飾りをなぞった。
母はこの貧乏暮らしにあってもどこか夢見がちな人だった。隙間風の吹き込む小さな家の中で、少年を育てながら騎士を待つ姫のように毎晩父の帰りを待ち続けた。父もそんな母を大層大事にしていて、当然のように少年の事も愛してくれていた。しかし、父が仕事中の事故で死に、騎士が姫の元へと戻ることはなくなった。絶望した母は精神を病み、病床で延々と父に会いたいと呟き続けた。少年は母を愛していたので、どうにかその願いを叶えてやりたかった。彼は幼い脳みそで一生懸命考えた。学び舎ではいつも一番の成績だったが、母を父に会わせる方法は全く思いつかなかった。手をこまねいている間にも、母はどんどん弱っていく。少年は焦った。焦ったが、どうにもならなかった。父が死んでから一年後、母も冬の厳しさに耐えられず枯れ木のように死んだ。
母は死の間際まで父に会いたがっていた。おそらく、最期には自分の夫が死んでいるということも忘れていた。最愛の夫はいつか自分のもとに帰って来てくれると、信じて疑っていなかった。彼女は、最期まで夢見がちな乙女のまま死んだ。
そして、少年もその気質を受け継いでいたようだった。
母が死んだあと、少年は暫く呆然としていて、その間の記憶はあまり無い。ある雨の日、母の幼馴染だと言う男が家を訪ねてきて、ベッドに寝かされたままの母の亡骸をどこかに持っていき、少年に食事を食べさせてくれた。男は、引きこもっていた少年を散歩と称して外に連れ出し、色々な話をしてくれた。ある夜、少年はその日の月がやけに大きいことに気が付いた。少年は、その時初めて男に話しかけた。

「今日の月は大きいね」

その時の男の様子を、少年は非常によく覚えている。男は一瞬目を見開いた後、口をふにゃりと歪めながら笑った。月明かりでできた深い影が男の表情を大げさに際立たせていた。

「今日は一年の中で一番月が大きく見える日らしいぞ」

男が少年の顔から眼を離さずにそう答えた。少年がふうん、と返事をすると、男は少年が興味を失ったと思ったのか、焦ったように言葉続けた。

「そもそも月は地球から一番近くにある星だけど、今日はその中でも一番距離が短くなる日なんだそうだ」
「近い?」

少年は思わず、月を見上げていた目を動かして男を見つめた。

「ああ、今日は一番月が近い」
「ほかの星と比べても?一番近くにあるの?」
「そうだよ。一番近い。他の星とは比べ物にならないくらいだよ」

男は、首を傾げながらも優しい表情で答えた。
その瞬間、少年は頭の中の霧が一気に晴れたような気がした。母が死んでからうまく動かなかった脳みそが急に働きだしたような、そんな気分だった。
少年は母に謝りたかった。お父さんに合わせてあげられなくてごめんね、病気を治してあげられなくてごめんねと謝って、そして母にもう一度抱きしめてもらいたかった。母は父のことが大好きだったから、父に会えればその横に母がいるはずだと思った。
その翌日、少年は小屋を支えにして、細い鉄骨を一本地面に突き刺した。それから四年間、少年は毎日欠かさずにがらくたを積み上げ続けている。
冬が深まり、昼夜問わず雪が降るようになった。少年の生活の中で体が温まるのは工場で仕事をしている間だけになった。工場の中と外、極端な寒暖差で少年は風邪を引いた。夕方になると、乾いた北風が吹きすさび、少年のかさついた手を斬り付けていった。冷たい空気と埃が鼻腔に入り込み、少年は大きなくしゃみをした。
あの夜、母の幼馴染の男が少年に向かって初めて怒声を挙げた夜から二月ほどたったが、男が少年の元を訪れることは一度もなかった。少年は、もう二度と男と会うことはないだろと思った。男は少年の事を気にかけ、何度も忠告してくれたが、少年は終ぞ言うことを聞かなかった。今まで、少年の傍から消えた人たちはいつも星になって見守ってくれていたが、男は死んでいないので星にはなっていないし、もう愛想をつかしてしまっただろうと思った。後悔も罪悪感もないが、自分の中の大事なパーツをなくしたような気分だった。
慣れない感傷に浸っているうちに、家へとたどり着いた。気温の低さのわりに、少年の体は火照っていた。手にじんわりと汗がにじんで湿っている。いつもなら一度寝てから塔を組み立て始めるのだが、今は一度寝たらそのまま朝まで起きられないだろうと思った。
気付けば、数日間振り続けていた雪が止んでいた。雲の合間から満月が現れ、少年の足元を煌々と照らしていた。少年は地面に積もった雪を足で払い、塔の傍に鞄を置いた。周辺の瓦礫の中を漁り始めたが、めぼしいものは見つからなかった。仕方がないので、廃墟街に限りなく近い場所まで向かう。数十分探して、ようやく街灯を吊るすための細い棒を見つけた。ぐっと引っ張ってみたが、何かに引っ掛かっていて抜けなかった。棒の表面に張り付いた雪に手を冷やされながら、少年はどうにか棒を引きぬいた。そのころには少年はへとへとで、乱れた息が空気と混じって白く散っていくのを暫く座って眺めた。運がよかったのは、いつもより一際明るい月の光で手元が見やすかったことだ。おかげで、余計な怪我をしなくて済んだ。
見つけ出した棒を、がらがらと引きずりながら塔の根元へと運んでいく。手に滲んだ汗と解けた雪で棒が滑る。棒の表面が風化してささくれのように尖り、それが結局少年の掌に傷をつけた。出来立ての傷に汗が染みて痛い。塔にかかっている梯子の真下までたどり着いたときには、正直今すぐにでも寝てしまいたかった。しかし、そういうわけにはいかない。一刻も早く、塔を完成させなければいけない。どういうわけか、母の死から時間が経てば経つほど、月を手に入れられなくなるように思えていた。
少年は、鉄の棒を左手に持ち、右手で梯子を掴みながら慎重に登り始めた。満月の光が、眼の水分に反射して沁みた。手のひらの動きで幾つもの傷が開いて痛い。耐えかねて、少年は一度梯子を登るのを休むことにした。いつの間にか、頭もずきずきと痛んでいた。少年はいつか設置した鉄板の上に鉄の棒を置いた。

「あっ」

風が吹いた拍子に、安全に置かれるはずだった鉄の棒が鉄の板の上を転がった。このままでは海に落ちてしまう。少年は焦って手を伸ばした。
バキン、という鈍い音が少年の右手の先から鳴った。古びた梯子は、塔の斜面を支えにして辛うじて立っていた。固定のために打ち込んでいた釘は、支えと逆方向にかかる少年の体重を受け止めきれなかった。
少年の体は、軽く宙に投げ出された。訳もわからぬまま、下へと堕ちてゆく。火照っていた体が、吹き上げる風に冷やされて気持ちよかった。いつのまにか、落下していたはずの少年の体は、一転してぐんぐんと上昇していた。ぐるぐると回転して、周りの風景が高速で過ぎてゆく。目が回りそうになる中、丸い、大きな、金色の光が目に飛び込んできた。いつもなら遥か遠くにある満月が、少年の視界いっぱいに広がっていた。
今、少年の悲願が叶おうとしていた。満月はどんどん近くなる。少年は満面の笑みを浮かべて、両手を伸ばした。
ぱしゃんと音を立てて、満月が少年の体を包み込んだ。

© 2026 本多りお ( 2026年5月8日公開

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