おれは今、山道を歩行ている。まだ太陽が、劫火の漲る西の火の山からひょっこりと顔を出してこちらを覗いている時分である。そんな時刻だから、山道の土はまだ冷たかった──そう、おれは跣なのだ。白装束を着て、両手を麻縄で縛られた、一人の男であるのだ。そう、おれは山道を跣で、白装束を着て歩行ているのだ。麻縄は、古いものだったから、手首の脈に微妙に刺さるのが不快だった。そしておれは、その不快さと痛みを感じて、己を人的被害者として仕立て上げようと拡大し始めたのだ。
おれが何故、恰も罪人かのように、彼方此方を人に囲まれて縛を亨けているのか──それは後々に弁ずるものとして、兎に角おれは今、至極無の顔でいる。おれは昨晩の終わり方からこうして山道を歩行いているんだが、それに疲労しているのか、人が居るにしても口を開くことさえおれは赦してもらえないから、今のおれの心情を伝えられないために、何か大切なものが腐って死んでいるのかもしれない。
一番前の方に立っているのは村の長だった。赭顔で長鬚の爺さんである。しかし腰も曲がっていないし、何やら妖しげな術みたいなものを扱えるらしい(このような風説が流れているというのに、誰もその術を見た者はいないのだ)。その爺さんが、黙々と先登をトコトコ歩行ている。その後ろに(おれの前に)二人衛士が槍を厳然と持っている。長老があんな感じだから、先ず々々衛士が重く戎装している筈がない。皆んな褐衣である。そう侮ってはいるが、おれは今何物も持ち合わせている訣がないから侮ったところで、である。衛士はおれのすぐ後ろにも二人居て、其奴らと最後方とで村人を挟んでいた。だから、山道から馘を村の方へ遷してみると深閑とした村の貌が眼に映った。茅葺屋根は恐ろしい形相で此方を睨んでいる。
山はようやく旭日が、おれの歩行ている東の火の山を照らし始めた。しかしそれでも西の火の山は馬の鬣のようなめんどくさい形をしているから、おれの眼には沈んだり昇ったりとチラつく光が鬱陶しい。山道はまだまだ続く。
そろそろ、おれの経緯所以を話しておいた方が好いだろう。おれは今から、火の神に捧げられる贄として山巓で磔にされるらしいのだ。──生まれてからのことだった。この村は火の神の村だった。なんでも幾千年前かの先代が、この村に居坐る悪神を葬る際に、火の神から手渡された五つの宝剣を使って為とめたらしい。おれは今日に至るまで、この先代の偉業を村の、火の神の檀信徒だと云い張る男から幾千弁も聞かされているが一度も納得したことはない。贄を始めたのはいつかとその男に訊ねてみた。すると男は少時頤に手を遣って、考えて(おれには振りにしか見えなかったが)、百年前だと説いた。おれはここで、どうせその百年前に凶作か疫病か、何やらの厄禍が降って落ちて、贄としてその厄禍を鎮めるために先代の偉業があるからと強じ付けたんだろうと察した。それは、その凶作や疫病が、火の神に拠るものとは考えにくかったというのがある。火の神なら火の神らしく、東西南北に火の山があるのだから迸発を招いて欲しかった。百年前ならおれの生き様に接しはしないだろうし、百年前の尊属が不幸になろうともおれはどうだって好い。こんな生涯に出っ喰すんだったらおれを産む筈だった軌跡を、そのときに失くして欲しかった。おれは母を知らなかった。おれは一体贄になったことを恨んでいるのか、なんとも思っていないのか。おれはおれ自身の心情を読み取るのが厭いだ。
おれが産まれたときに長老に告げがあったらしい。曰く、此度の贄は鶴頂に火傷を負った者、らしい。おれの鶴頂にはしっかりと火傷の痕がある。妙なもので、幾ら冷やしたところで些っとも消えぬ。母は死んだ。おれは母を知らなかった。
おれが贄だというのを説かされたのは物心着く前である。まだ喃語を話すほどの齢だったというのにあの爺さんは毎日おれに、おれの一生を微かく諭した。十歳を過ぎてからはよく解らない廟のようなところへ、それもまだ西の火の山に旭日の見えぬ時分から礼拝をする日々だった。おれは今まで沓というのを履いたことがなかった。贄は常に跣で生涯を歩まなければならぬと長は云った。莫迦げた訓だと思った。でも逆らったら火の神も赫怒するだろうから休した。先程おれは、百年前におれの血筋が途絶えて了えば好かったと口にしたが、おれが火の神の激昂を避けたのは路地裏にいる野良猫を死なせたくなかったからだった。やはりおれは、母を知らないようだ。名も、顔も、死んだ所以も、好んだ餐もすべて。
山道の土がようやく温もりを露し始めた。山に人の手を入れるのは厳禁だから、発展した土埃と雑草とで膨ら脛の辺りまで装束が薄汚い。おれは人間らしく生きたいと己に強いた。唯一おれが得た、なんとも人間らしい、俗臭の漂う性質と云えば──少し解説が要るだろう。
贄は、村中では神聖なものだった。もう厭でも無理に神聖らしく居ろと長は云った。そんなことしなくたって、人々は眼が合う前にはもう平伏したり高値の品を腕に抱えさせて呉れるもんだから、厭世的なおれでもさすがに得意になって、独裁者のように村を練り歩くようになった。人々が寄り付くのを見謀らってすぐさま品を要求した。横暴にも己の利を欲した。今思えばそれは神聖よりも獰悪だったろう。長は何も云わなかったから(おれは神聖の定義を知らなかったから)、已むことはなかった。悔やんでなどおらぬ。あのときが一番、人間で居られた心持だった。この事実と心情とは互いに撼がない。仮におれが過去のおれと対峙したとして、滅私を促したとすれば撲られるだろう、──おれも、過去のおれの人間的行為を憚るようなことはしないだろうが。
さっきから云っているように、長老の火の神に対する崇拝というのはこの上なく(おれはその神の名を知らない、)抑も先代の直系尊属であることすら曖昧だというのに、「余は火の神の重鎮であるぞ」と云い張って、おれは火の神に重鎮もへったくれもあるものかと辟易して、村人は憎むほどに納得していた。
おれは人の、深い感情というものを知らなかった。知っていても数えるほどだった。知っているのは喜怒哀楽、感謝憎悪、傲慢と優越。知らないのは特に倉皇、畏怖嫉妬(これに関しては享ける側)、慨嘆──……長老が云っていたが贄として産まれる筈の者は必然的に一つ二つは何かを失って浮世に降り立つと。傲慢な人間的行為をしたときさえ、人の云う、喜悦と満足というものを感じなかった。心中が水のようなもので満ちると聞いたがそんなことはなかった。おれが長老の言葉に納得した表情を見せたのはこのときだった。おれは火の神の御影を至極醜悪なものだろうと勝手に描いていたが、それは長老への好悪をそのまま移転させたものであって、おれは独自の火の神の御影を描いた。おれは火の神は女だと思っていた。慈悲のある女の憤怒は計り知れぬ。おれはそれを、村の女共で已に経験している。
山巓に辿り着いて、麻縄が外された。そしてされるがままにおれは磔台に動かされた。已に褐炭の臭いがおれの鼻を支配下に置いていた。嗅覚だけは抜きん出ていた。これが贄の体質かは解らん。
馘も腕も脚も麻縄で堅められてもはや死ぬしか安息の刻はない。しかしその死への道が長々しい。さあ死ぬぞ、今に死ぬぞきっと死ぬぞ。おれは死ぬぞ、さあ見てろと唱えたとて眼前に広がりたるは荒んだ火の神宗主の醜い村の風景である。おれはなるたけ、眼球の疲れを気にも停めずに下に群がる村人たちを見ていた。
村人は下の方で何やら相互におれを評しているらしかった。尤も、贄を侮辱することだけは重罰だから批判的発言はないだろうが、死ぬ前におれの評価というものを知ってから死ぬ方が来世のおれに充分だろうと思って、磔のそこまで高くないのに運を感じた。村人はこんなことを云っている。──
──まァ贄というのは火之迦具土様へのもんだと思ってェいたんだがナァ。遂には知らねェままだ。しっかし異っかねェもんだナ。あの精悍さなら世に出た方が好かったってェのによォ。……
──長老もそろそろ齢だァナ。見ろ。あの長鬚ァ憎たらしい。赭顔も衰えたもんだ。ちょっと昔になればもう少し赧かったんだがね、──え、何それじゃ関公だって? 莫迦云え功徳が相違ェだろう。何どっちがだって? それは手前の脳顱で稽えてみやがれィ……
──贄というのは一体どう決めるんだね。え? へェ其奴ァ毒なもんだね。僕じゃなくって心底好かった好かった。難有やァ、難有やァ……
──彼奴の母親は死ん了ったらしいぜ。そう、産んですぐさ。長老にお告げがあるっておれァ彼奴から聞いたぜ。何でも彼奴の鶴頂──あァそう、膝の、そうさ。そこに火傷の痕があるらしいぜ。何、痛くもないさそりゃァ、神からのもんだぜ屹度。……
──にしてもこりゃ難有いなァ。お蔭で火の神様がお怒りになるこたァねェんだろ? 彼奴も神みてェなもんだぜ。……
──なるほど。つまりおれは彼らの良心であるのだ。おれが死ぬから彼らは生きる。つまり個人の死という華麗な破滅が、醜くも燻った火のような大勢の生に影響を及ぼすのであれば、おれの死の華麗さなど至極どうでもよくって、己が生きながらえるのなら忌むべきものでもないんだろう。おれは人間ではないから、人間の、嬉しきと云う、悲しきと云う、人理的、心の高揚も知らん。しかし虚言と老獪、功利主義は望むところだ。抑もおれが人間的かどうかも訝しい辺だから最後まで五里霧中たる己への猜疑を心中に留めたままおれは死ぬ。それでも少しは人間の体裁でいられただけ幸福だ。
──あァもう、長は炬火を携えておれの下へ歩み出た。磔台の下には夥しい達筆な文字で綴られた一枚の札が、乱雑に布かれた稲藁と褐炭の上に置かれていた。長老の隣には宮司と禰宜が立っていた。此奴らも大幣を持っておれの下へ歩みでた。おれは──おれは知らなかった。無意識に長老とその二人を過剰に、究極たる軽蔑と宿怨と憎しみとを攪拌した一種の情を視線のみに注ぎ込んでいたことを。おれは知らなかった。同時に火の神にもそれを遷していたことを。あァ燃えよ、燃えよ。おれに意義など要らぬ。おれは人か? その証明を恃める者も、その証明を買って出る者も居らぬ。おれが欲望の権化だった頃は、迎合、狷介を先んじていたものだが、それが好くなかったとも、反って好かったとも思わん。おれは人間的でいたかったがどうも傲慢な人間の膜だけを纏って了ったようだ。ただ人間になりたいと思って、表べなどすべて剥ぎ奪った真の人間の貌を真似した了ったようだ。希くば──人と人との庶幾うものの矛盾を凌駕した世俗極まる人の一生涯というものを経験したかった。それでも幸福だったことは不変ん。
燎火が蹠に来たところでおれの情が罅ぜた。もはや生も死もどうだって好い。もとより死を標に生きながらえてきた愚鈍なおれだ。長の云いなりに、厭世になって不当にも随ってきた傀儡のおれだ。せめて優しい歌でも思い返そうか、──……
「火之倶炬㟽峰神よ! 乃公上の御影を撲たん乎!」
おれは母を知らなかった。
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