あの日、頭の中で何かが弾けた。
他人と親しくするのは自分が過ごしやすくするためであり、エゴであり、自衛であり、処世術だった。だからつまらない話でも聞いてやる。自分が話したいのを抑えて、聞き役に徹する。「それでそれで?」「えーどうなったの」興味もないのに相槌を打つ。それが大人になるということなのだ、と思っていた。皆に私は合わせてやる。合わせてやれば、中高生の頃が嘘みたいに上手く回る。話すのが下手なら、話さなければ良い。良い聞き役になりさえすれば良い。いずれ大人になれば、こんな自分を中二病の治り切っていないイタい大学生だとか黒時代だとか振り返るようになるのだろうか。社会に迎合して内心で逆張りしていた自分を嗤う日がくるのだろうか。そうやって、斜に構えていた。
「親、いないんですよね」
伊藤くんの声を反芻する。あの日のバイトは伊藤くんとペアだった。うちのコンビニは基本的に二名体制だ。三名体制のところも多いが、近所の神社が初詣で忙しい日も、閑古鳥が鳴いている日も二名。伊藤くんとは何度もシフトが被ったことはあったものの、あまり話したことがなかった。彼は、私よりも後に入って来たのに、仕事の覚えもスピードも速く、有能だった。背も高いので変な客にも絡まれない。私は変なおっさんにも絡まれる。女だから。不公平だ。これまでシフトが被っても、お互い無駄話もせずテキパキやるタイプだったので、大した会話は生まれなかった。その上、同じようにテキパキやった時、彼の方が速く、ミスもなかった。品出しもレジ点検も。不公平だ! だから、余計に私は躍起になって作業を速くしようとした。そんな私の気も知らないで、彼は勝手に私の抜け漏れの穴埋めすらする。正直言って、私は僻んでいた。敵対視していた。私のように要領が悪く泥水を啜って努力して能力を身に付けている人間の痛みを彼は分からないだろうと高を括っていた。
ただ、あの日、何かの拍子で会話が生まれた。何の流れでその会話になったのかは忘れてしまった。衝撃で消し飛んだから。
「いないっていうのは、出張とか?」
「あー。違います。あの、すみません。これ言うと、変な空気にいつもなるんですけど」
「いいの? 聞いちゃって」
「はい。こういう機会がないと、自分から言うことでもないんで、構いません。父は物心ついた頃からいなかったのですが、母は三年前に失踪しました。彼氏がいたので多分男について行ったのでしょう。親戚もいませんし、そういうわけで現在一人暮らしです。ババーン」
ババーンじゃねぇよ、とツッコミ損ねてしまった。いや、それとも意外とお茶目なんだね、とでも言うべきだったろうか。彼が危惧していた通りの「変な空気」になりながら、私は「ああ……」と一番嫌なタイプの相槌を打ってしまった。そしてその「ああ……」の五秒間で彼は自然体で有能なのではなく、必然性に駆られて有能になっただけなのだと推測した。その推測が正しいかは分からない。ひょっとしたら彼は元々才能に溢れた人間だったのかもしれない。親に恵まれなかっただけで。伊藤くんに比べたら、私の苦労や努力はカスだ。この目の前の天涯孤独の男の子の人生比べたら平凡極まりない。天丼マンのリズムに合わせて「平々凡々平凡々」と言えてしまうほどに平凡。私は店の床の汚れを見つめながら、黙った。黙って、溢れ出してくる感情に堪えた。
可愛い。
親に捨てられた伊藤くんが可愛い。この感情は可哀相かもしれない。気にかけてあげないと。守ってあげないと。治療してあげないと。ああ、まただ。私は可愛いと可哀相の区別がつかない。いや、可哀相な方が可愛い。子供の頃に見た女児アニメで、主人公たちが敵に苦しめられ傷だらけになっている姿を見て可愛いと思ったのが最初だった。凛々しく戦ったり、愛らしく微笑んだりする姿よりも、血だらけでボロボロのヒロインの方が可愛い。「大丈夫?」と言いながら包帯を巻いてあげたい。でも言葉の由来としては可愛いも可哀相も同じらしいので、この感情は正常の範囲内である、としておく。その可愛さは物理的なものでは留まらず精神的なものにも適用される。今がまさにそうだ。
伊藤くんに興味がわいた。
唐突な伊藤くんからのカミングアウト以来、私は彼にやたらと話しかけるようになった。今までは敵対視していたので、伊藤くんが知らなくて私が知っているような業務はあえて教えなかった。それでも彼は別シフトで勝手に習得していることも多々あったが。しかし、この日以降は自ら教えるようになった。伊藤くんと会話がしたかったから。伊藤くんのことを知りたかったから。私が話かければ彼は会話をしてくれた。人生を上手く回すためにこなす会話じゃなくて、伊藤くんと会話がしたかった。根掘り葉掘り伊藤くんのことを聞き出した。ピーマンが嫌いとか、ゴキブリを素手で殺せるとか、誕生日は三月七日とか、バイトは三つ掛け持ちしているとか、一月からは正社員でよその会社に行くのだとか。もうちょっと早く転職したかったが、コンビニのオーナーに止められて一月になったとか。それを知った時、既にあと二ヶ月しかなかった。伊藤くんの誕生日を祝うこともできない。
私はわざと意地悪な質問をすることもあった。
「お母さんと会いたくなったりすることないの」
「元々早く家を出ていきたかったんで、丁度良かったです」
伊藤くんはなかなか負けない。
「お腹を痛めて産んだ子なのになんで捨てたんだろうね」
鈍感な善人のふりをして、私は伊藤くんの瘡蓋に手をかける。
「『男の子だから大丈夫だよね』ってよく母は言っていました」
瘡蓋が剥がされて、まだ治り切っていない傷が露呈する。
「男の子だから、授業参観行かなくて大丈夫だよね。男の子だから運動会来なくて大丈夫だよね。三者面談行かなくて大丈夫だよね。男の子だから。インフルエンザになっても大丈夫だよね。骨折れても病院付き添わなくて大丈夫だよね。男の子だから。ご飯あげなくても大丈夫だよね。帰って来なくても大丈夫だよね。一緒にいなくて大丈夫だよね。一人で大丈夫だよね。男の子だから。男の子だから。男の子だから大丈夫だよねって」
湿った傷口からじくじくと膿が出てくる。
「女の子なら違ったんですかね。知らんけど」
「なんで急に関西弁」
「産まれは関西なんで」
あはは、と声を出して伊藤くんは気丈に笑った。可愛い。でも、可哀相だ。伊藤くんの傷を見ることができたのは嬉しかった。これは悪い感情だ。こんなことを言うべきでなかった。そうまでして傷を見て何になる。私は痛む心に酔っている。両親も健在で大学にも通わせてもらっている恵まれた平凡な私は、恵まれていない非凡な伊藤くんを守らなくちゃ。慰めなくちゃ。そういうやる気にみなぎった。惰性の毎日が変わった。楽しくなった。見える世界が変わった。本当に変わったんだ。でも、伊藤くんは私に守られるほどか弱くない。守るなんておこがましい。うん、そうだ。私は守りたいと思いながらも、何もしなかった。できなかった。だって守る機会がない。今日も町は平和だ。屈強な男の子相手に暴言を吐くガラの悪い客すら来ない。むしろ私が絡まれた時に伊藤くんがしれっと変わってくれすらする。私の守備能力も治癒能力も使いどころがなかった。やる気はあった。でも、能力がないし、守れるほど伊藤くんのことを知らない。知らないけど、私はいつも伊藤くんのことを考えていた。シフトが被っている日を全部確認して手帳に印をつけ、増えるわけもないのに一日に何度も見返したり、無駄に被ってない日のシフトを変わってもらう連絡をしたりしていた。伊藤くんはいつも返事が速いし、二つ返事でOKだ。でも連絡はそれで終わる。業務連絡なのだからそりゃあそうだ。だから、仕事中に話すしかない。私の仕事の質は心なしか下がったように思う。伊藤くんは変わらなかった。むしろやればやるほどスピードは上がっていた。
「本とか読むタイプ?」
一応仕事の手は動かしながら、私は脈略なく訊いた。伊藤くんが相手だと、私はみっともなくなってしまう。
「読みます。六法全書も読破しました。興味深かったです」
「なんじゃそりゃ。小説とか読まないの」
「視野や感受性を広げる目的で読むこともありましたが、最近はもっぱら実用書ですね」
「うへぇ。読書に目的を求めるタイプだ」
そう言いながらも、そうならざるを得なかったんだな、と思った。目的を求めて吸収するのが癖になっている。有能でなければいけなかったから。一人で生きないといけなかったから。伊藤くんには娯楽ってものがないのだろうか。そういう推測。そういう解釈。
「じゃあさ、休みの日は何してるの」
「バイト詰めてるのでほぼないですが、最近は、体力づくりのために筋トレしたり、勉強のために図書館で読書したりしていますね」
「有意義すぎない? たまには休みなよ」
「することないんで。法律が許すなら毎日仕事でも構いません」
「ゲームとかは」
「ああ、昔はしてました」
娯楽を忘れてしまったのだろうか。心配になる。
「友達は」
「あまり連絡もとりません。目的がないので。あれ、言ってませんでしたっけ。小学生の頃はいじめられて不登校だったんで、そもそも友達少ないんですよ」
おいおい苦労が多すぎる。いや、これって負の連鎖なんだろうか。学校での立場が悪い人が家庭環境も悪いのはよくある話だ。本当に伊藤くんの人生って何なんだろう。そして、ここまで逞しくなるのにどれほどの逆境を乗り越えたのだろう。
「よく生き延びてこれたね」
「それほどでも」
「褒めてるんだよ」
「ありがとうございます」
生き延びて、ここまで来てくれてありがとうね、と思った。思ったけど言わなかった。別に私が言うべきことでもないし。友達でもないただのバイト先の先輩に言われたって気持ち悪いだけだ。こういうやりとりがしたくて、私はわざと伊藤くんの傷を抉るような発言をしていたのかもしれない。
でも、この会話が最後だったから、せめてもの遠まわしな労いくらいは伝えられて良かった。正確には退勤後の伊藤くんから「お疲れ様です。今までありがとうございました。お世話になりました」の挨拶があった。私はもう頷くだけで精一杯だった。あっけなかった。あっけない最後だった。何もなかった。いや、何があるって言うんだ。
今日は三月七日。伊藤くんの誕生日だ。伊藤くんはもういない。
私は、ピーマンが好きだし、ゴキブリが出たらじっと見てるだけで殺せないし、誕生日は十二月二十日だし、その日も伊藤くんとシフトが被っていたし、四月以降もきっと同じバイト先にいる。私の親は、授業参観にも運動会にも三者面談にも来てくれるし、大丈夫だと言っても心配して病院に付き添ってくるし、毎日ご飯も用意してくれて、大学の子たちと勝手に食べて帰ってくると怒られる。私は、小説ならミステリーが好きだし、映画も好きだし、カラオケも好きだし、娯楽がないと生きていけない。筋トレはしようと思っても疲れてできない。ゲームは弱くてすぐ死ぬからあまりしない。私は、仕事は真面目に効率良くやろうと思うし、給料をもらうならと精一杯やるべきだと思うし、苦手なことは克服しようと思って練習するし、小学生の頃は折り鶴も折れないくらい不器用だったけど、めちゃくちゃ練習して一人で千羽鶴を作って克服した。伊藤くんは知らない。言ってないから。聞かれなかったから。きっと伊藤くんにとって私は、学校でこなす会話の相手と同じだったんだろう。私は合わせられていた。だからこそ、きっと似たところもあったと思う。そんな気がしたんだ。ずっと、そんな気がしてたんだ。そんな気がしてただけのままなんだけど。
「お誕生日おめでとう。産まれてきてくれてありがとう。これから幸せなことがいっぱいありますように」
スマホの連絡先に残している伊藤くんの名前を見つめる。見つめるだけ。
吐いた祈りは弾けて消えた。私だけが知っている。
浅谷童夏 投稿者 | 2026-03-10 18:37
そんな気がしたんだ。ずっと、そんな気がしてたんだ。そんな気がしてただけのままなんだけど。
このリフレイン刺さりました。
合わせられていただけだったのかなあ。そうでもない気もします。
伊藤くんは案外、もっと踏み込んできてほしかったのかもしれない。