一
おれは今、山道を歩行ている。まだ太陽が、劫火の漲る東の火の山からひょっこりと顔を出してこちらを覗いている時分である。そんな時刻だから、山道の土はまだ冷たかった──そう、おれは跣なのだ。白装束を着て、両掌を麻縄で縛られた、一人の男であるのだ。そう、おれは山道を跣で、白装束を着て歩行ているのだ。麻縄は、古いものだったから、手首の脈に微妙に刺さるのが不快だった。そしておれは、その不快さと痛みを感じて、己を人的被害者として仕立て上げようと拡大し始めたのだ。そうなれば、多少はその加害者としておれの頭に浮かぶ者がいるはずなのだが、それすらないのがむず痒い。おれの罅破れた両掌を冬風に当てていた。麻縄は鋭さを増した。
二
山は島一巨い山であった。この他にも山はあるのだがどれも丘のようなものである。というよりかは、この山が巨過ぎるので他の山が大層こじんまりしたものに見えるのかもしれないが、尠くとも外の者がこの聳え立つ山を仰げば「おお」とでも無意識に零すことだろう。
おれが何故、恰も罪人かのように、彼方此方を人に囲まれて縛を亨けているのか──それは後々に弁ずるものとして、兎に角おれは今、至極無感情でいる。おれは昨晩の終わり方からこうして山道を歩行いているんだが、それに疲労しているのか、人が居るにしても口を開くことさえおれは赦してもらえないから、今のおれの心情を伝えられないために、何か大切なものが腐り切っているのかもしれない。
山はようやく旭日が、おれの歩行ている北の火の山を照らし始めた。しかしそれでも東の火の山は馬の鬣のようなめんどくさい形をしているから、おれの眼には沈んだり昇ったりとチラつく光が鬱陶しい。掌も縛られているから翳すこともできぬ。山道はまだまだ続く。
三
おれの眼の前をノコノコと歩行いているのはこの村の長老である。長髯だっていうのに猫背だから無論髯の先が山道を掠めている。始終何を考えているのか解りそうで明瞭としないもんだからこの爺さんは屹度妖術とかそういう類に通じているのだろうとおれは昔から思っていた。その後ろを──おれの両隣を──二人の衛士が褐衣を纏って歩行いている。衛士はおれのすぐ後ろにも二人居て、其奴らと最後方とで村人を挟んでいた。だから、山道から馘を村の方へ遷してみると深閑とした村の貌が眼に映った。茅葺屋根は恐ろしい形相で此方を睨んでいる。おれは今、叫べるか否か不安だった。昨晩から咾すら出していないのを思い出した。「あ」と一つ、微かに発することさえ拒んだ。出して畢えばもう駐まらない気がしてならない。
四
そろそろ、おれの経緯所以を話しておいた方が好いだろう。おれは今から、火の神に捧げられる贄として山巓で磔にされるらしいのだ。──生まれてからのことだった。この村は火の神の村だった。なんでも幾千年前かの本土から渡ってきた先代が、この村に居坐る悪神を葬る際に、火の神から手渡された五つの宝剣を使って為とめたらしいと、おれは今日に至るまで、その先代の偉業を村の(火の神の)檀徒らしき男から幾千弁も聞かされているが一度も納得したことはない。試しに贄を始めたのは一体いつなのかねと男に訊ねてみた。男は一寸黙って、考えたような素振りを見せて(おれには態と考える振りをしているように見えた、)先代の孫の代だと説いた。おれはこの返答を聞いて、幾年前か知らんがどうせこの島に凶作か疫病か何やらの厄禍が降って落ちて、下のような会話が──
「……今年も穫れなかった」
「子等は殆んど死んでるよゥ」
「火の神がお怒りになったんだ。もうお終いだ」
「いや待て。それなら、この厄災を鎮めるためには、贄しかあるまい。なァに先代の偉業を強じ付けて畢えば贄の道理も適うだろう」
という訣なんだろうと察した。おれは信用しなかった。凶作や疫病といった厄禍が火の神に拠るものではないだろうと確信があった。火の神なら火の神らしく威厳を以て迸発を招いて欲しかった。もし厄禍が降ったのが百年前なのだとすればおれの生涯に接点はないだろうし百年前の尊属が不幸になったっておれにはどうでも好い。こんな生涯に出っ喰すんだったらおれを産むはずだった軌跡ごと火の神に失くして欲しかった。おれは母を知らなかった。
五
おれが贄だと説かれたのは物心ついたかどうかも解らぬ齢である。長老から、お前は贄だと云われたのではなく──否云われたことに間違いはないのだが──長老は生まれてすぐのおれに、ひもすがら贄という言葉と存在意義とを説いた。一歳になって先ず人ではないと云われた。お前はただの贄だと、人という存在とは僅かにすれ違った存在だと執拗かった。だからおれは人ではないのだなと、しかし少しだけ妙に優越感があった。全体人とどこがどう違うんだと疑問に思っていると、長老のよくわからん術を使ったのかどうか知らないが急におれの心情を読んだように訣を語った。人間は世俗感あふれる生き物だが贄はその世俗感を取り払った神聖たる人なのだという。人ならその世俗というものがおれの体躯に身についているんじゃないかと思ってみたがどうにもそれらしき気は起こらなかった。世俗というのが当時のおれには難しかったから詳しく聞いてみた──その後からおれは優越感に浸るようになった。おれは俗臭を纏った人間とは違った、特別な生き物であると。なぜかは知らんが贄という存在そのものが人間より素晴らしいものだと考えていた(世俗の意味を知って、且つそれを纏わない神聖で清らかな存在だとおれがおれ自身を認識し出したのはこの頃である)。おれはどうやら特別というものに引力を感じる奴だった。
六
ようやく、旭日に土が温もりを露し始めてきた。山に人の手を入れるのは厳禁だから、土埃と雑草とで膨ら脛の辺りまで装束が薄汚い。
おれは今まで沓というのを履いたことがなかった。贄は常に跣で生涯を歩まなければならぬと長は云った。馬鹿げた訓だと思った。でも逆らったら火の神も赫怒するだろうから休した。先程おれは、百年前におれの血筋が途絶えて了えば好かったと口にしたが、おれが火の神の激昂を避けたのは路地裏にいる野良猫を死なせたくなかったからだった。
おれが産まれたときに長老に告げがあったようで、曰く、此度の贄は鶴頂に火傷を負った者、らしい。おれの鶴頂にはしっかりと火傷の痕がある。妙なもので、どれだけ遣っても些っとも消えぬ。母は死んだ。やはりおれは、母を知らないようだ。名も、顔も、死んだ所以も、好んだ餐も、その全てを。
七
おれは人の、深い感情というものを知らなかった。知っていても数えるほどだった。知っているのは喜怒哀楽、感謝憎悪、傲慢と優越。知らないのは特に倉皇、畏怖嫉妬(これに関しては享ける側)、慨嘆──……長老が云っていたが贄として産まれるはずの者は必然的に一つ二つは何かを失うことを前提にして浮世に降り立つと。傲慢な人間的行為をしたときさえ、人の云う、満足というものを感じなかった。心中が水のようなもので満ちると聞いたがそんなことはなかった。おれが長老の言葉に納得した表情を見せたのはこのときだった。おれは火の神の御影を至極醜悪なものだろうと勝手に描いていたが、それは長老への好悪をそのまま移転させたものであって、おれは独自の火の神の御影を描いた。おれは火の神は女だと思っていた。慈悲のある女の憤怒は計り知れぬ。おれはそれを、村の女共で已に経験している。
八
ようやく山巓が見えてくると、西の火の山は相変わらずに劫火を吹いているが振り返ると西の山にかたぶく夕陽がなんとも美しい。しかしその美から漏れ出る薄い炎というのが、なんとも死を体現しているようだ。──これは感銘か? これが心情というものか? おれは慨嘆がサッパリわからないものだったがこれがその慨嘆というものなのか? ──これは後悔だ。不覚にも、死ぬ前に、一つの感情というものを知り得て了った。
九
おれは人間ではないという自負があるのは周知のことだが、おれは一度だけ、なんとも人間らしい、世俗に塗れた行為をしたことがある。尤も、昔のことであるから、おれには未だ贄という社会的に優れているだろうという思考はある。だから当時は決して人間的だとは思っていなかった。というよりか、今のおれが当時のおれに、お前はなんとも人間的だと一言でも云えば、長老のために自尊心の酷く並外れていたおれだから、きっと撲っていたであろう。当時のおれに「人間的」というのは禁句なのだ。
何度も云うが贄というのは神聖なものだったから、厭でも神聖らしく居ろと強いられたものだ。その頃のおれは優越感は知っていたが傲慢さは知らなかった。しかし、毎日のように村を練り歩いて、その度に村人から数々の品を与れるもんだから、その傲慢と横柄さが目立ってくるようになった。一と月もしない内におれは尊大な贄になった。人々が寄ってくる前に品を覓めるようになった。それでも村人はおれを鄭重にした。それが剰りにも人間的で世俗に覆われているのだ。おれはようやく、人の境地に辿り着いたのだ。贄という、閉鎖的な籠の中から一条の渇望を得たのだ。
十
山巓に辿り着いて、麻縄が外された。そしておれはされるがままに磔台に動かされた。褐炭の臭いがおれの鼻を支配下に置いていた。嗅覚だけは抜きん出ていた。これが贄の体質かは解らん。
馘も腕も脚も麻縄で堅められてもはや死ぬしか安息の刻はない。しかしその死への道が長々しい。さあ死ぬぞ、今に死ぬぞきっと死ぬぞ。おれは死ぬぞ、さあ見てろと唱えたとて眼前に広がりたるは荒んだ火の神宗主の醜い村の風景である。
村人の、おれを評する声が聞こえる。──
──まァ贄というのは火之迦具土様へのもんだと思ってェいたんだがナァ。遂には知らねェままだ。しっかし異っかねェもんだナ。あの精悍さなら、世に出たって苦労しねェだろうによォ。……
──長老もそろそろ齢だァナ。見ろ。あの長鬚ァ憎たらしい。赭顔も衰えたもんだ。ちょっと昔になればもう少し赧かったんだがね、──え、何それじゃ関公だって? 莫迦云え功徳が相違ェだろう。何どっちがだって? それは手前の脳顱で稽えてみやがれィ……
──贄というのは一体どう決めるんだね。え? へェ其奴ァ毒なもんだね。僕じゃなくって心底好かった好かった。難有やァ、難有やァ……
──彼奴の母親は死ん了ったらしいぜ。そう、産んですぐさ。長老にお告げがあるっておれァ彼奴から聞いたぜ。何でも彼奴の鶴頂──あァそう、膝の、そうさ。そこに火傷の痕があるらしいぜ。何、痛くもないさそりゃァ、神からのもんだぜ屹度。……
──にしてもこりゃ難有いなァ。お蔭で火の神様がお怒りになるこたァねェんだろ? 彼奴も神みてェなもんだぜ。……
──なるほど。つまりおれは、彼らの良心であるのだ。免罪符としてあり続けてきたおれなのだ。個人の死という華麗な破滅が、醜くも燻った、脆弱な火のような大勢の生に影響を及ぼすのであれば、おれの死の華麗さなど至極どうでもよくって、彼らにとっては自身の玉の緒が亡ぶことはなくなるわけだからおれの死ついては惨くも可哀にも思わないのだろう。おれの死は彼らの生と因果にあるのだ。おれは人間ではないから、人間の、羨むと云う、満足と云う、人理的、心の高揚も知らん。しかし虚言と老獪、功利主義は望むところだ。おれは良識を持ちえない男だからまだ贄が人間よりも優れていると思い込んでいるが、時折おれの心中には世俗とでしか云い難い情が湧いてくるのだ。おれは──果たしておれは人間という種の中の一粒子なのではないか? おれが人間かどうか訝しい。長老はおれは贄だとそれ以外でもなんでもないと云い張るがそれはただの第三者からの主張ではないか? ああおれは、最後まで五里霧中たる己への猜疑を心中に抱いたままおれは死ぬ。
十一
──あァもう、長は炬火を携えておれの下へ歩み出た。磔台の下には夥しい達筆な文字が綴られた一枚の札が、乱雑に布かれた稲藁と褐炭の上に置かれていた。長老の隣には宮司と禰宜が立っていた。此奴らも大幣を持っておれの下へ歩みでた。おれは──おれは知らなかった。無意識に長老とその二人を過剰に、究極たる軽蔑と宿怨と憎しみとを攪拌した一種の情を視線のみに注ぎ込んでいたことを。おれは知らなかった。同時に火の神にもそれを遷していたことを。あァ燃えよ、燃えよ。おれに意義など要らぬ。おれは人か? その証明を恃める者も、その証明を買って出る者も居らぬ。おれが欲望の権化だった頃は迎合、狷介を先んじていたものだが、それが好くなかったとも、反って好かったとも思わん。おれは人間的でいたかったがどうも傲慢な人間の膜だけを剥いで纏って了ったようだ。ただ人間になりたいと思って、表べなどすべて剥ぎ奪った真の人間の貌を真似した了ったようだ。希くば──人と人との庶幾うものの矛盾を凌駕した世俗極まる人の一生涯というものを経験したかった。それでも幸福だったことは不変ん。
十二
燎火が蹠に来たところでおれの情が罅ぜた。もはや生も死もどうだって好い。もとより死を標に生きながらえてきた愚鈍なおれだ。人々の希望に、高慢と慾望を上乗せして驕り続けて生きながらえてきたおれだ。恨むらくは吾が母の俤を微塵も知らぬ──……
「火之倶炬㟽峰神よ! 乃公、上の御影を撲たん乎!」
怨敵退散。悪神摧破。七難即滅。七福即生。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
宮國 凛斗 投稿者 | 2026-03-01 18:58
表現の仕方がうますぎる!
一文一文の描写が鮮明で、主人公の心情が鮮烈に分かります!
天才ですか!?
大猫 投稿者 | 2026-03-22 12:00
森鴎外や漱石を思わせる重厚な文体に漢語交じりの言葉選び。懐かしくもあり、今の時代にあっては新奇で新鮮な印象があります。
生贄と言えば竜神様へ若い娘を捧げる「夜叉ケ池」で、暗く美しいイメージを抱いていたのですが、この作品で描かれている火の神様への生贄は、乾いて赤茶けて埃塗れで美しくもなんともなく、生きたまま殺されるしかない未来を克明に見つめています。
生まれながらに「贄」とされ、生きる刻限を切られた若者の独白の痛々しさ。崇めたてまつられて気儘に生きてきたようでも、繰り返される「俺は母を知らなかった」は、情愛を知らずに死んでゆく者の絶叫です。もちろんそれは母のいない子を「贄」に選んだ村の酷薄なシステムでしょう。
ラストの祝詞と思われる「乃公上の御影を撲たん乎」の意味がよく分かりませんでした。ぜひ合評会で教えてください。
曾根崎十三 投稿者 | 2026-03-26 21:03
語彙が本当にすごいですね!
純文学的。