午前二時十七分。隣の寝室から、夫の深い鼾(いびき)が壁を伝ってくる。規則的で、健康そのものだ。その規則正しく深い音が、毎晩、この部屋に張り巡らされた「夫婦」という虚構を、微振動で揺さぶり続けている。私はスマホを握りしめる。画面の光が、結婚指輪のプラチナを鈍く光らせる。
指がひとりでに動く。アプリを開く。Cluster。ボイスチャットとアバターでつながる仮想空間。私の居場所は、あるサーバーだ。名前は「星が見える休息所」。入るには自己申告で診断名が必要な、心の病を抱えた者だけの場所。現実では息もできないほどの「普通」が、ここでは入場禁止だ。
大人数のボイスチャットに入る。ざわついたノイズ。誰かが不眠についてぼやき、誰かが今日飲んだ新薬の味を詳細に語っている。その雑音の中から、一つの声を選別する耳が、私にはある。
あなたの声だ。ピンキオ。
あなたの声は、一日中使い古した後に出る、しわがれたような低音だった。風邪をひいたわけではない。ただ、心が疲れ果てて、声の芯までが磨り減っているような、そんな嗄(か)れ方だった。ピンキオ、あなたは二年前からこのサーバーにいるとプロフィール欄に書いてある。あなたも私と同じように鬱を抱え、時折、躁状態がやってくる双極性障害だと、自分で話していた。今は実家の近くの新潟に戻り、フルリモートで、病気のことを隠して仕事をしているということも。ピンキオ、あなたの話し方は、病気を「体験」としてではなく、「今日の天気」のように淡々と報告する。薬で震える手の話。食欲がなくてゼリーしか喉を通らない日々の話。それが、なぜか他人事に聞こえない。あなたの声の向こうに、同じ腐った空気を吸っている、確かな「同類」の匂いがした。
「……それでさ、SSRIを変えたら、今度は味覚がおかしくなってさ。コーヒーが鉄臭いんだよ。まるで血を啜ってるみたいだ」
その声が、わたしの部屋の重く淀んだ空気を、ほんの一瞬、攪拌した。浄化ではない。攪拌だ。現実の夫が発する「健全な睡眠」の音と、この「病の生の報告」の声。後者の方が、私の肺に馴染む。
これが接続だ。承認でも理解でも、まだない。ただ、あなたという音源が発する波動が、私という受信機に、物理的に届いているという事実。それだけで、また一日、横隔膜が動く理由ができる。あなたの存在が気になっていたのは、そういう理由だ。同じ腐敗の中にいて、腐敗の言語を話せるから。
夫が部下の女性の話を始めたのは、その数週間後だった。リビングでテレビを見ながら、ビールの缶を傾けながら。
「彼女、ほんと気が利くんだよな。こないだも、こっちが言う前に資料揃えてきてさ。で、その日のうちに感謝のメールくれて……」
彼の声が弾む。目尻が下がる。『好き』が、彼の全身から漏れ出している。健全な恋愛は、こうして空間を明るく、軽く、共有可能なものに変える。私の手の中のコップの水の表面が、微かに揺れる。自分が震えているのか、夫の声の波動なのか。
「そうなんだ。いい人だね」
私の声は、平板で、何事も起きていないように加工されている。その一言を発するたびに、内臓のどこかが、音もなく黒く変色していく。ここに病因はない。ただ、彼の「健全な恋愛」の話が、私という「妻」の役割を、毎夜少しずつ無効化していく。診断書のない、ただの「役割不全」。
次の日の夜、夫は帰りにコンビニで、私の好きだったヨーグルトを買ってきた。
「最近、食欲ないって言ってたから」
冷蔵庫の奥に、それをしまう。
いつからか、その味が、喉を通らなくなっていたことを、夫は知らない。
事件というものは、音を立てずにやってくる。
「夜中、なんか……話し声が聞こえるんだけど、何してるの?」
朝、ネクタイを締めながら、夫が言った。その瞬間、脳裏にピンキオの声が再生された。低い、砂を噛むような、「……NEMU、こんばんは、今日も夜更かし?」。冷たい汗が背骨を伝う。後ろめたさではない。これは所有されていないことへの焦燥だ。私はもう夫の「妻」として機能していない。ならば、せめて誰かの「NEMU」でありたい。その偽造の自我が、彼の穏やかな疑問に晒された。
「今、眠れないからゲームしてるの。ゾンビがバラバラになるやつ。それをやりながら、ゲームの友達と通話してるのよ」
嘘が、あまりに滑らかに出てきた。彼は一瞬、眉を上げただけだ。
「へえ……深雪がそんなゲームするんだ。意外。じゃ、行ってくる」
「うん。行ってらっしゃい」
ドアが閉まる音と同時に、スマホが震えた。通知:ピンキオがオンラインになりました。
心臓が、肋骨を裏側から殴るような音を立てた。
指が震えた。ダイレクトメッセージを開く。これまで一対一で話したことはなかった。いつも大人数の雑音の中の、一点の音源でしかなかったのに。
『NEMUです。ピンキオさん、もし話せるようだったら、話しませんか?』
送信。既読。一秒。二秒。
『ああ、今日はちょうど仕事が休みで。もちろん。話そう』
その日、私たちは初めて一対一で繋がった。現実のマンションの部屋と、イヤホンから流れるあなたの声だけの世界。あなたは、私の鬱の状態を、医者のように分析せず、こう言った。
「わかるよ。それ、空気が腐ってるんだよ。誰かが『大丈夫?』って優しく触れようとするたびに、その優しさ自体が毒になっちゃう、あの腐り方だろ?」
私たちは同じ病んだ大気圏に住んでいる。病気を「症例」ではなく、「匂い」で理解した。その共鳴が、孤独という絶対音感を、初めて相対的なものにした。
離婚を切り出したのは、それから三日後のことだ。私は台所で包丁を研いでいた。シュッ、シュッという規則音が、私の覚悟のリズムになった。
「……離婚してほしいんです。健常者と一緒にいるのが、もう無理で」
夫は湯呑みを持ったまま、流しの向こうで固まった。驚きよりも、むしろ呆然とした顔だ。長い沈黙の後、彼は言った。
「……そうか。そっか……。いいよ。それで深雪が楽になるなら」
あっけなさが、胸の真ん中を抉った。彼は抵抗せず、私を手放した。私は彼の人生の物語で、とっくに脇役降りていたのだ。ただのエキストラだった。
そしてピンキオ、あなたがすべてを準備した。
まずは、車。二人で住むための3LDKのアパートの契約。婚姻届を提出できる100日後の日取り。現実が、信じられない速さで塗り替えられていく。
私は空のスーツケースを前に、ただ立っていた。当然だ。ここにある服も、化粧品も、すべて、前の私の「妻」という役割の衣装だ。それを脱ぎ捨てた今、中身であるはずの「私」には、何ひとつ持ち出せるものがない。NEMUという新しい名前に着替えるための、肉体さえも。
指輪を外そうとしたが、外れなかった。
指が少しむくんでいる。結局、私は皮膚が真っ赤になるまで無理やりに指輪を引っこ抜き、それをマンションの玄関に置いて、外に出た。
昨日のことだ。あなたがチャットにリンクを送ってきた。
「この前新宿でストリートスナップ撮られたって言ってたじゃん? まさかこれ!? 撮った人のサイトを見たら載ってたよ、『ねむりさん』って」
そこに写っていたのは、確かに私だった。バーバリーのコートを着ている女。これは、新宿の伊勢丹に用があったとき、矢島エイトという、最近人気のカメラマンに声をかけられ、撮ってもらったものだ。その笑顔は、私のものではない。どこかの、軽やかな女のものだ。
「うわ、NEMU、マジで美人だ。びっくりした。こんな奥さんが来るなんて、信じられない……」
その言葉が、皮膚の上を這いずり回った。嬉しいのではない。怖い。あなたが「俺のNEMU」として見ているのは、この写真の、軽やかに笑っている幻想なのだ。実体の私ではない。実体は今も、震えながらスマホを見つめているのに。
私は、初めてピンキオに容姿を見せてくれと要求をした。あなたが、私の写真で体験したように。実体ではなく、同じ、幻想を見るために。
「ピンキオの写真も送ってよ」
「ちょっと前のしかないけど……ほら」
写真が届く。頬骨の高い、しっかりとした顔立ちの男性。でもその目は、カメラレンズの奥の、何か遠い一点を見つめている。その先に、私はいるのだろうか?
「……格好いいじゃん!」
「よかった。……そうだな、一緒に住み始めたら、インコとか飼おうか。もう家族には全部伝えてあるから、大丈夫だよ。病気のことも、生活のことも、俺がちゃんと把握するから」
その一言で、世界の色調が変わった。
「家族には全部伝えてある」
つまり、あなたの現実の世界では、私はもう「NEMU」という役割として承認され、組み込まれる段階に入った。それは、かつて「妻」という役割が私を静かに喰い尽くしたように、今度は「NEMU」という新たな役割が、私という中身を、少しずつ上塗りし始めるということだ。
声だけの、仮想空間での「接続」は終わった。これからは、現実のアパートで、インコを飼い、婚姻届を出す「役割」としての接続が始まる。形が変わったのだ。
今、私は、高速バスの乗り場に立っている。夜の冷気が、ダウンコートなどまるで着ていないような厳しさで、肩を貫く。スマホにはあなたの最新メッセージ。
「早く会いたい。俺のNEMU」
「俺のNEMU」。その呼び名を見るたび、喉の奥に電気が走るような痺れを感じる。甘美な毒だ。
バスのドアが開き、温風が吐き出される。乗り込もうとする一歩手前で、隣にいた学生カップルの笑い声が耳に入った。
「もう! あんたのそういうトコ、ほんと好きだわ!」
健全で、眩しいほどに共有可能な「好き」。それは、仮想空間の雑音の中から嗅ぎ分けた、腐敗と共鳴の「接続」とは、決して交わらないものだ。
足が地に張り付く。
運転手がこっちを向く。「お客さん、お乗りになりますか?」
深く息を吸う。冷気が肺の底で刃になる。今、ここで乗らなければ、元の世界に戻れる。孤独で、否定されても、まだ「役割」に喰い尽くされていない、ぎりぎりの自我が残っている世界に。
しかし、私は、Clusterの、あなたの声を求めた。
あの、地の底から湧き上がってくるような、深くて重たい声を。ピンキオ、あなたのあの声だけが、私の呼吸のリズムを整えていた。
私は、無言でうなずいた。足を踏み上げる。車内の人工的な温もりが、外界の冷気と記憶を遮断する。ドアが閉まる。バシッという、現実と虚構の境界線を引くような音。
席に座り、冷たい窓ガラスに額を押し付ける。吐息が白く滲む。その上に、人差し指で、無意識に書く。
N E M U
文字はすぐに消える。涙ではない。ただの水分だ。
バスが動き出す。新潟へ。あなたへ。新しい役割へ。
救いなど、どこにもない。あるのは、古い役割が音もなく崩れ、新しい役割が私という空虚を静かに満たし始める、その確かな、重い手触りだけだ。
接続は保たれる。声から役割へ、形を変えて。
でも、それがなければ、私は、今日という日を、何とか肺を動かして生き延びることができない。
だからこそ、今のこの状態を——そう、あなたに、「俺のNEMU」と呼ばれるたびに走る、甘い痺れのことを——私はひとまず愛と呼ぶことにする。
"俺のNEMU、それだけで喉が痺れる"へのコメント 0件