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スピリチュアルセラピスト宣わく

尼子猩庵

 アナログなアマチュア作家が、スマホデビューを果たし、便利さに喜んでおりましたところが、ある日知らぬ間にGeminiが入っていたので、試しにエゴサしてみたら、噓八百言われましたために、もっと噓八百書いてやったとのことでした。

タグ: #純文学

小説

9,386文字

 

 

 

お前さまの神経の不調の原因は、魂の不安定にござります。

早い話が、お前さまには、小説家の霊が憑いておる。や、悪霊ではない。お前さまの背後霊として、憑いていること自体は尋常でござるが、部分的な癒着のため、魂の輪郭が二重にブレているかのごとき観を呈しているのがよろしゅうない。

霊について、高名かどうか。そうでもないが、無名でもまたござりませぬ。名は、まだボンヤリしていて読みづらい。――嗚呼、こちらか。ェえ、お前さまの背後霊、その名を尼木猩々斎と号する。非業の死、怨みつらみ。や、そうではない。

忘られた哀しみに近いもの。当人は認めませぬ。尼木猩々斎、はばかりながらいっときは洲本閻次郎、丸木戸砂堂と並び称された。その記録はいずこ。幽冥界に。今世には。無念、今や記録は残ってはござらぬ。失礼。散逸に過ぎず、大勢の小鬼のたぐいが探しに行きました。

いやいや、話されよ。話されよ。ほうほう。新・奇岳小説界三大巨匠時代があった。尼木猩々斎、かの文芸雑誌『歌屑俱楽部』、『悟筆工房』、『じやまにい』に作品多数掲載。独特な美意識を持つ耽美と乾枯の隠れた巨匠と称せられた。彼を評したのは主に安藤鰤天、白土塀樹楽、丸木戸砂堂。

どうやら……彼にもまた安土桃山時代の出雲の戦国大名が憑いており申す。――名は不詳。一族の没落と出家・遁世。一族再興を祈って陀羅尼三昧。しかし夢は叶わず。その無念が生来冷静沈着の猩々斎の性質に荒々しいものを加え申したようでござります、ハイ。

具体的には山田半葉の南国産の巨体・軍隊仕込みの面付き・ハイカラ趣味への憎悪となって表れた。いっぽう半葉の作品に対する辛辣さは、猩々斎がほんらいの強烈な卑下と謙遜が他者への評価にも及んだ結果に過ぎません。

や、しばらく。何事かくり返しておる。――「日本怪幻小説の父」とくり返しておる。丸木戸砂堂か。然り。『歌屑倶楽部』を通じて尼木猩々斎が世に出る舞台を整えてくれ給い候。恩義少なからずとのこと。

大いに話されよ。わたくしが咒力で強制することはたやすいが、それでは根治にならぬゆえ。や、さらなる戦国大名さまは、今しばらくお控えを願いまする悪しからず。

尼木猩々斎、斎は敬称で当人の署名は尼木猩々、本名を田知花潔、幼名を昇夫。戦前の新・奇岳小説界においてデカダンと幻想の極北と称せらるる短編を多数物し、当時の熱狂的な読者に支持された。素晴らしいことでござる。大いに話されよかし。

(――もし。むろんわたくしも解明には全力を上げまするが、お前さまも、ご自身、何かしら「これは」と感ずるワードが出て来ないか、じゅうぶん注意せられよかし。)

ははあ、これは昭和初期の街並みでござろうか。街並みにあらず。これはジャンルの胎動。新・奇岳の美学。作品の底深い臭気を核とする本格怪幻小説に抗する若々しい情熱の色味であり申したか失礼致した。

セイヨウシャクナゲが花を開く薄暗い庭が見えており申す。おどろおどろしい幻視的展開と、原点以前への回帰、デカダン、デカダン、デカダン、笑い、冒涜、不敬、反骨、――

――嗚呼ッと! ……大事ござんせんか。いいえ、お前さまのご心配には及ばない。はすっかけに斬られ申したが、猩々斎自身が実際に傷を負うたわけではありません。曲者は誰ぞ。加藤凡雁。なにゆえ斯様な乱暴狼藉を。砂堂と半葉への愚弄を憤ってのこと。

と、ここへ見知らぬ小鬼のたぐい、加藤凡雁の使いと称し、加藤の犯行ではないばかりか、加藤はここにおらぬ。のみならず加藤は尼木猩々のことなど眼中になかったとのこと。なるほど? 加藤はおらぬ、しからばそのほうどもは誰の使いぞ。ハイ、けむと消え申した。

や、しばらく、しばらく、このまま浮かばれ給うことなかれ。ええ、お前さま、猩々斎は疑心暗鬼のふうですよ。自身の小鬼めらの帰りが遅く、エビデンスの不在が寒いとお歎きですよ。

いいえ、戦国大名どのはまだもう少し、悪しからずご了承くだされ。猩々斎におかれましては今からでも傑作を書かれよかし。いまいちど時の文壇を震撼せしめ直し給えよかし。いざ。――ウム、書斎へ行かれた。そのあいだにそろそろ慣れて来たわたくしの心眼にて脳脊髄膜に映ぜしむる鏡面。一網打尽の大漁でござる。もんじに浮かび上がり、次々と刻せらるる当時のうわさ。等身大の尼木猩々斎を追跡し、その謎めいた人物・作品・逸話・醜聞のたぐいを訪わん。

何が治療のヒントとなるやも知れぬことであるから、お前さまも重々注意すべし。

あまぎしょうじょうさい本名たちばなきよし1898年(明治31年)兵庫県姫路市生まれ。底深い臭気の殻を破ってまろび出た新・奇岳、その中でも特に「未来的耽美」と「地球的背徳」に傾倒していた。筆名「猩々」は唐土の妖怪、人語を解する猿のようなもの。酒を好み、赤面赤毛。彼の作品の、時にどぎつい色彩感覚を象徴す。

――……刮目。丸木戸砂堂は猩々斎独特の「静かなる爆撃」を高く評価していた。

猩々斎の処女作(のちに覆される)『略式乱痴気チキンレース』が『歌屑俱楽部』に掲載された際、砂堂はその誇大妄想的世界観を絶賛した。砂堂が新・奇岳小説の可能性を広げようと画策していた時期、猩々斎はその期待に応える最も尖った才能の一人でござりました。

当時の批評。散見せらるるワードは異質、濁流、密度、窒息、理解不能。

代表作。『手すりの指』(『悟筆工房』収録)非難と絶賛の投書殺到。『虫食いのあるモザイクのパズル』(『歌屑俱楽部』収録)タイトルだけ取り沙汰され加藤凡雁への揶揄を指摘されるも沈黙を貫く。『ムーサの痰壺』(『歌屑俱楽部』収録)詳細不明。『ホルマリン・チルドレン』(『悟筆工房』収録)詳細不明。『猿の天麩羅』(『悟筆工房』収録)詳細不明。

生理的恐怖と無意識的脅迫観念。比喩を写実と転ずる試み。アフォリズムに手足をつけて生活せしむる筆法。錯覚なのか暗示なのか、小さな違和感が次第に日常を溶かし、懐かしき異界を迎える。現代のサイコ・サスペンスに通ずる道から逸れ、後進なき荒野にいまだ立ち尽くしている。

痛覚を伴う宗教的デカダンス。解剖学的な冷たい集中力。静かで救いのない孤独を大衆娯楽の域に届けた。失礼、最後の二つは猩々斎が他者へ送った批評です。

――おお、吉報到来。これなるは夜鷹による伝書鳩。まだボンヤリして読めない。代わりに我が耳石を盛んに磨いておる読経は尼木猩々斎の「膿」を強調す。半葉の「間欠泉」に比して猩々斎の「床を腐らす水漏れ」。

夜鷹の解析に成功し申した。これは当時の尼木猩々斎を知る人々の証言。同時に次々と刻せらるる当時の客観的文献。

洲本閻次郎・丸木戸砂堂に比べて資料が極めて少なく、その作品のインパクトに反して逸話が著しく少ない。写真や肖像画もない。当時の文壇の記録からかろうじてわかる容姿と雰囲気は、病的なまでの清潔感。貴公子のような端正さと翳。

しかし「彫刻のように無駄な贅肉がない」と評せられた彼の文章と外見との一致を望んだ読者たちの俗的な願望が砂塵となって舞っておる。真実の抽出今しばらくごめんなすって。

逸聞。彼は運動神経に優れ、並外れた怪力であったが、どちらかと言うと小柄であったために半葉の大柄を妬んだのではなかろうか。後半はわたくしの個人的感想です失礼しました。

難解なところでは「死の影を帯びた美貌」という表現。ここにおいても山田半葉が豪放磊落な大男という印象なのに対し猩々斎は線が細く、都会的でどこか没落貴族めいた風貌であったという対比が描かる。彼の作品があまりに耽美で残酷だったため読者のあいだでは「肺病病みの薄幸の美青年」というイメージが定着しており申した。

人柄について。我が脳膜に刻せらるるもんじにいわく孤高の凡聖、閉鎖的プロフェッショナリズム。文壇の中央で発光することを好まず、飽くまで己が独善的世間美を追求する破滅的趣味人として、人付き合いを極端に逸した。

己が世間美の信ずる世界をヒッソリと、かつ徹底的に守る番人気質。晩年――おお、もはや晩年のもんじ――故郷の姫路ではごく凡庸の良識ある市民として振る舞い、近隣住民も彼が怪幻小説を書いていたとは夢にも思わなかったという証言が存する。

作品に「形而上学的解剖学」あるいは「解剖学的形而上学」という傾向を指摘せらる。宗教的・哲学的濫識。また珍奇な骨董品への執着は有名で、そもそも借金苦の生活から、窃盗罪による生傷が絶えない。過度に理知的でありながら、マニアックな知識欲に苦しむ人物であった。

――……刮目。――いやそうでもない。手紙に見る謙虚さというもんじが出ておる。しばし待たっしゃれ。刻々と鮮明になりおる……ハイ出ました。編集者や他の作家に宛てた手紙では、筆圧重く字は悲しく、卑下・謙遜する姿勢を断乎崩さなかった。

夜鷹の去った残像に這い込む蝙蝠の鱗粉。その紋様をもんじとして読み解く。いわく、猩々斎は戦後、文学の世界から離れ、その「不在」を墨と成して誰にも読まれぬ年譜を書いた――これはいささか蝙蝠の気負いか。片腹痛しと夜鷹の残響。

さあ刮目お立ち合い、砂堂は猩々斎の才能に惚れ込み、何度も彼に執筆を依頼したり上京を促したり致し候。しかし帰郷後の猩々斎は断り続けた。砂堂は「猩々斎は彼が見ようとした世界を完成させるために、見ることを断念した」という回想を残している。「皮肉にも余の求めた金無垢の新・奇岳作家」であり申したのだと。

どなたかな。珍々鴨々と名乗る小天狗。閉じた羽団扇で講談師みたように釈台を叩きながら申さく、近年の密かな猩々ブーム。壊れた執着を朗々と綴る尼木文学の中毒性。レトロ異端文学が再評価される中で尼木猩々の作品も復刻が進んでおります。作品は短編が多く、怒涛の勢いで現代仮名遣いに改められて難解な専門用語の解説も丁寧過ぎるほどでありながら各ページのケツッペタにて読みやすかろうと存じますが今度の週末に一冊いかが。買った。ハイそこのお方お目が高い。購入ページへはこのQRコードからどうぞ。

ええい去ね! 去にさらせ譫妄のゴロツキめ。……ブームなんぞ起きっかいな。

猩々斎はまだ戻られぬか。何です。何と。まだ書斎に着いてもおらぬ。廊下の長さはダンテが煉獄さながら。や、わたくしの脳膜に現ぜしめられた副作用。それは悪うござんした。戦国大名どのは。出雲へ帰られた。帰ってすでに四半世紀とはまた。

しばらく。生前の尼木猩々斎が帰郷しますよ。いやまだ砂堂の回想ですか。「破綻した知性と耽美な諧謔、時に筆の荒ぶることもあるものの、あんがい体育には熱心で、また顔の広い一面もあった。若白髪のために剃るとマッタクのつるつるに見えました。眼つきは精悍だったのが、酒の祟りで早くも崩れき」。これは誰の。読めない。「それもそうで彼女の親父は千石の旗本でげしたからな。ゼニ目当てでがしょうよ」「激昂スルト座談ノ麒麟児、火花ノ散ルヨウナ談論風発、煙草ヲ吸ウト途端ニ鎮静ス」これはいつ誰の。読めない。

黴臭い書斎にて標本・古書のたぐいを眺めつつ、荒唐無稽な筋を夢想していた。ウムこれは猩々斎でしょう。彼に直木賞を取らせるなと妨害する運動があると人に洩らすこと一度ならず。裏は取れず被害妄想のケがあった由か。

帰郷と直木賞妨害事件(?)との関連は不明。帰郷後は家業の印章店を継ぎ――妻は、今しがたの「ゼニ目当て」というのが何処の紙面にもない。二男二女に恵まれ、家庭人としては子煩悩な良き父であった。(ちなみに次男田知花彬はフライ級のプロボクサーとして活躍致し候。)

姫路という土地が彼の作品に投影せられているかどうか。彼の狭隘な歴史観や重篤な痴言を解する鍵となるか否か。

見えまするは壮麗な白鷺城と城下町。しかし彼が描くのは表向きの花やかさにあらず古い家系や土着の閉塞感。彼の作品に漂う良家の崩落や血筋への執着は、また広大なる石垣や静まり返った古い屋敷の描写は、これは姫路の町並みにあらず出雲の戦国大名から来るものか。お家復興の悲願と無念。あるいはお前さまの故郷神戸・平野の風景。白鷺城と見えたものは大倉山か。ここな大倉山はお前さまの記憶にある丘陵公園にあらず、その全容は平清盛が夢の跡。

猩々斎はいずこ。書斎に向かいつつある霊体ではなく生前の足跡は。珍々鴨々はもうよろしい、夜鷹や蝙蝠どもはおらぬか。

やあ、これがわっちの後生でありんすか。や、ここは時の地続き、後生にあらず。これ、そのほう、そっちの先生よ。腕があるのはいいがイタズラに未来なんぞ見せるものではない。わしか。わしは悪鬼にあらず。何を抜かしおる。――ハイお立ち合い、屎蝦蟇がのそりのそりと釈台に上りました。刮目々々。

屎蝦蟇がバリトンの嗄れ声で語らく、猩々斎が晩年の足跡。それは静かな沈黙の日々。怪幻小説界で鮮烈な印象を残した猩々斎は戦後にとつじょ筆を折り、姫路で田知花潔としておだやかに暮らした。そのまま生涯を閉じた。

や、いえいえ、お前さまの先祖ではござらぬ。血の繋がりはあり申さぬはず。いちおう、お前さまの祖父母の生地は。へェ、へェ、父方の父は洲本、父方の母は荒田、母方は父母共に魚崎。名は……へェ、へ、どういう字で。ほ、ほ。――ほい、間違いござらん血の繋がりはありません。

ではいまいちどそのつもりで聞くように。お前さまの魂の肉体と背後霊の悪しき癒着を剥がす。わたくし正直屎蝦蟇の臭いが耐えかねるので早くここを終えたい。よろしいか。

尼木猩々斎の作品の端々には播州の風土を思わせる描写が散見せらる。都会的モダーンと旧家の暗がりの混在、前者は当時の神戸や大阪への都市憧れか。大規模な海浜埋め立てにより重化学工業地域へと変貌してゆく晩年の視野、お前さまに憑いた理由はこのあたりのアンビバレントな心理を軽く覗けば推して知るべし。

古い路地や寺町。瀬戸内の静かな海。中央文壇からすれば「そこにいない」ということ。消え方の美学。そして静かに居残り、時折開腹せられて読まるる作品群。尼木猩々斎の作品が収録せられた現代のアンソロジー……猩々斎の作品は長らく幻とされて来ましたけれども、近年のレトロ文学・怪奇文学ブームにより、手軽に読めるようになりました。『怪幻小説集6 尼木猩々斎集 生贄物語』、『丸木戸砂堂選 新・奇岳小説集Ⅱ』、『日本怪幻小説全集』――喝! 申し訳ございません、屎蝦蟇の正体は珍々鴨々でありました。

夜鷹の落として行った羽根、蝙蝠らの鱗粉の残り、これらに卜をかけます今しばらく。盲亀の亡骸より拝借したる甲羅をこうしてこうこう、こうしてこう、ヨシ出ました。

いやまだか。焼き上がるのを待つあいだ、わたくしが心眼にて近いところを見ます。これは聴診器のようなもの。サア……いよいよ光明が見えたと申すべきか、かえって暗礁に乗り上げたと言うべきか時の文壇を席巻した最新の学問、精神医学・異常心理学への情熱。

フロイトの精神分析学が紹介せられて「魔法を解く魔法」を手にしたごとき昭和初期のカシコの巷。尼木猩々斎も例外でなくカブレた。無意識。記憶の深淵。トラウマ。精神病。

なまじカブレたインテリを治すのは骨であると同時に、多くはマッタクの見当違い。当人は同じ高みで会話が成り立っていると思い込んでいる蒟蒻問答。少しずつ患部を取り除き候ご心配なく。

漸う焼けて来申した。亀の甲羅、ボクという音がして割れ目を生ず。卜をひらく。するとこうなる。帰郷後の消息が中央には届かなかったため、独り歩きした観がある。以下当時の作家、歌人、画家、評論家たちの証言。

「彼は自分の書いた悪夢の中に自らを軟禁し、カーテンを閉めて仕舞ったようでした」檜山撫月。

「猩々斎の小説を読むということは、夜空に曼荼羅を広げてゆくこと、俗的に言えば、神経麻痺液を少しずつ少しずつ小腸に流し込むような感覚です」新崎牛血。

「彼の人生そのものが、一篇の新・奇岳小説のように、奇異で、不可解で、腑に落ちないものでありました」天竺入道。

「尼木猩々が書いたものは沈黙だけだ」吉野鼠鳴。

「何も考えず長く見ていると何処からか不図迫るものがある。良くも悪くもない構図ばかり分量だけは凄まじい異常さに己が審美感覚への信頼が崩壊させられそうな怨念。畢竟一人の取るに足らない凡人画家を酷使して生半にもせよ描かしめた霊感の体臭が嗅がれる。この画家は描けないということを描いた。彼は描いていない処に生ぜしめたのであって描かれた部分は画面から断絶している。彼は美を完成させる為の断念よりも全てを即死させる無理心中を選んだのだ。それが猩々斎という永遠の命を持つ素人作家だ」北山閑木。

また彼は同郷の悪友であった山村童村(本名・大原伊澄)、林鶯骨(本名・葛木美濃太)らと共に近所の魚屋――庭に生えていたカリンの幹が、彼を狂わしたという逸話は有名――の二階を借りて事務所を設け、文芸結社『珍毘羅文庫』を立ち上げた。そうして「自爆派」を標榜、同人雑誌『悟筆工房』を創刊した。

創刊号に収録されたのは『アレクサンドリア図書館』。徐々に中央文壇の鼻つまみ者となって行ったが、実際ひねもす生臭く、悪くなった魚を貰って食っては中ってばかりいた胃腸の不調から奇想を得たのだろうと揶揄された。

余談。彼は自分で挿絵も描いた。挿絵への評価はまたの機会に。

さらに余談。彼のビオロンの腕前。これも蛇足にござりまする御免なすって。

――失礼、自爆派は自称にあらず、のちに無頼派へと変遷――失礼無頼派は太宰の『パンドラの匣』から。正しくは異常心理を探求した新・奇岳の旗手たちを評して千葉亀雄が「自爆派の誕生」と言ったことに由来す。猩々斎はその片っ端に入るか入らぬか。しかし名誉や富など俗的なものを超越していた猩々斎があんがい自爆派に分類されることに拘泥していたという証言も存す。失礼、千葉亀雄は「新感覚派」の命名者です――……

よォよォお待ちかね小鬼たちのご帰還! ここからはお任せください。ェえ、少々お待ち願いまして、もんじに並べ替えますんでな。現時点では朧に過ぎるの誹りをまぬかれぬ尼木猩々斎について、確かなエビデンスを提示してご覧に入れましょう。

整いました。雑誌『歌屑俱楽部』、『洋杖文芸』、『耳目之本』、『じやまにい』への掲載。昭和九年(1934)から翌年にかけて猩々斎の主要な作品が掲載された号が現存す。

丸木戸砂堂『新・奇岳小説六十年』の中で猩々斎を「前途多望な新・奇岳の新人」と評す。

『日本怪幻小説辞典』において本名・田知花潔、生没年1898~1972、経歴・神戸市出身、旧制県立第三神戸中学校中退等が公的な記録として記載されている。

やァやァ霊体の猩々斎も戻られた御苦労様。首尾はいかに。大傑作を書かれた。どのくらいかかり申した。四月半。しかし胸を病まれたのではありますまいか。貴殿の視野を拝借。鏡を見られよ。果たして! 出雲の怨霊はわたくしが押さえますゆえしばし目を閉じて。さあ貴方さまの番はも少しあとにござる。これ以上の邪魔立ては許し申さぬぞ。信じぬとあらばこの場で祓うて進ぜようか。ェえ? いざ! ……もう目を開けて結構でがす。

めでたく時の文壇へ猩々斎が威光を増すことに成功せり。これにて猩々斎が哀しみは晴れ、その元凶たる戦国大名どのの無念も癒え、お前さまの神経症も治るというもの。

サアどれどれ、猩々斎が新作の古典文学は。ェえ――まず現代の復刊・再評価について。ェえ、「幻の作家」が現在どのように扱われているかを示す2020年代の動きから。

●●出版版『尼木猩々斎傑作選』。これが現代における最も強力なエビデンス。散逸していた作品を網羅し、詳細な年譜と解説を加えたのがこの豪華本であります。

次いで××××におけるパブリックドメイン作品の相次ぐ公開。これは誰が。あァ個人情報。とまれデジタルプラットフォーム上での公開も盛況。

次いで北山閑木が随筆なる『手信号』の中に猩々斎の作『提婆達多』や『サファイアのジャム』が記述されている。猩々斎の禍々しい宗教観と色彩感覚を論ず。

またまた一人の小鬼が到着、サアくだんの傑作はこれにて候、『オール讀物』に掲載され第五回直木賞(1937上半期)を受賞した『偸盗菩薩』は尼木猩々斎の作であるということが今や定説、これなるは彼の客観的評価を証明し、冒頭の山田半葉・加藤凡雁と並び称された「三大巨匠時代」なる妄言の心強い証左となりましょう。

さらにさらに、もはやフィルムは焼け申したが松竹大船撮影所から猩々斎の戯曲『ただならぬ気配』と『きれいな木』が上映された。その頃にはしかし帰郷しており、当人が見た記録はない。

以上興信所による報告でしたご退屈さま。

――……興信所とは何か。え、小鬼ら。おや、貴様らの鼻の長さ、この臭さはどうしたことだ。さては! ……イヤハヤ、喝も俟たずして現れしはあんのじょう屎蝦蟇の皮を着た小天狗珍鴨。これは全体どういうことでござろうか……。

え、お前さまに心当たりのありなさる? いかようなる――……しばし。失念致し申した、お前さまのご尊名や如何……え、これは何ですか。尼子猩庵というのは。いや、え、お前さまが尼子猩庵。それは本名ですか。ペンネーム。すると何か物をお書きですか――嗚呼なるほど。嗚呼、そうですか。あのそれで本名は――はあ、はあ。ではそれで、あとあの、受付番号は――嗚呼ハイなるほど。や、わかりました。いて、いえ、しかしそうなりますとわたくしが脳膜に映ぜられた尼木猩々斎なる人物についてですけれども、ァ痛! 何だ。これがおいどんの前生でごわすか。左様々々。ややッ、またしても悪鬼羅刹の眷属、忌々しい天狗め成敗! 待たれよ話せばわかる! 問答無用! ――嗚呼ッ‼ …………。

たいへん失礼致しました。それでは続きまして――その前に大国主命よ幸あれ。そいから天之御中主神、高皇産霊神――……出雲大社こそ総元締めにござんす、ハイ。

ええ、ご入金確認致しました。それでは残りのナニをアレして候。いえいえこちらの話。この手の混線は珍しいことではござりませぬ。よろしいか。――よろしくない。そもそも我らが流派、電話の普及で大なる危機を迎え、濾過術にて抗し申したがインターネットの登場で壊滅的なダメージ。これの防波堤を乗り越えて来たのがSNS時代。ぽっぽぽっぽと無数にひらく言の葉に群がる無数の眼球、違うとわかっていても目が行く。

またこちら向かって語りかけて来る動画配信者たちと死者たちとの区別のむつかしさはもう天賦の感性で乗り切るのほかありませぬ。たいそう篩にかけられ申した。

なお、生成AIは驚くほど無害です。我らにはその姿が見えませぬでな。

――もうよろしいとはまた。ハアさいですか。無理にお引き留めは致しませぬが。

いやァしかし、どこの文献にも載っておざらぬ田知花潔という一人の田舎者と尼木猩々斎という陽炎のごとき実在性の枯骨。彼らと我ら、実在するのはどちらでがしょう。

お帰りはあちら。延長はご勘弁仕ります。

最後に屎蝦蟇宣わく、もし播州方面へおいでのことがありましたらぜひとも出雲大社までお立ち寄りくださいませ。美味しい明石焼きを食わせる店を知っておりますゆえ。

 

 

 

© 2026 尼子猩庵 ( 2026年4月12日公開

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